映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「ラ・ラ・ランド」

「ラ・ラ・ランド」
TOHOシネマズ日本橋にて。2017年3月1日(水)午後6時40分より鑑賞。

ミュージカルは苦手だ。何で普通の会話をしている人間が、突然歌を歌いだすのだろう。どう考えても不自然ではないか。確かタモリもそんなことを言っていた気がするのだが、オレも同感である。理解不能だ。違和感バリバリだ。

とはいえ、そんな不自然さを感じさせない見事なミュージカルがあるのは認めよう。昔なら「サウンド・オブ・ミュージック」、最近なら「マンマ・ミーア!」あたりは、なかなか面白いミュージカル映画だった。要は、オレの持つミュージカル映画に対する偏見を打ち砕くほどの作品であれば問題ないわけだ。

今年のアカデミー賞を席巻した「ラ・ラ・ランド」(LA LA LAND)(2016年 アメリカ)をようやく観たのだが、なるほど、これは見事なミュージカル映画である。ミュージカル嫌いのオレでも、十分に楽しんでオツリがくるほどの映画だった。

お話はシンプルだ。夢を叶えたい人々が集まる街、ロサンゼルス。女優志望のミア(エマ・ストーン)は、映画スタジオのカフェで働きながらオーディションを受け続けていたが、なかなか役がもらえなかった。そんな中、ミアは場末の店で、ピアニストのセブ(ライアン・ゴズリング)の演奏に魅せられる。セブは、いつか自分の店を持ち、大好きなジャズを思う存分演奏したいと願っていた。やがて2人は恋におち、互いに励まし合って夢に向かうのだが……。

夢見る男女のラブストーリーを季節ごとに描いたミュージカル映画。冬に出会い、春に親しくなり、夏に転機が訪れ、秋に別れ、そして次の冬に思わぬ再会をする2人。ただ、それだけなのに、なんでこんなに観応えある映画になるのだ???

監督は「セッション」のデイミアン・チャゼル。「セッション」を観たときから、「コイツ、すげえ!」と思ってはいたのだが、今回もいろんな意味ですごい映画だ。

まず度肝を抜かれるのが冒頭のシーン。渋滞の高速道路で車から次々に人が出てきて、歌い踊る。ゴージャスかつ躍動感あふれる場面で、いきなり観客の心をわしづかみにする。そのシーンからミアとセブの初めての遭遇につなげる展開も抜かりがない。

前半は過去のミュージカルのエッセンスを詰め込んだ展開だ。ロスの夜景を見下ろす丘でのミアとセブ。プラネタリウムの星空に舞う2人など、ロマンチックなシーンが観客の心をときめかせる。リアルとファンタジー、ミュージカルとストレートプレイを縦横無尽に行き来して、観客をスクリーンに引き込む。鮮やかな色彩など映像のマジックもいかんなく発揮されている。特に夜空の色が印象的だ。

ミアが映画スタジオのカフェで働いているということで、ハリウッド黄金時代のようなノスタルジックな雰囲気も感じさせる(一応設定は現代だが)。ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」を巧みに使ったり、「セッション」を意識したようなセリフがあったりと、心憎いばかりの仕掛けや小ネタの連続。

音楽も完璧だ。オリジナルのスコアはもちろん、セブがジャズピアニストということでジャズを中心に様々な音楽を使用。セブが加入するバンドのリーダーをジョン・レジェンドが演じるということで、彼の音楽もふんだんに登場する。

しかし、まあ、チャゼル監督の知識量の豊富さときたらあきれるばかりだ。彼がいかに映画オタク&ミュージカルオタク&音楽オタクなのかが、よくわかる。

後半の展開にも驚かせられる。夢を追う中で訪れる2人の転機と危機をシリアスな芝居で見せていく。そこには歌や踊りはまったくない。ミュージカル映画なのを忘れてしまうような展開だ。エマ・ストーンとライアン・ゴズリンクは、それなりに歌や踊りでも頑張っているとはいえ、もちろん売りはその演技力にある。それを前面に押し出してドラマを進める。歌や踊りがなくても、いや、歌や踊りがないからこそ、2人の心情につい寄り添ってしまうのである。

そして、後半のハイライトになるミアのオーディションシーン。ここで、それまで封印していた歌を満を持して彼女に歌わせる。その繊細かつ力強い歌声が、彼女の夢と人生を説得力を持って語らせる。

最後の展開にも驚かされた。再びの冬に訪れる2人の再会。そこで、もしかしたら、あり得たかもしれない人生を描き、観客の共感を誘う。ラストの2人の表情がいつまでも心に残る。お互いにいろいろあったけれど、夢をかなえた今を肯定し合う素晴らしい笑顔だ。

とにかくケチのつけようがない映画である。すべて計算づくでやっているのがわかっても、ついつい引き込まれてしまう。さすがハード―ド大学!(てのは関係ないか)

ブロードウェイミュージカルの映画化ならともかく、オリジナルでこういう作品を、わずか32歳でつくってしまうのだから、デイミアン・チャゼルおそるべし! 一応脚本を書いたりする(依頼がないからほとんど書く機会がないけど)オレにとって、うらやましすぎる才能だ。ここまでくると嫉妬のしようもない。完全に降参である。

●今日の映画代、1100円。毎月1日の映画サービスデーで。

 

「素晴らしきかな、人生」

「素晴らしきかな、人生」
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年2月26日(日)午後2時30分より鑑賞。

ユナイテッド・シネマとしまえんは、文字通り遊園地の豊島園のそばにある映画館だ。家から歩いて20分ぐらいで行ける。会員なら1500円で鑑賞可能でポイントも貯まる。6ポイント貯まれば1本無料。そのため、あまり観る気のなかった映画でも、つい観に行ってしまったりするのである。

というわけで、ポッカリ時間の空いた日曜の午後。「素晴らしきかな、人生」(COLLATERAL BEAUTY)(2016年 アメリカ)をフラリと観に行ってしまった。

ストーリーはちょっと変わっている。ニューヨークの広告代理店で成功を収めたハワード(ウィル・スミス)。だが、6歳の愛娘を亡くしたことから悲しみで自暴自棄となり、自分を見失ってしまう。ハワードに頼り切りだった会社は傾き始め、同僚のホイット(エドワード・ノートン)、サイモン(マイケル・ペーニャ)、クレア(ケイト・ウィンスレット)は、ハワードをどうにかして救わなければと考える。そんな中、ハワードの前に、性別も年齢もバラバラな3人の奇妙な舞台俳優(ヘレン・ミレンキーラ・ナイトレイ、ジェイコブ・ラティモア)が現われる……。

プラダを着た悪魔」のデヴィッド・フランケル監督の作品だが、あんなにキレキレで弾んだ映画ではない。

冒頭は、ウィル・スミス演じるキレ者広告マンのハワードが、仲間の前でスピーチするシーン。成功者らしく自信満々に、「愛」「時間」「死」をキーワードにビジネスをするというポリシーを披瀝する。これが後の話の伏線になる。

続いて、舞台はいきなり3年後に飛ぶ。ハワードは6歳の娘を亡くして、自暴自棄になり、自分を見失っている。会社には来るものの、巨大なドミノ倒しをつくって時間を潰している(実はそのドミノに理由があることが最後にわかるのだが)。

そんなハワードに対して共同経営者のホイットは困惑する。何しろ会社はハワードが頼り。彼がまともに仕事をしないので、どんどん顧客が離れ、買収話が持ち上がっている。幹部のサイモンとクレアも、何とかしなければと焦る。

そんな中、ハワードの前に「愛」「時間」「死」を名乗る3人の男女が次々に現れ、彼の現状を非難する。さぁて、この謎の3人は誰なんでしょう?

て、バレバレじゃないか! 実はこの3人はある計画を思いついたホイットたちが依頼した舞台俳優なのだ。その依頼に至る経緯がつぶさに描かれる。うーむ、この展開はどうなんだ? 3人の身元は謎のままにして、最後のほうで明かすのがベストなんじゃないのか?

そんなモヤモヤ感を抱えたのだが、最後まで観てようやく理解できた。最初はリアルな存在に思えた3人の舞台俳優だが、そうとは断定できない場面が時々登場するのだ。もしかしたら、彼らは本当に「愛」「時間」「死」を象徴するこの世のものではない存在かもしれない。そんなことまで思わせられてしまうのである。

だとしたら、彼らの正体を最初からバラすほうが正解かもね。何しろ、それが彼らの本当の正体かどうかわからないわけだから。

そんなふうにリアルとファンタジーの狭間でドラマが展開する。現実なのか空想の産物なのかよくわからない3人の舞台俳優との出会いによって、ハワードの心は次第に溶け始める。

同時に彼らを雇ったホイット、サイモン、クレアもそれぞれに、親子関係、病気、孤独といった悩みを抱えていて、それが3人の舞台俳優によって少しずつ違う方向に進み始める。

それにしても地味な映画である。こんなに地味でいいんだろうか?

と思ったら、最後に飛び出した衝撃の事実。え、あの2人ってそういう関係だったのか? いやぁ、全然わからなかった。なるほど、それほどハワードの心の傷は深かったわけか。

何だか小説を読んでいるような映画に思えた。かなり抽象的な素材なのに、脚本、演出とも絶妙のさじ加減で、難解さや押しつけがましさを消している。とはいえ何か物足りない。前半に抱えたモヤモヤ感とは別のモヤモヤ感が最後まで残った。全体に今一つ歯車が噛みあっていない感じがする。ユニークな設定が十分に生かされていないのではないか。けっして悪い映画じゃないんですけどね。

この映画の最大の見どころはやっぱり豪華キャストの演技だろう。極端にセリフの少ない中で、ハワードの心理を繊細に表現したウィル・スミスの演技はもちろん、同僚役のエドワード・ノートンケイト・ウィンスレットマイケル・ペーニャ、3人の舞台俳優を演じたヘレン・ミレン、キーラ。ナイトレイ、ジェイコブ・ラティモアも見事な演技で、この地味なドラマを引き立てている。

まあ、彼らの演技を観るだけで、モトが取れたと思うことにしよう。そしてオレはまたユナイテッド・シネマとしまえんに足を運ぶのだ。たぶん。

●今日の映画代、1500円。ユナイテッド・シネマの会員料金。

「ナイスガイズ!」

「ナイスガイズ!」
ヒューマントラストシネマ渋谷にて。2017年2月22日(水)にて午後2時10分より鑑賞

仲間はいいものだ。などという話をよく聞くが、本当に仲間はいいものなのか。仲間などという濃密な人間関係は、かえって面倒くさかったりするのではないか。私生活にずかずか踏み込んできたり、無理な頼みごとをしてきたり。

とまあ、そんなことを言うのも、オレには友達が少ないからだ。ただのやっかみなので、見逃してくだされ。

そんなオレも、バディー・ムービー(主人公が2人1組のコンビで活躍する相棒映画)を観たりすると、「あー、ああいう仲間ならいいかもね」と思ったりするわけだ。「48時間」とか「リーサル・ウエポン」とか、ああいうやつね。

そんなバディ・ムービーの世界に、魅力的な新作が登場した。「アイアンマン3」のシェーン・ブラック監督による「ナイスガイズ!」(THE NICE GUYS)(2016年 アメリカ)である。主人公コンビを演じるのは、言わずと知れたラッセル・クロウと今をときめくライアン・ゴズリング

妻を亡くして酒浸りの日々を送るシングルファーザーの私立探偵マーチ(ライアン・ゴズリング)。ある日、死んだポルノ女優の捜索依頼をきっかけに、腕力で揉め事を解決する示談屋ヒーリー(ラッセル・クロウ)に強引に相棒にされ、失踪した少女の捜索を開始する。そこにマーチの娘ホリー(アンガーリー・ライス)が加わり、3人で捜索を進めていくうちに、巨大な権力の陰謀に絡む事件に巻き込まれていく……。

2人の登場シーンが抜群に良い。冒頭は、事件の端緒となるポルノ女優の事故死が描かれる。続いて、登場するのがラッセル・クロウ演じる示談屋のヒーリーだ。コイツ、強烈なキャラである。何しろ未成年とつきあう男をいきなりボコボコにするなど、腕力にものを言わせて依頼をこなすのだ(それにしてもラッセルの大増量ときたらスゴすぎる。一瞬、本人と気づかないぐらいだ。もちろん役作りで太ったのだろうが)。

その後登場するのがライアン・ゴズリング演じる私立探偵のマーチだ。こちらもヒーリーとは別の意味で強烈なキャラだ。スーツを着たまま、バスタブに浸かって眠っている。彼は奥さんを亡くしてから酒浸りの日々を送るシングルファーザーなのだ。

マーチは、死んだはずのポルノ女優の捜索依頼を受ける。その過程でアメリアという若い娘の存在にたどり着くのだが、自分を探られたくないアメリアの依頼を受けたヒーリーにボコボコにされてしまう。ところが今度は、ヒーリー自身がアメリアを捜す男たちに襲われたことから、ヒーリーは嫌がるマーチを相棒にしてアメリア捜しに乗り出す。

この映画の舞台は1977年。ということで、70年代風のファッションや音楽(アース・ウインド&ファイアーやビージーズなど当時を知る人には涙もの)、風俗、文化などが満載だ。それを今風に描いたりしたら興ざめなのだが、もちろんそんなことはしない。映画全体の作りも70年代風になっている。まるで当時製作された映画のような雰囲気がプンプンなのである。

アクションももちろん70年代風。銃撃も、格闘アクションも、CG全盛の今とは違う荒っぽくてアナログな魅力が満載だ。当時を知る人にとっては懐かしく、そうでない人には新鮮に映るのではないだろうか。

そして何よりも魅力的なのが、マーチとヒーリーの凸凹コンビだ。ひたすら武骨なヒーリーと、気弱だけどなぜか不死身のマーチ。どちらも血の通ったキャラクターで、それぞれの対照的なキャラを活かした会話が、楽しい笑いを生み出していく。

さらに、2人の間でいい味を出しているのが、アンガーリー・ライス演じるマーチの娘ホリー。13歳なのに父親に代わって車を運転し、大人びた会話をする彼女が、ダメダメなマーチとヒーリーを諫めて正しい道に導く。彼女の存在感もこの映画には欠かせない。

前半は映画プロデューサーのゴージャスなパーティーがハイライト。そこで、マーチが死体を発見したことを皮切りに、1本の映画にまつわる連続殺人事件に巻き込まれた2人は、やがて巨大な権力犯罪に行き当たる。

後半のクライマックスは自動車ショーでの大立ち回り。ハラハラの展開が続く。そして、ここでもアナログなアクションが炸裂する。

ストーリー展開はエンタメ映画の王道。「まさかあの人物が……」という意外なワルの素顔など、ありがちな展開が続くものの、それをちっともありがちに思わせないから見事なものだ。笑いとアクションを絶妙に配し、人間ドラマもチラリと見せる。「痛快エンタメ映画」という表現が、これほど似合う映画はそうあるものではない。

映画のラストでは、マーチとヒーリーの似顔絵の入った新しい私立探偵のチラシが披露される。これを見たら、続編を期待するなというほうが無理だろう。ぜひもう一度名コンビぶりを見せて欲しいものである。まあ、そうするとラッセル・クロウはまた増量しなきゃいけないわけだが。

●今日の映画代、1100円。水曜サービスデーで割引。

「王様のためのホログラム」
TOHOシネマズ シャンテにて。2017年2月21日(火)午後12時20分より鑑賞

そろそろ確定申告の時期なので、空いた時間に昨年の収入と支出の計算をしてみた。すると驚くべきことが判明した。オレの昨年の年収は、一昨年の年収に比べて激減していたのだ。ガーン!!!!!

なるほどねぇ。どうも最近貯金が減ってきたと思ったら、そういうことだったんですか。考えてみたら、レギュラーの仕事がなくなったのに、新しい仕事が入らなかったもんなぁ。でも、こんなに年収が減ったら、税務署に疑われたりしないものだろうか。ていうか、この先、オレは生存していけるのか???

そんな困った状況にもかかわらず、またしても映画館に足が向いてしまうオレ。なぜそうなるのか。それは、そこに映画があるからだ!(お前は、ジョージ・マロリーか!)

というわけで、この日鑑賞したのは「王様のためのホログラム」(A HOLOGRAM FOR THE KING)(2016年 アメリカ)である。トム・ハンクス主演にもかかわらず、比較的小規模な公開だったのであまり期待しなかったのだが、これがなかなか面白い映画なのですヨ。

監督は「ラン・ローラ・ラン」「パフューム ある人殺しの物語」「クラウド アトラス」(ウォシャウスキー姉弟と共同監督)などで知られるトム・テイクヴァ。原作はデイヴ・エガーズという人のベストセラー小説。

冒頭は、主人公のアラン(トム・ハンクス)がトーキングヘッズの「ワンス・イン・ア・ライフタイム」という曲に合わせて、ラップ風に身の上話をつぶやく。「立派な車もステキな家も美しい妻も、煙のように消えてしまった」と。このポップで軽快なシーンを観ただけで、すっかり引き込まれてしまった。

大手自転車メーカーの取締役だったアランだが、業績悪化の責任を問われて解任されてしまう。家も車も失い妻も去り、娘の養育費を稼ぐためにIT業界へ転職した彼は、サウジアラビアの国王に最先端の映像装置(3Dホログラム)を売りに行くことになる。

というわけで、転落した男の一発逆転をかけた再起の物語なのだが、全編に笑いがたっぷり詰まっている。特に面白いのが、アランと運転手のユセフとのやりとりだ。アメリカ留学の経験があるユセフは、お調子者でおしゃべり。車の中では大音量で音楽(シカゴとかELOとか)を流す。そんな彼とアランとの会話がたくさんの笑いを生み出していく。

その他にも、異文化をネタにした笑いがたくさん用意されている。異文化ネタというと、一歩間違えば相手をバカにしたようなところが見えたりするものだが、この映画に関してはそういうところはほとんどない。

アランはサウジアラビアの新都市に行く。ところが、そこは砂漠のど真ん中。将来はともかく、今は都市などと呼べる代物ではない。そこでアランと部下たちに用意されたオフィスはオンボロのテント。Wi-Fiもつながらず、ランチを食べるのもままならない。抗議しようと思っても、担当者のカリームはいつも不在で、肝心のプレゼン相手の国王がいつ現れるかわからない。

あまりの文化の違いに戸惑い、上司からのプレッシャーを受け、怪しげなパーティーでカリームの部下のデンマーク人の女に誘惑されるなど、無茶苦茶な状態になったアランは、ついに心身の調子を崩してしまう。それでもアランは少しずつ現地の文化を受け入れるようになっていく。

そうなのだ。この映画は転落したアランが再起を目指して悪戦苦闘するドラマであるのと同時に、異文化との衝突と融合を描いたドラマでもあるわけだ。

クライマックスで、アランはようやくプレゼンにこぎつける。ありがちなドラマなら、それをきっかけにビジネスでの再起に向かうはずだ。しかし、この映画では彼の再起は別な形で実現する。

劇中では背中に突然できたコブの治療に絡んで、美人の女医ハキム(もちろん地元の人)が登場する。彼女とアランとのロマンスも、この物語の大きな柱だ。ただし、それは単なるロマンスではない。異文化共生の象徴なのである。最初は異文化に戸惑っていたアランだが、次第にそれを受け入れて、幸せをつかみ、再起を果たす。それがロマンスを通じて表現されているのが、この映画のユニークな点だ。

製造拠点が海外に移って空洞化したアメリカの産業についての話が出たり、アラブの民主化運動の話が出たりと、現代の世界情勢もさりげなく盛り込むなど、なかなかよくできた脚本である。映像もキレがあって魅力的。楽しく笑いながら、主人公の再起のドラマを通して、異文化との共生の大切さが伝わってくるはずだ。

それにしても、トム・ハンクスはこういうコメディーが似合うよなぁ。

●今日の映画代、1400円。毎週火曜はTOHOシネマズの会員(シネマイレージ)デーで、割引。貧乏なので助かります。

 

「サバイバルファミリー」

「サバイバルファミリー」
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年2月16日(木)午前11時45分より鑑賞(スクリーン5/自由席)。

2011年3月11日の東日本大震災の時、オレはあまりの揺れの激しさに思わず家から外へ飛び出した。するとアスファルトの地面もグラグラ揺れていて、頭の中が真っ白になった。このまま地球が終わるのではないか。そんな恐怖感まで頭をもたげた。

その後の東京では、スーパーやコンビニの店頭から物が消え、携帯電話がつながりにくくなるなど、かなりの混乱が起きた、便利さを究極まで追求した現代社会のもろさが露呈した形だ。もちろん被災地の混乱ぶりは、その比ではなかったわけだが。

そんなあの日のことを想起させた映画が「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」「ハッピーフライト」などでおなじみの矢口史靖監督による「サバイバルファミリー」である。

東京に暮らす鈴木家。仕事一筋の父(小日向文世)、のんびり屋の母(深津絵里)、無口な大学生の長男(泉澤祐希)、おしゃれとスマホに夢中の高校生の長女(葵わかな)の4人家族。ところが、ある日、いきなり電気が消滅する。電化製品はもちろん、電車や自動車、ガス、水道、乾電池などがすべて止まり、最初はすぐに復旧すると楽観視していたものの、1週間たっても元に戻らなかった。水も食料もままならずに困った父は、東京を離れて母の父(柄本明)が住む鹿児島へ行くことを宣言する。家族は渋々それに従い、飛行機も飛ばないため自転車での旅を始めるのだが……。

鹿児島を目指す100日近い旅の途中で、鈴木一家は様々なことを経験する。どんどん減っていく水や食料。慣れない野宿。高速道路は徒歩で脱出する人でいっぱいだし、トンネルは真っ暗で案内人なしでは歩けない(そこを有料で案内するおばあさんたちが笑える)。サバイバル生活をポジティブに楽しむ家族や、養豚農家のおじさんとの出会いもある。

そうした中で、家族は少しずつ成長していく。映画の冒頭で魚さえさばけなかった家族が、豚を解体処理するシーンが印象的だ。そして数々の経験を通して、最初は身勝手でバラバラだった家族が絆を強めていく。

というわけで、この映画は家族の成長と再生を描いたロードムービーなのだが、それだけでは終わらない。劇中では突然襲った異常事態の中、電気や水道、物流、交通機関などがストップして人々は右往左往する。水や食料にも事欠いて、スーパーやコンビニに行っても十分に手に入らない。法外な値段でそれらを売りつける人々も現れる。

これは完全に、阪神淡路大震災東日本大震災のあとの状況ではないか。しかも矢口監督は、手持ちカメラを多用して、それをますますリアルに見せていく。だから、観客はスクリーンの中の出来事が、けっして絵空事に思えないのである。

終盤は様々なピンチが家族を襲う。はたして一家は生き延びて、鹿児島に着くことができるのか。

矢口監督の過去の作品は、明るく楽しいコメディー映画が多い。しかも、突き抜けた笑いが特徴だ。だが、そのイメージでこの作品を観ると、期待を裏切られるかもしれない。全体がコメディー仕立てだし、笑えるところもあちこちに挟まれてはいるのだが、突き抜けた楽しさはない。その代わり、観客にいろいろなことを考えさせる。

映画の最後に登場するのは、2年半後にようやく元に戻った東京の夜景。まばゆい人工の明りが輝いている。一方、映画の前半では停電によって真っ暗になった東京の夜景が描かれる。そこでは星が美しく輝き、天の川が夜空にくっきりと浮かぶ。

もしかしたら、この対比こそが矢口監督が描きたかったものなのかもしれない。東日本大震災から6年が経つ今、震災直後の節電モードもどこへやら、人々の生活は相変わらず電気に頼りっぱなしで、そのために原発再稼働もどんどん進められている。そういう便利さだけを追い求める生活モードに対して、疑問を投げかけていると見るのは考えすぎだろうか。

蒸気機関車の中で、顔を真っ黒にしながら笑い合う家族の表情も心に残る。停電前にはなかった笑顔だ。多少の不便さの中でも、幸せは見つけられるということだろうか。

前作『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』では、危機に立つ林業をテーマにした矢口監督。明るく楽しいだけではなく、リアルで深刻な問題もきっちり取り上げようとする姿勢がより強まった気がする。矢口監督の新境地を感じさせる映画である。

●今日の映画代、1500円。ユナイテッド・シネマの会員料金。一般より300円安くてポイントが貯まります。年会費は確か500円。

 

「たかが世界の終わり」

「たかが世界の終わり」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年2月12日(日)午後12時30分より鑑賞。(スクリーン1/E-12)

いい年していまだにブレイクを果たせないオレのような人間から見ると、若くして世に出たヤツの才能がうらやましくて仕方ない。嫉妬のあまり「フン。どうせ年とともに尻すぼみになって、落ちぶれるに決まってるぜッ!」などと悪態をついて、なおさら惨めったらしい気持ちになったりするわけだ。

カナダのグザヴィエ・ドラン監督も、オレの嫉妬光線の格好のターゲットだ。何しろわずか19歳で監督・主演した「マイ・マザー」(2009年)で衝撃の監督デビューを飾り、その後も「わたしはロランス」(2012年)、「トム・アット・ザ・ファーム」(2013年)、「Mommy/マミー」(2014年)と才気あふれる作品を送りだしてきたのだ。あ~、悔しい!

そんなドラン監督の新作が「たかが世界の終わり」(JUSTE LA FIN DU MONDE)(2016年 カナダ・フランス)である。最初に言っておくが、これまた見事な映画なのだ。やれやれ。

この映画のもとになったのは、38歳で死去したフランスの劇作家ジャン=リュック・ラガルスの戯曲。家族を描いたドラマだ。

主人公は34歳の人気作家で同性愛者(ドラン監督自身も同性愛者で、映画にも同性愛者がよく登場する)のルイ(ギャスパー・ウリエル)。彼が12年ぶりに帰郷するシーンからドラマが始まる。彼は病気で死期が迫っていて、それを家族に告げるために帰郷するのだ。

出迎える家族は、母のマルティーヌ(ナタリー・バイ)、妹のシュザンヌ(レア・セドゥ)、兄のアントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)、彼の妻のカトリーヌ(マリオン・コティヤール)の4人。

この人たち、みんなどこか変なのである。マルティーヌは息子の大好きな料理を作って歓迎するのだが、大はしゃぎでひたすら喋りまくる。妹のシュザンヌは、兄が家を出た時にまだ小さくてよく覚えおらず、慣れない化粧をしたりして兄を出迎える。一方、兄のアントワーヌは、何やら不機嫌そうだ。もともとこの人、家族を怒鳴りまくっているのだが、勝手に家を出た弟にはなおさらわだかまりがある模様。そして、彼の妻のカトリーヌは初対面のルイに気を使うが、意外に鋭い感性の持ち主だったりする。

この映画はほとんどがルイの実家の中で進行する。わずかに回想が挟み込まれたり、ルイが兄とともに車で出かける展開がある程度で、それ以外は家の中で家族全員で、あるいは1対1で会話が繰り広げられる。大きな事件などは起きないが、それでも密度の濃い時間が生み出されている。

もとが舞台劇だけに、セリフの言い回しや強弱を中心に演劇の良さは十分に生かされている。同時に、そこに映像的な妙味を加えている。具体的には、会話をする人物の表情をアップでキッチリ捉え(それ以外はわざとぼかしたりして)、セリフとは裏腹の感情なども含めて、家族の心理を繊細に描写している。

そこから見えてくるのは、機能不全に陥った家族の姿だ。彼らの感情は葛藤やすれ違いの連続である。ただし、完全に家族崩壊に至る間際で無意識に踏みとどまる。まさに微妙なバランスの上に成立した家族。そんな家族の無意味な会話が続き、ルイは帰郷の目的を告白するタイミングを見失ってしまう。そして観客は「いつルイは告白できるのか」とハラハラしながらスクリーンを見つめるのだ。

それと同時に、観客はいろいろと想像力をかき立てられる。この映画では、詳しいディテールの説明などはない。例えば、ルイが家出した理由も明確ではないし、その他の家族が抱えたものもぼんやりしたままだ。いったい彼らの過去に何があったのか。目の前で繰り広げられ会話を通して、観客の想像力が試されるのである。

ギャスパー・ウリエル、レア・セドゥ、マリオン・コティヤールヴァンサン・カッセル、ナタリー・バイという5人の実力派俳優の演技も見ものだ。特に少ないセリフながら、その表情で多くのことを物語ったルイ役のギャスパー・ウリエル。ルイの病気を見抜きつつ、直接的には口に出すことなく、チラリチラリと不安な感情を見せたマリオン・コティヤールの演技が素晴らしい。

まあ、あまりにも強烈すぎる個性の家族なので、「こいつらがいるなら、ルイも家を出たくなるよなぁ」と思ったりもしてしまうわけだが、それでも家族というものの複雑さを的確に捉えた映画なのは間違いない。

ドラン監督がこの映画を監督したのは27歳の時。そして、この作品で第69回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。はたして、こののちどんな作品を送り出すのか。末恐ろしいとはこのことだろう。

あ~、それにしても悔しい。ほんのひとかけらでもいいから、オレに才能を分けてくれんものでしょうか? ドラン監督。

●今日の映画代、1300円。今日もTCGメンバーズカード料金。貧乏人なのでつい安く観られる映画館に行ってしまうのだ。

 

「エリザのために」

「エリザのために」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年2月5日(日)午前11時50分より鑑賞(スクリーン1/D-12)

.ルーマニアといえば、1989年の革命でチャウシェスク大統領夫妻があっさりと処刑されてしまった映像が今も記憶に残る。いくら独裁者とはいえ、あんなに情け容赦なく、混乱の中のどさくさ紛れみたいに処刑するのはどうなんだ? そんなことして民主化しても、ろくなことにならんのじゃないか?という不安感がぬぐえなかった。

あれから30年近くたった今、オレの不安は的中したようだ。少なくともクリスティアン・ムンジウ監督の「エリザのために」で描かれたルーマニア社会は、かなりヤバイことになっている。

ルーマニアの家族の物語だ。冒頭は、ある家の窓ガラスが投石によって割れるシーン。この家に住む一家が、このドラマの主人公。父のロメオ(アドリアン・ティティエニ)は医師、母のマグダは図書館員、娘のエリザ(マリア・ドラグシ)はイギリス留学を間近に控えている。

ある朝、ロメオはエリザを車で学校に送る。しかし、ロメオが急いでいるらしいことを知ったエリザは、途中で車を降りて徒歩で学校に向かう。しかし、その後彼女はすぐに暴漢に襲われてしまう。

その知らせをロメオが受けたのは、なんと愛人宅。実は彼と妻のマグダの夫婦関係は破たん状態。マグダは夫の愛人の存在を知っているが、エリザはそれを知らなかった。

ロメオは考えようによっては身勝手な人間にも思えるが、その一方で医師としては患者からのお礼を一切受け取らず、常に倫理的に振る舞う。そして何よりも娘のエリザのことを強く気にかけている。

ただし、その方向性が問題だ。どうやらイギリス留学の話はエリザが希望したものではなく、ロメオが強く勧めたものらしい。彼はルーマニア民主化された1991年に妻とともに帰国したのだが、ルーマニアの現状は彼の期待とは大きく違ってしまった。民主化後も汚職と不正が蔓延し、治安も良いとはいえない状態だ。そのため、彼は何が何でも娘を外国に送り出そうとしているのである。

エリザは幸い腕を負傷しただけで大事には至らなかったものの、ショックで激しく動揺する。留学を実現するには卒業試験で一定の成績を取らねばならないが、今の精神状態ではそれもおぼつかない。事件の起きた朝に愛人宅へ向かった自責の念もあって、ロメオは娘のために何かをしたいと考える。

そこで彼は警察署長や副市長など、あらゆるコネを使って娘が無事に試験を通過できるように働きかける。 そこに、民主化後のルーマニアのゆがんだ現状が、赤裸々に映し出される。

ムンジウ監督は手持ちカメラを使って、ドキュメンタリータッチの映像でドラマを描く。それによって、登場人物の心理がリアルに伝わってくる。ロメオが抱えた不倫の後ろめたさや、娘のためとはいえあれほど嫌っていた不正に手を染める苦悩と葛藤。あるいは、恐ろしい事件に遭い苦しみながらも、それを乗り越えようとするエリザの心の揺れ動き。それらがヒシヒシと伝わってくる。

同時に何やらサスペンスフルで、謎めいた雰囲気も漂ってくる。エリザを襲った犯人は誰なのか。そしてロメオの自宅や車への投石は誰の仕業なのか。そんな出来事を背景に不穏な緊張感がスクリーンを包みこむ。

後半、エリザはロメオに反発し、ロメオは自らの不正が暴かれそうになるなど、ドラマは急展開を迎える。自分が尾行されていると信じ込み、突然バスを降りて夜の住宅街をさまようロメオの姿が、何ともやるせなく感じられる。

この映画には、わかりやすい結末や明確なハッピーエンドが用意されているわけではない。しかし、ラストの卒業式シーンでのエリザの笑顔は、彼女の成長と自立を予感させるもので、微かな希望を感じさせる。

ルーマニアの社会問題を背景にしつつ、親子や夫婦の関係、正義やモラルなど様々な問いが観客に突き付けられる作品である。

ムンジウ監督は、この作品で2016年の第69回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した。パルムドールを獲得した『4ヶ月、3週と2日』、脚本賞を獲得した『汚れなき祈り』に続いて3度目のカンヌ映画祭受賞となった。それも納得できる密度の濃い映画だと思う。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカード料金。火曜、水曜なら1000円でさらに安くなるんだけどね。