映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

長尺の魔力

今日はいつもの最新映画の感想ではなく、ちょっとコラム的なものを。

長尺の映画というものがある。文字通り尺の長い、つまり上映時間の長い映画だ。たいていの映画は長くても2時間前後だが、世の中にはそれをはるかに超える映画がある。例えば、最近公開された映画では、マーティン・スコセッシ監督の「沈黙」が上映時間2時間42分。富田克也監督の「バンコクナイツ」が3時間2分。なかなかの長さである。

だが、上には上がある。昨年「64(ロクヨン)」前後編がヒットした瀬々敬久監督による2010年公開の映画「ヘヴンズストーリー」は、実に上映時間4時間38分! 家族を殺された娘、妻子を殺された夫、殺人犯の青年などが織りなす人間模様を全9章で描いた圧巻の映画だった。

この映画で最も印象的だったのは、登場人物の心理描写である。例えば柄本明が涙するシーン。感情の揺れ動きを余すところなく映す。通常の映画ならもっとコンパクトにするシーンを時間をかけて描くことによって、人物の心理が手に取るように伝わってきたのだ。

ちなみに、その瀬々敬久監督による自主企画映画「菊とギロチン」が2018年公開予定だ。なにせ自主企画だけに資金確保が大変らしく、6月末まで出資&協賛金(カンパ)を募集しているらしい。さすがに出資は無理でも、1口1万円の協賛金なら・・・ということで興味のある方はぜひホームページをチェックしてください。

さて、ここ数年に公開された長尺の映画として、もう1本忘れてはいけない作品がある。濱口竜介監督による2015年の「ハッピーアワー」だ。上映時間317分。つまり6時間17分!! 3部構成で間に休憩があるとはいうものの、破格の長さである。

この映画、30代後半の4人の女性たちの人生の岐路を描いた作品で、その4人をほぼ素人の女性が演じている(彼女たちはロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞)。そして、こちらも人物の心理描写が素晴らしい。通常の上映時間の映画ならカットされるような機微を、余すところなく吸い取っているから、女性たちが抱えた悩みや苦しみがあまりにもリアルに伝わってくる。おかげで、6時間超の上映時間が、まったく長く感じられなかった。

ちなみに、この映画は東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムにて、4月22日~5月12日まで凱旋上映されるそうなので、お時間のある方はぜひ。

最後に、近日上映予定の長尺の映画を紹介しよう。5月13日(土)より新宿Ks cinemaにて公開予定の片嶋一貴監督作品「いぬむこいり」だ。上映時間は4時間5分。ダメダメなアラフォー小学校教師が、神のお告げによって訪れた島で様々な経験を重ねる物語。民間伝承をモチーフにファンタジーや風刺、エロスなどの要素もあるらしい。出演者も主演の有森也実をはじめ、武藤昭平、緑魔子PANTA石橋蓮司柄本明など超個性派ばかりなので、大いに注目しているところだ。

というわけで、映画館が最も居心地がよい場所で、できれば映画館に住みたいと思うオレのような映画ジャンキーにとって、4時間以上も映画館にいられる長尺の映画は夢のような映画なのである。まあ、ただ長きゃいいってものでもないわけだが。

 

「T2 トレインスポッティング」

「T2 トレインスポッティング
新宿ピカデリーにて。2017年4月10日(月)午前11時20分より鑑賞(スクリーン2/F-15)。

アンダーワールドのヒット曲「ボーン・スリッピー」が流れてくると、必ず思い浮かべる映画がある。1996年製作のイギリス映画「トレインスポッティング」だ。日本でも単館系映画ながら大ヒットし、特に若者たちの間でカルト的な人気を獲得した。

それから20年。まさかの続編登場だ。しかも、ダニー・ボイル監督、脚本のジョン・ホッジ、主演のユアン・マクレガーなど主要スタッフ、キャストが再結集した奇跡のような映画である。これを見逃す手はない。さあ、映画館にGO!

というところで大変なことに気づいてしまった。よくよく考えたらオレ、前作を観てないじゃん。なにせ周囲であれだけ話題になっていたので、すっかり観た気になっていたのだ。やれやれ面目ない。

そこでさっそく近所のレンタル店でDVDを借りようと思ったら貸し出し中。そりゃそうだよね。しょうがない。動画サイトで観るか。と検索してみたら、なんとGyaO!で無料視聴できるではないか! まあ、有料より画質は落ちるし、途中で何度かCMが入るが、なんたってタダですからね。贅沢は言えません。

こうして20年越しで鑑賞コンプリート。いやぁ~、これは人気になるはずだ。閉塞感漂う社会を背景にドラッグと犯罪に走る若者たちを、ぶっ飛んだ映像と音楽で描いた青春ドラマ。まさに最低のやつらを描いた最高の映画なのだ。20年越しでファンになってしまったオレなのである。今さらかよッ!

そんなこんなで、ようやく観に行った「T2 トレインスポッティング」(T2 TRAINSPOTTING)(2017年 イギリス)。前作のラストで仲間たちを裏切り、麻薬取引で得た大金を持ち逃げしたマーク・レントンユアン・マクレガー)。オランダにいた彼が20年ぶりに故郷のスコットランジ・エディンバラに帰ってきたところからドラマが動き出す。実家では母はすでに亡くなり、年老いた父親が一人暮らし。

一方、かつての仲間たちはどうなっているかといえば……。ジャンキーだったスパッド(ユエン・ブレムナー)は妻子に愛想を尽かされ、自殺まで考えている。シック・ボーイ(ジョニー・リー・ミラー)はパブを経営しながら売春や恐喝(ほぼ美人局)で稼いでいた。そして、一番血の気の多かったベグビー(ロバート・カーライル)は刑務所に服役中。マーク自身も最初は幸福そのものだと自慢していたものの、実はそうでないことがわかる。こうして相変わらずな悲惨な人生を送る4人だったが……。

映画全体のタッチは前作と同じだ。ぶっ飛んだ映像、前作でも効果的に使われたイギー・ポップアンダーワールド、ブロンディーをはじめ新旧様々なアーティストによる音楽(今回もサントラは絶対に買い!)など、アバンギャルドな世界観が健在だ。

毒に満ちた笑いも満載。マークとシック・ボーイが盗みに入ったパーティー会場で、歌を歌わせられるはめになる(しかもカトリックプロテスタントの対立をネタにした歌)シーンでは、思わず爆笑してしまった。20年前と変わらないダニー・ボイルの若々しい演出は驚異的でさえある。

とはいえ、さすがに年をとったかつての若者たち。冴えない日々なのは昔と同じでも、昔のような輝きや未来への可能性はない。そこには中年の悲哀や焦りがジワジワとにじみ出す。シック・ボーイの彼女だという東欧から来た女が、マークにこう言うシーンがある。「あなたたちは過去に生きている」と。

昔の輝きを取り戻そうとばかりに、マークはシック・ボーイと組んでひと儲けしようとする。それにスパッドも協力する。しかし、なかなかうまくいかない。そのダメダメさとポップなタッチのコントラストが、絶妙の味を生んでいる。

味といえば、役者たちもいい味を出している。主要キャストは当時はまだ駆け出し。しかし、いまやスターとなったユアン・マクレガーをはじめ、ユエン・ブレムナージョニー・リー・ミラーロバート・カーライルのいずれもが、個性的な役者に成長している。そのキャリアの積み重ねが演技に奥行きを与えている。

例えば、劇中でユアン・マクレガーがSNSの普及など現在の社会への皮肉をまくしたてるシーンがあるのだが、それが結局自分自身の惨めな現在につながってしまう。そのあたりで漂う哀愁がたまらないのである。

そんな中、刑務所を脱走したベグビーは、大金を持ち逃げした宿敵マークの帰郷を知り激怒する。終盤はついにマークとベグビーの対決だ。それにスパッドが書いた小説が絡み、脇役だと思っていたシック・ボーイの彼女が重要な役割を果たす。何ともケレン味にあふれた展開が心を躍らせる。

その後、前半でマークが一度かけてすぐにやめたレコードに、ラストでもう一度針を落とすシーンが心憎い。あの名曲が鳴り響き、ポップな映像が流れた瞬間、思わず拍手しそうになってしまった。これぞ快作!!

前作は正直なところドラマ的には、それほどの深みはなかった。アバンギャルドなタッチが破格の魅力を醸成し、観客をすっかり酔わせていた。まるでドラッグのように。

今作は、そんな前作の良さをきっちり押さえつつも、さらにドラマ性が高まってパワーアップしている。前作のファンは、続編ができると聞いて期待するのと同時に、「大丈夫なのか?」という危惧もあっただろうが、これなら安心、というか大満足だろう。

ちなみに、この映画には前作を踏まえたシーンや展開がたくさんある。そこに関しては、前作の映像をそのまま使うなどして配慮しているので、前作を観ていなくても楽しめるだろう。それでも前作を観ておけば、なおさら楽しめるのは間違いない。

なんて、直前にようやく観たオレが偉そうに言える筋合いじゃないんですが……。

●今日の映画代、1400円。事前にムビチケ購入済み。

「午後8時の訪問者」

「午後8時の訪問者」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年4月8日(土)午後2時より鑑賞(スクリーン1/D-12)。

弟がいる。だが、一緒の家で暮らしていた幼少時はともかく、成人してからはほとんど会わなくなった。せいぜいお盆や年末年始に実家で顔を合わせるぐらいだ。別に仲が悪いわけではなくて、自然とそうなっただけなのだが。

カンヌ国際映画祭の常連で、2度パルムドール(最高賞)を獲得しているジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟は、ずっと兄弟で監督・脚本を務め、「ある子供」「息子のまなざし」「サンドラの週末」などのすぐれた作品を送り出してきた。はたして兄弟で協力して同じ仕事をするというのは、どんなものなのだろうか。全く想像しがたい世界である。

そんなダルデンヌ兄弟の映画は、少年犯罪、失業、貧困など社会問題を扱ったものが多い。そして今回の新作「午後8時の訪問者」(LA FILLE INCONNUE)(2016年 ベルギー・フランス)にも、そうした社会派の側面がある。若い女医を主人公にしたドラマで、医療問題や移民問題などが素材となっている。だが、直接的なメッセージが発せられるわけではない。むしろ人間の本質にグイグイ迫った作品といえるだろう。

主人公は若い女医のジェニー(アデル・エネル)。小さな診療所に勤務している。ただし、近いうちに大きな病院に移ることが決まっていた。ある日、診療所のベルが鳴り、研修医のジュリアンがドアを開けようとするが、ジェニーは診療時間を過ぎていたため制止する。翌日、身元不明の少女の遺体が見つかる。診療所の昨夜の監視カメラの映像にはその少女が助けを求める姿が映っていた。きちんと応対していれば少女は死ななかったと自分を責めるジェニーは、少女の身元を突き止めようと聞き込みを始めるのだが……。

映画の冒頭では、ジェニーがてきぱきと診療をこなす。そんな中、けいれんで運ばれてきた少年を見て、研修医のジュリアンがショックで固まってしまう。それを見たジェニーは、「患者に寄り添いすぎるな!」と厳しく指導する。

その後、診療所のベルが鳴り、ジュリアンが応対しようとするのだが、ジェニーは「もう診療時間を1時間も過ぎているから出なくていい!」と制止する。

そして彼女は、まもなく勤務する予定の大きな病院に向かい、そこのスタッフの大歓迎を受けて満面の笑みを浮かべる。

とくれば、ジェニーは医師として優秀でも、人間味のない典型的なエリート女に思えるかもしれない。しかし、その直後、彼女は今まで担当していた子供の患者から感謝されて、思わず涙ぐんでしまうのだ。こいつ、ホントはいいヤツじゃん!

そうなのだ。ジェニーは根はいいヤツなのだ。だが、同時に医師として出世のステップに足を乗せているだけに、それを隠して「あるべき自分」を演じようとしている。その微妙なバランス設定が、その後のドラマをより深いものにしている。

翌日、診療所の近所で死体が見つかり、それが昨夜、診療所のベルを鳴らした少女であることがわかる。「もしもあの時、ちゃんと応対していたら、少女は死ななくて済んだのでは?」。そう思ったジェニーは、自責の念から、その少女の身元を探ろうとする。

ミステリー仕立てでのドラマである。そのためギャングもどきにジェニーが脅迫されたり、謎が謎を呼ぶ展開が用意されている。ただし、ダルデンヌ兄弟が中心的に描くのは、謎解きではない。登場人物の心理描写だ。

ダルデンヌ兄弟お得意の、手持ちカメラを駆使したドキュメンタリータッチの映像で、ジェニーをはじめ様々な人物の心理をリアルに切り取っていく。特にジェニーについては、傷の手当てをしたり、脈を測ったりする日常の診療もていねいに描き、彼女の心の内を繊細に描き出していく。

事件の真相の鍵を握るのはある一家だ。秘密を抱えた父や息子の苦悩など、迷走を重ねる彼らの屈折した心理が巧みに描き出される。同時に研修医を断念した(ジェニーは自分の言動が原因だと思い込んでいる)ジュリアンが抱えた秘密も、ドラマに大きな影を落とす。そこから人間の奥底にある様々な本質が見えてくる。

このドラマを引っ張る原動力のひとつは、「なんでジェニーはそんなに必死で真相を追うのか?」という疑問だ。いくら罪悪感があるといっても、あそこまでやるのは普通ではない。

それについて明確な答えが提示されるわけではない(ハリウッド映画なら、実は彼女は過去に何かがあって……となりそうだが)。スクリーンに映る彼女を見て、観客が想像力をめぐらすしかない。

オレが思うに、やはりそれは彼女の迷いの表れではないだろうか。実は、ジェニーはわりと早いうちに、決まっていた病院への就職を断ってしまう。そして、今の診療所の後継者になると告げる。だが、そう決断してはいても、実際の心はグラグラ揺れ動いていたのではないか。「本当にこれでいいのか?」と。それを吹っ切るために猪突猛進で突き進んだように思える。

ラストシーンが印象深い。そこでジェニーは患者の老女を優しくサポートする。彼女がたどり着いたのは、そういう場所だったということだろう。不確実ながらも未来への希望が見えるラストシーンである。

いかにもダルデンヌ兄弟らしい映画だと思う。人物に寄り添い、人間の良心を信じる姿勢は不変だ。感情を刺激するような音楽もまったくなく、エンドロールも街の雑踏の音が流れるのみ。そこも彼ららしい。派手さはないが、味わい深さは一級品の作品である。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカード料金。ちなみに、この回は、心療内科医でエッセイストの海原純子さんのトークイベント付きでした。余計に得した気分。

 

「ムーンライト」

「ムーンライト」
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年4月4日(火)午後3時50分より鑑賞(スクリーン2/E-11)。

アカデミー賞がどれほどのものだ? ただのアメリカの映画賞だろう……。と言う人がけっこういる。まあ、そう言いたくなる気持ちもわからんではないが、何しろあれだけ歴史のある映画賞なんだし、頭から否定することもあるまい。実際、毎回の受賞&ノミネート作品を観れば、それなりに面白かったりするわけだし。

というわけで、「ムーンライト」(MOONLIGHT)(2016年 アメリカ)を鑑賞してきた。話題の「ラ・ラ・ランド」などを押しのけて、今年の第89回アカデミー作品賞を受賞した作品だ(脚色賞、助演男優賞も受賞)。

シャロンという黒人少年の成長を3部構成で描いた映画である。1部は主人公の少年時代。シャロンはマイアミの貧困地域で母ポーラ(ナオミ・ハリス)と暮らしている。だが、ポーラは麻薬に溺れ、男出入りが激しく、シャロンには居場所がない。しかも、彼は体が小さいため、学校でリトルとあだ名されて、いじめられている。そんな中、シャロンを救ったのは近所の麻薬の売人フアン(マハーシャラ・アリ)だった。彼とその恋人テレサ(ジャネール・モネイ)は、シャロンと親しく交流する。

シャロンにとって2人は父親と母親のような存在だ。特にフアンは「自分の道は自分で決めろ」と諭し、シャロンに大きな影響を与える。フアンは1部にしか登場しないのだが、その影響力はその後もスクリーンに反映される。それを演じたアカデミー助演男優賞を受賞したマハーシャラ・アリの存在感が抜群である。

一方、シャロンには唯一心を許せるケヴィンという幼なじみがいる。彼との関係が、その後のシャロンの人生に大きな影を落とす。

そして2部。シャロンは高校生になっている。母ポーラの麻薬中毒はますますひどくなり、売春までしている。フアンはすでに亡くなったものの、テレサが彼をサポートする。その一方で、シャロンは学校で以前よりも手ひどいいじめを受けている。同時にケヴィンとの友情は、それ以上の思いへと変わりつつある。しかし、その信頼していたケヴィンもイジメに巻き込まれ、最後は大きな出来事に発展する。ラストの衝撃の展開。ああいう行動しかとれなかったシャロンの屈折した心情が、何ともやるせない。

最後の3部は成人したシャロンを描く。施設に入った母親のために転居した彼は、そこで麻薬の売人となって羽振りをきかせている。そんな中、思わぬ電話がかかってくる……。

3部構成ながらぶつ切りの感じはまったくない。各パートのセリフや行動がうまくつながり、1本のドラマとしてきちんと成立している。シャロンを演じる役者もパートごとに違うのだが(少年時代はアレックス・ヒバート、高校生時代はジャハール・ジェローム、成人後はトレヴァンテ・ローズ)、不自然さは感じられない。見た目は違っても、内面はきちんと連続している。

そして、この映画の最大の特徴となっているのが映像である。カメラをぶんぶん回したり、極端なアップにしたり、わざとピントをぼかすなどの大胆な手法を使いつつ、登場人物の心理を繊細に切り取る。主人公のシャロンが徹頭徹尾無口だということもあって、セリフは必要最低限。それでも多くのことが映像から伝わってくる。シャロンの悩み苦しみはもちろん、ポーラやフアン、ケヴィンなどの心理が手に取るようにわかる。

タイトルにある「月の光」を効果的に使うなどした、美しい映像も印象的だ。特に海や浜辺でのシーンは、幻想的な美しさである。

同時に音楽の使い方も抜群に巧い。クラシック風な音楽から、ヒップホップ、ソウル、ジャズ、はてはカエターノ・ヴェローゾの名曲「ククルクク・パロマ」まで、多彩な音楽を映像に乗せて、場面ごとにふさわしい世界を構築していく。

この映画には、ほぼ黒人しか登場しない。また、同性愛という要素もある。しかし、それらは要素の一つにしか過ぎない。全体を通せば、困難を背負いつつも自立し、傷つきながらも前に進む少年の、普遍的な成長物語になっている。同時に普遍的なラブストーリーとして観ることもできる。

3部の最後、つまりオーラスの場面。あっけないぐらいに短いシーンで、一瞬「これで終わりか?」と思ったりもしたのだが、あとで考えるとやはりあれしかなかったのだろう。それは、逆境をはねのけるため、精いっぱい見栄を張り、肩ひじを張って成り上がったシャロンが、ようやく自分に素直になれた瞬間なのかもしれない。何にしても余韻の残る美しいシーンである。

ラ・ラ・ランド」のような派手さも楽しさもここにはない。しかし、人間を描き切ったという意味では、見事としか言いようのない作品だと思う。これが長編2作目という新鋭バリー・ジェンキンズ監督、スゴイ仕事をしたものだ。小品ではあるものの心にしみる映画である。

こういう作品を受賞作に選ぶのだから、アカデミー賞にはやはり要注意だぜ!

●今日の映画代、1000円。ユナイテッド・シネマの会員の更新手続きをしたらクーポンがもらえました。

 

「はじまりへの旅」

「はじまりへの旅」
ヒューマントラストシネマ渋谷にて。2017年4月2日(日)午後2時25分より鑑賞(スクリーン1/D-11)。

フリーランスゆえ定収入はない。仕事がなかった月はほとんど収入がない。その代わりたくさん仕事があったり、たまたま締め払いが重なった月はそこそこ収入がある。といっても、大した額ではない。昔は30分の脚本を書いて100万円くれるという夢のような仕事があったりして、けっこうな額の振り込みがあったりしたのだが、最近は悲惨なものだ。わずかな収入をやりくりして、どうにか生存している次第である。

そんな生活を続けていると、ときどき山奥にでも行って、お金をかけない自給自足の生活でもするか……と思ったりもする。だが、どう考えても無理だ。それを可能にする知識もノウハウも体力もない。おそらく1週間、いや3日で死ぬな。確実に。

「はじまりへの旅」(CAPTAIN FANTASTIC)(2016年 アメリカ)の主人公一家は、山奥の森の中で暮らしている。森の熊さんではない。れっきとした人間の一家だ。

冒頭は森林の俯瞰。そこはアメリカ北西部の山奥の森の中。そこに登場するのは、熊さんではなく鹿さんだ。ムシャムシャと葉っぱを食べている。すると物音が……。む? と振り向く鹿さん。しかし、再び葉っぱを食べ始める。次の瞬間、ナイフを持った若い男が鹿さんを襲い仕留める(撮影では動物は傷つけておりません。たぶん)。

というわけで、この山奥の森で暮らすのが父親ベン(ヴィゴ・モーテンセン)と6人の子供たち。彼らは自給自足のサバイバル生活を送っている。鹿さんを仕留めたのは長男。どうやら成人の儀式らしい。そして仕留めた鹿さんを解体処理する。子供たちは厳格なベンの指導の下で過酷なトレーニングをしているため、すさまじい体力の持ち主だ。そして学校にこそ通っていないものの、多彩な読書によって豊富な知識を持ち、6か国語を操る。

ちなみに、父親ベンがこんな暮らしをしている根底には反体制・反権力のラジカルな考えがある模様。彼は有名な言語学者のノーム・チョムスキーを信奉しているが、チョムスキーといえばまさに反権力的な人々にとってのカリスマだ。

しかし、まあ、どう考えてもこの父親、自分の身勝手で子供たちを縛っているとしか思えないわけだ。そのうちに絶対に破綻がくるのが目に見えている。つまり、このドラマ。話の大筋は読めてしまうのだ。

だが、それでも面白い映画になっている。何といっても風変わりな家族を生き生きと描いているのが魅力だ。見た目は普通なベンの子供たち。しかし、山奥の隔絶された暮らしゆえ、世間とはかけ離れた言動を繰り返す。それがたくさんの笑いを振りまくのだ。それ以外にも、観客を飽きさせない工夫がそこかしこにある。

一家の転機は入院していた母レスリーの死によって訪れる。以前から精神を病んで病院に入っていたレスリーが亡くなり、ベンと仲の悪いレスリーの父親は、「お前ら葬式に来るな!」と拒否する。それに対して子供たちが「葬儀に出たい!」といい、ベンもレスリーの遺言状に書かれていたことを実現しようと決意。一家は2400km離れたニューメキシコを目指して自家用バスを走らせる。

ここからはロードムービーになる。そこでは様々な出来事が起きる。一家はベンの妹の家に滞在するが、自説を曲げないベンは周囲と軋轢を巻き起こす。また、オートキャンプ場でベンの長男はある女の子と知り合い、初めてのときめきを覚える。そうしたことを通して、子供たちは父親が主導する今の生活に疑問を持ち始める。

そして、ついに一家は葬儀の場に乗り込む。さぁ、上を下への大騒ぎだ(ベンのド派手な衣装や子供たちのいでたちが爆笑モノ)。だが、それをきっかけに、子供たちは自立へのカウントダウンに突入する。そして、父親ベンも、今まで自分がやってきたことに、ようやく疑問を感じ始める。

このあたりも予期したとおりの展開だ。とはいえ、一家の言動をテンポよく見せて飽きさせない。クライマックスも、なかなかの盛り上げ方だ。いったんは、バラバラになりかけた家族。しかし、母の遺言貫徹という目標を再び掲げて、ミッション遂行に乗り出す。

その躍動感あふれる展開の後に待っているのは、水辺での弔い。そこで家族が歌うガンズ・アンド・ローゼズの「Sweet Child O’Mine」が実に印象的だ。それがあるから、その後の後日談が納得できる。家族は再び絆を結ぶのだが、それは以前のものとは全く違う。長男は自立し、残った子供たちも……。

ラストにかなり長めに映される食卓シーン。何も言わず、ただ子供たちを見つめる父親。そして、めいめい自由に振る舞う子供たち。清々しさと未来への希望を感じさせるラストである。

陳腐な話になりがちなドラマをこれだけ面白くしたのは、マット・ロス監督(もともとは俳優)による演出・脚本の功績だろう。笑いとマジメのバランスが良い。この作品で、第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門の監督賞を獲得した。

それ以上に見事なのがヴィゴ・モーテンセンの演技だ。エキセントリックさと普通さを巧みに混在させ、ここぞという時には観客の胸に迫る演技を披露する。ヒゲをそっただけでたくさんのことを物語ってしまう。さすがである。アカデミー主演男優賞ノミネートも納得。受賞は逃したけどね。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカード料金です。

「タレンタイム 優しい歌」

「タレンタイム 優しい歌」
シアター・イメージフォーラムにて。2017年3月30日(木)午後1時より鑑賞(シアター2/自由席(整理番号17))。

東京・渋谷はかつてミニシアターの聖地だった。ロードショー館も多かったが、それ以上にBunkamuraル・シネマ、ユーロスペースアップリンクなどの個性的なミニシアターの存在感が際立っていた。だが、ここ数年、シネマライズ、シネクイントと歴史あるミニシアターが閉館するなど、ちょっと心配な状況もある。これ以上閉館がないことを祈るばかりである。

そんなミニシアターの中でもシアター・イメージフォーラムは、かなり異色の存在といえるだろう。2000年の開館以来、野心的な作品をラインナップしている。濱口竜介監督の上映時間5時間17分に及ぶ名作「ハッピーアワー」もここで上映されたっけ。

ちなみに、この劇場の経営母体は映像研究所を手がけていて、それも同じビルにあるらしい。そのせいかロビーが狭い!!! スクリーンが2つもあるので、上映時間が重なると朝の通勤ラッシュ並みの混雑になる。なので、オレは一度受付をした後は開場ギリギリまで、近くのカフェ・ベローチェで待機している。あそこのサンドイッチはけっこう美味い。

さて、この日もカフェ・ベローチェでサンドイッチとコービーで待機してから、久々のシアター・イメージフォーラムに向かった。鑑賞したのは、「タレンタイム 優しい歌」(TALENTIME)(2009年 マレーシア)(上映時間1時間55分)という作品。

む? 2009年? そう。この映画は2009年のマレーシア映画。女性監督のヤスミン・アフマドは、この映画の発表後に病気で急死し、これが遺作となった。まだ51歳。合掌。というわけで、ようやく公開になったこの映画、予想以上に見応えある作品だった。

舞台となるのはマレーシアの高校。この学校で音楽(歌や踊りなど)コンクールの「タレンタイム」が開催されることになった。それにかかわる高校生たちの日々を描く。

ピアノの上手な女子学生ムルー(パメラ・チョン)は、耳の聞こえないマヘシュ(マヘシュ・ジュガル・キショール)と恋に落ちる。二胡を演奏する優等生カーホウ(ハワード・ホン・カーホウ)は、成績優秀で歌もギターも上手な転校生ハフィズ(ハマド・シャフィー・ナスウィップ)を嫌っていた。家族との葛藤なども抱えながら、彼らはコンクールを目指すのだが……。

ドラマの中心になるのは4人の高校生だ。ピアノの上手な女子学生ムルーの家はけっこうなお金持ち。宗教はイスラム教だが、父親は英国系。一方、インド系でヒンドゥー教徒のマヘシュは、耳が聞こえない高校生。彼はタレンタイムに出場するムルーをバイクで送迎する役目を仰せつかり、彼女と恋に落ちる。

ギターの上手な転校生ハフィズはマレー人。彼の母は重い脳腫瘍で入院している。ハフィズは学業も優秀なため、二胡を演奏する中国系の高校生カーホウから嫌われている。カーホウは父親から、一番の成績をとるように厳しく言われているのだ。

そんな彼らと家族の日常が描かれる。ムルーとマヘシュの幼い恋、カーホウのハフィズに対する嫉妬心、そしてコンクールを目指す高揚感など、あの年代に特有のキラキラしたきらめきが、フレッシュな映像によって瑞々しく綴られている。ムルーとマヘシュがバイクで街を走るシーンには、思わず胸がときめいてしまった。

ユニークな教師たちの存在もあって、ユーモアもたっぷり盛り込まれている。教師の1人が自分もコンクールに出場しようとして、女装で踊ったり……。

ただし、この映画、普通の青春映画以上の見応えがある。映画の冒頭に登場するのは高校の教室風景だ。そこには様々な民族や宗教の高校生たちがいる。マレーシアは、マレー系、インド系、中国系など様々な民族が集まる多民族国家。宗教も言語(この映画にも複数の言語が登場)も社会階層も、複雑に入り組んでいる。

中盤では、コンクール出場をかけたオーディションが行われ、様々な民族が様々な芸能を披露する。これもマレーシア社会を端的に表現したシーンだ。

この映画には、そんなマレーシアの多層社会がキッチリと織り込まれている。そして、それがやがて分断に発展する。ムルーとマヘシュの恋愛の行方からそれが露呈するのだ。マヘシュの叔父に悲劇が起き、それをきっかけに彼の母はイスラム教を毛嫌いするようになる。そのことが、2人の恋に大きな影響を及ぼすのである。

この映画で描かれたマレーシア社会は、多層構造でありながら、表面的にはそれが見事に融合しているように見える。しかし、それがほんの小さなことから大きな分断に発展することも、この映画から伝わってくる。

楽曲の良さもこの映画の魅力だ。特にムルーとハフィズによる劇中での歌(歌は吹替のようだが)が素晴らしい。だが、クライマックスのコンクールでは、両者が対照的に描かれる。ムルーは耐え難い思いを抱えて、ステージを降りる。しかし、悲劇では終わらせない。その前にマヘシュの亡き叔父と母の秘話を見せることで、2人の未来に微かな希望を灯す。

そして、ハフィズはステージで見事な演奏を披露する。しかも、そこには思わぬサプライズが待っている。それは民族や宗教も越えて結びつくことができる、次世代の若者たちの可能性を示したシーンである。

瑞々しくきらめく見事な青春映画であるのと同時に、マレーシア社会の分断と和解の可能性を描いた素晴らしい映画だと思う。オレ的に、とても好きになった。ヤスミン・アフマド監督の急死が惜しまれる。

日本でも、こういう青春映画ができないものだろうか。瑞々しい青春ドラマでありながら、社会状況もきちんと投影されるような……。

●今日の映画代、1500円。渋谷109のチケットポートで事前に鑑賞券を購入。

 

「未来よ こんにちは」

「未来よ こんにちは」
Bunkamuraル・シネマにて。2017年3月28(火)午前10時45分より鑑賞(ル・シネマ1/D-6)

時は過ぎゆく。時間とともにいろいろなものが変化し、思うようにならない現実に直面する。だが、それを素直に受け入れることは難しい。

「未来よ こんにちは」(L'AVENIR)(2016年 フランス・ドイツ)(上映時間1時間42分)の主人公ナタリーにも、受け入れ難い現実が押し寄せる。それに対して、彼女はどう向き合うのか。

ナタリー(イザベル・ユペール)は50代後半。高校で哲学を教えている。夫ハインツ(アンドレ・マルコン)も哲学教師だ(そんな背景から、この映画には哲学的言辞があちこちに登場する。それがドラマに深みをもたらしている)。2人の子供はすでに独立している。ひとり暮らしの母は認知症が進み、問題ばかり起こしていた。そんなある日、ハインツが「好きな人ができた」と告白し家を出る。傷ついたナタリーはかつての教え子ファビアン(ロマン・コリンカ)たちが暮らすアルプスの山荘を訪れるのだが……。

冒頭はナタリー夫婦と2人の子供がバカンスに出かけているシーン。そこから数年後に時間が飛んで、ドラマがスタートする。ナタリーは授業をしに高校に出かける。しかし、そこでは政府の政策に反対する生徒たちが、ストライキをしている。若い頃のナタリーは、彼ら以上に急進的な考えの持ち主だった。だが、今はストをかいくぐって授業を行っている(それでも最後は生徒たちの要求に応じてクラス討論を認めるのだが)。

エネルギッシュでラジカルな高校生たちの姿に、時の流れを感じさせられるナタリー。彼女が直面する現実はそれだけではない。ナタリーには一人暮らしをする認知症の母がいる。彼女はたびたびトラブルを起こして、ナタリーを苦しめていた。また、何冊も本を出している出版社からは、時代に合わないのでリニューアルしたい。でないと本は出せないといわれてしまう。

そして、まもなく極めつけの驚愕の事態が訪れる。夫が「好きな人ができた」といい、家を出て、2人は離婚することになるのだ。

と聞くと、いかにも波乱のドラマのようだが、劇的な展開や演出は極力排除している。例えば離婚の話にしても、劇的に盛り上げるなら夫が突然ナタリーに切り出す設定にするだろう。しかし、この映画では、最初に父の不倫に気づいた娘が「どちらかを選んで」と父に迫る前フリがある。

この映画の監督は、フランスの注目の若手女性監督ミア・ハンセン=ラブ。「あの夏の子供たち」「EDEN エデン」などの過去作があり、本作で第66回ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)を受賞した。

彼女が紡ぎだす抑制的なタッチの中で、主演のイザベル・ユペールがその演技力をいかんなく発揮する。こちらは、クロード・シャブロル監督の「ヴァイオレット・ノジエール(原題)」、ミヒャエル・ハネケ監督「ピアニスト」で2度カンヌ国際映画祭女優賞に輝くなど、数々のキャリアを重ねてきた名女優。60歳を過ぎた今もハイペースで出演を重ね、先日はポール・バーホーベン監督の「エル(原題)」で、アカデミー主演女優賞に初ノミネートされた。

そんなユペールの演技が絶品だ。気づけば時が流れ、老いを自覚せざるを得なくなり、しかも夫に去られて一人ぼっちになったナタリー。平静を装いつつも、怒りや悲しみがチラチラ顔をのぞかせ、時には爆発する。その心理の見せ方ときたら、絶品としかいいようがない。まさに名演技なのだ。

ナタリーに時の流れを自覚させる存在がもう一つある。かつての教え子のファビアンだ。豊かな才能の持ち主で彼女の監修で本も書き、情熱家で社会変革を目指すラジカルな青年。ナタリーはほのかな恋愛感情も彼に抱いているようである。

後半、ナタリーはファビアンに誘われて、彼が恋人や仲間たちと暮らすアルプスの山荘に行く。しかし、そこで彼女はファビアンから「あなたたちのやり方は甘かった。それでは世の中は変わらない」と批判されてしまい、疎外感を味わう。自身の老いと孤独に否応なく向き合うことになるナタリー。

何やら絶望的で自殺でもしそうな展開だが、そうはならない。ベッドで泣くナタリーだが、翌朝には再び毅然として歩き出す。そう。この映画のナタリーは、ひたすら歩き回っている。どんなことがあっても自分を見失うことなく、歩き続けるのだ。その姿が実に凛々しいのである。

そんな彼女を象徴するのが、ラストの後日談だ。彼女には孫が誕生し、元夫や2人の子供とも新たな関係を築いていく。その時のナタリーの表情には、間違いなくタイトル通りに明日が見える。

戸惑いのはてに、すべてをありのままに受け入れて、前を向いていく。誰にでもできるわけではありないが、ぜひそうありたいと思う人は多いだろう。

ナタリーと同世代の人はもちろん、多くの観客が自分の生き方に思いをはせそうな良作だと思う。

ついでに、パリの街並みやアルプスの美しい風景、そして丸々と太った黒猫も印象的な映画だった。

●今日の映画代、1100円。久しぶりのBunkamuraル・シネマ。毎週火曜はサービスデー。