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映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「僕とカミンスキーの旅」

「僕とカミンスキーの旅」
YEBIS GARDEN CINEMAにて。2017年4月30日(日)午後1時45分より鑑賞(スクリーン1/E-8)。

年に1~2度、渋谷のBunkamuraザ·ミュージアムの展覧会に足を運んだりはするものの、美術方面には全く疎い。誰でも知っている有名な画家の名前ぐらいは知っているが、そこから先は皆目見当がつかない。

そんなオレだから、マヌエル・カミンスキーという画家の名前もまったく知らなかった。そのカミンスキーが登場する映画が「僕とカミンスキーの旅」(ICH UND KAMINSKI)(2015年 ドイツ・ベルギー)である。

昏睡中に東西ドイツが統一し、意識を取り戻した母がショックを受けないように、あの手この手で消滅前の東ドイツを見せ続けようとする息子を描いた2003年のドイツ映画「グッバイ、レーニン!」のヴォルフガング・ベッカー監督と主演のダニエル・ブリュールが、久々にタッグを組んだ作品だ。

映画の冒頭に流れるのは、著名な画家カミンスキーの死去を報じるニュース。それも世界各国(日本も)のニュースだ。つまり、彼は世界的な画家だったわけだ。

続いて、彼の足跡を描いた映像が流れる。それによれば、カミンスキーマティス最後の弟子でピカソの友人でもあり、ポップアート全盛の1960年代に「盲目の画家」として話題を集めた人物。モハメッド・アリやビートルズ、アンディ・ウォーホールなど著名人の写真や、カミンスキーの作品なども登場し、彼がいかに偉大な芸術家だったかが語られる。まるでドキュメンタリー映画のような滑り出し。ところが……。

実は、これ、全部真っ赤なウソなのだ。オレが知らないのも当たり前。本当はカミンスキーなどという画家は存在しない。架空の人物なのである。それを虚実入り混ぜて、いかにも本物のように見せているワケ。何とも人を食った映画ではないか。

そんなカミンスキーの自伝を書こうとするのが、自称・美術評論家の31歳の男セパスティアン(ダニエル・ブリュール)。彼は無名で金もなく、カミンスキーの自伝で一発当てようとする、いかがわしい人物だ。「カミンスキーが死ねば伝記がよけいに売れる」とまで考えている。

そこでセバスティアンは、山奥で隠遁生活を送るカミンスキーイェスパー・クリステンセン)のもとを訪れる。なんとか彼に取り入って話を聞くつもりだった。ところが、カミンスキーはただ者ではなかった。その言動はわがままで気まぐれで頑固で、いったい何を考えているか不明。そもそも彼が本当に盲目なのかどうかも怪しいところ。そして彼の周囲の人物も、娘のミリアム、家政婦、主治医など、いずれもくせ者揃いなのである。

そんなアクの強い人物キャラを生かしながら、たくさんの笑いを生み出している映画だ。特にセバスティアンがカミンスキーに振り回される姿は、ひたすら可笑しくて笑える。

ベッカー監督の演出もぶっ飛んでいる。全8章で構成されたドラマは、セバスティアンの願望(嫌いな奴を撃ち殺す!)を映像化したり、カミンスキーの作品を大胆に使ったりと縦横無尽なタッチ。カミンスキーが語る達磨大師のエピソードも、映像として登場する。「夢から覚めて現実だと思ったらそれも夢、今度こそと思ったらそれも……」という夢の多重構造のようなシーンもお目見えする。ドラマの内容同様に、演出や映像も奇想天外なのだ。

中盤では、セバスティアンがこれまでに行った関係者のインタビューが挟みこまれる。そこに登場するのも怪人物ばかり。双子の老作曲家だの、常識はずれの大食漢の老人だの、まあとにかく変な人のオンパレード。それがまた笑えるのである。

そんな中から浮上してくるのが、カミンスキーと元恋人との関係だ。それこそが伝記の大きなカギになると考えたセバスティアンは、カミンスキーを誘い出して彼女のところを目指して旅に出る。

というわけで、ここからはロードムービーになる。ただし、2人の心温まる交流が描かれるわけではない。この旅も奇想天外で予測不能だ。カミンスキーは相変わらず何を考えているかわからないし、わがままばかり言い続ける。突然気が変わったり、さっき言ったことをもう忘れていたりもする。あげくは、若い女をホテルに連れ込んだりもするのだ。やれやれ。

それ以外にも謎のヒッチハイカーなど不思議な人物が登場して、とんでもない行動を起こす。まさに珍道中が繰り広げられるのである。当然ながら、セバスティアンは右往左往しまくるばかりだ。

そのはてに、ついに2人はカミンスキーの元恋人のところへたどり着く。それがどんな再会劇だったのかは伏せておくが、人生の哀切や年月の移ろいを感じさせる印象的なシーンだ。

同様にラストの海辺のシーンも、不思議な魅力を漂わせている。セバスティアンの明確な変化が描かれるわけではないが、少なくとも自分の成功の道具としか見ていなかったカミンスキーに対して、今までとは違った感情を持つに至ったことは間違いない。

主演のダニエル・ブリュールに加え、ドニ・ラヴァン、ジェラルディン・チャップリンチャップリンの娘)あたりの渋い演技も見ものだ。そして何よりもカミンスキー役のデンマークのベテラン俳優、イェスパー・クリステンセンの怪演ぶりが見事。

何とも人を食った奇想天外なロードムービー。作品そのものよりも話題性などでカリスマを作る美術界への批判や風刺も盛り込まれている。ストレートな感動はないものの、捨てがたい味わいを持つユニークな映画だと思う。

●今日の映画代、1500円。ユナイテッド・シネマの会員料金。ちなみに、劇中でテルミンの演奏が登場することから、上映終了後にマトリョミンアンサンブルユニット「ボル⑧」によるミニ演奏会あり。テルミンの音色って味があるなぁ~。

 

目指せ!?日本のマシュー・マコノヒー

 

今週はまだ映画館に行っていないので、映画レビューではなくちょっとコラム的なものを・・・。

俳優は役に入り込む。役作りのために過激なこともする。1983年のカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞した今村昌平監督の「楢山節考」に出演した坂本スミ子は、老女を演じるために前歯を4本削ったという。何とも壮絶な役作りである。

こうした役作りに関する過激なエピソードは数多くある。そんな中でも、体重の増減は多くの俳優が行う役作りである。特に有名なのはロバート・デ・ニーロだろう。「レイジング・ブル」(1980年)では引退したボクサーを演じるために20キロ以上も体重を増やしている。また、「タクシードライバー」(1976年)では約15キロも減量したとされる。その他の作品でもたびたび体重を増減させている。

最近では何といってもマシュー・マコノヒーの減量がすごかった。「タラス・バイヤーズクラブ」(2013年)で、エイズ患者を演じるため21キロも減量した。それまでとは全く違う外見に驚かされたものである。いったいどんなダイエット法を実行したのだろうか。そのかいあって、この作品で彼は第86回アカデミー主演男優賞を受賞している。

日本の俳優も負けてはいない。第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で審査員賞を受賞した「淵に立つ」(2016年)に出演した筒井真理子は、映画の前半と後半で雰囲気を変えるために、撮影の3週間で13キロ体重を増減している。確かに見た目が前半と後半で全く違う。これまたかなりの荒業である。

さて、どうして体重の話を持ちだしたかというと、実はオレも減量中だからだ。もちろん役作りのためではない。最近体が重くてよく息が切れる。と思ったら、いつの間にか体重がベストより6キロも増えていたのだ。これはヤバイ。医者からもこれ以上増やすなと言われてしまった。さて、どうしたものか。そこで減量作戦を開始した次第である。

目下展開中の作戦は二つ。まずはウォーキングだ。目標は1日1万歩。だが、これがなかなか大変だ。距離にすると1日8~9キロ歩かねばならない。時間にしたら、なんだかんだで1時間はかかってしまう。

第二の作戦は、摂取カロリーを減らすこと。ここのところ、やたらに野菜サラダばかり食べている。何だかウサギになった気分である。細かく計算したわけではないが、現在の摂取カロリーはだいたい1日1500kcal程度だろう。成人男性の目安は2000~2300kcalらしいので、確実にそれを下回っている。

というと苦行を続けているようだが、実はそうでもない。オレは減量は得意なのだ。「やる!」と決めたら絶対にやる(ふだんはやらないが)。10年ほど前には2~3か月で約10キロの減量に成功したこともある。だから、今回もたぶん大丈夫。デ・ニーロやマコノヒーのことを考えれば、何のこれしき。うん。絶対にやれるさ。

と必死に自己暗示をかけつつも、一抹の不安も感じていたりするオレなのであった。

ちなみに、次の映画レビューは週末あたりに何とか書けるかなと・・・。

「スウィート17モンスター」

「スウィート17モンスター」
ヒューマントラストシネマ渋谷にて。2017年4月22日(土)午後12時30分より鑑賞(スクリーン2/F-10)。

自分がダメ人間だからだろうか、ダメ人間を描いた映画が大好きである。例えば、韓国のポン・ジュノ監督のデビュー作「ほえる犬は噛まない」。日本の山下敦弘監督の「もらとりあむタマ子」。どちらもイケてないダメ女の映画だ。前者はペ・ドゥナ、後者は前田敦子が演じた主人公のダメっぷりがハンパなく、それだけに彼女たちの一瞬の輝きや成長が胸にグッとくる作品だった。

そんなダメ女映画に新たな秀作が登場した。「スウィート17モンスター」(THE EDGE OF SEVENTEEN)(2016年 アメリカ)である。主人公の少女ネイディーンは当然ながらダメ女。しかも、17歳という微妙なお年頃。そんな彼女が、様々な出来事を通して成長する姿をユーモアとともに描いた青春映画だ。

冒頭のシーンから面白すぎる。教室に駆けこんできた彼女が教師のブルーナーに言う。「これから自殺するわ」。それを聞いたブルーナーは止めるどころか、「自分も自殺しようと思って遺書を書いていたんだよ」と言い放つ。なんというぶっ飛んだシーンだろう。このシーンを観ただけで、オレはこの映画が好きになってしまった。

それに続いてネイディーンの幼少期から今日までが語られる。「勝ち組」の兄ダリアンと対照的に、小さい頃からダメダメで学校ではいじめられっ子だったネイディーン。それでも、クリスタというたった一人の親友ができる。しかし、まもなく一番の理解者の父親が急死してしまう。

というわけで、現在のネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)は、イケメンのモテモテ男に成長した天敵の兄ダリアン(ブレイク・ジェナー)と対照的に、キスの経験さえないイケてない毎日を送る17歳の女子高生だ。いつも妄想だけが空まわりして、教師のブルーナー(ウッディ・ハレルソン)や母親(キーラ・セジウィック)を困らせている。そんなある日、あろうことか、たった一人の親友クリスタ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)が、ダリアンとつきあい始める。ネイディーンは大いにショックを受けるのだが……。

この映画の最大の魅力は、なんと言っても主人公のネイディーンのキャラにある。イケてないダメ女などというと、無口で引っ込み思案な性格だと思うかもしれないが、ネイディーンは違う。ふてくされた顔でひたすら毒を吐きまくるのだ。彼女は自分の容姿や性格を嫌い、強烈な自己嫌悪に陥っている。そして嫉妬心、孤独感、不安感、反抗心など様々な感情を抱えている。それを周囲にぶつけまくるわけだ。突然、突拍子もない行動に打って出ることもある。これぞまさにタイトル通りのモンスターなのである。

ただし、観客はネイディーンを嫌いにはなれないだろう。何しろその言動が面白すぎるのだ。憎まれ口にもどこか愛嬌がある。それがたくさんの笑いを生み出している。だから、「困った子だな」と思いつつも、ついつい笑顔になってしまうのである。

おまけに、ネイディーンと似たように思いは誰もが一度は経験しているはずだ。この映画を観ているうちに、男女を問わずあの頃の自意識過剰の自分を思い出して、共感してしまうのではないだろうか。それもまたネイディーンを魅力的な存在にする。

それにしても、ネイディーンを演じたヘイリー・スタインフェルドが素晴らしすぎる。どこかで聞いた名前だと思ったら、コーエン兄弟の「トゥルー・グリッド」で父の復讐を狙う14歳の少女を演じたあの子ではないか! ただの一発屋の子役じゃなかったのね。彼女の絶妙の演技がこの映画をキラキラと輝かせている。こんなに魅力的なキャラはめったにない。

いかにも青春映画らしく、ノリノリの音楽でテンポよく描く演出も印象的だ。女性監督のケリー・フレモン・クレイグは、これが長編デビュー作だそうだが、セリフの面白さが光る脚本ともども、なかなかの才能の持ち主だと思う。

さて、親友と天敵である兄との交際発覚によって、一気に爆発してしまうネイディーン。彼女にとって、それは裏切り行為。それをきっかけに様々なハプニングが起きる。そこには2人の男の子も絡んでくる。1人はネイディーンに気がある(ただし、ネイディーンにとっては恋愛対象外)同級生で韓国系のアーウィン。もう1人は憧れのイケメンのニック。

そんな中、ネイディーンのちょっとしたミスによって、大変なことが起きて彼女はボロボロになる。それを救うのがブルーナー先生だ。この人の劇中でのネイディーンに対する絶妙な距離感が良い。実際にこんな先生がいたら、どんな生徒もちゃんと成長していきそうだ。演じるウディ・ハレルソンがいい味を出している。

というわけで、様々な出来事を通してネイディーンは成長する。その経緯に不自然さはない。もともと彼女には、「何とか自分を変えたい」「周囲とつながりたい」という気持ちがあったことが、そこはかとなく伝わってくる。例えば、パーティーに出かけて「リラックスして誰かに話しかけよう」と自分に言い聞かせてみたり、ブルーナー先生に「友達が一人もいないの。気にしてないけど」と話してみたり。そういう心の奥の声が聞こえてくるので、彼女の成長が自然に受け止められるのである。

ラストでは、それをくっきりとスクリーンに刻み付ける。ダリアン、母、クリスタ、そしてアーウィンとの新たな関係をさりげなく描き、観客を温かな気持ちにしてくれる。実に心地よく、胸にグッとくるエンディングだ。

ここ数年に観た青春映画の中でも、オレ的に間違いなく上位にランクされる作品である。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカードの会員料金。1年間の期限が4月末に切れるからまた加入しなくちゃ。

「SING シング」

「SING シング」
新宿ピカデリーにて。2017年4月20日(木)午後7時20分より鑑賞(スクリーン2/E-17)。

基本的に映画は一人で観る。別にそれがポリシーというわけではなく、一緒に観る相手がいないだけだ。ちっとも寂しくなんかないゾ!!(笑)

とはいえ、月に一度程度他人と一緒に映画を観ることがある。仕事を通じて知り合った映画好き3人とともに、自称「映画部」なるものを結成しており、そのメンバーで映画館に繰り出すのだ。もちろん鑑賞後は、感想を語り合う飲み会に突入する。

そこで問題になるのが作品選びだ。一応、最初はオレが目ぼしいものをピックアップして共有するのだが、上映スケジュールなどの関係で、予想もしない作品が浮上することがある。

今回の鑑賞作品も予想外のものだった。「怪盗グルー」シリーズや「ミニオンズ」のイルミネーション・エンターテインメントによるミュージカル・アニメ映画「SING シング」(SING)(2016年 アメリカ)である。

オレもなかなか面白いという評判は聞いていたのだが、もともとアメリカのアニメはほとんど観ないだけに(お金がないからそこまで手が回りません)、今回も自分から観ようという気は全くなかった。しかも、今回観ることになったのはオリジナル版ではなく、日本語吹替版だ。図らずも、こういう映画を鑑賞することになってしまうのが、グループ鑑賞の醍醐味かもしれない。

この映画のストーリーはシンプルだ。動物たちが人間と同じように暮らす世界。コアラのバスター・ムーンが支配人を務める劇場は潰れかけていた。バスターは劇場の再起を賭けて、歌のオーディションの開催を企画する。ところが、劇場で働くミス・クローリーのせいで募集チラシに2ケタ多い優勝賞金額が載ってしまう。おかげで劇場に応募者が殺到するのだが……。

落ちぶれた劇場支配人が、起死回生を狙ってオーディションを開く。ただそれだけなのに、あの手この手で楽しい映画に仕上げているから立派なものだ。全編を通して目を引くのは映像である。車の疾走シーンをはじめ、迫力あるシーンがテンコ盛り。もちろん動物たちの動きも、実に自然に仕上がっている。

ただし、登場人物(じゃなくて登場動物か?)のキャラ紹介と、ほんのワンフレーズ程度の歌が次々に披露されるオーディションシーンが中心の前半はやや退屈だった。小ネタで笑わせてくれるものの、物足りなさが残る。

それが中盤以降になると、俄然面白くなってくる。ユニークな面々のドラマが前面に出てくるのだ。25匹の子を育てるものの日常に飽き足らないブタさん主婦、歌は抜群に巧いのに極度のアガリ症のゾウ娘、父親に引き入れられたギャングの世界から足を洗いたいゴリラ青年、パンクロックを愛するハリネズミ・ガールなどの個性的なメンバーが、オーディションをきっかけに人生を変えようとするドラマ(=生き直しのドラマ)が展開するのである。

一方、劇場支配人のコアラにもドラマがある。スポンサー集めという難題が浮上し、大金持ちの元スターのおばあさんから、何とかお金を引き出そうとするものの、それがきっかけで大変なことが起きる。

それによってコアラはどん底に落ちるのだが、後半ではそこからの再起物語が描かれる(それには彼の亡き父との思い出なども絡んでくる)。これもまた定番とはいえ、それなりに観応えのあるドラマだと思う。

クライマックスは野外劇場での圧巻のショーだ。そこで披露される歌の素晴らしいこと。レディー・ガガビートルズフランク・シナトラなど新旧のヒットソングが、心を湧き立たせてくれたり、感動を運んでくれる。それまでは前半でワンフレーズ披露される程度なので、なおさらクライマックスの歌が盛り上がる仕掛けになっている。

ちなみに、日本語吹替版のキャストは、内村光良MISIA長澤まさみ大橋卓弥、斎藤司、山寺宏一坂本真綾田中真弓宮野真守大地真央水樹奈々など。彼らの歌声もなかなか見事だ。

ていうか、MISIA大橋卓弥の起用は反則でしょう(笑)。本職なんだから歌が歌いのは当たり前。むしろ印象的だったのは山寺宏一の芸達者ぶり。いやぁ~、本当に何でもできちゃう人だよなぁ。

ブタさん主婦の自己実現、ゴリラ青年の自立と父との絆の確認、ネズミ男(といっても妖怪ではない)のラブロマンスなど、様々な要素がポジティブに帰結して、ラストは大団円を迎える。誰でも温かな気持ちで映画館を後にできるはずだ。

シンプル過ぎるお話を、キャラの面白さを生かした小ネタと、過不足ない人間ドラマで盛り上げ、何よりも圧倒的な歌の魅力を見せつけてくれたミュージカル・アニメ映画。エンタメとしての完成度はかなり高いと思う。

それにしても、こうやって日本語吹替版を観たら、どうしてもオリジナル版が観たくなるではないか。オリジナル版のキャストは、マシュー・マコノヒーリース・ウィザースプーンセス・マクファーレンスカーレット・ヨハンソンジョン・C・ライリータロン・エガートンなどなど。彼らがどんな歌声を披露としているのか、気になるところである。

●今日の映画代、1500円。もう鑑賞券は売ってなかったのだが、新宿の金券ショップで招待券みたいなもの(株主向け?)を売っていたのでそれを利用。当日料金1800円に比べて300円節約!! でも、飲み代で吹っ飛んじまったぜ……。

「人生タクシー」

「人生タクシー」
新宿武蔵野館にて。2017年4月19日(水)午前10時10分より鑑賞(スクリーン1/C-8)。

東京・新宿にある新宿武蔵野館は老舗の映画館だ。1920年に設立され、様々な変転を経て、現在は新宿三丁目の武蔵野ビル3階にある3スクリーンのミニシアターとなっている。シネコン全盛の昨今だが、近くにある系列のシネマカリテともども、土日はもちろん、平日もけっこうな観客でにぎわっている元気な映画館だ。オレもこれまでに何度も足を運んできた。

さて、その新宿武蔵野館だが、ビルの耐震工事のためしばらくの間休館していた。再オープンしたのは昨年11月。さっそく足を運ばねばと思ったものの、なかなかその機会が訪れなかった。そして、ようやく本日参上した次第。

館内に一歩足を踏み入れると何だかシックで趣のある内装。以前に比べてオシャレな雰囲気がする。3つあるスクリーンのうち、今日鑑賞したのは一番大きいスクリーン1。段差が大きくなり、椅子も新しくなって、見やすくなったと感じる。

そんな記念すべきリニューアル後の初鑑賞作品となったのは、「人生タクシー」(TAXI)(2015年 イラン)という映画だ。この映画のジャファル・パナヒ監督は、2010年にイラン政府から20年間、映画製作を禁止されてしまった。外国に亡命して作品を発表する方法もあるわけだが(実際にそうしている監督もいる)、あえて国内にとどまりゲリラ的に映画を作り続けている。

ベルリン映画祭で最高賞の金熊賞を受賞したこの映画も、異色の作品である。パナヒ監督自らが運転手に扮したタクシーがテヘランの街を走る。そこに乗り込んでくる様々な人々の様子を、車のダッシュボードに備え付けられたカメラで撮影している。

最初に乗り込んだのは「泥棒は見せしめのために死刑にしてしまえ」と訴える男だ。それに対して乗り合わせた女(イラクのタクシーは乗り合いが普通らしい)が「イランは中国に次いで死刑執行が多い国だ」と言って反論し、激しい論争になる。

ところが、男がタクシーを降りる際に語った自分の職業を聞いて爆笑してしまった。これから観る人のために詳細は伏せるが、「お前が言うか!」という感じである。そんなふうにユーモアがたっぷり詰まった映画なのである。

その後もユニークな人たちが乗車する。海賊版DVD(イラン国内で公開禁止の外国映画など)を扱うレンタル業者は、運転手がパナヒ監督だと知って「これは映画の撮影なんだろう?」と尋ねる。はたしてこの映画はドキュメンタリーなのか、劇映画なのか。

金魚鉢を持った2人の婦人も乗り込む。「正午までに泉に行ってくれ」と言う。なぜ彼女たちはそんな行動をとるのか。その理由が笑える。厚い信仰心? ただの迷信? 何にしてもタクシーの中は大騒ぎだ。

交通事故に遭った夫とその妻も乗り込んでくる。夫は血だらけで「もう死ぬ」と弱音を吐く、そして妻への遺言をパナヒ監督のスマホで動画撮影してもらうのだ。どうやら、イランではそうしないと面倒なことになるらしい。

彼らを病院に運んだあとで、パナヒ監督には何度も電話がかかってくる。さっきの妻からの「あの動画を早くくれ」という催促の電話だ。これもまたユーモラスなエピソードである。

そんなテヘランの庶民の悲喜こもごもを、ユーモアたっぷりに描いたのがこの映画だ。とはいえ、それだけではない。冒頭の死刑をめぐる男女の論争は、現在のイランの死刑制度への問題提起につながる。

また、後半にはパナヒ監督の小学生の姪っ子が登場する。実はコイツときたら生意気な女の子で、「レディーにはこうやって接するものよ」みたいな大人びた口をきくのだ。それがまた笑いを誘うのだが、同時に彼女は学校の授業で「上映可能な映画」を撮影しようとしている。そこから、曖昧な基準のまま言論統制が行われるイラクの現状が見えてくる。

終盤では、パナヒ監督自身にも弾圧を受けた心のキズらしきものがチラリと見える。また、その後に乗り込んだ人権派の女性弁護士の口から語られるのは、理不尽な扱いを受けながらも抵抗するイラクの人々の姿だ。彼女自身も弁護士資格停止の危機にあるらしい。

しかし、それを語る彼女の表情は実ににこやかだ。パナヒ監督の表情も穏やかなものだ。大上段に政府批判をしようという気持ちなど、少しもうかがえない。そんな温かさがこの映画全体を包み込んでいる。

ちなみに、この映画、やっぱりドキュメンタリーではなく劇映画だろう。演出意図に沿った都合の良い出来事が続くし、登場人物の言動も演技としか思えない。しかし、そんなことはどうでもよい。厳しい制約の中で、しなやかに、したたかに、庶民の日常風景をユーモラスに描き、そこにさりげない社会批判を盛り込む。そんなパナヒ監督の反骨精神がアッパレな映画である。

●今日の映画代、1000円。新宿武蔵野館の毎週水曜は映画ファンサービスデー(男女共)。:

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「LION ライオン 25年目のただいま」

「LION ライオン 25年目のただいま」
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年4月15日(土)午前11時30分より鑑賞(スクリーン1/D-8)。

「もしかしてボクって、よその家からもらわれてきたの?」
感受性豊かな、というか思い込みの激しい幼少期には、誰でも一度や二度はそんなことを考えたことがあるのではないか。だが、目の前の親を見れば、しょーもないところが自分と似ていたりして、「あー、やっぱ、この親の実の子だわ」と安堵すると同時に落胆したりするわけだ。たいていは。

しかし、本当によその家からもらわれてきた子、つまり養子になった子供には、心理的に大変な苦労があるはずだ。だからこそ、養子制度では、そうした点についてもきちんとしたサポートが必要なのだろう。

映画「LION ライオン 25年目のただいま」(LION)(2016年 オーストラリア)の主人公は養子だ。子供の頃にインドで迷子になり、5歳でオーストラリア人夫婦の養子になった青年が、25年後にGoogle Earthを使って故郷を探し出したという実話をもとにした作品である。

ただし、自分のルーツ探し(=謎解き)の醍醐味は期待しないほうがよい。謎解きの面白さを追求するなら、最初は青年時代の主人公を登場させて、そこから過去をさかのぼらせるはず。しかし、この映画はまず主人公の子供時代からスタートする。

舞台は1986年のインド。スラム街で貧しいながらも母や兄などと一緒に暮らしていた5歳のサルー(サニー・パワール)。だが、兄とはぐれて停車中の回送電車で眠り込み、はるか遠くの都市コルカタまで来てしまう。

そこは同じインドでも言葉が通じず、サルーは浮浪児狩りにあったり、人身売買を企てるカップルに捕まったりと苦難の連続だ。その挙句に彼は孤児院に入れられる。その孤児院ときたらあまりにも劣悪な場所だった(インド人がこの映画を観たら、不快な思いをするかもしれない。そのぐらい容赦ない描き方をしている)。

これが長編デビューとなるオーストラリアのガース・デイヴィス監督が力を注いだのは、ストーリー展開の面白さよりも、そうしたサルーの受難を通して観客の感情移入を促すことだ。そのために徹底してサルーの心情に寄り添い、ローアングルの子供目線の映像などで、彼の不安、混乱、孤独をあぶりだしていく。幼少時代のサルーを演じるサニー・パワールの健気さも相まって、観客の涙腺を強く刺激する。

さて、孤児となったサルーだが、やがてオーストラリア人夫婦に養子として引き取られる。彼がそれに応じた背景には、新聞広告を何度も出しても、親が名乗り出なかったという事実がある。それもまた観客の涙を誘う。

中盤に描かれるのは、オーストラリアに渡ったサルーと、彼を迎えた養父母の姿。そこも彼らの心情をリアルに描くことに注力する。お互いに最初はぎこちない態度をとりつつも、少しずつ距離を縮めていく。その微妙な心の揺れ動きが繊細に描写される。また、サルーと同様に養子として迎えられた弟も登場する。彼がサルーとは対照的に問題を抱えた子供であることによって、単純な美談に留まらない厚みをドラマに加えている。

後半はそれから25年後のドラマ。優しい養母(ニコール・キッドマン)と養父に育てられ大人になったサルー(デヴ・パテル)が描かれる。頭もよく優しい性格の彼は、順調な人生を歩んでいる。まもなく恋人(ルーニー・マーラ)もできる。そのあたりでは、多民族国家オーストラリアの社会事情もさりげなく盛り込み、サルーが自然にそこに溶け込んでいることを印象付ける。

しかし、サルーは子供の頃に好きだった揚げ菓子を見たのをきっかけに、忘れていた記憶がよみがえり、インドの実母に会いたいという思いが募る。そして、知人が「Google Earthで探せば見つかるかも」とアドバイスしたことから、故郷探しを始める。

冒頭にも言ったが、ルーツ探しの経緯をていねいに描いて、謎解きの面白さを見せることはしない。ここでもサルーの心の動きが中心に描かれる。それは「故郷を探すことは養父母に対する裏切りではないか」という葛藤である。

彼らがいなかったら、今の自分はあり得ない。それでも、自分が何者なのかを知りたい思いは消し難い。その狭間で揺れに揺れて、ついに引きこもりになってしまう。記憶の中の実母の姿や幼少時の思い出なども使いつつ、そんなサルーの心情をダイレクトに伝え、観客の切ない思いを刺激する。

クライマックスは予想通りの展開ではあるものの、誰もが感動できそうだ。その後には「ライオン」というタイトルの意外な理由が明かされ、さらに実際の映像を使いつつ、サルーと実母だけでなく養母との絆を再確認させる心憎い仕掛けが用意される。おかげで観客は温かな思いに誘われる。

社会問題への配慮も怠らない。劇中では、養母がなぜサルーを養子に迎えたのか、彼女の強い思いが語られる(ニコール・キッドマンがさすがの演技)。養子制度の原点ともいうべきテーマへとつながるシーンだ。

ラストではインドにおける迷子の多さを訴え、それをサポートするユニセフへのリンクまで張る。まさに万全の配慮である。

前半に比べて、後半はやや失速した感はあるものの、徹底して主人公と周囲の人々の心理描写にこだわり、観客をきっちりと感動させるのだから、大したものだと思う。感動したい人にはオススメの映画である。

ちなみに、この映画は今年のアカデミー作品賞、助演男優賞(デヴ・パテル)、助演女優賞ニコール・キッドマン)、脚色賞、撮影賞、作曲賞の6部門にノミネートされた(1個も受賞できなかったのはちと悲しいですが)。

●今日の映画代、1400円。事前にムビチケ購入。

「ジャッキー ファーストレディ 最後の使命」

「ジャッキー ファーストレディ 最後の使命」
TOHOシネマズシャンテにて。2017年4月14日(金)午前11時40分より鑑賞(スクリーン2/E-11)。

どう考えてもマトモとは思えないアメリカ大統領が登場したことによって、過去の偉大な大統領の話が語られる頻度が増えた気がする。そんな時によく名前が上がるのが、第35代大統領のジョン・F・ケネディだ。

だが、彼については「実はそんなに大したことはやっていないんじゃないの?」「実績を上げる前に暗殺されてしまったのでは?」という声もよく聞く。あまりにも過大評価されているというわけだ。

だとすれば、どうしてそうなったのか。映画「ジャッキー ファーストレディ 最後の使命」(JACKIE)(2016年 アメリカ・チリ・フランス)は、その一つの回答といえるかもしれない。

この映画は、ジョン・F・ケネディ元アメリカ大統領の妻ジャッキーことジャクリーン・ケネディの伝記映画だ。伝記映画といっても、焦点が当てられるのは大統領暗殺から葬儀までの4日間。その間に起きた出来事を描く。

1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ大統領が、テキサス州ダラスでのパレード中に何者かに射撃され命を落とす。目の前で夫を殺害された妻ジャクリーン(ナタリー・ポートマン)は悲しむ間もなく、葬儀の準備や代わりに大統領に就任するジョンソン副大統領への引き継ぎ、ホワイトハウスからの退去など様々な対応に追われる。そんな中、夫が「過去の人」として扱われることが我慢できない彼女は、夫を後々まで語り継がれる存在にしようと決意するのだが……。

映画全体の構図は、ジャッキーがジャーナリストのインタビューを受けるというもの。ただし、このインタビューはジャッキーが主導して実現したものだ。それまでの夫の記事に満足できない彼女は、自分が意図した記事を書かせようとしてジャーナリストを招いた。客観的な事実ではなく、そのジャーナリストが言うところの「あなたから見た事実」である。その中で語られる4日間の出来事が再現される。

では、そこでどんなことが語られたのか。夫の暗殺直後、その亡骸とともにワシントンに帰る飛行機の中で、代わりに大統領に就任するジョンソン副大統領の宣誓式が行われる。それを見たジャッキーは、「なんでこんなとこで宣誓式なんかするのよ!」と怒りに震える(もちろん口には出さないのだが)。そして、「このままじゃ夫が忘れられちゃうじゃないのよ!」と危機感を覚える。

夫を絶対に忘れられない存在にしなければならない。そう決意したジャッキーは、しばらくの間夫の暗殺時に着用していた血染めのスーツを着続ける。また、周囲に逆らって、夫をケネディ家の墓ではなくアーリントン墓地に埋葬しようとする。さらに、葬儀はリンカーン大統領の葬儀をお手本にして、棺とともに行進する盛大なものにしようとする。

とはいえ、ジャッキーの心は千々に乱れる。何しろ彼女がやるべきことは葬儀や埋葬の準備だけではない。ジョンソン副大統領への引き継ぎ、ホワイトハウスから退去する準備、そして最も難しい幼い子供たちへの説明など、様々なことをしなければいけない。そうした中で、夫を失った悲しみにさいなまれ、スタッフや義弟のロバート・F・ケネディと対立するなど、混乱のるつぼに叩き込まれていく。

肝心の葬儀にしても、暗殺犯とされたオズワルドが射殺されたというニュースを聞き、当初予定していた盛大な行進をいったんは中止しようとする。まあ、とにかく彼女の気持ちはあっちに行ったり、こっちに行ったりと乱れまくるのだ。

それをいくつものエピソードを積み重ねつつ描く展開だ。しかも、その間にはかつてジャッキーが案内役になって、ホワイトハウスの内部を紹介したテレビ番組の映像が流される。また、このインタビュー後に彼女が司祭と交わす会話も挿入される。そこでは、彼女の死への願望まで語られる。

こうしていろんな要素を詰め込んだことによって、地味なドラマが観応えあるものになったのは事実。その一方で、全体にまとまりがなく散漫になった印象がどうしてもぬぐえない。そのため、観客がジャッキーに感情移入するのは相当にハードルが高いかもしれない。

ただし、そこで光るのがジャッキーを演じたナタリー・ポートマンの演技である。まるで一人芝居のようなシーンもあるのだが、それも含めて様々に変化し、上下左右に揺れ動きまくるジャッキーの心理を見事に表現している。今回製作を手がけたダーレン・アロノフスキーが監督した「ブラック・スワン」に劣らない圧巻の演技だ。本作でアカデミー主演女優賞候補になったのも当然だろう。

アカデミー外国語映画賞候補作「NO」のチリ人監督パブロ・ララインも、そんなナタリーの演技を生かすべく、彼女のアップを多用する。これはまさしくナタリー・ポートマンのための映画である。そこに注目せずしてこの映画を観る価値はないだろう。

この映画の描くところによれば、ジャッキーはケネディの名声を高めた立役者であり、名プロデューサーといえそうだ。彼女がいなければ、ケネディが現在まで語り継がれることはなかったかもしれない。そういう意味でも興味深い映画である。

●今日の映画代、1100円。毎月14日はTOHOシネマズデイ。誰でも安く観られます。