映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「ディストピア パンドラの少女」

ディストピア パンドラの少女」
新宿バルト9にて。2017年7月1日(土)にて午後12時20分より鑑賞(シアター2/E-7)。

ゾンビ映画なんて、どれも似たようなものだと思っている人も多いのでは? 確かに、お決まりのパターンの連続で新味も何もない映画も存在する。だが、従来とは違う仕掛けを施した新機軸のゾンビ映画も、いまだに登場し続けているのである。

ディストピア パンドラの少女」(THE GIRL WITH ALL THE GIFTS)(2016年 イギリス・アメリカ)は、まさにそんな新機軸を打ち出したゾンビ映画だ。M・R・ケアリーのベストセラー小説を著者自身による脚本で実写映画化。監督は「SHERLOCK/シャーロック」などテレビドラマを中心に活動してきたコーム・マッカーシーである。

舞台は近未来。怪しく、謎めいた雰囲気に包まれてドラマがスタートする。登場する一人の少女メラニー(セニア・ナニュア)。何やら刑務所のような部屋にいる。そこに「移動!」の掛け声とともに、兵士が銃を構えて部屋に入る。そして、メラニーは車椅子に拘束されて移動させられる。

他の子供たちとともに一つの部屋に集められたメラニーは、そこで授業を受ける。教えるのはヘレン先生(ジェマ・アータートン)。メラニーは聡明で純真な心を持ち、ヘレン先生から目をかけられている。ヘレン先生は、メラニーの求めに応じて子供たちにギリシア神話を話して聞かせる。

もちろん、その間も子供たちは拘束されたままだ。いったいなぜなのか? まもなくその理由がわかる。その子供たちは、人間の匂いをかぐと狂暴になり、人間を食おうとするのだ。

物語が進むうちに、その近未来で何が起きているのかが明らかになる。地球では真菌の突然変異により、感染した人間は思考能力をなくし、生きた肉のみを食す「ハングリーズ」になってしまう。彼らは当然人間も食らう。まさにゾンビそのものだ。そういう人間がうじゃうじゃ増えた社会なのである。

そんな中、感染を免れた人々はフェンスに囲まれた基地内で、兵士たちに守られて暮らしている。そして、ロンドン郊外の基地には、不思議な子供たちが集められ監視下に置かれていた。それは「二番目の子供たち(セカンド・チルドレン)」と呼ばれる子供たちだ。彼らは感染しているにもかかわらず、思考能力を維持し、ふだんは普通の状態を保っていた。メラニーは、そのセカンド・チルドレンの一人だったのだ。

前半はチラチラと情報が小出しにばらまかれ、謎が謎を呼んで、緊迫感が高まっていく。近未来が舞台ということでSFチックな雰囲気もある。観ていて思ったのは、カズオ・イシグロの小説を映画化した2010年のイギリス映画「わたしを離さないで」と共通するテイストが感じられることだ(あちらは臓器提供に絡んで集められた子供たちだったが)。

そして、ドラマは途中で大きな転機を迎える。実は、セカンド・チルドレンは科学者のキャロライン博士(グレン・クローズ)の実験対象で、博士は彼らの脳からワクチンを製造しようとしていたのだ。そして、いよいよ博士の狙いはメラニーの脳に……。

ラニーが解剖される寸前に、感染した大量の人間たちが、基地を襲撃する事件が起きる。その混乱の中、メラニーたちの逃走劇が始まる。そこにはヘレン先生だけでなく、キャロライン博士とメラニーに厳しく当たる軍曹なども行きがかり上加わる。

ここからは、定番のゾンビものの展開が前面に出る。ロンドンの街を何度もゾンビに襲われそうになりながら、あわやのところで逃げるメラニーたち。

そこでユニークなのは、ゾンビには思考能力がないため、足音を立てずに、目を合わせなければ気付かれないという設定だ。佃煮のように大量に存在するゾンビの間隙を縫って移動する場面は、実にスリリングである。

とはいえ、メラニーは普通の人間とは違う。彼女が単独行で偵察&食糧調達に出る場面では、彼女は人間こそ食べないものの、猫やハトなどを食らう。そこで観客は「ああ、やっぱり彼女もゾンビなんだ」と再確認し、いつまた凶暴化するかわからない恐怖にハラハラするのである。

依然としてメラニーの脳を狙う博士、メラニーを守ろうとするヘレン先生などが絡み合って、終盤には大きな波乱が起きる。あくまでも人間でいたいメラニー。その思いと現実のギャップが切ない哀愁を漂わせる。そんな様相を意表を突いた形で表現したエンディングも印象的だ。その後の彼女たちの、そして地球の運命に思いをはせずにはいられない。

この映画、映像もなかなか見事である。基地内の無機質なようす、逃避行の途中で描かれる基地周辺の美しい自然、そしてロンドン市内の荒廃した街の風景、さらに感染者たちが変化した樹木の強烈な不気味さなど、印象的な映像が次々に飛び出す。

撮影時は12歳だったというメラニー役のセニア・ナニュアの演技もなかなかのもの。だが、この映画で一番目立つのは、大ベテラン女優のグレン・クローズの怪演だろう。何やらマッド・サイエンティスト的な側面も持つキャロライン博士を存在感たっぷりに演じている。

独特の世界観に彩られたゾンビ映画の新機軸である。ただ怖いだけのゾンビ映画とは明らかに違う雰囲気を持つ。底知れぬ不穏さやダークな詩情さえ漂っている。ゾンビ映画が苦手な人も一見の価値がある作品だと思う。

●今日の映画代、1100円。毎月1日のサービスデーで。

 

「ラスト・プリンセス 大韓帝国最後の皇女」

「ラスト・プリンセス 大韓帝国最後の皇女」
シネマート新宿にて。2017年6月30日(金)午後12時より鑑賞(スクリーン1/E-12)。

韓国映画を観るオレの目が変わったのは、ホ・ジノ監督の1998年の「八月のクリスマス」からだった。のちに日本でもリメイクされたこの映画は、難病で余命わずかの青年と若い女性交通警官の恋愛映画だが、それまでの韓国映画の熱くて情感過多なイメージとは全く異なり、静謐で抑制的な詩情にあふれた映画だった。

ホ・ジノ監督は、その後も「四月の雪」をはじめ、恋愛映画の名手として活躍してきたわけだが、今回の新作「ラスト・プリンセス 大韓帝国最後の皇女」(THE LAST PRINCESS)(2016年 韓国)には驚かされた。史実をもとにした大河ドラマでありながら、エンタメ的要素をきっちり盛り込んだ上質な娯楽作品に仕上がっているのだ。

ドラマは、1960年代の韓国から始まる。ある新聞記者が、大韓帝国最後の皇太子が日本で見つかったという知らせを受ける。そこを起点に過去のドラマが始まる。

日本統治時代の1925年の韓国。その頃、日本は韓国を併合しようとしていた。しかし、大韓帝国初代皇帝・高宗は、これに反対する。その直後に、彼は亡くなってしまう。この映画では毒殺が強く示唆される。まもなく、日本の意を受けた側近によって、高宗の娘である徳恵翁主(トッケオンジュ)は、本人の意思を無視して13歳で日本に留学させられてしまう。いわば日本が人質に取ったわけだ。

当初は学校を卒業したら帰国させるという約束だったのに、大人になっても徳恵(ソン・イェジン)は帰国させてもらえない。そんなある日、彼女は幼なじみのジャンハン(パク・ヘイル)と運命の再会を果たす。しかし、彼は大日本帝国陸軍少尉になっていたため、徳恵は大いに落胆する。ところが、まもなく意外な事実が判明する。実はジャンハイは、秘かに朝鮮独立運動に参加しており、王朝復興のために徳恵と兄の皇太子を上海へと亡命させる計画を練っていたのだ。

このドラマは史実をベースにしつつ、大胆にフィクションも盛り込んだエンターティメント映画だ。大きな柱は、時代に翻弄され、権力者によって人生を狂わされた徳恵の悲劇のドラマである。

そこにはロマンスもある。幼い頃に心を通わせた徳恵とジャンハイが再会し、朝鮮独立のために行動するうちに強く結びついていく。

また、サスペンスや活劇の要素もある。ジャンハイたちは、紀元節の式典で爆弾を爆発させ、そのすきに徳恵と兄の皇太子を亡命させようと画策する。それに向かってどんどん緊迫感が高まっていく。その後には逃走劇や銃撃戦も用意されている。どれもスリリングで見応えタップリだ。

追手を逃れて徳恵とジャンハイは、隠れ家に隠れる。そこで負傷したジャンハイを徳恵が看病して、2人で抱き合いながら眠るシーンが美しい。抑制的ながら2人の愛をクッキリとスクリーンに焼き付ける。さすが恋愛映画の名手ホ・ジノ監督だけある。しかし、その後には悲しく、切ない別れが待っている。

そこでドラマは、1960年代へと戻る。冒頭に登場した新聞記者は、日本で徳恵の兄の皇太子と会い、さらに消息不明の徳恵の行方を探そうとする。彼女はある日本人男性と結婚したものの、やがて終戦を迎え、韓国へ帰国しようとしたのだ。だが……。

終盤のドラマにはひたすら感情を揺さぶられた。徳恵が受けた余りにも理不尽で悲しい仕打ち。それによって心を病んだ彼女の現在の姿。まさに涙なしには観られない展開が続く。

それでも、やがて悲しみの涙は感動の涙へと変わる。新聞記者の熱意によって、止まったままだった徳恵の時計が再び動き出す。なにゆえ、彼はそこまで必死になるのか。そう。彼こそがあの人物だったのだ。

ラストのかつての王宮でのシーン。徳恵と新聞記者の後姿が大きな余韻を残して、波乱のドラマが幕を閉じる。

このドラマの舞台はほとんどが日本だ。そのため日本語も多く飛び出す。そこに不自然さはほとんどない。さらに、日本人キャストとして戸田菜穂も出演している(皇太子の妻役)。

そして、何といっても日本統治時代の話であり、日本の非道さが描かれる。ただし、ホ・ジノ監督は声高にそれを糾弾したりはしない。例えば、徳恵の敵役には日本人でなく、日本の意を受けた韓国人の官僚を配置するなど、一面的な描き方を排している。とはいえ、強制連行された労働者たちの姿などを見るにつけ、かつての日本がやったことが胸を締め付ける。

それにしても観応え十分の作品である。忘れられた歴史のドラマであり、悲劇の皇女を描いた切ない人間ドラマであり、ロマンスやサスペンス、活劇の要素まで詰め込まれている。韓国の歴史を知らない日本人が観ても、十分に楽しめるはずだ。

そして、最後にどうしても触れておかねばならないのが、徳恵を演じたソン・イェジンの演技である。「私の頭の中の消しゴム」のころと比べて、格段に進化した演技。特に後半の深い絶望に追い込まれた演技は圧巻だ。いまや完全に演技派女優になったといってもいいだろう。

●今日の映画代、1000円。TCGメンバーズカードの金曜のサービスデーで。

「いぬむこいり」三度

6月27日(火)午後6時から新宿ピカデリーで、映画「いぬむこいり」の一夜限りの上映が行われた。「いぬむこいり」といえば、5月に新宿K’s cinemaで1日1回のみ、約2週間に渡って上映された。その間、劇場は満席かほぼそれに近い入りだったようだ。

それを受けて新宿ピカデリーの大スクリーンでの上映となったわけだが、これはかなり異例のことだと思う。メジャーな映画会社が関係しないインディーズ映画であるうえに、この映画、何と全4章、4時間5分という桁外れの長尺映画なのだ。それを一夜限りとはいえ、超メジャーなシネコンで上映しようというのだから、配給側も、受け入れたピカデリー側も勇気がある。

実のところ前日までの予約状況を見たら、全500席のうち3分の1も埋まっていなくて心配したのだが、当日になったらかなりの賑わいで一安心。む? てことはオレも行ったのか??

そうなのである。この映画、オレの好きなロック・ミュージシャンのPANTAが主要な役で出演。今年結成20周年を迎えたバンド「勝手にしやがれ」の武藤昭平も準主役級で出演。というわけで、映画公開前のプレイベントとして、この2人を中心にしたライブ「勝手にPANTA」が5月上旬に新宿ロフトで開催され、興味を引かれて観に行ったのだ。

その時点では映画を観に行くかどうか迷っていたのだが(なにせ4時間超だし)、ライブが大いに盛り上がったため、その勢いで帰りに鑑賞券&パンフ(サイン入り)を購入してしまったのである。おまけに主演の有森也実も、昔、山田洋次監督の「キネマの天地」で観て以来、好きな女優だったりして……。

となれば、足を運ばないわけにはいかない。どうせならと公開初日に新宿K’s cinemaにて鑑賞。そして度肝を抜かれた。何じゃ? こりゃ。たいていの長尺映画は、ふだんならカットする細かな描写まですくい取ったがゆえに長尺になった……というものなのだが、この映画はまったく異質だった。4時間5分の中に、様々なものがぶちこまれ、まさにカオスのような世界なのだった。

その後、あまりの衝撃に再度K’s cinemaにて鑑賞。そして、今度は貴重な大スクリーンでの上映ということで、ついつい三度目の鑑賞と相成ったのである。いや、そのぐらいクセになる映画なのですよ。少なくともオレにとっては。

映画そのものの詳しいレビューは、以前書いたのでそちらに譲るが、今回大スクリーンで観て最も強く感じたのは、映像の見事さである。特に第3章の舞台となった孤島、第4章の舞台となった戦争が続く島の映像の美しさと迫力は、大スクリーンならではのものだった。この映画のたむらまさき撮影監督は、かつては小川プロで三里塚闘争のドキュメンタリー映像を撮影し、近年は「サッド ヴァケイション」「東南角部屋二階の女」「私は猫ストーカー」「ゲゲゲの女房」などの日本映画の良作を担当している。さすがである。

そして、そんな映像を通して、役者たちの演技も一段と輝き、存在感を増してくるのだった。

上映終了後には、片嶋一貴監督、主演の有森也実をはじめ、武藤昭平、江口のりこ尚玄、笠井薫明、山根和馬韓英恵PANTA柄本明などが登場した豪華な舞台挨拶も行われた。お金や環境に恵まれなくても、監督以下スタッフの思い入れのこもった作品だということがよくわかる上映だった。インディーズ映画のこの熱さがオレは好きだ。

というわけで、直前まで迷っていたのだが、結果的に行って大正解の上映だった。

ちなみに、この映画、今後も散発的に全国各地で公開される模様。その後に、いずれまた東京で上映されたりしたら嬉しいものである。

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「ありがとう、トニ・エルドマン」

「ありがとう、トニ・エルドマン」
シネスイッチ銀座にて。2017年6月25日(日)午後12時15分より鑑賞(スクリーン1/D-8)。

ジャック・ニコルソンといえば、アカデミー主演男優賞を受賞した「カッコーの巣の上で」をはじめ、数多くの映画に出演した名優だ。しかし、その彼も79歳。「どうやら引退したらしい」というニュースが耳に入ってきた。

それを聞いて「まあ、年も年だし仕方ないか」と思ったのだが、しばらくしたら、また別のニュースが聞こえてきた。あるヨーロッパ映画を気に入って、そのリメイク権を獲得し、引退を撤回して自ら演じるというのだ。いったいどんな映画なんだ?

その映画とは、「ありがとう、トニ・エルドマン」(TONI ERDMANN)(2016年 ドイツ・オーストリア)である。ドイツ人の父ヴィンフリート(ペーター・ジモニシェック)と娘イネス(ザンドラ・ヒュラー)によるドラマだ。

ただし、このヴィンフリート、かなりの変わり者だ。映画の冒頭を見れば、それがよくわかる。家に来た宅配便のスタッフに対して、ヴィンフリートは自分と架空の弟の一人二役を演じ、「この荷物は爆弾だ」などと物騒なことを言うのだ。

そうである。ヴィンフリートは悪ふざけが大好きなのだ。本人は面白い冗談のつもりなのだが、周囲はそうは受け取らない。まるで悪ガキそのものだ。

その一方で、ヴィンフリートは近所に住む年老いた母を気遣い、目の見えなくなった老犬をこまめに世話する。困った人ではあるものの、けっして悪人ではない。このあたりの絶妙なキャラクター設定が、このドラマを魅力的にしている。

それに対して娘のイネスは、コンサルタント会社に勤め、仕事一筋の人生を送るバリバリのキャリアウーマンだ。いつも額にしわを寄せて、ほとんど笑顔を見せない。そして頻繁に携帯電話で仕事の話をする。

まもなくヴィンフリートは愛犬を亡くす。その直後に、彼はルーマニアブカレストに赴任しているイネスのもとを訪れる。

しかし、これは予告なしの突然の訪問だった。しかも、イネスは難しい案件を抱えて、連日その対応に追われている。夜は取引先の取締役を接待し、休みの日もその妻の買い物に付き合う。今どき、日本の猛烈サラリーマン(は死語か?)でも、こんなことはしないだろう。

イネスは行きがかり上、接待の場にも父を連れていくはめになる。だが、変わり者のヴィンフリートだけに、おかしな行動で相手を困らせる。それがまたイネスの機嫌を悪くさせる。というわけで、父と娘はぎくしゃくした関係のまま数日を過ごすのである。

それでもようやくヴィンフリートはドイツへ帰国する。ほっとするイネス……。しかし、それからまもなく、イネスの周辺に奇妙な人物が現れる。変なカツラをかぶって、「自分はコーチングの仕事をしているトニ・エルドマンだ」などと名乗る。

そうである。実はヴィンフリートは帰国していなかったのだ。こうして、変装して娘の周りをうろうろし始めたヴィンフリート。その奇妙な格好と言動には、無条件に笑わされる。言うまでもないが、この映画はコメディー映画である。

とはいえ、荒唐無稽な映画ではない。例えば、ヴィンフリートとイネスの関係はけっして良くないが、絶縁するほどの不仲でもない。よくある微妙な関係というやつだ。だからこそ、観客は彼らの存在を身近なものとして感じられるはずだ。

そして、この映画の最もユニークなところが映像である。この手のコメディーには異例なことだが、なんと全編手持ちカメラで、長回しを多用したドキュメンタリータッチの映像で描くのだ。もちろん音楽もない。一瞬、「午後8時の訪問者」ダルデンヌ兄弟の映画かと錯覚してしまいそうだ。

しかも、コメディーとしては異例の2時間42分という長さ。その分、父と娘の細かな行動を余すところなく積み重ねることで、圧倒的なリアリティーを持たせているのである。

映画が進むうちに、ヴィンフリートがトニ・エルドマンとして振る舞うのは、ひとえにイネスに笑顔になってもらいたいからだとがわかってくる。つまり、彼なりの愛情表現なのだ。

イネスも父の思いを少しずつ感じ取り始める。その転機になるのが、父のピアノで(実はヴィンフリートは音楽教師!)、イネスが無理やりホイットニー・ヒューストンの曲を歌わされる場面だ。半ばやけ気味に歌うイネスの姿からは、「自分も変わりたい」という思いがそこはかとなく伝わってくる。

そして、その後に登場するのは驚きの展開だ。うーむ。ここはネタバレになるかもしれないので、読みたくない人は以下の数行は飛ばしてください。

イネスが自宅に上司や同僚を招いたパーティーで、ドレスを着るのに手こずり「今日は裸のパーティー」と全裸で登場してしまうのである!!! ここは、コメディーとして爆笑のシーンであるのと同時に、イネスの変身願望を象徴するシーンでもある。おまけに、そのパーティーにあの人も登場。しかも、とんでもない格好で!!!
 
こうして変わり者の父によって、イネスは変化を遂げる。ただし、それをよくある感動ストーリー風にまとめないのが、この映画らしいところ。「ありがとう、トニ・エルドマン」などとわかりやすいセリフを吐かせることもなく、公園でのハグ、ラストのイネスの表情などで彼女の変化を、さりげなくスクリーンに刻むのだ。

笑えるコメディーでありながら、父と娘の関係に胸を熱くさせられる。さらに、人生や働くことの意味まで考えさせられる。こんな映画を作ってしまった脚本・監督のマーレン・アデの手腕に感服するばかりだ。

これなら、ジャック・ニコルソンが引退を撤回するのもわかる。はたして、どんなハリウッド・リメイク版ができるのか。期待と不安が相半ばするのである。

●今日の映画代、1500円。事前に鑑賞券を購入。

「ハクソー・リッジ」

ハクソー・リッジ
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年6月24日(土)午後12時15分より鑑賞(スクリーン3/F-15)。

戦争は怖い。戦場はきっと地獄絵図だ。実際に観たことはないけれど……。

かつての戦争映画は、そんな戦場をありのままに描くことはなかった。あまりにも残虐すぎるからだろう。しかし、1980年代以降、「プラトーン」「ハンバーガー・ヒル」「プライベート・ライアン」など、戦場の実態をできるだけ忠実に再現しようとする映画が出現した。それは、ただ人を怖がらせることを意図したものではないはずだ。そこから人間や戦争の本質をあぶりだそうとしたに違いない。

映画「ハクソー・リッジ」(HACKSAW RIDGE)(2016年 アメリカ・オーストラリア)の戦場シーンもかなりエグい。そして、やはり、そこからはいろいろなものが見えてくる。

監督はメル・ギブソン。といえば「マッドマックス」などで知られる俳優だが、1995年の「ブレイブハート」、2004年の「パッション」、2006年の「アポカリプト」など監督としての実績も十分にある。そんな彼の10年ぶりの監督作だ。

実話をもとにした映画である。どんな実話かといえば、第2次世界大戦で武器を持たずに戦場に行って兵士の命を救った米軍衛生兵のドラマだ。にわかには信じがたい話だが、前半はなぜ主人公がそんな行動をとるに至ったかが描かれる。

ヴァージニア州で生まれ育った主人公のデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)。最初に登場するのは少年時代の彼だ。一見野山を駆け回る普通の子供のようだが、実は父のトム(ヒューゴ・ウィーヴィング)は、第1次世界大戦で心に傷を負い、酒におぼれている。そんな中、デズモンドはケンカの果てに兄の命を奪いそうになってしまう。そのことで、彼はキリスト教の「汝、殺すことなかれ」という教えを大切にするようになる。

続いて描かれるのは彼の青年時代だ。デズモンドは、事故で重傷を負った少年の命を適切な処置で救う。これが、その後の人生につながる。さらに、彼は少年が運ばれた先の病院で、看護師のドロシー(テリーサ・パーマー)と出会い恋に落ちる。

そこまでの描き方に冗長さはない。あれこれセリフで説明したりせず、デズモンドの人となりを簡潔に示して、彼のその後の言動に説得力を持たせている。

やがてデズモンドは軍隊に志願する。それは他の兵士同様に、愛国心に駆られての行動だ。第2次世界大戦が激化し、犠牲者が増えていることに心を痛め、「自分も役に立ちたい」と思って衛生兵に志願したのだった。

こうして入隊して訓練を受けることになったデズモンド。しかし、そこで問題が起きる。それまでは他の兵士と同様に厳しい訓練を受けていたデズモンドだが、狙撃の訓練が始まったとたん、銃に触れることを断固として拒否するのだ。

もちろんその背景には、彼の厚い信仰心がある。「汝、殺すことなかれ」という聖書の教えが行動の源泉だ。土曜日を安息日とすることも彼にとって重要なことだった。

しかし、上官はそんな彼に除隊を勧める。それも拒否したデズモンドは上官や仲間の兵士たちから、嫌がらせを受けることになる。おまけにドロシーとの結婚式にも出られずに、命令を拒否したかどで軍法会議にかけられてしまう。それでもデズモンドは「信念を曲げては生きていけない」と言い切る。

最初は、宗教的信念を基盤にデズモンドの姿を描いていたギブソン監督。「パッション」でキリストの受難を描いた監督らしい視点だ。しかし、ドラマが進むにつれて単に宗教的信念という枠を超えて、人間としての生き方というテーマが自然に浮上してくるのである。

そして、この映画にはいくつかのドラマ的な見せ場もある。軍法会議でピンチを迎えたデズモンドを救うのは意外な人物だ。これも実話なのかもしれないが、ドラマを盛り上げるのに効果的な設定である。

後半は、ハクソー・リッジ(沖縄の前田高地)での壮絶な戦いを描く。これが、かなりエグい描写なのだ。あっさりと頭を撃ち抜かれ、火炎放射器で火あぶりになり、内臓をまき散らし、手足をもがれ、苦痛にのたうち回る兵士たち。「パッション」や「アポカリプト」で暴力や苦痛を「これでもか!」という容赦のなさで描いてきたギブソン監督は、今回もまったく手をゆるめない。

その中から、戦争や軍隊の本質が見えてくる。戦場に来る前は、デズモンドを臆病者扱いしていた兵士たちが、恐怖で顔をゆがめ、弱音を吐く。それに対して、デズモンドは本当に武器を持たずに丸腰で、兵士の命を救っていく。戦争の残虐さ、無慈悲さ、軍隊という組織の不可思議さ、人間の本当の強さなど、多くのことを考えさせる場面だ。

また、仲間の兵士との会話を通して、デズモンドが武器を持たないことを誓う原因となった、もう一つの衝撃的な事件も明らかにされる。そうなのだ。やはり、彼を突き動かしているのはただの宗教的信念だけではなかったのである。

クライマックスには大きな見せ場が用意されている。戦闘がいったん中断した後の戦場に一人残ったデズモンドが、多数の負傷者の救出にあたる。しかし、そこにはまだ敵の目が光っている。しかも、彼らが戦っていたのは切り立った崖の上。どうやって、デズモンドは負傷兵たちを救うのか?

知力と体力を絞って一人で奮闘するデズモンドは、まさにヒーローだ。多少できすぎの感はぬぐえないが、大いにドラマは盛り上がる。手に汗握る展開で全く目が離せない。2時間19分があっという間だった。

デズモンドの行動で印象的なのは、仲間の兵士だけでなく、敵である日本軍の兵士まで救おうとすることだ。彼の信念の強さをうかがわせる。アンドリュー・ガーフィールドが主人公を演じると聞き、線が細いのではないかと思ったのだが、逆にそれがデズモンドの純粋さ、信念の強さに結びつき、納得できるキャストに思えた。

当たり前の感想ではあるが、「やっぱ戦争って嫌だよねぇ~」という思いとともに、人間の生き方についても考えさせられる一作なのであった。ギブソン監督の熱い思いに裏打ちされた演出も見事で、観応え十分!!

●今日の映画代、1000円。ユナイテッド・シネマとしまえんの13周年記念会員特別料金。

「怪物はささやく」

怪物はささやく
TOHOシネマズみゆき座にて。2017年6月22日(木)午後7時30分より鑑賞(H-6)。

子供向けの本をバカにしてはいけない。大人が読んでも引き込まれてしまう内容の本も多い。まして、それを映画化した作品ならなおさらだろう。

怪物はささやく」(A MONSTER CALLS)(2016年 アメリカ・スペイン)は、イギリスでベストセラーになった児童文学の映画化だ。監督は「永遠のこどもたち」「インポッシブル」のJ・A・バヨナ。

孤独な13歳の少年と怪物によるダーク・ファンタジーだ。主人公の少年コナー(ルイス・マクドゥーガル)は、母(フェシリティ・ジョーンズ)と2人で裏窓から教会の墓地が見える家で暮らしている。その母は難病で余命わずかだ。そのためコナーは祖母(シガニー・ウィーバー)の家で暮らすことを勧められるのだが、祖母とは気が合わない。コナーは学校でもいじめにあって孤独だ。そして、彼は毎晩悪夢にうなされている。

そんなある夜、コナーのもとに近くの丘にある大木の怪物がやって来て、こう告げる。「今から、私はお前に3つの物語を話す。4つめの物語は、お前が真実を話せ」と。その日を境に夜ごと怪物は現れ、物語を語りだす。

怪物の声を担当するのは、あのリーアム・ニーソンだ。彼はモーションキャプチャー(現実の人物や物体の動きをデジタル化してキャラクターの動きとして再現する)にも挑戦している。見た目がけっこうエグイ怪物なのだが、荒々しさと同時にぬくもりや優しさを感じさせるのは、キャストのおかげだろう。

その怪物が語る1つめの物語は、かつてこの地にあった王国の話だ。そこでは王の座をめぐって王子と魔女が戦いを繰り広げる。しかし、純朴な王子VS邪悪な魔女という構図で話を聞いていたコナーにとって、その結末は納得しがたいものだった。それは彼に、人生の複雑さや善悪が簡単に割り切れないことを示す物語だったのである。

一方、コナーの母親の病は進み、入院を余儀なくされる。コナーは仕方なく祖母の家に住むが、相変わらず祖母とはギクシャクしたままだ。

また、母と離婚した父親は外国で新しい家庭を築いている。その父親も訪ねてきて、「遊びに来い」と言うのだが、「一緒に暮らそう」とは絶対に言わない。学校でのいじめも続いたままだ。

こうしてますます過酷な現実に直面するコナーに対して、怪物は2つめの物語を語る。それは牧師と調合師(今でいう薬剤師)の話。これもまた単純な善悪を否定するとともに、人間の二面性を示すエピソードである。

コナーは母の快復を必死で信じ、何とか助かって欲しいと願う。それでも、思うようにならない現実に心が揺れ動く。2つめの物語の後には、無意識のうちにとんでもないことをしでかしてしまい、祖母との溝をさらに広げてしまう。

怪物が語った3つめの物語は、周囲から透明人間だと冷笑された男の話だ。正直なところ、他の2つの話に比べて浅薄な話で、あっという間に終わってしまう。それでもコナーに新たな行動を起こさせる引き金にはなっている。

そして、いよいよコナーが4つめの真実の物語を語る場面が訪れる。そこからは圧巻の展開である。怪物が迫り、大地が割れ、大切な人が危機に陥る中で、コナーはついに真実を語る。

それをきっかけに、母や祖母ともう一度しっかりと向き合うコナー。涙なしには観られない感動のシーンが続く。

さらに、ラストに用意されたサプライズ。詳しくは伏せるが、母とコナーとの絆を再確認させる叙情に満ちた仕掛けが用意されている。母子の愛情に涙するとともに、コナーが苦難を乗り越えて、たくましく成長していくであろうことを予感させる素晴らしいエンディングである。

全体のタッチは、いかにもダーク・ファンタジーらしい暗くて、ちょっと怖い感じ。その中で、現実と空想の世界を行き来しながら、コナーの葛藤と成長を描き出している。怪物が語る物語を描いたアニメーションも、独特の味わいがあって魅力的だ。そして、観終わって温かな余韻が残るのである。

主人公のコナー少年を演じたルイス・マクドゥーガルに加え、母親役のフェリシティ・ジョーンズ、祖母役のシガニー・ウィーバーの存在感も光る。

「児童書が原作だなんて」などと敬遠するなかれ。かつて少年少女だった大人たちの胸も熱くしそうな作品である。


●今日の映画代、1400円。事前にムビチケを購入。

「22年目の告白-私が殺人犯です-」

「22年目の告白-私が殺人犯です-」
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年6月19日(月)午前11時15分より鑑賞(スクリーン1/自由席)。

2011年の東日本大震災の際の記憶は鮮明にあるのだが、1995年の阪神淡路大震災の記憶はほとんどない。それでもテレビのニュースを見て、戦慄を覚え、何かしなければと思って、郵便局に募金に走ったことだけは記憶している。

映画「22年目の告白 私が殺人犯です」(2017年 日本)の冒頭は、その阪神淡路大震災の映像からスタートする。なぜなら、それはまさに1995年に起きた猟奇連続殺人事件をめぐるドラマだからだ。2012年の韓国映画「殺人の告白」を「SR サイタマノラッパー」「ジョーカー・ゲーム」の入江悠監督がリメイクした。

導入部で描かれる阪神淡路大震災の惨状と、その頃に起きた5件の連続殺人事件の概要。それが時効に至った経緯をテンポよく見せて、観客をスクリーンに引き込む。

それから22年後。事件の犯人だと名乗る曾根崎雅人(藤原竜也)という男が記者会見を行う。そして彼は告白本を出版して、それがベストセラーになる。曾根崎は積極的にマスコミに登場し、サイン会を開き、被害者家族に対して派手な謝罪パフォーマンスをするなど話題の人になっていく。

その経緯をSNSを効果的に使うなどして見せていくところも、入江監督のセンスの良さがうかがえる。記者会見やサイン会などのシーンも、ケレン味タップリで観客を刺激する。同時に今の世相とも連動して、リアル感を醸成していく。

まあ、何しろ曾根崎を演じるのは藤原竜也である。こういうワルをやらせたら右に出る者はいない。底知れぬ恐ろしさと憎たらしさを振りまいて、観客に「ホンマに嫌なヤツだなぁ~」と思わせてしまうのだ。

そんな曾根崎と対するのが、刑事の牧村(伊藤英明)だ。彼は事件当時駆け出しの刑事で、先輩とともに捜査にあたっていた。そして、犯人を逮捕寸前まで追い詰めたもののとり逃し、犯人の罠にはまって上司を殺されてしまったのだ。

そんな彼の前に突然現れた真犯人。牧村は怒りや後悔の念にさいなまれる。しかし、時効が成立しているのでどうしようもない。その焦燥感ややり場のない怒りがスクリーンを覆いつくす。

怒りを感じているのは被害者家族も同様だ。ヤクザの親分、病院の院長、書店員の女の子など、各自がそれぞれの思いを抱え、自らの手で復讐に乗り出そうとする。

何しろ事件はあまりにも猟奇的なものだ。犯人の殺害方法は背後からの絞殺。しかも、いずれも被害者と親しい者に殺人の瞬間を見せつける恐怖のルールに沿った犯行だ。だから、なおさら被害者家族の怒りはすさまじいわけである。

犯人はその犯行を映像に記録していたという設定で、そのものズバリの犯行シーンがあちこちにはさみこまれる。このへんはかなりエグいので、人によっては目をそむけたくなるかもしれない。それでも、サスペンスとしてのスリリングさだけでなく、ホラー映画的な怖さをこの映画に加味しているのは間違いない。とにかく背筋ゾクゾクものの怖さなのである。

ちなみに、殺人など凶悪犯罪の時効は2010年に廃止され、さかのぼって適用されることになったが、問題の事件はその期限ぎりぎりに起きたため時効になったという設定だ。ただし、それがラストで予想外の展開を見せる。

中盤になると、事件を追い続けてきた仙堂というジャーナリストが前面に出てくる。彼は元戦場ジャーナリストで、今はニュース番組の司会をしており、曾根崎を自身の番組に出演させる。このあたりからは、曾根崎を取り上げるドキュメンタリー番組のカメラ映像を駆使する仕掛けによって、緊張感をさらに高めている。

そんな中で、実は連続殺人事件に関連して、牧村刑事の妹が行方不明になっているというもう1つの事件が発覚する。その一件に絡んで、「真犯人は曾根崎ではなくオレだ」という人物まで登場する。

後半の最初のヤマ場は仙堂の番組で、曾根崎、牧村、真犯人を名乗る人物が対決するシーンだ。さあ、いったい何が起きるのか。事件の真相はどうなっているのか。期待に胸が膨らむ。

と思ったら、え? まさか? そんな。曾根崎の正体と、彼が書いた本の本当の著者を聞いて、オレは拍子抜けしてしまった。そりゃあ、いくらなんでも強引だろう。テレビの2時間サスペンスじゃないんだから。あまりにもリアリティに欠ける展開だ。

その後は事件の全容が明らかになるのだが、それも何だかなぁ~。松田優作主演の某映画を思わせる既視感。しかも、強引でわざとらしい。「あわや」の最後の展開も含めてやっぱり2時間サスペンス風。あとは崖と船越英一郎が出てくれば完璧か!?

というわけで、前半から中盤までは観応え十分だっただけに、終盤のバタバタ感がどうにももったいないところだ。あそこまでヒネらなくても、当事者たちの心理などで十分に見せられたのでは?

そんな中、キャストはいずれも適役。藤原竜也伊藤英明仲村トオルらの対決に加え、夏帆岩松了岩城滉一などの脇役もなかなかの存在感だったと思う。

こうしていよいよエンドロール。ゲゲゲッ!!! それはいくら何でもやりすぎでしょう。最後の最後まで観客を楽しませようとする意図はわかるのだが、オレはそのやりすぎ感に思わず苦笑してしまったのである。

●今日の映画代、1500円。ユナイテッド・シネマの会員料金で。