映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「最後のランナー」

最後のランナー
有楽町スバル座にて。2018年7月25日(水)午後5時15分より鑑賞(自由席)。

~名作「炎のランナー」のモデルのその後の波乱の人生

フリーランスの欠点の一つがオフィスがないことだ。勤め人なら用事と用事の間がぽっかり空いた時に、「いったん会社に帰るか」となるわけだが、こちとらそうはいかない。さすがに家までは遠いし、どこにも行くところがない。

本日もそういう事情で、ぽっかり空いた時間を持て余し、実に久々に有楽町スバル座に足を運んだのだった。鑑賞したのは「最後のランナー」(ON WINGS OF EAGLES)(2016年 中国・香港・アメリカ)。

アカデミー賞4部門に輝いた1981年の名作「炎のランナー」。と聞くと、ヴァンゲリスの流麗な音楽を思い出す人も多いだろう。そのモデルとなったエリック・リデルのその後を描いたドラマだ。

炎のランナー」では、スコットランド人宣教師の息子エリック・リデルが、1924年のパリ・オリンピックに英国代表として出場し、男子400メートルで金メダルを獲得するまでが描かれた。その後彼はどうしたのか?

スポーツ界の英雄として活躍する道もあったのだが、リデル(ジョセフ・ファインズ)はそれを選ばなかった。敬虔なクリスチャンである彼は、親と同様に宣教師の道を歩み、中国の天津に渡ったのだ。そこで、現地の子どもたちに勉強を教えるようになる。

だが、時代は戦争の影が色濃くなる。1937年、天津が日本軍に占領される中、リデルは妻子をカナダに退避させる。しかし、自分は中国に留まり、人道支援を続ける。そんな中、まもなくリデルは他の欧米民間人とともに、日本軍の収容所に入れられてしまう。そこでの過酷な体験が綴られる。

映画全体の構図は、リデルの運転手を務め、収容所に入れられた後も何かとサポートした中国人青年ジ・ニウ(ショーン・ドウ)の目線で、彼のナレーションを軸にして進行する。

本作は中国、香港、アメリカの合作映画。監督は香港のスティーヴン・シン。その演出は正攻法で、奇をてらったところはまったくない。それでもシリアスな場面、心温まる感動の場面、時にはユーモアなどもバランスよく配しながら、手練れた演出を見せている。

何せ日本軍が支配する収容所が舞台だけに、日本軍の非道な場面もたくさん登場する。それでも、ことさらに煽り立てるような描写はしない。むしろ日本軍の中にも、リデルたちに協力する兵士を登場させるなど、根底に「ヒューマニズム」を据えた描写が目につく。

しかし、まあ、それでもヒドイですよ。日本軍の特に上の連中は。リデルが金メダリストだとわかると、子どもたちの教育係を命じて食料を優遇するのだが、リデルがそれを他の収容所に回したのを知ると、彼を穴蔵の牢獄に閉じ込めるのだ。そんな過酷な日々の中で、リデルはどんどん衰弱し、病気になっていくのである。

炎のランナー」のモデルだけに、「走る」こともドラマの重要な要素になる。リデルが金メダリストであることが収容所の指揮官の耳に入り、指揮官はリデルにレースを申し入れる。この戦いは二度に渡って行われる。

なかでも終盤の戦いは感動的だ。リデルは相当に体が弱り、とても走れるような状態ではない。それでも必死でレースに臨む。なぜならリデルが勝てば、重い病の収容者に薬を差し入れることが許されるからだ。

その戦いの描写にはスポ根物語的な魅力がある。だが、それでも指揮官は……。

このドラマで最も印象的なのは、リデルの利他の心だ。彼は自己を犠牲にして、ひたすら他者に尽くす。一歩間違えば、ただの偉人伝になりがちなドラマだが、そうならないのは、彼の行動の背景に深い信仰心があるからだろう。そして、いついかなる時にも彼は希望を失わない

その純粋な姿は、あまりにも高潔で美しい。それゆえこのドラマは普遍性を持つに至る。単に日本軍の戦争責任を問うというような次元を超えて、時代や民族を越えて多くの人々の生き方を問い、反戦への願いを伝えるのだ。

主役のリデルを演じたのは、「恋におちたシェイクスピア」などのジョセフ・ファインズ。けっして派手な役者ではないが、兄のレイフ・ファインズ同様に、なかなか味のある演技を見せてくれる。

それにしても、あの「炎のランナー」のモデルに、こんな波乱のその後があったとは知らなかった。それがわかっただけでも観てよかったと思う。

◆「最後のランナー」(ON WINGS OF EAGLES
(2016年 中国・香港・アメリカ)(上映時間1時間36分)
監督:スティーヴン・シン
出演:ジョセフ・ファインズ、ショーン・ドウ、エリザベス・アレンズ、小林成男、リチャード・サンダーソンジェシー・コーヴ、オーガスタ・シュウ=ホランド
有楽町スバル座にて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://saigo-runner.com/

「悲しみに、こんにちは」

「悲しみに、こんにちは」
ユーロスペースにて。2018年7月24日(火)午後2時20分より鑑賞(ユーロスペース2/B-9)。

~人生の岐路に立たされた少女の不安と戸惑いをリアルに

今年の夏の暑さときたら、どうなっているのだろう。暑い。猛烈に暑い。もはや日本は亜熱帯気候なのか? こんな地球に誰がした。責任者出てこい!!

なのに我が家にはエアコンがない。困ったものである。

そんな暑い炎天下の午後、久々に足を運んだ東京・渋谷のユーロスペース。鑑賞したのは「悲しみに、こんにちは」(ESTIU 1993)(2017年 スペイン)。

悲しみよこんにちは」はフランソワーズ・サガンの小説のタイトルだが、こちらは「悲しみに、こんにちは」。スペインの新人女性監督カルラ・シモンが自身の経験をもとに撮った作品だ。2018年アカデミー外国語映画賞スペイン代表。ベルリン国際映画祭ゴヤ賞で新人監督賞を受賞している。

女性監督が自身の幼少時の体験をもとに、少女の心理を繊細に切り取った映画という点で、ウニー・ルコント監督の秀作「冬の小鳥」を連想してしまったのだが、こちらもなかなかの秀作である。

ドラマのスタートはバルセロナ。この地に暮らす少女フリダ(ライア・アルティガス)が、楽しく遊んでいる。だが、まもなく荷造りシーンが映る。どうやらフリダは引越しをするらしい。見送りの人たちとサヨナラし、車に乗って出発するフリダ。その不安げな表情。

実は、フリダの両親は“ある病気”で亡くなり、田舎に暮らす若い叔父夫婦に引き取られることになったのだ。叔父夫婦のエステバ(ダビド・ベルダゲル)とマルガ(ブルーナ・クシ)、そして2人の娘で幼いいとこのアナ(パウラ・ロブレス)に温かく迎えられるフリダ。

この映画で特徴的なのはアップを多用した映像だ。フリダを中心に、登場人物の表情を丹念に映し出す。それによって、繊細な心理の揺れ動きが手に取るように伝わる。

中心的に描かれるのはもちろんフリダの心理だ。両親の死によって始まった新たな暮らし。なまじのお涙頂戴物語なら、叔父夫婦が彼女を邪険に扱ったりするのだろうが、そんなことにはならない。

叔父夫婦はとても優しい。我が子のアナと分け隔てなくフリダと接しようとする。アナも実の姉のようにフリダを慕う。だが、それでもフリダにとっては未知の世界。そこには大きな不安や戸惑いがある。それをリアルに見せていく。

劇中で説明はなかったと思うが(この映画は説明らしい説明がないのも特徴)、おそらくフリダは6歳前後だろう。この年頃の子どもにはよくあることかもしれないが、自分でも原因がわからないうちに不機嫌になったりもする。それが暴走してしまうこともある。

また、ふだんは仲よく遊ぶいとこのアナも、時にはうっとうしくなる。ある時、フリダは「遊んで」とうるさくまとわりつくアナが面倒になって、森に置いてきてしまう。それが大変な事態になったりする。

そうしたフリダの行動の背景には、やはり両親、特に母の死に対する様々なわだかまりがある。だが、彼女が正面からそれを口にすることはない。それによって、また心に鬱積していくものがある。

生活環境の変化も彼女を戸惑わせる。隣人に生みたての卵をもらったり、ウサギがさばかれる過程を目の前で見たりする。ヤギが殺される場面も目撃する。フリダがそれらを露骨に嫌悪することはなく、戸惑いつつ凝視しているのだが、そうした新たな環境も彼女の心の動きに大きく関係しているに違いない。

カルラ・シモン監督は、そんなフリダの心理をじっくりとあぶりだす。観客は彼女の喜び、悲しみ、苦悩、戸惑いを我が事のように感じるのではないか。

同時に、叔父夫婦、特に叔母マルガの葛藤にも焦点を当てる。血縁のないフリダを一生懸命に我が家になじませようとするマルガ。だが、時にフリダの無軌道な行動は周囲を混乱させる。フリダ可愛さのあまりに、大勢で押しかけて来る夫の家族もマルガの悩みの種だ。それでもフリダのママになろうとする彼女の強い決意は揺るがない。

様々な感情が溜まりに溜まったフリダは、終盤にある行動を起こす。だが、それが決定的な破局に至ることはない。

ラストに待っているのは実に印象深いシーンだ。新学期を前に、ついに母の死と向き合うフリダ。それに応えるマルガ。一見静かなやり取りだが、そこには重くて深いものがある。

この映画の原題は「ESTIU 1993」となっているから、1993年の出来事かもしれない。いずれにしても、今よりも前のドラマだ。フリダの両親が亡くなった“ある病気”は、今でこそ治療法が確立しているが、当時はまだ不治の病だったようだ。しかも、子供への感染の可能性もある。これもまた、フリダを戸惑わせる事実の一つだった。

その後、フリダは涙を見せる。それは楽しくはしゃいでいた次の瞬間の急転換の涙だ。それははたして何を意味する涙なのか。彼女自身にも理由がわからないようだが、ようやく過去を受け入れて、新たな人生を歩もうとする彼女の万感の思いがこもった涙なのではないか。ようやくフリダは一つのステップを上ったのだ。

フリダと叔父一家。そう簡単に一つの家族にはなれないかもしれない。紆余曲折はあるだろう。それでも、きっと未来には明るい希望が待っている。そう思わせられたのである。

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◆「悲しみに、こんにちは」(ESTIU 1993)
(2017年 スペイン)(上映時間1時間40分)
監督・脚本:カルラ・シモン
出演:ライア・アルティガス、パウラ・ロブレス、ダビド・ベルダゲル、ブルーナ・クシ、フェルミ・レイザック、イザベル・ロカッティ、モンセ・サンズ、ベルタ・ピポ
ユーロスペースにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://kana-shimi.com/

「グッバイ・ゴダール!」

グッバイ・ゴダール!
新宿ピカデリーにて。2018年7月21日(土)午後1時45分より鑑賞(シアター4/D-10)。

~世界的映画監督の結婚生活を赤裸々にユーモアを込めて描く

ジャン=リュック・ゴダールといえば、言わずと知れた世界的な映画監督。「勝手にしやがれ」や「気狂いピエロ」をはじめ、既成の概念を覆す数々の斬新な作品を送り出し、“ヌーベルバーグ”の旗手となった。

そのゴダールの2人目の妻となったアンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝的小説を「アーティスト」のミシェル・アザナヴィシウス監督が映画化したのが「グッバイ・ゴダール!」(LE REDOUTABLE)(2017年 フランス)。

舞台となるのは、1968年のパリ。世界中から注目される映画監督ジャン=リュック・ゴダールルイ・ガレル)だが、鮮烈にデビューして映画界を席巻した頃の勢いはない。そんな中、哲学科の学生アンヌ(ステイシー・マーティン)と出会い、彼女をヒロインに抜擢して新作「中国女」を撮る。

アンヌは、それまで全く縁のなかった新しい仲間たちと映画を作る刺激的な日々を送る。そして、ゴダールからプロポーズを受け結婚する。この時、ゴダール37歳。アンヌ19歳。ゴダールはもちろん、祖父にノーベル賞作家を持つアンヌも世間の注目の的で、メディアに追いかけられながら新婚生活を送る。

そろそろ老いを意識し始めたゴダールが、若々しい心と体を持つアンヌにのめりこんでいく。芸術家とミューズとの関係ではよくあることだが、それでもなかなか面白い。ゴダールはいまも健在。しかも世界的な映画監督。それでもアザナヴィシウス監督は、まったく遠慮がない。彼らとアンヌの関係を赤裸々に見せていく。まあ、芸能マスコミ的な視点からいっても面白いドラマなわけですよ。

作風もけっこう大胆。シニカルなタイトルの章分けをして、テンポよく描いていく。映像をはじめ様々な工夫もあちこちにあって、例えば2人が愛を交わすシーンを、モノクロで顔のアップだけ(口だけとか)で見せていくなど、ユニークなシーンの連続。さすが白黒映像&サイレントが特徴的な「アーティスト」で、アカデミー賞を獲得した監督だけのことはある。

そして、この映画は全編にユーモアがあふれている。ゴダールときたら、その言動は自由奔放。というか、無茶苦茶だ。日常とか普通ということが大嫌いで、わざと後ろ向きに歩いたりする。その常識外れでエキセントリックな言動が、いちいち笑えてしまうのだ。

年の差カップルのゴダールとアンヌだが、それ以外にも背負ったものが全く違う。アンヌはいわばセレブ育ち。それゆえ、自分とは全く違うゴダールの世界に興味を持ち、刺激的な日々を送るわけだが、それもずっとは続かない。最初のうちは、ゴダールの立場が完全に上で、先生と生徒のような関係だから波風が立たないのだが、時間とともにアンヌが成長していくと、2人の間には少しずつ亀裂が生まれてくる。

それに拍車をかけるのが当時の時代背景だ。パリでは学生を中心とした反体制運動、いわゆる「五月革命」が盛んになり、連日デモや集会が行われる。ゴダールはそれに影響されて、どんどん運動にのめりこんでいく。アンヌも行動を共にするのだが、あまりにも極端なゴダールの言動に違和感を持つようになる。

やがてアンヌは、友人の映画プロデューサーのミシェル・ロジエ(ベレニス・ベジョ)から、カンヌ国際映画祭へ行こうと誘われる。共通の友人が監督する作品が選ばれたので、その応援をしようというのだ。だが、現政権下での映画祭開催が気に入らないゴダールは、映画祭を中止すべきだと主張する。

結局、アンヌはゴダールに反抗してカンヌに行くが、映画祭は中止になってしまう。帰りの車の中でゴダール、アンヌ、仲間たちは大激論を交わし、車中は険悪な雰囲気になる。

このシーンがなかなか秀逸。どうやら一発撮りだったらしいが、まるでアドリブのようなやり取りが展開。これが、ある種の喜劇のようでクスクス笑えてしまうのだ。それにしてもゴダールは本当に厄介な人物である。

終盤、アンヌはイタリアの奇才マルコ・フェレーリ監督から新作の出演依頼を受ける。だが、ゴダールは「裸が多い」とかなんとか言って反対する。

このあたり、もはや世間によくあるガンコなオッサンだ。さらに、アンヌが撮影中のイタリアに駆けつけて「浮気してるんじゃないか?」と疑うあたりは、ただの嫉妬深い夫でしかない。この一件が、とんでもない事態を招き、まもなく2人は離婚してしまう。

何だかゴダールをコケにしているような映画にも思える。しかし、テンポよくユーモアで包んでいるから嫌な気分にはならない。むしろゴダールほどの天才でも、あまりにも人間臭い側面があることで、安心させられる人も多いのではないだろうか。アザナヴィシウス監督のゴダールを見る視線には、強烈な毒を含む一方で、温かさも失っていないのである。

ラストで描かれる“ジガ・ヴェルトフ集団”による新しい映画作りなど、当時の映画作りの空気感も感じられる。そういう点でも、興味深い映画といえるだろう。この映画を観て、ゴダールの映画をまた観たくなる人も多そうだ。

ゴダールを演じたルイ・ガレルが実にいい味を出している。そして、アンヌを演じたステイシー・マーティンのコケティッシュな魅力も見逃せない。ありゃあ、ゴダールでなくても惚れてしまいますな。新星誕生かも。

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◆「グッバイ・ゴダール!」(LE REDOUTABLE)
(2017年 フランス)(上映時間1時間48分)
監督・脚本:ミシェル・アザナヴィシウス
出演:ルイ・ガレルステイシー・マーティンベレニス・ベジョ、ミシャ・レスコー、グレゴリー・ガドゥボワ、フェリックス・キシル、アルトゥール・アルシエ、
新宿ピカデリーほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://gaga.ne.jp/goodby-g/

「クレアのカメラ」

クレアのカメラ
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2018年7月20日(金)午後1時40分より鑑賞(スクリーン1/E-11)。

~カンヌで繰り広げられる韓国人男女の愛憎劇と謎のフランス人

「それから」「夜の浜辺でひとり」「正しい日 間違えた日」と続いた韓国の名匠ホン・サンス監督作品の連続上映。いよいよラストの4作目は「クレアのカメラ」(LA CAMERA DE CLAIRE)(2017年 フランス)。3作目まで観たのだからして、これはやはり最後も観なければなりますまい。

この映画はちょっと特別な状況下で作られた。2016年のカンヌ国際映画祭に出品された「エル ELLE」(ポール・ヴァーホーヴェン監督)と「お嬢さん」(パク・チャヌク監督)。それぞれの主演のイザベル・ユペール(過去にホン・サンス作品に出演経験あり)とキム・ミニ(ホン・サンス監督のミューズ)を起用して、カンヌ滞在中のわずか数日間で撮影した作品だ。登場人物の会話中心で、とりたてて大仕掛けもないホン・サンス作品だからこそ、こんなことが可能だったのだろう。

というわけで、舞台となるのも映画祭開催中のカンヌだ。この地に出張してきた映画会社の社員マニ(キム・ミニ)は、女社長ナム(チャン・ミヒ)から、突然、解雇を言い渡されてしまう。その理由は「正直でないから」という不可解なもの。途方に暮れるマニだが、帰国日の変更もできずカンヌに残ることになる。

このあたりで何となく察しがついてしまった。この一件の裏には男がいる。と思ったら、案の定、ナム社長が男と海辺にいるところが映し出される。映画監督のソ(チョン・ジニョン)。女癖の悪い彼は、酒の勢いもあってマニと関係を持ってしまったらしいのだ。前からソ監督と男女関係にあるナム社長がそれを知って、嫉妬のあまりマニをクビにしたのである。

そこから三者の愛憎劇が始まるかと思いきや、新たな人物が登場する。映画祭で上映される友達の映画を観にパリから来た女性クレア(イザベル・ユペール)である。彼女はカフェで偶然ソ監督と出会い、交流を深める。そこでの、いかにも女癖の悪そうなソ監督の態度に思わず笑わせられる。

ちなみに、ホン・サンス作品には、だらしない映画監督がよく登場するのだが、そこにはホン監督自身が投影されているのかもしれない。

やがてクレアは、ソ監督とナム社長とお茶を飲み、2人を写真撮影する。彼女は常にポラロイドカメラを手にしている。そして「自分がシャッターを切った相手は別人になる」と語るのだ。何ともミステリアスなクレアである。彼女は音楽の教師で詩も書くという。

その後、クレアはマニとも知り合い、韓国料理をご馳走になるなど交流する。もちろんマニの写真も撮る。

はたして、クレアのカメラは本当に被写体を別人に変えるのか。まるでファンタジーの世界に突入しそうな前フリだが、そうはならない。基本はいつもと変わらないホン・サンス映画だ。食事をしたりお茶を飲んだりしながら会話する登場人物を長回しで映す。そこから様々な人間心理のあやや独特のおかしみが伝わってくる。

ただし、いつもは登場人物がしたたかに酒を飲むのに比べて、今回はいつもより飲酒が控えめなのが特徴かも。そして、イザベル・ユペールが演じるだけに、クレアが登場するシーンは英語での会話が繰り広げられる。

ファンタジー的な展開には至らないものの、クレアのカメラがドラマに微妙な変化をもたらすのは事実だ。ソ監督はナム社長に「仕事で長く付き合うために男女関係を解消しよう」と提案する。それをきっかけに修羅場が展開か? と思ったのだが、2人の会話が意外な方向に進むのが面白い。

一方、その後に描かれるマニとソ監督の再会場面では、ソ監督がどうでもいいようなことで感情を爆発させる。

このあたりの屈折した展開も含めて、ホン・サンス映画のテーマの一つである男女の愛憎が独特のタッチで描かれる。さらに、クレアの愛する人とのエピソードもチラリと盛り込まれて、様々な愛のありようを見せてくれる。

終盤、クレアとマニは、マニが解雇を告げられたカフェを訪れ、当時と同じ構図で写真を撮る。そして、その後にある出来事が起きる。明確な結末ではなく、観客の想像力に委ねたラストだが、何らかの変化が訪れたと見ることもできる。クレアのカメラには、本当に不思議な力があったのかもしれない。そう思わせられるラストだった。

それにしても、相変わらずユニークなホン・サンス映画である。過去の作品を観た人なら「なるほど」と納得するだろうが、初見の人はきっと戸惑うだろう。それでも、他に類のない味わいを持つ映画なのは間違いない。それが、この監督の人気の秘密だと思う。

最近はクセのありすぎる役柄の多いイザベル・ユペールが、今回は飄々とした演技を披露しているのも見ものだ。

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◆「クレアのカメラ」(LA CAMERA DE CLAIRE)
(2017年 フランス)(上映時間1時間9分)
監督・脚本:ホン・サンス
出演:イザベル・ユペール、キム・ミニ、チョン・ジニョン、チャン・ミニ、ユン・ヒソン、イ・ワンミン
*ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにて公開中
ホームページ http://crest-inter.co.jp/sorekara/crea/

 

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「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」

志乃ちゃんは自分の名前が言えない
新宿武蔵野館にて。2018年7月16日(月)午後12時55分より鑑賞(スクリーン1/C-6)。

~コンプレックスを抱えた2人の少女の輝きと心の叫び

「青春映画鑑賞家」を名乗ろうかと思った時期がある。そのぐらい青春映画ばかり観ていた。日本はもちろん、アジアや欧米の青春映画もたくさん鑑賞した。青春映画は若者だけのものではない。むしろ青春がはるか遠くに過ぎ去ったオレのような人間だからこそ、そこにノスタルジーという特別な情感が加わるのだ。青春映画は永遠の存在なのである。

そんな青春映画に新たな秀作が加わった。「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」(2017年 日本)だ。漫画家・押見修造によるコミックの映画化で、吃音がドラマの大きな要素になっている。それは、押見修造自身の体験がもとになっているという。

映画がスタートすると1人の少女が登場する。大島志乃(南沙良)。高校一年生の新学期に志乃は学校へ行く。それを前に何度も自己紹介の練習をする。だが、学校へ行って実際に自己紹介の順番が来ると、自分の名前さえうまく言えなかった。彼女は吃音で悩んでいたのだ。

独白などでは問題なく言葉が出るのに、なぜか人前ではそれができない。志乃はクラスメイトから笑われてしまう。それをきっかけに誰とも交流することなく、ひとりぼっちで過ごすようになる。

一方、志乃と並んでもう1人の少女がクローズアップされる。岡崎加代(蒔田彩珠)。彼女はいつも不機嫌そうで、影を感じさせる少女だった。実は、彼女にも大きな欠点があった。音楽好きでギターを弾く加代だが、残念なことに極度の音痴だったのだ。

お互いに悩みを抱えた2人は、ひょんなことから校舎裏で遭遇し、少しずつ距離を縮めていく。その過程で、加代は志乃に「2人でバンドを組もう」と誘う。吃音の志乃だが、なぜか歌はちゃんと歌えるのだった。加代がギター弾いて志乃が歌う。バンド名は「シノカヨ」。2人は文化祭を目標に猛練習を始める。

そんな志乃と加代の青春の日々が瑞々しく描かれる。青春映画らしいきらめきにあふれている。特に印象的なのは、舞台となる海辺の町の風景を生かした光にあふれた映像だ。ほぼ全編に渡って、時には過剰なほどの光がスクリーンに踊る。それが、2人の少女を躍動させる。

2人の若手女優の演技も素晴らしい。志乃を演じる南沙良は、言葉でうまく自分を表現できないもどかしさ、緊張、おびえなどを繊細に表現。自分の感情を爆発させるシーンでは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で渾身の演技を見せる。

そんな志乃を自然体で受け止める加代役の蒔田彩珠は、抱え込んだ孤独をぶっきらぼうな態度で覆い隠しつつも、志乃との交流で少しずつ心を溶かす。こちらも繊細な演技が絶品だ。彼女たちの見事な演技を引き出した湯浅弘章監督の演出も、なかなかのものだと思う。

加代の部屋での練習、遠い町での路上ライブなどを含めて(演奏されるのが『あの素晴らしい愛をもう一度』だったのするのが泣けてくる)、彼女たちの生き生きとした姿に、思わずこちらの心も弾んでしまう。海辺の町を2人が自転車で駆け抜けるシーンは、まさにそれを象徴するシーンだろう。

というわけで、前半は青春映画としてずば抜けた輝きを見せるのだが、後半は大きな転機を迎える。ある日、クラスのお調子者の男子・菊地(萩原利久)が強引にバンドに参加したいと言い出す。加代は「志乃がいいなら」と言い、志乃もそれに応じる。

ここで興味深いのが菊地のキャラだ。彼は志乃の吃音をからかった過去がある。それだけなら志乃が嫌うのも当然だが、実は彼自身も中学でいじめられていた過去を持っていたのだ。それがバンドに加入したいと言い出した理由だった。つまり、志乃、加代と同様に、彼も自分の居場所がなかったのである。

ありがちなドラマなら、この3人の孤独な魂が共鳴して、さらに力強い音楽を奏でることだろう。しかし、このドラマはそんな安直な展開には至らない。菊地の存在は志乃と加代の関係を大きく変化させ、志乃はバンドをやめると言い出す。

志乃は加代から離れ、以前にも増して自分の殻に閉じこもるようになる。いったい何が彼女をそうさせるのか。加代にも、菊池にもよくわからない。必死でその訳を探ろうとするが、それがますます志乃を頑なにしてしまう。その様子を見ている観客にも、志乃の内面が今ひとつ理解できなくなってくる。

そして迎える文化祭。志乃を失った加代は、自ら作ったオリジナル曲を力いっぱい歌う(『魔法』というこの曲も素晴らしい!!!)。その歌声が観る者の胸を強く打つ。もちろんそれが志乃の胸に響かないはずがない。彼女の痛切な心の叫びが会場の体育館に響き渡る。その叫びも、加代の歌声と同様に観る者の胸に響く。観客は志乃がなぜ自分の殻に閉じこもったのが、ようやく理解できるだろう。

このドラマに、明確なハッピーエンドやカタルシスは用意されていない。だが、志乃と加代のさりげないラストの表情から、2人がそれぞれに前を向き始めたことが示唆される。

2人が抱えたコンプレックスや悩みが、そう簡単に消えることはないだろう。それでも、きっと彼女たちは自分の足で前に進んでいくに違いない。そう思わせられる温かなラストだった。

吃音や音痴といった素材が扱われてはいるが、そこにとどまることなく、コンプレックスを持つすべての人の心に届く映画ではないだろうか。

考えてみればオレもコンプレックスだらけ。コンプレックスの塊といってもいいかもしれない。吃音ではないが、けっして話し上手ではないので、自分の気持ちがうまく伝わらずにもどかしい思いをすることもたびたびある。それだけにまるで我が事のように、志乃と加代の心の通い合いに心を躍らせ、そのすれ違いに胸が痛んだのである。

青春映画が永遠の存在であることを再認識させられた作品だ。数多ある青春映画の秀作に、また新たな1本が加わったのは間違いない。

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◆「志乃ちゃんは自分の名前が言えない
(2017年 日本)(上映時間1時間50分)
監督:湯浅弘章
出演:南沙良蒔田彩珠萩原利久、小柳まいか、池田朱那、柿本朱里、田中美優、蒼波純、渡辺哲、山田キヌヲ奥貫薫
新宿武蔵野館ほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://www.bitters.co.jp/shinochan/

「セラヴィ!」

セラヴィ!
新宿シネマカリテにて。2018年7月11日(水)午後2時5分より鑑賞(スクリーン2)/B-2)。

~トラブル満載の結婚式が巻き起こす笑いと人間模様

自分で式を挙げたこともないし、他人の式にもほとんど出席したことがないので実感はないのだが、どうやら結婚式とはなかなかに面倒なものらしい。だが、面倒だからこそ、そこには様々な面白いネタが転がっているに違いない。結婚式を舞台にした映画が多いのはそのせいだろう。

車いすの大富豪とその介護人の交流をユーモラスに描いた「最強のふたり」のエリック・トレダノオリヴィエ・ナカシュ監督コンビによる映画「セラヴィ!」(LE SENS DE LA FETE)(2017年 フランス)は、結婚式を舞台にしたコメディーだ。

式場は17世紀の古城。豪華絢爛な結婚式をプロデュースするのは、30年間に渡って数々の結婚式を仕切ってきたベテラン・ウェディングプランナーのマックス(ジャン=ピエール・バクリ)だ。だが、どうも雲行きが怪しい。

映画の冒頭、マックスは式のプロデュースを依頼してきたカップルと話し合う。カップルは、細かなことに注文を付けて、何とか費用を削減しようとする。それにブチ切れたマックスは、「それならメイン料理もなくして、各自料理を持ち寄ればいい!」などととんでもないことを言いだすのだ。どうやら彼は何か問題を抱えているらしい。

さて、式場の古城にやってきたマックスは、式の成功に向けてスタッフに指示を出す。だが、最初から思い通りに行かない。それもそのはず、集まったスタッフたちはいずれもクセモノ揃い。というか、彼らも揃いも揃ってポンコツだったのだ。

例えば、マックスの腹心ともいうべき黒人女性は、すぐに他のスタッフともめ事を起こす。しかも、唐突に笑えない冗談を繰り出したりもする。あるいは、昔なじみのカメラマンは、式の料理に手を出したり、「出席者がスマホで撮影するのが気に食わない」などと言って、まともに仕事をしようとしない。一方、バンドのリーダーはやたらにプライドが高くて自己中心的。

そんなスタッフのみならず、新郎もクセモノだ。彼もまた典型的な自己チュー男。とくれば、当然、同じ自己チュー男のバンドリーダーと険悪な雰囲気になる。それどころか論文のように分厚い挨拶文を示して、「これを読むから段取りを変えろ!」とマックスに要求する始末なのだ。

こんな連中が集まったのだから、何も起こらないはずがないだろう。やがて式がスタートするが、それはトラブルの連続。そのあまりにもバカバカしいトラブルがマックスを困らせ、同時に観客を笑わせる。

その中でも最大のトラブルは、冷蔵庫のコンセントが抜けて(あるいは誰かが故意に抜いた?)、メイン料理の肉が腐ってしまうことだろう。おかけでそれを食べたバンドメンバーは倒れ、マックスは代わりの料理を調達しなければならなくなる。

その一方で、なぜか臨時ウェイターとして雇われたマックスの義弟は、こともあろうに新婦を口説き始める。彼と新婦は元同級生で、どうやら昔から気があったようなのだ。それにしても何たる暴走ぶり!

こうして現在進行形で起きる数々のトラブルを、生き生きとテンポよく、軽妙に描いていく。おかげで、終始笑いが途切れない。はたして、マックスがトラブルをどう乗り越えるのかというハラハラ感も味わえる。

終盤になるにつれて、ドラマはほとんどカオス状態に突入する。マックスの腹心の女性は、それまで険悪だったバンドリーダーと変な雰囲気になる。カメラマンは会場で出会い系アプリを使って、参列者の女性を物色する(そのお相手が予想外でまた笑える)。

そして飛び出す新郎のあまりにも奇抜すぎる余興。自ら演じるそのパフォーマンスは幻想的でロマンチック。あまりの美しさにしばし目を奪われるのだが、その先に待っているのはまたしてもとんでもないトラブルだ。あ~あ、あの2人やっちまったぁ~。

だが、このドラマ、ただのドタバタでは終わらない。終盤の停電騒ぎを救うのは、スタッフの中にいたあるアジア系の移民たち。前半からチラリとそのプロフィールが語られるのだが、それがまさかここで生かされるとは!!! 

この心温まるサプライズに加え、マックスが移民の雇用に関して極度にナーバスになる展開など、多民族国家であるフランスの光と影も描かれている。

さて、最後の最後に待っているのはマックス自身の人生模様だ。実は彼はそろそろ引退しようと思っていたのだ。おまけに、スタッフの女性と不倫もしていた。それが、このトラブル続きのカオスのような結婚式を通して、ある決断をすることになる。昔なじみのカメラマンの決断とも相まって、それが温かな余韻を残してくれるのである。

様々な人間のおバカさで観客をクスクス笑わせる映画だが、そこには欠点だらけの人間を優しく見つめる視線がある。そして、さりげない人間ドラマも盛り込んで心を温めてくれる。個性派の役者たちの演技も見ものだ。「最強のふたり」が好きな人なら、きっと気に入るはず。

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◆「セラヴィ!」(LE SENS DE LA FETE)
(2017年 フランス)(上映時間1時間57分)
監督・脚本:エリック・トレダノオリヴィエ・ナカシュ
出演:ジャン=ピエール・バクリ、ジル・ルルーシュ、ジャン=ポール・ルーヴ、ヴァンサン・マケーニュ、アルバン・イヴァノフ、バンジャマン・ラヴェルネ、アイ・アイダラ、スザンヌ・クレマン、エレーヌ・ヴァンサン、ジュディット・シュムラ、ウィリアム・レブギル
*シネクイント、シネマカリテほかにて全国公開中
ホームページ http://cestlavie-movie.jp/

 

「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」

バトル・オブ・ザ・セクシーズ
シネクイントにて。2018年7月8日(日)午後12時50分より鑑賞(スクリーン2/D-6)。

~男対女、世紀のテニス対決の裏にあった人間ドラマ

シネクイントが復活した。シネクイントはパルコが運営する映画館で、東京・渋谷のパルコ パート3内にあったのだが、2016年にパルコ建て替えの影響で閉館となった。それが、渋谷LOFTや西武渋谷店に隣接する渋谷三葉ビルに移転して再開館したのだ。

ちなみに、この場所は5月に閉館したシネパレスがあったところ。基本はその施設を活用しているようだが、いろいろとパルコらしい工夫も施されている模様。渋谷で唯一のペアシートもある。

さて、その新生シネクイントで最初に観た映画は、「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」(BATTLE OF THE SEXES)(2017年 イギリス・アメリカ)。1973年に行われた世界中で注目されたテニスの試合、女子テニスの現役世界チャンピオンのビリー・ジーン・キングと、元男子チャンピオンのボビー・リッグスによる性別を超えた戦いの舞台裏を描いた映画である。

監督は「リトル・ミス・サンシャイン」「ルビー・スパークス」のヴァレリー・ファリスジョナサン・デイトン夫妻。「スラムドッグ$ミリオネア」のダニー・ボイルが製作、サイモン・ビューフォイが脚本を担当している。

冒頭に事件の発端が描かれる。全米テニス協会が次期大会の優勝賞金を発表したのだ。それによると、女子の賞金は男子のわずか8分の1。全米女子テニスチャンピオンのビリー・ジーン・キング(エマ・ストーン)はこれに怒り、協会幹部に直談判するが、彼らは「男には養う家族がいる」「男子の試合のほうが面白い」などと言って相手にしない。

とくれば、この映画のテーマが見えてくるだろう。それは「男女差別との戦い」だ。ビリー・ジーンは仲間の選手たちと“女子テニス協会”を立ち上げる。そんな彼女たちの女性差別との戦いを、ユーモアも交えつつテンポよく描いていく。ビリー・ジーンがまったくのゼロから協会を起ち上げ、著名なジャーナリストで友人のグラディス・ヘルドマンの協力でスポンサーを見つけ、女子だけの大会を開く経緯は、まるでベンチャーの起業物語のようで胸が躍る。

その戦いのハイライトが、ビリー・ジーンとボビーの対決だ。ある時、ビリー・ジーンに電話が入る。55歳の元世界王者ボビー・リッグス(スティーヴ・カレル)が、「男性至上主義のブタ対フェミニストの対決だ!」と対戦を申し込んできたのである。

ただし、2人はすぐには対決しない。ビリー・ジーンはボビーの提案を拒否する。そこでボビーは、彼女の一番のライバルであるマーガレット・コートに戦いを申し込む。

そのあたりからは、映画の雰囲気が少し変わってくる。序盤の「男女差別との戦い」というわかりやすい切り口から、ビリー・ジーンとボビーの人間模様へと変化していく。

ビリー・ジーンには夫がいる。これが実に理解のある良い夫だ。ところが、ビリー・ジーンは美容師のマリリン(アンドレア・ライズボロー)と出会い、惹かれていく。夫を愛しているのに、マリリンと親密になる自分が止められないビリー・ジーン。その苦悩、葛藤、罪悪感などが繊細に描かれていく。おりしも、時代はまだ同性愛に対して寛容でないだけに、なおさらである。

一方、ボビーは表舞台から姿を消し、資産家の妻に頭が上がらずにいる。しかも、ギャンブルから足が洗えずに、ついには妻に愛想を尽かされてしまうのだ。ビリー・ジーンとの対決は、再び脚光を浴びて、妻の愛も取り戻したいという彼の一発逆転のシナリオだったのだ。その反面、彼はまるで道化師のようにおどけた言動を繰り返す。そんな複雑な二面性を通して、彼の心の闇をあぶりだしていくのである。

終盤になってドラマは再び躍動し始める。ボビーとの対戦を受諾したマーガレットだが、結果は完敗。ボビーは「やっぱり男が女より優秀だ」と言い放つ。それが許せないビリー・ジーンは、ついにボビーとの対戦を承諾する。

試合の準備を進める2人の姿が対照的で面白い。ボビーは、奇抜な仮装をして練習するなど相変わらずの道化ぶりだ。それに対して、ビリー・ジーンは重圧に負けそうになりながらも、黙々とトレーニングを続ける。このあたりからは、スポ根ドラマのような魅力が前面に出て来る。

そして、いよいよ世紀の対決だ。当時は、男女平等を訴える運動があちこちで起こっていた時代であり、その戦いは単なるテニス界の男女差別との戦いを越えて、世の中全体の男女差別との戦いにつながっていく。

その戦いの様子を迫力たっぷりに描く。たとえ結果を知っていても、手に汗するようなスリリングな描き方だ。仰々しいカメラアングルなどは使わず、ちょうどテレビのテニス中継のような映像なのだが、これが実に迫力に満ちている。ビリー・ジーンとボビー(最初は遊び半分なのがどんどん真剣になってくる)の息遣いが聞こえてきそうである。

試合後に2人が控室に戻った時のシーンも印象深い。それぞれの胸の内がリアルに伝わってくる。そして、その後のデザイナーのテッド(アラン・カミング)の言葉が、この世紀の戦いが男対女の戦いを越えて、「すべての人が自分らしく自由に生きる」ための戦いだったことを明確に位置付けるのである。

ちなみにテッドを演じたアラン・カミング(「チョコレートドーナツ」でおなじみ)は、実生活でも同性愛者を公言しているだけに、その言葉にはなおさら説得力がある。

単純な面白さを追求するなら、「男性至上主義者VS男女平等のために戦う女性」というわかりやすい図式にしたほうがよかったと思う。だが、このラストのメッセージから考えれば、両者の私生活の部分を描き、LGBTなどにも目配せした構成も間違いではなかったと感じる。

ただの能天気な男になりそうなボビーを、厚みのある人物にしたスティーヴ・カレルの演技が素晴らしい。そしてビリー・ジーンを演じたエマ・ストーンの繊細な演技も忘れ難い。「ラ・ラ・ランド」あたりとは全く違う彼女の魅力が味わえる。この2人の演技だけでも観る価値のある作品だ。

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◆「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」(BATTLE OF THE SEXES)
(2017年 イギリス・アメリカ)(上映時間2時間2分)
監督:ヴァレリー・ファリスジョナサン・デイトン
出演:エマ・ストーンスティーヴ・カレルアンドレア・ライズブローサラ・シルヴァーマンビル・プルマンアラン・カミングエリザベス・シュー、オースティン・ストウェル、ナタリー・モラレス、ジェシカ・マクナミー
*TOHOシネマズシャンテ、シネクイトほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://www.foxmovies-jp.com/battleofthesexes/