映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「純平、考え直せ」

純平、考え直せ
シネ・リーブル池袋にて。2018年9月22日(土)午後3時10分より鑑賞(スクリーン1/G-9)。

~SNSの声とリンクして深まるチンピラヤクザとOLの恋

ヤクザ者とカタギの女性との恋は、映画の世界では昔からよく描かれる素材だ。2人の前に平凡な幸せなどない。待っているのは奈落の底だ。そこに葛藤や苦悩が生まれ、ドラマに深みが加わるのだ。

直木賞作家・奥田英朗の小説を映画化した「純平、考え直せ」(2018年 日本)も、若いヤクザとOLとの関係を描いた作品である。監督は「子猫の涙」「女の子ものがたり」「上京ものがたり」などの森岡利行

主人公は21歳の下っ端ヤクザの坂本純平(野村周平)。新宿・歌舞伎町で「一人前の男」を夢見ながらも、雑用に追われる日々を送っている。そんな彼に、ある日、組長が直々に「鉄砲玉」になるように命じる。対立する組幹部を殺害しろというのだ。見事にやり遂げれば、一人前の男になれると信じた純平はその命令に従い、意気揚々と拳銃を手にする。

そんな中、純平は偶然出会ったOL加奈(柳ゆり菜)とホテルで一夜を共にする。その最中に純平は鉄砲玉の話を加奈に漏らしてしまう。加奈は不思議な高揚感を覚えて、決行までの3日間を純平と過ごすことになる。

この映画には古風と今風が同居している。純平は、今どきのヤクザには珍しく、義理、人情を大切にする硬派のヤクザ。困った状況にあるショーパブの外国人の女の子を助けるために、不動産会社に直談判に行ったり(加奈はそこのOLだった)、ホームレスに焼肉をおごるなど優しい心も持っている。

一方、加奈はいかにも今風の女の子。好奇心で純平を追いかけて、鉄砲玉の話を聞いたり、拳銃を見せてもらって、面白半分で純平と行動を共にするようになる。古風な純平と今風な加奈。そんな異色の2人の道行きを描いたのがこの映画だ。

ただし、最初のうちは、どうにも浮ついた感じがしてドラマの世界に入り込めなかった。純平の言動には高揚感こそあるものの、刑務所に入ったり、下手をすれば殺されるかもしれないという苦悩や葛藤が、まったく見えないのだ。それに寄り添う加奈にしても、ただの軽~い女にしか見えなかった。

だが、ドラマの進行とともに、それが少しずつ変化してくる。そのカギを握るのが、今風の極みであるSNSだ。なんと加奈は、純平が鉄砲玉であることをはじめ、自分たちの行動を頻繁にSNSに投稿するのである。そんな彼らに対してSNSの住人たちがレスをする。真剣に2人の行く末を案じる者、冷ややかに見つめる者、「どうせ作り話」だと決めつける者など様々だ。そうした書き込みが頻繁にスクリーンに映し出される。

その書き込みを背景に、最初はただの行きずりだった純平と加奈の関係は、少しずつ深いものへと変わっていく。組からもらった金で新宿を見降ろす高級ホテルに泊まり、好きなものを食べ、踊り、SEXをする2人。さらに、純平の故郷へ行き、疎遠だった彼の母と会ったりもする。

それらを通して、2人はお互いを理解し惹かれあっていく。それによって2人に苦悩や葛藤が生まれる。純平が鉄砲玉になる日が目前に迫る中、彼を止めて2人で逃げることを考えるようになる加奈。一方、純平も心に迷いが生じてくる。

さらに、そこにSNS上の声がリンクしてくる。純平を止めようとする声だ。もちろん相変わらず悪意に満ちていたり、冷ややかだったりする書き込みもあるのだが、2人の幸せを願う善意の声が圧倒するようになる。「純平、考え直せ」というタイトルは、まさにそうしたSNS上の声なのだ。

SNSの住人たちの何人かについては、それぞれの境遇が示唆される。学校でいじめられているらしい女の子、思い描く人生が送れずにホストクラブでアルバイトする男、ホームレスの男などである。それが「純平、考え直せ」という彼らの思いを、より説得力のあるものにする。実際に歌舞伎町に足を運んで、純平を止めようとする者まで現れる。

その様子を見ているうちに、観客もまた次第に純平と加奈に肩入れし、どうにかして2人が幸せになる方法はないものかと思い始める。つまり、純平と加奈の愛の深まりと、SNSの声、そして観客の思いの3者がリンクして一つの方向を向くわけだ。このあたりはなかなかに見事な仕掛けである。

そんな中で、いよいよ決行の日を迎えた純平。はたして、彼はどんな道を選ぶのか……。

結末はそれほど驚くべきものではない。だが、新宿の神社(たぶん花園神社)で待つ加奈の願いを映像化して、余韻を残したラストは鮮烈で心を揺さぶる。最初は何だか浮ついていた2人の関係が、次第に深化して、やがて純愛へと昇華していった。そのことを実感させられる切なすぎるラストシーンである。

主演の野村周平は、ヤクザ者にしてはやや優等生すぎる風貌だが、純真で優しいヤクザという設定からすれば、意外に合っているのかもしれない。

そして何よりも加奈を演じた柳ゆり菜である。ただの今風の軽い女の子という最初の印象が、最後にはまったく違ってしまう。特にラストシーンの情感をたたえた表情が素晴らしい! 過去にもどこかで見たと思ったら、「チア☆ダン ~女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話~」に出てた子だったのねぇ。今後も楽しみ。

ヤクザが主人公とはいえ、昔のヤクザ映画のようなドロドロ、ギラギラという感じはまったくない。現代社会を投影させながら、特殊な状況下に身を置いたカップルを描いた危険で切ない青春ロマンス映画である。

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◆「純平、考え直せ
(2018年 日本)(上映時間1時間35分)
監督:森岡利行
出演:野村周平、柳ゆり菜、毎熊克哉、岡山天音、佐野岳、戸塚純貴、佐藤祐基、藤原季節、日向寺雅人、森田涼花、木下愛華やしろ優下條アトム二階堂智片岡礼子
*新宿シネマカリテほかにて公開中
ホームページ http://junpei-movie.com/

「寝ても覚めても」

寝ても覚めても
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。9月20日(木)午後7時より鑑賞(スクリーン1/D-12)。

~同じ顔を持つ2人の男の間で揺れ動く女の謎だらけの恋愛

濱口竜介監督の前作「ハッピーアワー」には驚かされた。4人の女性の日常と友情を描いた5時間超の長尺映画。それほど起伏のあるストーリーではないし、演じるのは無名の俳優ばかりなのに、すっかり引き込まれてしまった。5時間超があっという間に過ぎたのだった。

その濱口監督の商業映画デビュー作「寝ても覚めても」(2018年 日本)は、芥川賞作家・柴崎友香の恋愛小説の映画化である。第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門にも出品された。

主人公は大阪に暮らす泉谷朝子(唐田えりか)。足を運んだ写真展の会場で、偶然出会った鳥居麦(東出昌大)と出会い、運命的な恋に落ちる。友人の「あいつはアカン」という忠告も無視して、麦と楽しい日々を送る朝子。だが、麦は気まぐれな風来坊のような人物。ある日、忽然と姿を消す。

この映画には唐突に思えるところがいくつかある。例えば、朝子と麦の出会い。お互いに名乗り合って、それでいきなりキスって何なんだぁ~~。そういう恋愛もありってことなのか? 恋愛らしい恋愛をしたことのないオレには、謎だらけのドラマの発端なのだった。

そしてドラマは2年後に飛ぶ。場所は東京。朝子はカフェで働いている。彼女がコーヒーを届ける会社に、丸子亮平(東出昌大=二役)という社員がいた。朝子は彼を見て仰天する。麦とそっくりな顔をしていたのだ。麦のことが忘れられない朝子は亮平を避ける。だが、そんな朝子に亮平は好意を抱く。朝子も戸惑いながらも次第に亮平に惹かれていく。

ちなみに麦は「ばく」と読み、彼の妹の名は「米(まい)」という。朝子が思わず「麦」と呟いたのを聞いた亮平が、「動物園の獏?」と誤解するユーモラスなシーンもあったりする。

それにしても、あんなに似た男が現実にいるはずはないし(双子ならともかく)、いたとしても同じ女に出会うはずもないだろう。リアルさには決定的に欠けるドラマである。とはいえ、完全なファンタジーという感じでもない。現実と非現実の間を浮遊しているような不思議な雰囲気のドラマなのだ。

そんな中でも濱口監督らしさは随所に発揮されている。「ハッピーアワー」の醍醐味は、ていねいかつリアルに描かれた会話にある。それを通して、登場人物の揺れ動く心理が手に取るように伝わってきた。だから、5時間超の映画が少しも長く感じられなかったのである。

本作でも、登場人物の会話が印象深い。朝子、亮平、朝子の友人たちとの何気ない会話から、彼らの微妙な心理状態が見えてくる。もしかしたら、濱口監督はストーリーテリングよりも、突然の出来事の渦中に人物を放り込み、彼らがそこでどういう会話、行動をするかに興味があるのかもしれない。だとすれば、これは恋愛ドラマの形を借りた人間観察ドラマということなのか?

本筋とは関係のない会話が延々と続く場面もある。朝子のルームメイトで女優のマヤが、亮平の同僚で元演劇青年の岡崎と、芝居や演技についてバトルを展開する場面だ。なかなかに興味深い会話で、「ああいう人たちなら、ああいう会話をするよなぁ」と納得させられるのだが、本筋の恋愛ドラマとはあまり関係がない。これもまた人間観察ドラマならではのことかもしれない。

そしてドラマは5年後に飛ぶ。5年後、朝子は亮平と共に暮らしていた。穏やかで幸せな生活だ。「亮平が大好きだ」という朝子。そんな中、朝子は麦がモデルとして売れっ子になっていることを知る。それでも心は亮平にあると確信していた朝子だが……。

終盤で驚かされたのは、朝子の唐突な変心だ。「え? まさか」という場面があり、それからしばらくして「ええ? まさかまさか」というさらなる変心がある。普通の映画なら、そこに至る朝子の心根の変化をじっくりと説得力を持って描くと思うのだが、それがまったくないのだ。

うーむ。これもまた恋愛の一つの形ということだろうか。恋愛とは何でもアリなのか。恋愛音痴のオレだから、理解できないだけなのか?

いや、むしろ濱口監督はわざとそうしているのかもしれない。朝子の決意に至る経緯をじっくりドラマとして描くのではなく、会話や表情などのほんのわずかなヒントから、観客に推察させようとしているようにも思える。

朝子の変心の根底には、劇中に登場する東日本大震災が関係している可能性もある。朝子と亮平が強く結びついたきっかけは震災直後の混乱。被災地にも何度も2人で足を運んでいる。そして朝子が2度目の変心をする場所は被災地近くだ。これまた謎に満ちた展開といえるだろ。

とまあ、いろいろと謎が多いし、観る人によって様々な解釈や感想が湧いてきそうな作品である。個人的に、恋愛ドラマとして今ひとつ理解できないところはあったものの、ある種の人間観察ドラマとしてはそれなりに面白かった。濱口監督らしさは見て取れたし、今後の作品に注目したいところである。

役者では、二役を演じた東出昌大は、ほぼ同時期に「菊とギロチン」で全く違う役柄を観ただけに、幅の広い演技のできる俳優になってきたことを実感。朝子役の唐田えりかは、表情もセリフも平板に見えるところが多いのだが、あれは濱口監督の指示で意図的にやっているのだろう。何を考えているかよくわからない、ミステリアスな女性という設定だとすれば、それにふさわしい演技といえる。瀬戸康史山下リオ伊藤沙莉渡辺大知、仲本工事田中美佐子といった脇役陣も存在感のある演技だった。

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◆「寝ても覚めても
(2018年 日本)(上映時間1時間59分)
監督:濱口竜介
出演:東出昌大唐田えりか瀬戸康史山下リオ伊藤沙莉渡辺大知、仲本工事田中美佐子
テアトル新宿ほかにて全国公開中
ホームページ http://www.netemosametemo.jp/

 

 

「判決、ふたつの希望」

判決、ふたつの希望
TOHOシネマズ シャンテにて。2018年9月17日(月)午前11時20分より鑑賞(スクリーン2/D-10)。

レバノンの複雑な社会問題を魅力たっぷりの法廷劇に昇華

レバノンといえば複雑な中東情勢を背景に、様々な混乱を繰り返してきた国・・・というような知識しかない。

レバノンを舞台にした映画「判決、ふたつの希望」(L'INSULTE)(2017年 レバノン・フランス)を観る前には、その程度の乏しい知識で大丈夫かと心配したのだが、そんな心配は無用だった。

ドラマ全体の構図は、キリスト教徒のレバノン人とパレスチナ難民の対立だ。レバノン国内には、キリスト教徒のレバノン人に加え、大量のパレスチナ難民が居住し、そこから様々な問題が生まれているらしい。

パレスチナ難民で現場監督として住宅の補修作業をするヤーセル(カメル・エル・バシャ)は、アパートの住人でキリスト教徒のトニー(アデル・カラム)と工事をめぐってトラブルになる。ヤーセルがベランダの水漏れを修理したところ、トニーは感謝するどころか、排水管を叩き壊したのだ。ヤーセルは悪態をついて去り、憤慨したトニーは執拗に謝罪を求める。翌日、ヤーセルは上司とともにトニーのもとへ謝罪に行くが、トニーの放ったある一言に激怒してトニーを殴ってしまう。

トニーは何を言ったのか。「シャロンに殺されればよかった」という主旨の暴言を吐いたのだ。シャロンとは、レバノン内戦に介入したイスラエルの国防相。その言葉はパレスチナ難民にとって侮辱以外の何物でもない。

暴言を吐いたトニーは、当初は国粋主義者、あるいは人種差別主義者のような描き方がされている。観客の多くが彼を嫌い、憎しみを感じるように仕向けているのだ。一方、彼を殴ったヤーセルは有能な現場監督で、仕事熱心で家族思い。どう考えても、観客はヤーセルに肩入れしたくなるはずだ。

そんな中、トニーの身重の妻は、夫の言動にまゆをひそめ、対立を回避することを望んでいる。それがまた、トニーの偏屈ぶりを浮き彫りにする。

トニーとヤーセルの対立は、一向に解消しないままついに法廷に持ち込まれる。その法廷劇がこの映画の中心になる。最初の裁判で、ヤーセルはトニーが吐いた暴言について語らない。それでも彼は無罪になる。ここまでは当人同士の争いだったが、その後は事が大きくなる。

次なる裁判(第2審)では、トニー、ヤーセル、それぞれに弁護士がつく。トニーについたのはベテランのやり手弁護士で、右派勢力に近い関係にある。一方、ヤーセルについたのは若い女性弁護士。一見、頼りなく見える彼女だが、どうしてどうして。これがなかなかに優秀なのだ。

この個性的な新旧弁護士による白熱した論争が面白い。おまけに、裁判が始まって間もなく、2人の驚愕の関係が明らかになる。これによって、裁判はますます興味深いものになる。全く先の読めないスリリングな展開が続くのである。

当然ながら、このドラマの背景には、複雑なレバノンの国情やパレスチナ問題がある。ヨルダン内戦、ダムールの虐殺といった日本人にはなじみの薄い出来事も登場する。だが、心配はいらない。法廷劇の醍醐味がタップリで予備知識なしでも楽しめる。

この映画のジアド・ドゥエイリ監督はレバノン出身だが、ハリウッドで映画作りを学び、タランティーノの映画のアシスタントカメラマンを務めた経験もあるという。そのせいか、エンタメ的な見せる工夫が随所に散りばめられているのである。

法廷劇は弁護士同士の対決が中心だが、その一方でトニーとヤーセル、それぞれの胸中には様々な思いが錯綜する。ドゥエイリ監督は、アップを多用したカメラワークで、セリフ以外の部分で両者のそうした繊細な心理も描写していく。

トニーとヤーセルの争いは、もはや当人同士の争いの次元を越えてしまう。キリスト教徒のレバノン人VSイスラム教徒のパレスチナ難民というわかりやすい対立構造、そしてレバノンの複雑な社会に対する影響力から、マスコミが大きく裁判の様子を取り上げる。

それに触発されたレバノンの右派勢力やパレスチナ難民が激しく対立し、レバノン全土を巻き込んだ政治問題に発展してしまう。ついには大統領まで仲裁に出てくるが、それでも事態は収まらない。

裁判はいよいよ大詰めを迎える。そこでは、どうしてトニーがパレスチナ難民を憎むようになったのかが明らかになる。彼の言動の背景には、ある悲惨な事件があったのだ。そこに至って、当初は完全な悪役だったトニーの違った顔が見えてくる。同様に、ヤーセルが関わった過去の事件も明らかになり、それが彼の人物像に厚みを加える。両者の対立は単純な善VS悪の戦いではなかったのだ。

この経緯を通して、ドゥエイリ監督は誰かを悪者に仕立てようとはしない。暴力の恐ろしさや人間の狂気といった普遍的なテーマをあぶりだしていく。このあたりのさじ加減も絶妙だ。

そしていよいよ判決。ここもまるでハリウッド映画のように、法廷内外の動きを描いて盛り上げる。ただし、判決そのものはけっして驚くべきものではない。むしろ重要なのは裁判所を後にするトニーとヤーセルの表情だ。それは間違いなく希望感じさせるものだ。そこに至るまでに、トニーとヤーセルがほんの微かに心を通わせる場面が描かれているだけに、なおさら説得力を持って明るい光を感じることができるのである。

感情に任せてぶつかり合うのではなく、個人と個人が一人の人間同士として理解し合うことが最も重要ではないか。ドゥエイリ監督は、そんなメッセージを発しているのではないだろうか。

難しい外国の話などと敬遠せずに、気軽に楽しんで欲しい。そうすれば、そこから様々なものが得られるはずだ。

*今回はビジュアルかないので下記ホームページをご覧くださいませ。

◆「判決、ふたつの希望」(L'INSULTE)
(2017年 レバノン・フランス)(上映時間1時間53分)
監督:ジアド・ドゥエイリ
出演:アデル・カラム、カメル・エル・バシャ、カミーユ・サラメ、リタ・ハイエク、クリスティーヌ・シューイリ、ジャマン・アブー・アブード
*TOHOシネマズ シャンテほかにて公開中
ホームページ http://longride.jp/insult/

「愛しのアイリーン」

愛しのアイリーン
シネクイントにて。2018年9月16日(日)午後1時より鑑賞(スクリーン1/F-6)。

~愛のない結婚が招いた暴走と人間存在の複雑怪奇さ

山下敦弘監督の一連の作品をはじめ、ダメ人間を描いた映画にはつい惹かれてしまう。それはもちろん自分もダメ人間だからである。

新井英樹の漫画を「ヒメアノ~ル」「犬猿」の吉田恵輔監督が映画化した「愛しのアイリーン」(2018年 日本)も、ダメ人間が総登場する映画だ。しかも、ラブコメのようなタイトルとは裏腹に相当に毒々しい映画なのだ。

舞台は地方都市の寒村。主人公は、パチンコ店で働く宍戸岩男(安田顕)。42歳。いまだ独身の彼は、年老いた母・ツル(木野花)と認知症気味の父・源造(品川徹)と暮らしている。

この岩男ときたら見るからにダメ人間だ。ヒゲ面、無表情、無口、内気。「こんなヤツには女の人も近づかないだろうなぁ」と納得してしまう造型なのだ。おまけに、その後の彼の行動を見ていると、ダメ人間というより下衆人間にさえ思えてくる。だから、当然共感などできないのである。

そんな岩男にも気になる女性がいる。パチンコ店の同僚のシングルマザーの愛子(河井青葉)だ。彼女から食事に誘われて、いい感じになったりもするのだが、結局は「本気になられては困る」と言われて失恋してしまう。

それをきっかけに岩男は姿を消す。勤務先からは休暇をもらったのだが、行先は誰も知らなかった。そんな中、父の源蔵が急死し葬儀が営まれる。その場に約2週間ぶりに現れた岩男は、フィリピン人の嫁アイリーン(ナッツ・シトイ)を連れていた。実は、岩男はフィリピンで嫁探しツアーに参加していたのだ。

岩男のお見合いツアーの模様は、フィリピンロケで描かれる。ツアーには岩男のように女っ気のない日本人のオッサンたちが、たくさん参加している。彼らの嫁候補のフィリピン女性は、ほとんどが金目当てである。その背景となるフィリピンの貧困層の暮らしなども垣間見られる。

とはいえ、そうした社会問題をシリアスに描くわけではない。むしろコメディー色が強い映画だ。登場人物の本音丸出しの破天荒な行状が、渇いた笑いを生み出していく。例えば、岩男がアイリーンと出会う場面。ほとんど女性とつきあったことのない岩男は、大量のフィリピン女性と見合いして疲労困憊し、「この人でいい!」とアイリーンを適当に選んでしまうのだ。

というわけで、アイリーンと岩男の結婚は愛のない結婚だ。おまけに彼女を待ち受けていた岩男の母ツルは、岩男を異常なほど溺愛していた。以前から、岩男の嫁候補にああだこうだと難癖をつけていた彼女が、突然現れたフィリピン娘を歓迎するはずがない。なんと源蔵の葬式の場で、ツルは猟銃を持ち出して、「自分かこの娘か、どちらかを撃て!」と岩男に迫るのである。岩男が下衆なら、母は岩男に輪をかけた下衆なのである。

このあたりまでの展開を観て、オレはてっきりこのドラマは、家族が絆を深めていくドラマだと考えた。愛のない結婚をした岩男とアイリーン、嫁を毛嫌いするツル。彼らがやがて一つの家族になる様子をコミカルに描いたドラマ・・・だと思ったわけだが、そんな生易しいドラマではなかった。後半に待っていたのは驚きの展開だ。

後半の鍵を握る存在がヤクザの塩崎(伊勢谷友介)。アイリーンに近づいた彼は、ツルと結託して悪事を働く。そこからは、バイオレンスに満ちた荒々しい展開に突入する。岩男とアイリーンはある種の共犯関係となり、それが二人の距離を縮める皮肉な様相を呈する。やや唐突な場面などもあるが、凄まじいエネルギーが登場人物の暴走を加速させていく。

そして心に闇を抱えた岩男は、欲望のままに暴走を続ける。そこでの岩男は、もはや以前とは別人のような振る舞いを見せる。それを目の当たりにしたアイリーンとの憎しみあいが渦を巻き、ついに衝撃的な出来事が起きる・・・。

後半の展開はまさに毒々しさが全開だ。ただし、暴走の果てに訪れるクライマックスは美しい。「姥捨て」の話を使った雪上でのシーン。アイリーンとツル、それぞれの思いが伝わってきて思わずグッときた。

ダメ男を地でいく安田顕、したたかさとかわいらしさを同居させたナッツ・シトイ。風変わりな夫婦を演じた2人に加え、その他の脇役も印象的な演技を披露している。その中で何よりもすごいのは、銃まで振り回す暴走母役の木野花だろう。その鬼気迫る演技にはただ圧倒されるばかりだった。

観終わって感じたのだが、これは紛れもなく風変わりな夫婦のラブストーリーである。ひたすら女が欲しかった岩男と金が欲しかったアイリーン、お互いの欲望がもたらした愛のない結婚。それが波乱と暴走の果てに、思わぬ形の愛に転化する。岩男の母ツルとアイリーンもまた、憎しみあいの果てに、意外な形で心を通わせる。

そうしたドラマを通じて感じるのは人間存在の複雑怪奇さだ。岩男とツルをはじめダメ人間や下衆人間のオンパレードではあるものの、彼らを簡単に断罪することはできない。なぜなら、いずれの登場人物も多面的な表情を見せるからだ。例えば、岩男のダメさの根底には真面目さや純情さがある。その裏返しが後半の暴走だろう。

岩男に対して異常なほどの愛情を示すツルも同様だ。ラスト近くで、彼女がどうしてそんな母親になったのかが描かれる。それを見れば、ツルが根っからの悪人ではないことがわかる。

ヤクザの塩崎にも、彼を悪事に走らせる過去がある。それ以外の人物も含めて、単純な善悪を超えた多面的な存在としての人間が描かれる。「これでもか!」と人間の暗部を見せつけられても、目を背けることができないのはそのせいだろう。岩男やアイリーン、ツルらに共感はできなくても、「それも人間なのだなぁ」と納得させられるのである。

そういう点で実に観応えのある作品だった。心がざわつき、何とも言えない複雑な後味が残った。

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◆「愛しのアイリーン
(2018年 日本)(上映時間2時間17分)
監督・脚本:吉田恵輔
出演:安田顕、ナッツ・シトイ、河井青葉、ディオンヌ・モンサント福士誠治品川徹田中要次伊勢谷友介木野花
*TOHOシネマズ シャンテほかにて全国公開中
ホームページ http://irene-movie.jp/

「1987、ある闘いの真実」

1987、ある闘いの真実
シネマート新宿にて。2018年9月11日(火)午後12時20分より鑑賞(スクリーン1/E-14)。

~韓国の歴史の転換点となった学生拷問死事件。社会派ドラマがエンタメ映画に

韓国映画は密度の濃い作品が多い。少し前に日本公開になった「タクシー運転手 約束は海を越えて」のような社会派の映画でも、ちゃんとしたエンタメ映画として成立させている。様々な要素をギッシリ詰め込んで、観客をあの手この手で楽しませてくれるのだ。

「ファイ 悪魔に育てられた少年」で知られるチャン・ジュナン監督による「1987、ある闘いの真実」(1987: WHEN THE DAY COMES)(2017年 韓国)も、そんなタイプの映画だ。軍事政権下の韓国で起きた実録ドラマ。民主化運動の転換点となった大学生拷問致死事件を取り上げた社会派ドラマでありながら、スリル、サスペンス、涙、笑い、感動などをギッシリ詰め込んだ密度の濃いエンタメ映画となっている。

問題の事件が起きたのは1987年1月14日。全斗煥大統領率いる軍事政権の圧政に反発する学生の民主化デモが激化する中、ソウル大学の学生パク・ションチョルが、警察の取り調べ中に死亡する。報せを受けた南営洞警察のパク所長(キム・ユンソク)は、隠蔽のために遺体の火葬を命じる。だが、不審に思ったチェ検事(ハ・ジョンウ)は、上司の忠告を無視して司法解剖を強行し、拷問による死だったことを突き止める。

いかにも悪そうなパク所長の面構え。冷酷非情に反体制派を弾圧する彼は完全な敵役だ。これに対抗するチェ検事は正義のヒーロー、といいたいところだが、実はそうでもない。仕事中から酒を飲み、感情をむき出しにするアウトロー的な人物なのだ。火葬の要求を拒否するのも、正義感からだけでなく、日頃からの警察嫌いがそうさせているように思える。このあたりの屈折した構図が面白い。

学生の死因が水責めによる拷問死であることが明らかになったものの、警察はそれを認めようとしない。チェ検事は東亜日報のユン記者に情報をリークし、ようやく死因が暴露される。すると政府は今度は、パク所長の部下の2人の刑事の逮捕で、事件の幕引きを図ろうとする。

こうして警察、検察、マスコミが入り乱れて、事件の真相をめぐるバトルが展開する。これが実にスリリングで、サスペンスフルなのだ。観客には最初から事件の真相が見えているにもかかわらず、まったく飽きることはない。異様な緊張感がスクリーンを包み、観客の心をざわつかせる。それでいて、様々な小ネタで笑いをとることも忘れない。何という巧みな構成だろう。

前半で存在感を見せたチェ検事だが、意外にも早いうちに消えてしまう。公安部長の職を解かれて弁護士となり、終盤になるまでほとんど登場しなくなる。だが、それでも面白さが失速することはない。相変わらず凄まじい迫力を示すパク所長に加え、様々な人物が次々に登場してドラマを盛り上げる。

ちなみに主要な人物については、テロップで名前と肩書きが紹介されるのだが、日本版ではそれを日本語で表示してくれる。その配慮もありがたい。

後半の重要な舞台は刑務所となる。そこには、すべての罪をかぶせられた2人の刑事が収監されている。彼らとパク所長たちとの間には、不穏な空気が流れる。その中で、重大な秘密も明らかになる。それを目撃していたのが看守のハン・ビョンヨン(ユ・ヘジン)だ。

実は彼は、民主化運動で指名手配中のリーダーのキム・ジョンナムソル・ギョング)に秘かに協力していた。真相を暴こうとするキムたちに、刑務所でつかんだ情報を手渡していたのだ。だが、当局の監視が厳しい中で、それを成し遂げるのは簡単なことではない。それによって緊迫の場面が登場し、破格のスリルが生み出されるのである。

そして、後半には、この映画で数少ない女性の活躍が見られる。ハンの姪の女子大生ヨニ(キム・テリ)だ。ハンに頼まれて民主化運動の伝令役を果たす彼女だが、そのコメディエンヌ的キャラクターで、笑いも巻き起こしていく。さらに、彼女が好意を寄せる男子大学生のイ・ハニョル(カン・ドンウォン)も、終盤のドラマで重要な存在となる。

終盤、当局による弾圧は熾烈を極め、拷問もさらに激しくなる。彼らの最大のターゲットはキム・ジョンナンであり、彼を捕まえるためにあの手この手を使う。彼が潜伏している寺での大捕物は、なかなかの迫力とスリルだ。

さらに、その後には教会での大捕物も用意されている(寺と教会がどちらも反体制派に肩入れするのも興味深い)。そこではパク所長自らがキムをとらえようと乗り込む。追う警察。逃げるキム。キリストを描いた絵(ステンドグラス)を使ったケレン味あふれる映像も飛び出す。

おまけにその少し前には、徹底した敵役であるパク所長が、どうしてそうなったかという過去をチラリと見せ、彼の人物像に厚みを加えている。ここもまた心憎い仕掛けである。

映画全体を通して、社会派としての一線はきっちり守る。民主化デモの様子はリアルで、それを弾圧する権力側の恐ろしさがひしひしと伝わってくる。殺された学生の遺族の怒りや悲嘆なども観客の胸を直撃するはずだ。

ある学生をめぐるさらなる事件を描き、民主化デモの真っただ中にヨニを放り込むラストも素晴らしい。悲しさ、怒り、そして民衆たちのパワーを実感させる。このパワーが直接選挙を実現させ、その後の韓国の民主化をもたらしたことが強く印象付けられるラストである。

日本がバブルに浮かれ始めた頃に、韓国ではこういうことが起きていたのですなぁ。つい最近も韓国の人々は、「ろうそくデモ」で朴槿恵前大統領を退陣に追い込んだわけだが、その下地になった出来事といえるかも。それに対してワタクシたち日本国民は・・・。てなことまで考えてしまうのである。

それにしても、この映画に登場する役者たちの豪華さよ。キム・ユンソク、ハ・ジョンウ、ユ・ヘジン、ソル・ギョングカン・ドンウォンなど、いずれも韓国映画ではおなじみの俳優たち。パク・チャヌク監督の「お嬢さん」でキム・ミニの相手役を務めて一躍注目されたキム・テリも出演している。こうしたキャストもまた、この映画の魅力を高めるのに貢献している。

とにかくお腹いっぱいです。こうして今回もまた、社会派でありながらエンタメ映画としてきちんと成立させた韓国。日本でも、こういう映画ができないものかしらんと思うのだが。やっぱり無理?

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◆「1987、ある闘いの真実」(1987: WHEN THE DAY COMES)
(2017年 韓国)(上映時間2時間9分)
監督:チャン・ジュナン
出演:キム・ユンソク、ハ・ジョンウ、ユ・ヘジン、キム・テリ、パク・ヒスン、ソル・ギョング、イ・ヒジュン、キム・ウィソン、キム・ジョンス、オ・ダルス、コ・チャンソク、ムン・ソングン、ウー・ヒョン、チョ・ウジン、パク・ジファン、ユ・スンモク、ヨ・ジング、カン・ドンウォン
*シネマート新宿ほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://1987arutatakai-movie.com/

「500ページの夢の束」

500ページの夢の束
新宿ピカデリーにて。2018年9月9日(日)午後12時45分より鑑賞(シアター5/C-9)。

~「スター・トレック」への熱い思いで成長する自閉症の少女の旅

兄弟や姉妹が揃って俳優という例はよくあるが、揃ってバリバリと活躍しているケースは、それほど多くないのではないか。そんな中、ダコタ&エルのファニング姉妹は、幼い頃から今に至るまで両者ともコンスタントに活躍を続けている。

そして今回、姉のダコタ・ファニング自閉症の女性という難しい役を演じたのが、「500ページの夢の束」(PLEASE STAND BY)(2017年 アメリカ)である。

主人公は自閉症の女性ウェンディ(ダコタ・ファニング)。施設で、ソーシャルワーカーのスコッティ(トニ・コレット)の支援を受けながら暮らしている。

自閉症といっても、様々な症状があるのだろうが、ウェンディの場合には人と話すのが苦手。自分のことが自分でできない。物忘れが激しい。そしてときどき感情のコントロールが効かなくなってしまう。

そんな彼女を自立に導くために、スコッティは毎日規則正しい生活を課していた。起床から就寝まですべてルーティンに沿って行動する。曜日ごとに着るセーターの色も決まっていた。日中はアルバイトもしていたが、その行き帰りも指示通りに行動する。

そんな彼女には唯一の楽しみがあった。映画の冒頭、ウェンディの目のアップが映る。彼女は閉じていた目を開ける。すると、彼女が語る物語が聞こえてくる。宇宙の物語だ。あの有名な「スター・トレック」である。

ウェンディは「スター・トレック」の大ファンで、趣味で脚本を書いていたのだ。「ストー・トレック」に関する知識なら、誰にも負けなかった。そして、ある日、「スター・トレック」の脚本コンテストが開かれることを知ったウェンディは、自ら書いた脚本を応募しようと考える。

ウェンディは最初から施設に入っていたわけではない。長らく面倒を見てきた母が亡くなったのちは、姉オードリー(アイリス・イヴ)が彼女の面倒を見ていた。だが、オードリーの妊娠などをきっかけに、施設に入ることになったのだ。

ウェンディは再び姉一家と暮らすことを願っていた。何よりも、叔母としてオードリーの子どもと対面したいと思っていた。だが、オードリーはそれを拒否する。彼女はウェンディを愛していた。できれば一緒に暮らしたいとも思っていた。それでも、ウェンディが抱える自閉症の厄介さを熟知しているだけに、前に踏み出すことができなかったのだ。

そのことによってウェンディは混乱し取り乱す。同時に脚本コンテストが、郵送では締め切りに間に合わないことに気づく。そこで、ウェンディは、もはや自分で直接脚本を届けるしかないと考え、早朝に無断で施設を抜け出し、ロサンゼルスのパラマウント・ピクチャーズを目指すのだった。

そこからはウェンディのロードムービーが展開する。彼女の後をついてきた愛犬ピートも一緒に旅をする。だが、その旅は苦難の連続だ。何しろウェンディは、人とうまくコミュニケーションがとれず、生活の基本も単独ではうまくこなせない。ほとんどのことが初めての体験なのだ。

苦労しながらどうにかバスの切符を買ったものの、ピートの存在がバレてバスから降ろされてしまう。途中で出会った親切そうな若い母親と会話を交わすが、あえなく金を奪われてしまう。

そんなハラハラドキドキの経験を重ねるウェンディの心理を、ベン・リューイン監督はリアルに見せていく。ウェンディに寄り添いつつも、適度な距離感を保って彼女を見守る。しかも、その視線は温かい。おかげで、自閉症のことをよく知らなくても、まるで自分がウェンディになったかのような気持ちを味わってしまう。

それには、ダコタ・ファニングの迫真の演技も大きく貢献する。彼女が見せる様々な表情が、自閉症の女性という枠を越えてウェンディの多面性を浮き彫りにしていく。ストレートな感情表現だけでなく、内面に抱えた様々なものもしっかりと見えてくる演技である。

というわけで、一歩間違えば深刻で重いタッチになりがちな映画だが、全編にユーモアをまぶしているのがこの映画の大きな特徴だ。その中心になるのが「スター・トレック」ネタだ。ただし、「スター・トレック」を知らない人でも笑えるように配慮されているからご安心を。

中盤からのロードムービーでは、ソーシャルワーカーのスコッティと姉オードリーも大きな役割を果たす。ウェンディの行方を必死で追う2人。

それを通してスコッティは、今までのウェンディに対する接し方が良かったのかどうか自問自答する。また、同行した息子との絆を強めていく。ちなみに、この息子も大の「スター・トレック」好きで、ウェンディの理解者として大活躍する。一方、姉のオードリーは、ウェンディに対する愛を再確認し迷いを吹っ切っていく。

ウェンディの旅はトラブルばかりではない。親切で優しい人にも出会う。孫が障がいを持つという老婆もその一人だ。だが、その出会いがまたまた大騒動につながる。

はたして、ウェンディは無事に脚本を届けられるのか。クライマックスの前には、この映画最大の笑いどころが用意されている。ウェンディと「スター・トレック」好きの警官による奇妙な会話だ。ここは爆笑必至の場面。それを経てウェンディの旅は終幕を迎える。

旅を通じてウェンディはほんの少しずつ成長していく。「脚本を届ける」という強い思いが、彼女を変えたのだ。それまで自分に自信を持てず、明確な自己主張ができなかったウェンディが、終盤で思いっきり胸の内をぶちまけるシーンは、そんな彼女の成長を象徴的に表す場面だろう。ここでのダコタの演技も出色だ。

脚本コンクールの成否とは関係なく、バイト先の同僚との心温まるエピソードをさらりと挿入し、家族の絆で締めくくるラストも心地よい。観終わって爽やかな風が吹き、心がポカポカと温まった。そして何よりも、強い思いで自分を変えて前に進んだウェンディの姿が、多くの人に勇気を与えてくれそうな映画である。

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◆「500ページの夢の束」(PLEASE STAND BY)
(2017年 アメリカ)(上映時間1時間33分)
監督:ベン・リューイン
出演:ダコタ・ファニングトニ・コレットアリス・イヴ、リヴァー・アレクサンダー、マイケル・スタール=デヴィッド、ジェシカ・ロース、マーラ・ギブス、ジェイコブ・ワイソッキ、パットン・オズワルト、ロビン・ワイガート
新宿ピカデリーほかにて全国公開中
ホームページ http://500page-yume.com/

「きみの鳥はうたえる」

きみの鳥はうたえる
新宿武蔵野館にて。2018年9月8日(土)午後2時20分より鑑賞(スマリーン1/C-4)。

~「終わりの予感」が漂う中、いとおしく切ない若者たちの夏

北海道・函館の映画館、函館シネマアイリスの開館20周年記念作品として製作された映画。原作は作家・佐藤泰志の小説。佐藤泰志は、5回も芥川賞候補になりながら一度も受賞できず、1990年に41歳で自殺している。死後しばらくしてから注目を集めるようになり、「海炭市叙景」(2010)、「そこのみにて光輝く」(2014)、「オーバー・フェンス」(2016)が映画化された。それに続く映画化4作目となる。

ちなみに過去の作品は、いずれも地元の函館の人々が中心となって映画化したもの。今回もそれは同様だ。そのせいか、原作は東京が舞台だが、映画では過去作同様に函館に舞台を移している。また、時代も現在に変更しているため、スマホやラップ音楽といった原作の執筆時にはなかったものもたくさん登場している。ストーリー展開そのものもかなり改編しているようだ。

2人の男と1人の女の青春ストーリーである。函館郊外の書店で働く「僕」(柄本佑)は、失業中の静雄(染谷将太)と小さなアパートで一緒に暮らしていた。そんなある日、「僕」は書店の同僚の佐知子(石橋静河)と関係を持つ。それをきっかけに、佐知子は毎晩のようにアパートへ遊びに来るようになる。そして、3人は一緒に夜通し酒を飲んだり、クラブで踊ったり、ビリヤードをする。

そんな彼らの気ままな日常が描かれる。これといって大きな出来事は起きない。大仰な描写もまったくない。だが、そこには様々な感情が渦巻いている。

「僕」は他人から「誠実でない」といわれるようにいい加減で、暴力性も持ち合わせた人間だ。一方、静雄は優しくておとなしい青年。まったく性格の違う2人だが、なぜか気があってお互いを尊重している。

そんな2人のところにやってきた佐知子が、男たちの関係性に微妙な影を落とす。まあ、早い話が三角関係の映画ともいえるわけだが、ドロドロの関係が描かれるわけではない。「僕」は、佐知子と恋人同士のようにふるまうものの、お互いを束縛せず、静雄と佐知子が2人で出かけることも気にしないと言う。それに対して静雄も「僕」に気を使い、「僕」が佐知子と2人きりの時には、できるだけ家にいないようにしたりする。

3人の若者たちの日常からは、青春のきらめきが見えてくる。ただし、それはまばゆいばかりのきらめきではない。映画全体を包むのは“終わりの予感”だ。「僕」も静雄も佐知子も、このままの暮らしがずっと続くなどとは思っていないようだ。楽しい夏が過ぎ去り、いつかこの関係性に終わりがもたらされ、やがて青春の日々が終焉を迎えることを予感しているように感じられる。

その予感がスクリーン全体を終始覆い、単なるキラキラした青春映画とは異質の空気感を醸し出す。そして、その予感があるからこそ、彼らが過ごす「今」という日常がこのうえなくみずみずしく、いとおしく、切ないものに見えてくるのである。それが、この映画の最大の魅力ではないだろうか。

3人の会話は、まるでアドリブのような自然な会話だ。アップを多用しつつも、時にはセオリーをはずしたようなカメラワークも面白い。三宅唱監督は、セリフに頼りすぎずに、役者のしぐさや微妙な表情の変化で心の揺れ動きを繊細に描いていく。

3人の若者を演じた柄本佑石橋静河染谷将太の演技もなかなかのものだ。特に心の奥にある複雑な感情を垣間見せる石橋の演技は特筆もの。それにしても、やっぱり若い頃の原田美枝子の面影を感じさせるなぁ。親子だから当たり前だけど。

そんな3人がクラブで遊ぶシーンが印象深い。最初はちょっと冗長な感じがしたのだが、よくよく見ると「僕と佐知子」「静雄と佐知子」、そして「3人」という構図を巧みにつなげて、それぞれの思いや関係性を巧みに表現している。また、函館の夜明けの街を夜通し遊んだ3人が歩くシーンなども、いかにも青春映画らしいシーンで心に染みる。

ドラマは中盤以降にさざ波が立ち始める。ある人物との関係を清算しようとする佐知子。同僚の店員とトラブルを起こす「僕」。母親との関係に悩む静雄。そうしたものを内包しつつ、3人の関係は変わり始める。

みんなでキャンプに行くことを提案する静雄。しかし「僕」は、その誘いを断り、キャンプには静雄と佐知子の2人が行く。そこから彼らが帰ってきた時に……。

ラストは彼らの終わりの予感が現実のものとなる。そこで、「僕」がとる行動が興味深い。日頃から「何を考えているかわからない」といわれる彼が、ストレートに感情を表現する。それに対して、佐知子が見せる表情がこの映画のラストシーンだ。

この表情をどう解釈するか。それは観客に委ねられているのだが、個人的には佐知子の決意はすでに揺るぎないものであり、二度と元に戻ることはないと確信する。青春とはそういうものなのだ。夏はもう終わったのだ。彼らそれぞれの前にあるのは、きっと今までとは違った道なのだろう。

地味で小ぶりではあるものの、青春の一瞬の輝きと終わりを実によく表現した映画だと思う。

本作を観たら、過去の佐藤泰志の映画化作品「海炭市叙景」「そこのみにて光輝く」「オーバー・フェンス」もぜひ観てください。いずれも素晴らしい作品なので。特に「そこのみにて光輝く」は必見!

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◆「きみの鳥はうたえる
(2018年 日本)(上映時間)1時間46分
監督・脚本:三宅唱
出演:柄本佑石橋静河染谷将太、足立智充、山本亜依、柴田貴哉、水間ロン、OMSB、Hi’Spec、渡辺真起子萩原聖人
新宿武蔵野館ほかにて公開中。順次全国公開予定
ホームページ http://kiminotori.com/