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映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男」

「アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年1月7日(土)午後12時5分より鑑賞。

「反省だけなら猿でもできる」と言われるようになったのは、反省ポーズ(手を付いて首をうなだれてみせる)をする猿回しの猿が登場したのがきっかけだったと思う。1990年代初頭にブームになり、CMにも起用されている。

確かに形ばかりの反省というのは問題だろう。それでは本当の再出発はできないはずだ。しかし、実際に心から反省するというのは難しいもので、形だけの反省が横行しているのは今も昔も変わらないのではないか。

反省が必要なのは個人だけではない。国家だって過ちを犯せば反省が必要だ。特に戦争に対する反省は、いつの時代も重要なテーマだ。だが、これとてそれほど簡単なものではない。それを痛感させられるのが、ドイツ映画「アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男」(DER STAAT GEGEN FRITZ BAUER)(2016年 ドイツ)である。

1950年代後半のドイツ・フランクフルト。戦争の記憶が風化しつつある中で、ナチス戦犯の告発に執念を燃やす検事長フリッツ・バウアー(ブルクハルト・クラウスナー)。ある日、彼のもとに逃亡中のナチス親衛隊中佐アイヒマンが偽名でアルゼンチンに潜伏しているとの手紙が届く。アイヒマンの罪を裁くため、国家反逆罪に問われる危険を冒して情報をモサドイスラエル諜報特務庁)に提供するバウアー。部下のカール検事(ロナルト・ツェアフェルト)とともに証拠固めを進めるが、周囲にはナチスの残党が目を光らせており、激しい妨害や圧力にさらされる……。

ナチスでユダヤ人虐殺の中心的役割を担ったアイヒマンが、1960年に潜伏先のアルゼンチンでモサドに拘束され、エルサレムの法廷で死刑宣告されたというのは有名なお話。それに関する映画も何本か作られている。しかし、その裏で意外なドイツ人が活躍していたというのは、オレはまったく知らなかった。それが検事長のフリッツ・バウアーだ。

この映画の舞台となった1950年代後半のドイツは、経済復興が進む一方、戦争の記憶が風化しつつあったという。そんな中で、バウアーはナチス戦犯の告発に執念を燃やす。アイヒマンがアルゼンチンに潜伏していると告げる手紙を受け取った彼は、その情報をモサドに提供する。

だが、それは国家反逆罪に問われかねない行為だ。それでもバウアーがモサドに接触したのは、ドイツでは捜査当局をはじめあちこちにナチスの残党がいて、思うように事態が進まないと見たためである。実際に、彼らはバウアーの捜査をあの手この手で妨害する。アイヒマンが捕まれば、自分たちの戦争中の悪事も露見する危険性があるから彼らも必死だ。それでもバウアーは、部下のカール検事とともに、モサドを動かすために証拠固めを進める。

この映画は史実をもとにしたドラマだが、意外にエンタメ性が高いのが特徴だ。数々の妨害や脅迫をものともせず、遮二無二前進しようとするバウアー。しかし、周囲にはあちこちに敵対勢力が存在する。バウアーは、それをはねのけてターゲットに迫ろうとする。極秘情報がなぜか彼らに漏れてしまい、今度は逆にそれを利用して敵を欺くなど、敵対勢力との虚々実々の息詰まるような駆け引きが展開する。普通のサスペンスとしてもスリリングで十分に面白い映画である。

実はバウアーは当時はタブーとされた同性愛者だった。そして部下のカール検事も同じく同性愛者。その設定を生かした仕掛けで、ドラマに波乱を起こすところなども見応えがある。とはいえ、上司と部下が二人とも同性愛者なんて、そんな偶然があるのだろうか? と思ったら、どうやらカール検事はこの映画のために創作された架空の人物らしい。つまり、史実をベースにしつつも、フィクションも大胆に取り込み、あらゆる手段で観客を楽しませているわけだ。

そうした姿勢が娯楽映画としての充実度を高めている。バウアーはオッサンだ。しかもかなりの頑固者だ。これは観客を感情移入させるのに大きなハードルとなる。しかし、巧みな語り口とバウアーのすさまじいまでの執念によって、観客はいつのまにか彼を応援したくなってくるはずだ。

ただし、さすがにナチスを扱った映画だけに、ただのエンタメでは終わらない。バウアーはユダヤ人で、一見、復讐心からナチスを追っているかのようにも見える。しかし、映画を観ているうちにそうではなくて、とにかく正義を追及したいのだということがわかってくる。それは過去の歴史としっかり向き合うことでしか、本当の再生はできないという信念に基づく行動でもある。

その証拠にバウアーは、アイヒマンを捕まえるだけでなく、ドイツで裁判を受けさせてすべての真実を明らかにしようとする。ところが、その目論見はもろくも崩れ去る。それでも不屈の意志で前進しようとするバウアーの姿が、この映画のラストだ。すげぇ~オッサンである。演じるブルクハルト・クラウスナーもカッコよすぎるぜ。まったく。そして、そんな彼の執念がその後に結実したことが、最後にテロップで示されるのだ。

ドイツといえば、戦争責任と向き合い、きっちりと落とし前をつけた国というイメージがある。だが、最初からそうだったのではなく、バウアーのような努力があって初めてそうなったのだということが、この映画を通してよくわかった。

そして、この映画で描かれたことは、日本にも無縁ではないと思う。はたして日本は、かつての戦争ときちんと向き合ったのか。オレにはとてもそうは思えないのだが。戦争責任を曖昧にし、目先の利益だけを追ってきたことが、今の世の中をおかしくしていると言ったら言い過ぎですか? 

いや、戦争だけではない。最近の原発事故なども責任を曖昧にして、ひたすら復興を叫ぶことに違和感を持たずにはいられない。妥協やごまかしを許さずナチスを追うバウアーのような人物が日本にもいたら……と思わず考えてしまうオレなのだった。

というわけで、エンタメ映画としても、ナチスものの社会派映画としても上質な作品だと思います。

●今日の映画代、1300円。テアトル系の会員料金(TCGメンバーズカード)で鑑賞。