映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「教授のおかしな妄想殺人」

「教授のおかしな妄想殺人」
シネ・リーブル池袋にて。6月12日(日)午後4時30分より鑑賞。

今年の都民税・区民税の請求書が来た。なんと5000円だ。月5000円ではない。年間5000円なのだ。どうだ、ザマーミロ。なぜこんなことになったかというと、今年の確定申告で所得税がゼロになったからだ。昨年は、一昨年に骨折した膝のリハビリでまともに仕事ができず、収入が激減してこうなった次第である。面目ない……。

ということで、オレはほとんど税金を払っていない人間ということになる。例えば税金を払っていない人間は、政府や地方自治体に文句を言ってはいけないのだろうか。背中を丸めて小さくなっていなければいけないのだろうか。いや、別に脱税しているわけではないのだから堂々としていればいいのだが、元来の小心者ゆえ何やら居心地の悪い感じがしてしまうのも事実である。

そこでオレは考えた。映画評論家だの、映画ライターだの、試写会でタダで映画を観ている連中、もとい、皆さまは、誰にも遠慮せずに堂々と発言できるものなのだろうか。配給会社のご厚意で見せていただいた映画なのに、「なんじゃ、こんなもん。全然つまらんぞ。ボケ!」な~んてぶった切る勇気は持ち合わせているものなのだろうか。うーむ、オレならちょっと遠慮してしまうかも……。

なるほど、そういう意味で自腹で映画を観るというのは、素晴らしい行為なのかもしれない。誰にも気兼ねしないで、好きなことを言えるからね。

そんなこんなで今回取り上げるのは、ウディ・アレン監督作品『教授のおかしな妄想殺人』だ。アメリカ東部の大学に赴任してきた哲学教授のエイブ(ホアキン・フェニックス)は、人生の意味を見失い、無気力な日々を送っていた。そんな彼に教え子のジル(エマ・ストーン)は恋心を抱き、夫婦生活に問題を抱える同僚リタ(パーカー・ポージー)もアプローチする。ところがある日、悪徳判事の噂を耳にしたエイブは、その判事を自らの手で殺害する完全犯罪を思いつき、次第にその計画に夢中になっていく。それをきっかけに、エイブの人生は再び輝き出す……。

精神的にボロボロで、酒浸りだったり、性的不能だったり、挙句は自殺願望があってロシアン・ルーレットまでやっちまうエイブ。それが殺人に生きる意味を見出して、生き生きしていくという設定がこの映画のミソ。なんという皮肉な展開だろう。いかにもウディ・アレンらしいシニカルさと不条理さにあふれているではないか。

映画のタッチもいつものアレン流。登場人物の独白で話を進めるあたりもおなじみの手法。だが、なんだかちょっと違和感がある。アレン作品では、どんな役者も独自のアレン・ワールドに染まってしまうのだが、この映画のホアキン・フェニックスは違うのだ。持ち前のアクの強さ、クセモノぶりが健在で、浮きまくって見える。軽快な音楽も含めて、コメディー仕立てで描いているのにも関わらず、ちっとも笑えないではないか。だって、ホアキンったら、まるでサイコパスなんですもの。笑うより怖くなっちゃいますヨ~。

とはいえ、犯行後を描いた後半はなかなかの面白さだった。殺人の罪悪感を封印して、自己を正当化するエイブと、そんな彼にますます惹かれていくジル。前半のようなアクの強さが消えて、軽快にドラマが転がる。クスクス笑えるところもあちこちにあって、人間の複雑さや心の闇が、正攻法ではなく変化球で伝わってきた。

結末はありがちなものだが、それでも人生の皮肉という点では、一本筋が通った展開で、単なる勧善懲悪とは違う味わいが残る。

しかし、まあ、この映画はホアキンのクセモノぶりを堪能する映画でしょうね。昔はリヴァー・フェニックスの弟という称号がつきものだったが、今や押しも押されもしない実力派の俳優。けた外れの存在感だ。ウディ・アレンの映画でも、それが全く変わらないというのは、もの凄いことかもしれない。

でもって、もう一つの見どころはエマ・ストーンのおやじ殺しっぷり。あれはまずいぜよ~。エイブ教授じゃなくてもKOされちまいます。あのミニスカートは完全に反則。

今日の教訓 ゼニを払えば言いたいことが言える。でも、試写会に呼んでくれたらそれはそれで嬉しいんですけど……。

●今日の映画代1300円(久々のシネ・リーブル池袋。ここも今はテアトル系なので会員料金で鑑賞)