映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「午後8時の訪問者」

「午後8時の訪問者」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年4月8日(土)午後2時より鑑賞(スクリーン1/D-12)。

弟がいる。だが、一緒の家で暮らしていた幼少時はともかく、成人してからはほとんど会わなくなった。せいぜいお盆や年末年始に実家で顔を合わせるぐらいだ。別に仲が悪いわけではなくて、自然とそうなっただけなのだが。

カンヌ国際映画祭の常連で、2度パルムドール(最高賞)を獲得しているジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟は、ずっと兄弟で監督・脚本を務め、「ある子供」「息子のまなざし」「サンドラの週末」などのすぐれた作品を送り出してきた。はたして兄弟で協力して同じ仕事をするというのは、どんなものなのだろうか。全く想像しがたい世界である。

そんなダルデンヌ兄弟の映画は、少年犯罪、失業、貧困など社会問題を扱ったものが多い。そして今回の新作「午後8時の訪問者」(LA FILLE INCONNUE)(2016年 ベルギー・フランス)にも、そうした社会派の側面がある。若い女医を主人公にしたドラマで、医療問題や移民問題などが素材となっている。だが、直接的なメッセージが発せられるわけではない。むしろ人間の本質にグイグイ迫った作品といえるだろう。

主人公は若い女医のジェニー(アデル・エネル)。小さな診療所に勤務している。ただし、近いうちに大きな病院に移ることが決まっていた。ある日、診療所のベルが鳴り、研修医のジュリアンがドアを開けようとするが、ジェニーは診療時間を過ぎていたため制止する。翌日、身元不明の少女の遺体が見つかる。診療所の昨夜の監視カメラの映像にはその少女が助けを求める姿が映っていた。きちんと応対していれば少女は死ななかったと自分を責めるジェニーは、少女の身元を突き止めようと聞き込みを始めるのだが……。

映画の冒頭では、ジェニーがてきぱきと診療をこなす。そんな中、けいれんで運ばれてきた少年を見て、研修医のジュリアンがショックで固まってしまう。それを見たジェニーは、「患者に寄り添いすぎるな!」と厳しく指導する。

その後、診療所のベルが鳴り、ジュリアンが応対しようとするのだが、ジェニーは「もう診療時間を1時間も過ぎているから出なくていい!」と制止する。

そして彼女は、まもなく勤務する予定の大きな病院に向かい、そこのスタッフの大歓迎を受けて満面の笑みを浮かべる。

とくれば、ジェニーは医師として優秀でも、人間味のない典型的なエリート女に思えるかもしれない。しかし、その直後、彼女は今まで担当していた子供の患者から感謝されて、思わず涙ぐんでしまうのだ。こいつ、ホントはいいヤツじゃん!

そうなのだ。ジェニーは根はいいヤツなのだ。だが、同時に医師として出世のステップに足を乗せているだけに、それを隠して「あるべき自分」を演じようとしている。その微妙なバランス設定が、その後のドラマをより深いものにしている。

翌日、診療所の近所で死体が見つかり、それが昨夜、診療所のベルを鳴らした少女であることがわかる。「もしもあの時、ちゃんと応対していたら、少女は死ななくて済んだのでは?」。そう思ったジェニーは、自責の念から、その少女の身元を探ろうとする。

ミステリー仕立てでのドラマである。そのためギャングもどきにジェニーが脅迫されたり、謎が謎を呼ぶ展開が用意されている。ただし、ダルデンヌ兄弟が中心的に描くのは、謎解きではない。登場人物の心理描写だ。

ダルデンヌ兄弟お得意の、手持ちカメラを駆使したドキュメンタリータッチの映像で、ジェニーをはじめ様々な人物の心理をリアルに切り取っていく。特にジェニーについては、傷の手当てをしたり、脈を測ったりする日常の診療もていねいに描き、彼女の心の内を繊細に描き出していく。

事件の真相の鍵を握るのはある一家だ。秘密を抱えた父や息子の苦悩など、迷走を重ねる彼らの屈折した心理が巧みに描き出される。同時に研修医を断念した(ジェニーは自分の言動が原因だと思い込んでいる)ジュリアンが抱えた秘密も、ドラマに大きな影を落とす。そこから人間の奥底にある様々な本質が見えてくる。

このドラマを引っ張る原動力のひとつは、「なんでジェニーはそんなに必死で真相を追うのか?」という疑問だ。いくら罪悪感があるといっても、あそこまでやるのは普通ではない。

それについて明確な答えが提示されるわけではない(ハリウッド映画なら、実は彼女は過去に何かがあって……となりそうだが)。スクリーンに映る彼女を見て、観客が想像力をめぐらすしかない。

オレが思うに、やはりそれは彼女の迷いの表れではないだろうか。実は、ジェニーはわりと早いうちに、決まっていた病院への就職を断ってしまう。そして、今の診療所の後継者になると告げる。だが、そう決断してはいても、実際の心はグラグラ揺れ動いていたのではないか。「本当にこれでいいのか?」と。それを吹っ切るために猪突猛進で突き進んだように思える。

ラストシーンが印象深い。そこでジェニーは患者の老女を優しくサポートする。彼女がたどり着いたのは、そういう場所だったということだろう。不確実ながらも未来への希望が見えるラストシーンである。

いかにもダルデンヌ兄弟らしい映画だと思う。人物に寄り添い、人間の良心を信じる姿勢は不変だ。感情を刺激するような音楽もまったくなく、エンドロールも街の雑踏の音が流れるのみ。そこも彼ららしい。派手さはないが、味わい深さは一級品の作品である。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカード料金。ちなみに、この回は、心療内科医でエッセイストの海原純子さんのトークイベント付きでした。余計に得した気分。