映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「セールスマン」

「セールスマン」
新宿シネマカリテにて。2017年6月12日(月)午前9時45分より鑑賞(スクリーン2/A-6)。

ミステリー映画やサスペンス映画は、物語の筋立て以上に雰囲気が重要だ。スクリーンから立ちのぼる謎めいた空気感や破格の緊迫感が、作品の魅力を一気に高めてくれる。

イランのアスガー・ファルハディ監督は、その雰囲気の作り方が抜群に巧い。過去作の「彼女が消えた浜辺」(2009)、「別離」(2011)、「ある過去の行方」(2013)もそうだったが、今回の「セールスマン」(FORUSHANDE)(2016年 イラン・フランス)も、冒頭から謎に満ちた緊迫感あふれる世界を現出させる。

最初に登場するのは、芝居のセットを次々に映したカットだ。続いてあるアパートが倒壊の危機に瀕して、住人が慌てて避難する場面が描かれる。そこから早くも、観客を有無を言わせずスクリーンに引きずり込んでしまう。

主人公はイランで暮らす夫婦。夫エマッド(シャハブ・ホセイニ)は、学校の教師をしながら小さな劇団に所属している。妻のラナ(タラネ・アリドゥスティ)も、同じ劇団に所属している。2人はもうすぐ上演するアーサー・ミラー原作の芝居「セールスマンの死」に出演予定で稽古の真っ最中だ。

そんな中、突然、自宅アパートに倒壊の危険が生じて2人は立ち退きを余儀なくされる。まもなく、劇団仲間に紹介してもらった部屋に引っ越すが、そこには前に住んでいた女の荷物が残されていた。そして「セールスマンの死」の初日を迎えた夜に事件が起こる。エマッドより、ひと足早く劇場から帰宅したラナが何者かに襲われて、負傷してしまったのだ。

ファルハディ監督は事件発生の瞬間は描かない。その代わりに、事件によって揺れ動く人々の心理をスリリングに描き出すことで、観客の目をスクリーンに釘付けにする。もちろん中心的に描かれるのは、エマッドとラナの心理である。

ラナは事件によって精神的に深く傷つき、1人になることを極度に怖がるようになる。一方、エマッドは真犯人を突き止めるべく、警察に通報しようとする。だが、ラナは事件が表ざたになることを嫌がり、エマッドの説得に耳を貸さない。それによってエマッドはやり場のない怒りをどんどん募らせていく。こうして、2人の気持ちは少しずつすれ違い始める。

物語の背景には、イランの社会状況が織り込まれている。ラナが事件を表ざたにしたくないのは、女性が性的な被害を受けた場合に、女性の側が罰せられたり、白い目で見られたりする保守的なイラン社会の状況がある。

ただし、それはイランに限った話ではないだろう。日本でもその種の事件があると、SNS上などで女性を非難する言説がしばしば見られる。だからこそ、ラナの心情は観客にとっても他人事ではないはずだ。

その他にも急速な都市化や検閲制度など、現在のイランが抱える様々な問題を、さりげなくドラマの中に映しこんでいる。これもまたファルハディ監督の持ち味である。

中盤以降、いら立ちを募らせたエマッドは、犯人が残したトラックを手掛かりに、自ら真犯人を探そうとする。その心の奥では復讐の炎がメラメラと燃えている。彼は教師であり、劇団でアメリカの作家による芝居を演じることからもわかるように、本来は進歩的な人間だ。それが復讐の思いにとりつかれていくというのが、何とも皮肉な展開である。

エマッドとラナが演じる芝居「セールスマンの死」の場面もあちこちに挿入される。時代に取り残された初老のセールスマンと家族の悲劇を描いた名作戯曲だ。それがエマッドとラナ夫妻に起きた悲劇と重なって、なおさらスリリングでリアルな空気感を生み出している。

終盤、エマッドはついに真犯人を突き止める。しかし、その人物もまた様々な事情を抱えている(ここでも「家族」という問題が大きく関係してくる)。はたして、そんな人物に対してエマッドは復讐の刃を振り下ろせるのか?

そこからの展開はやや迷走する。ハリウッドのサスペンスのような単純な復讐劇に突き進むことはない。その分、エマッドとラナ、真犯人の心の揺れ動きがじっくりと描かれて見応えがある。それを通して、家族、夫婦、人間の罪、復讐、許しなど様々なテーマについて観客の思考を促すのである。

エンディングでは、虚ろな顔で芝居の出番を待つエマッドとラナの表情が、何とも言えない苦い余韻を残す。社会や人間を冷徹に見つめるファルハディ監督の鋭い視線は、今回もまったく揺らがない。

ちなみに、本作は、2016年の第69回カンヌ国際映画祭で男優賞と脚本賞を受賞。そして第89回アカデミー賞外国語映画賞を受賞している。その際に、ファルハディ監督と主演女優のタラネ・アリドゥスティが、トランプ政権のイスラム諸国からの入国停止措置に反発して授賞式への出席を拒否したのは有名な話だ。

ミステリーやサスペンスというと、謎解きの面白さを追求しがちだが、ファルハディ監督の映画はそれよりも、人間の心理描写に常に重点を置く。それだからこそ、なおさら面白くて深みが感じられるのである。もはや世界的に注目される存在となったファルハディ監督の映画からは、今後も目が離せそうにない。

●今日の映画代、1500円。事前に鑑賞券を購入。