映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「スパイの妻 劇場版」

「スパイの妻 劇場版」
2020年10月16日(金)グランドシネマサンシャインにて。午後12時40分の回(シアター11/F-11)。

~不穏な時代を背景に今の時代を射抜く歴史サスペンス

「世界のクロサワ」といえば黒澤明ばかりではない。もう1人、黒沢清監督も「世界のクロサワ」として世界的評価が高い監督だ。2015年の「岸辺の旅」で第68回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門監督賞を受賞。そして、「スパイの妻 劇場版」で第77回ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を受賞した。

さて、その「スパイの妻 劇場版」(2020年 日本)。なぜに「劇場版」と付いているかといえば、2020年6月にNHK BS8Kで放送されたドラマを、スクリーンサイズや色調を新たにして劇場公開したため。とはいえ8K映像だし、最初から映画化を考えていたのではないかと推測。チープさは微塵もありません。

黒沢監督にとって初の歴史もののドラマだ。1940年の神戸。映画は英国人商人がスパイの疑いをかけられて連行されるところから始まる。このドラマを取り巻く社会状況を端的に示す場面だ。

この時連行された商人は、友人の日本人の尽力により釈放される。それが貿易会社を営む福原優作(高橋一生)だ。彼は妻の聡子(蒼井優)とともに、立派な洋館に住み、使用人を抱えて優雅に暮らしていた。

ある日、優作は仕事で甥の竹下文雄(坂東龍汰)とともに満州へ渡る。やがて2人は帰国。その直後に、殺人事件が起きる。ある旅館の仲居が死体となって発見されたのだが、その旅館は福原夫妻もよく知っており、文雄が投宿していた。

そんな中、聡子の幼なじみでもある憲兵隊の津森泰治(東出昌大)は、殺された女性が優作たちに連れられて満州から帰国していたことを聡子に告げる。こうして夫に対する疑念が膨らんだ聡子は、優作を問い詰めるが、彼は何も語ろうとしなかった……。

というわけで、優作の抱えた秘密をめぐって夫婦の葛藤が展開されるかと思いきや、それは意外に早く判明してしまう。優作は満州で日本軍のおぞましい秘密を知り、正義感に突き動かされ、その事実を世界に公表しようと秘密裏に準備を進めていたのだ。聡子はそれを知り、優作と共闘して目的を果たそうとする。それこそが彼女の優作への愛の証だったのだ。

そんなわけで、映画の中盤でドラマ全体の構図はわかってしまうのだが、それでも面白さが失われることはない。その先も二転三転するストーリー展開、優作、聡子、泰治が絡み合う人間模様などでサスペンスとしての魅力がタップリ。いやいやサスペンスばかりではない。本作にはミステリー、恋愛ドラマ、活劇など様々な要素が散りばめられている。

この映画の脚本は、黒沢監督のほか、「寝ても覚めても」の濱口竜介と、濱口が「ハッピーアワー」で組んだ野原位が担当している。エンターティメントとして実に良く練られた脚本だ。セリフ回しがやや生硬なのも、本作にふさわしいものとして、あえてそうしたものだろう。また、ロケ地、美術、衣裳、美術など、すべてに半端ないこだわりが感じられ、本格派歴史ドラマとしても観応えがある。光と闇を強調した映像も素晴らしい。

だが、何よりも舌を巻くのは不穏な空気の漂わせ方だ。黒沢監督は過去の多くの作品で、ホラー映画的なタッチを持ち込み、不穏な空気を漂わせるのを得意としている。本作においても、聡子の見る夢のシーンをはじめ、ただものでない何かを感じさせるカットを随所に挿入し、不穏極まりない空気感を醸し出している。

黒沢監督の過去作では、その不穏さが得体の知れないものや、人間の底知れぬ闇に向けられることが多かったが今回は違う。本作でスクリーンを覆う不穏さは、戦争の足音が近づき、自由が奪われつつある当時の社会の空気そのものである。それを象徴する存在として描かれるのが憲兵の泰治だ。聡子に恋愛感情を持ちつつ、文雄に対して残虐な拷問を行い、優作と聡子を執拗につけ狙う。

そんな不穏な時代の空気の中で、優作と聡子の個人の物語を描くことで、時代の闇を鋭利にあぶりだす。その先にあるのは、やはり今の時代だろう。作り手の目は明らかに現代に向けられているのではないか。今の時代の不穏さも十分に意識して作られた作品だと思う。

とはいえ、基本はシンプルによくできたサスペンスである。冒頭近くでは、優作が趣味で作っている映画の撮影風景が登場する。聡子を女怪盗のヒロインに据えた映画だが、これがあとあとのストーリー展開でも効果的に使われる。また、優作と聡子が映画館で、山中貞夫監督(その後戦死した)の映画を観るシーンなども、実に心憎いシーンである。

そして、本作の凄みは最後に描かれる後日談からもうかがえる。夫婦の虚実の駆け引きの末にたどった聡子の戦争末期の運命を描き、戦争の過酷さや愚かさを見せつけ、さらにラストの意味深なテロップで良質のエンターティメントとしての余韻を残すのである。

蒼井優は聡子の心中の揺れ動きを繊細に表現する演技。序盤で、優作が留守の自宅に泰治を誘うあたりでは、「コイツ魔性の女か?」と思ったのだが、観ているうちにひたすら天真爛漫で真っ直ぐな女性であることが理解できた。そして、そんな彼女のラストシーンの美しく哀しい佇まいが、この映画で起きたことの重みを知らしめる。素晴らしい演技だった。

一方、その蒼井とは「ロマンスドール」に続いての夫婦役となる高橋一生だが、こちらも繊細な感情表現が見事。特に聡子との虚実の駆け引きの中で、本心がどこにあるのか悟らせないミステリアスな演技が印象に残った。

そして、東出昌大の嫌らしさ、陰湿さよ! この人、こういうヤバい役も似合うな。

過去の黒沢作品を観てきた人間にとっては過去作との比較などの楽しみもあるが、そうでない人にとっても様々な魅力を持った作品だろう。今の時代と共鳴する部分も多いだけに今観るべき映画だと思う。

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◆「スパイの妻 劇場版」
(2020年 日本)(上映時間1時間55分)
監督:黒沢清
出演:蒼井優高橋一生坂東龍汰恒松祐里みのすけ、玄理、東出昌大笹野高史
新宿ピカデリーほかにて全国公開中
ホームページ http://wos.bitters.co.jp/