「あのこと」
2022年12月3日(土)Bunkamuraル・シネマにて。午後1時より鑑賞(ル・シネマ1//B-7)
~中絶が禁止されていたかつてのフランスで孤独に戦う女子学生
いやぁ~、この日、私が渋谷に向かう副都心線は車両点検のせいで15分遅れ。大急ぎでようやく映画館に駆け込んだのだ。やれやれ。間に合わないかと思ったぜ。
鑑賞したのはフランス映画「あのこと」。2022年のノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノーの短編小説「事件」を映画化し、第78回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞に輝いた。ちなみに、その時の審査委員長はポン・ジュノ監督。
それにしても邦題の「あのこと」とは何とも意味深なタイトルですなぁ~。
1960年代のフランスが舞台だ。女子学生のアンヌ(アナマリア・ヴァルトロメイ)は、学業優秀で前途有望な大学生。努力の末に明るい未来をつかみかけていた。そんな中、大事な試験を前に思いがけずアンヌの妊娠が発覚してしまう……。
なんと当時のフランスは中絶が違法で、厳しく罰せられていたというのだ。そんな時にアンヌは予期せぬ妊娠をしてしまう。だが、自分の人生を諦めて子供を産む気にはなれない。さて、どうするのか。
本作で特筆されるのはカメラワークだ。手持ちカメラでアンヌの細かな表情をつぶさに描写するとともに、徹底的にアンヌ目線の映像で周囲を映す。それによって、彼女の揺れ動く心情がリアルに伝わってくる。突然の妊娠がもたらした戸惑い、混乱、苦悩、葛藤……。アスペクト比1.37対1という狭い画角も、彼女の生きづらさを象徴するようでこの映画にはふさわしい。
彼女は誰にも相談することができない。妊娠を告げた医師も、「刑務所には行きたくない」と関わり合いになるのを避ける。友人たちにもなかなか切り出せない。もちろん両親にも。
相手の男も頼りにならない。それを知ってか、アンヌは医師に対して「性交渉の経験はない」とまで言い切る。処女懐胎か!?ようやく途中で、相手はひと夏の付き合いだった大学生だったことがわかるものの、相手は他人事で全く頼りにならない。
アンヌは孤独な戦いを繰り広げる。スクリーンには、妊娠週を示すテロップが挟まれる。3週、4週……というように。これが緊迫感を煽る。どんどん時が過ぎて、アンヌは焦りの色を濃くする。
最初は別の医師に薬を処方してもらうアンヌ。医師は言う。「生理が再開する薬だ」と。だが、そうはならなかった。あとでわかることだが、それは妊娠を継続するための薬だったのだ。当時のフランスの医師の多くは、中絶を希望する女性に極めて冷酷だったのである。
そうこうするうちにアンヌは情緒不安定に陥り、成績も急降下する。大学の教員に、「このままでは進級できない」と言われてしまうのだ。アンヌの悩みはいっそう深くなる。
ついに、アンヌは自分で処置することを決意する。強引な手法で中絶しようとするのだ。苦痛に歪むアンヌの顔、そして声。
そう。この映画はアンヌの痛みもリアルに伝えるのである。それは男性の私にもよく伝わってきた。観ていてゾクゾクするほどだった。
それでも中絶に失敗したアンヌは、知人の伝手でようやく闇の中絶医に行き当たる。はたして、彼女は今度は中絶することができるのか。
このクライマックスの手術シーンは、さらに壮絶だ。手術の一部始終をアンヌの目線で映す。彼女の痛みがさらにダイレクトに伝わってきて、鳥肌が立つほどだった。あまりに痛々しくて、逆に目が離せなかった。
とはいえ、ラストはけっして暗くはない。かすかだがアンヌの将来に希望の光を灯して、ドラマは終わる。
監督はこれまで脚本家として活躍してきて、これが長編2作目となるオードレイ・ディヴァン。徹底したドキュメンタリータッチの作風は、ダルデンヌ兄弟を想起させる。あるいは痛みを描写するという点では、ミヒャエル・ハネケ監督を思い浮かべる。
主演のアナマリア・ヴァルトロメイは、これぞまさに体当たりの演技。アンヌの様々な感情の変化を全身で表現していた。
主人公の恐怖や痛みをホラー映画のように体感させることで、観客にこの時代の不条理さを強く訴えかけた作品だ。それは女性だけでなく、男性の胸にも響くことだろう。
そして、それは今に通じるメッセージにもなっている。アメリカの一部の州で、中絶が非合法化されている昨今だけに、なおさらである。文句なしの力作だ!
◆「あのこと」(L'EVENEMENT)
(2021年 フランス)(上映時間1時間40分)
監督:オードレイ・ディヴァン
出演:アナマリア・ヴァルトロメイ、ケイシー・モッテ・クライン、ルアナ・バイラミ、ルイーズ・オリー=ディケーロ、ルイーズ・シュヴィヨット、ピオ・マルマイ、サンドリーヌ・ボネール、アナ・ムグラリス、レオノール・オベルソン、ファブリツィオ・ロンジョーネ
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