「私たちが光と想うすべて」
2025年7月25日(金)Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下にて。午後1時30分から鑑賞(7F/C-12)
~困難な中で友情をはぐくみ明日への希望を見出す女性たち

この日、Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下に「私たちが光と想うすべて」を観に行こうと思った私。しかし、もう家を出ないと間に合わない。昼食をとっている時間がない。どうしよう。というので、Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下に着いて売店に飛び込んで、700円也のサンドイッチとアイスコーヒーを購入して客席へ。サンドイッチは小ぶりのものが2つとピクルスが2本。なに? おい、これで700円かよ! と怒りたくなったのだが、食べてみたら味はかなり美味しかったからまあしょうがないか。だいたい売店といっても、スタンドカフェ「ドゥ マゴ パリプチカフェ」というおしゃれな店だものね(写真は撮り忘れた)。
さて、インド映画といえば歌って踊って大合唱。テンコ盛りのアクションなどを思い起こすが、そうではない映画もたくさんある。
「私たちが光と想うすべて」は、製作はフランス・インド・オランダ・ルクセンブルの合作だが、中身はインドを舞台にしたインド映画。インド映画として初となるカンヌ国際映画祭グランプリを受賞した。
インドのムンバイで看護師をしているプラバ(カニ・クスルティ)と年下の同僚アヌ(ディヴィヤ・プラバ)は、ルームシェアをしている。だが、真面目なプラバと社交的なアヌの間には距離があった。プラバは親が決めた相手と結婚したが、ドイツで仕事を見つけた夫からはずっと連絡がない。一方アヌは、お見合い結婚をさせようとする親に内緒でイスラム教徒の男性と付き合っていた。そんなある日、病院の食堂で働くパルヴァティ(チャヤ・カダム)が高層ビル建設のために立ち退きを余儀なくされ、故郷の村に帰ることになる。プラバとアヌは引っ越しを手伝うために、彼女の村まで一緒に旅をするのだが……。
ムンバイ出身のパヤル・カパーリヤー監督は、これが長編劇映画初監督作品。これまではドキュメンタリーを監督していた。そのせいか、前半はドキュメンタリータッチの映像が目立つ。
冒頭はムンバイの街の風景が横移動するカメラで捉えられる。どうやらまだ暗い早朝らしい。店が軒を並べるが客はまだいない。しばらく後に暗闇は次第に明るくなり、電車が動き始める。ホームにはたくさんの乗客がいる。
それをバックにこの地に移住してきた人々の声がかぶる。地方では職もなく、ムンバイに移住してきたこと。しかし、ここが安住の地とは思えないこと。いつか追い立てられるのではないかという不安。
この冒頭のシーンからもわかるように、本作にはインドや大都市ムンバイが置かれた社会状況が如実に反映されている。ただし、声高にそれを叫ぶのではなく、あくまでも女性たちの友情を描いたシスターフッド映画の背景として描くのに留めているのが特徴だ。
ムンバイで生きるのは看護師のプラバ。指導的立場の看護師として勤務している。そのプラバを「お姉さん」と呼ぶのは年下の同僚のアヌ。姉妹なのかと思ったら、どうやら先輩に敬意を込めてお姉さんと呼んでいるらしい。2人はルームメイトだ。
ところが、この2人、性格や行動は正反対。真面目なプラバは、親に言われるままにあまり知らない男と結婚したが、その男は結婚後まもなくドイツで働き始める。最初こそ電話があったものの、ここ1年以上は音信不通なのだ。
映画の序盤、差出人のない荷物が届く。中を開けてみれば炊飯器。アヌがよく見てみるとメイド・イン・ジャーマニーと書いてある。プラバはドイツの夫が送ってきたのかもしれないと思い、寂しさから一人でその炊飯器を抱きしめる。それがとても切ない。
実はプラバに思いを寄せる男性がいた。他の土地からやって来た医師だ。彼は詩を書いてプラバに渡す。プラバに夫がいることも知っているという。彼の言動にプラバの心は乱れる。
一方のアヌは自由で陽気。金遣いが荒いらしくプラバに金を貸してくれるように頼む。そして、彼女には恋人がいて毎日のように会っていた。だが、彼はイスラム教徒。ヒンドゥー教徒のアヌとの間には大きな壁がある。親に話しても反対されるに決まっている。親はしきりに見合いを勧めてくる。
というわけで、プラバとアヌの間は微妙な関係だった。プラバもアユもお互いの行動が理解できない。ルームメイトだから露骨に相手に文句を言うことはあまりなかったが、それでも時として2人は衝突する。
だが、それでも2人には共通点があった。華やかな都会で不自由なく暮らしているように見えても、2人とも不安と満たされない思いを抱えていたのである。
前半はそんな2人の心情を繊細に切り取っていく。特に台詞以外の部分で多くを物語る。アヌと恋人とのスマホでのメッセージのやりとりを、スクリーン上にテロップで映し出すようなおしゃれな演出もある。随所にムンバイの街のドキュメンタリータッチの映像も挟まれる。
プラバは周囲から言われて、夫に電話をしてみるがつながらない。一方、アヌは恋人に言われてイスラム教の結婚式に出るためにヒジャブ(頭や身体を覆う布)を購入するが、結婚式は悪天候で中止になる。2人ともにっちもさっちも行かない状態だった。
そんな2人に大きな変化が訪れる。病院の食堂で働くパルヴァティが、高層ビル建設のために立ち退きを要求され、それに抗う。しかし、夫を亡くして書類も見つからない彼女は、弁護士からも手の打ちようがないと言われてしまう。息子も狭い家に家族と暮らしているので、迷惑はかけられないという。結局、彼女は故郷の村へ帰ることにする。
後半、パルヴァティの引越しの手伝いをするため、プラバとアヌは彼女の村まで一緒に行く。そこは美しい風景に彩られた海辺の村だ。そこで映像はネオン鮮やかな大都会の風景から、光を効果的に使った幻想的な映像へと転調する。
洞窟や森、海などの神秘的な風景に包まれて、プラバとアヌは2人とも得難い体験をする。特にプラバは、現実とも空想ともつかない不思議な出来事を経験する。それを通して彼女はある決断をする。
ラストの夜の海辺のカフェでのラストがとてもいい。控えめな照明が照らす中、プラバ、アヌ、パルヴァティらが海を見つめる。言葉は少ないが、微かな希望を感じさせるシーンだ。タイトル通りに、彼女たちはそこに明日への「光」を見たのかもしれない。
エンディングに流れる曲も、この映画のラストにふさわしい素晴らしいものだった。
家父長制、階級社会、急激な都市の再開発など彼女たちを取り巻く環境は厳しい。様々な困難が彼女たちを襲う。それでもめげずに、友情をはぐくみ、自由を得ようとする彼女たちの姿に心が温かくなった。
プラバを演じたカニ・クスルティ、アヌを演じたディヴィヤ・プラバ、パルヴァティを演じたチャヤ・カダムの繊細な演技も心に残った。
明確な結論のあるようなドラマではないが、その分観客が想像を巡らせる余白の多い映画だった。派手さはないが繊細で心に染みる一作。とても初めての長編劇映画とは思えないカパーリヤー監督の手腕にも感心した。今後どのような映画をおくりだすのか楽しみだ。
ちなみに、本作にも2度ほどダンスシーンは出てくるが、どちらもドラマに沿った形で効果的に使われている。けっして歌って踊って大合唱ではないのでそのつもりで。
◆「私たちが光と想うすべて」(ALL WE IMAGINE AS LIGHT)
(2024年 フランス・インド・オランダ・ルクセンブル)(上映時間1時間58分)
監督・脚本:パヤル・カパーリヤー
出演:カニ・クスルティ、ディヴィヤ・プラバ、チャヤ・カダム、リドゥ・ハールーン、アジーズ・ネドゥマンガード
*Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下にて公開中
ホームぺージ https://watahika.com/
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