「アイム・スティル・ヒア」
2025年8月11日(月・祝)TOHOシネマズ シャンテにて。午後1時20分より鑑賞(スクリーン1/B-12)
~軍事独裁政権の恐ろしさを1人の女性の姿を通して伝える

先週半ばから週末にかけて、北海道カーリングツアーの「どうぎんクラシック」をネット配信で観戦していたため、映画館に行けなかったのだ。その前の週の大会「稚内みどりチャレンジカップ」で、私が応援するフォルティウスが予選敗退したので、「これは現地応援せねば!」と意気込んだのだが、飛行機代やホテル代、チケット代で15万円近くかかると知って断念。配信での応援となった。連日PCの前に張り付いて必死で応援したのだが、その甲斐あって見事にフォルティウスは優勝。9月の五輪代表決定戦に弾みがついたのだった。
というわけで、心もウキウキの月曜日。日比谷のTOHOシネマズ シャンテに観に行ったのは、2024年の第97回アカデミー賞で作品賞、主演女優賞、それに国際長編映画賞にノミネートされ、国際長編映画賞に輝いたブラジル映画「アイム・スティル・ヒア」である。
軍事独裁政権時代のブラジルで起きた実話がベースで、原作は主人公の息子であるマルセロ・ルーベンス・パイバの回想録。「セントラル・ステーション」「モーターサイクル・ダイアリーズ」のブラジルの名匠ウォルター・サレス監督がメガホンをとった。サレス監督にとっては実に12年ぶりの長編監督作ということになる。
1971年ブラジルのリオデジャネイロで、元下院議員のルーベンス・パイバ(セルトン・メロ)が、突然、軍によって連行されてしまう。残された妻のエウニセ(フェルナンダ・トーレス)と娘もまもなく連行され尋問を受ける。その後、2人は帰されるが、ルーベンスは行方不明のまま。エウニセは5人の子どもを抱えながら、夫が戻ってくることを信じて事件の真相を追い求める……。
冒頭は海のシーン。海岸でパイバ家の子供たちがビーチバレーをして遊んでいる。そこに犬が迷い込んでくる。子供たちは「かわいいから家で飼おう」と言って、母のエウニセに許可を求めようとするが、エウニセは海で泳いでいた。そこで家に戻り、父のルーベンスに許可を求める。ルーベンスは言葉では「ダメだ」と言うが、表情はけっして厳しくはない。結局、子供たちはその犬を飼い始める。
このシーンを観ただけで、パイバ家が幸せな家族であることがわかる。建築関係の仕事をしている父のルーベンスと母のエウニセ。そして、5人の子供たち。海岸に近い家にはいつも音楽が流れ(ブラジル音楽やフランスの音楽など様々な楽曲が流れる)、家族には笑顔が絶えない。友人たちもよく出入りし、パーティーを開いたりする。やがて新しい家を建てる用地も取得した。
サレス監督はそんなパイバ家の幸せな様子を生き生きと描写する。カメラを自由闊達に移動させるとともに、長女が撮影したホームビデオの映像も随所に織り込み、家族の幸福さを強く印象付ける。ルーベンスが、乳歯が抜けた娘の歯を海岸に埋めるふりをして、こっそり持ち帰るなどの微笑ましいエピソードも登場する。
たが、そんなキラキラした日常生活の反面、この映画には冒頭から怪しい影が漂う。海で泳いでいるエウニセの上空を1機のヘリが飛んでいく。おそらく軍事用ヘリなのだろう。また、長女が友人とともに車に乗っていると軍による検問を受け、彼らは厳しく追及される。テロリストではないかと疑われたのだ。当時のブラジルは軍事政権下で、日に日に市民に対する弾圧が強まっていた。長女がこのままブラジルにいると学生運動に加わるのではないかと心配した夫妻は、イギリスへ留学させることにする。
そして、軍の強権が唐突にパイバ家に向けられる。ある日、複数の私服姿の男たちがやって来て、ルーベンスに「聞きたいことがある」と言って車で連行していったのだ。男たちに身分を問うと「超心理学者だ」などと答えるが、どうやら軍の関係者らしかった。
ルーベンスが連れ去られた後も、男たちはエウニセや家族を監視する。ルーベンスはすぐに戻ってくると言ったが、一向にその気配はなかった。それどころか、まもなくエウニセと娘の一人も連行されて厳しい尋問を受けることになる。
ここからは映画のタッチが一変する。それまでの明るくキラキラした雰囲気が、緊張感あふれるサスペンスフルなタッチに変わっていく。
エウニセと娘は覆面で目隠しされ、どこかわからない場所へ連れていかれる。そこでエウニセは鋭い目つきの男から、政権を批判する人物を告発するように強要される。露骨な拷問などはないが、精神的に彼女を追い詰めようとする。しかし、エウニセは正直に自分の知っていることしか答えない。そのため娘はすぐに帰される、エウニセは数日間牢屋のような場所に監禁されたのだ。
そこでの尋常でない緊張感の源は、狭く殺風景な取調室や監禁部屋に加え、部屋の外から聞こえる悲鳴や歌声などにある。ここは間違いなく異常な場所だった。人々に拷問を加え、それ以上に恐ろしいことをしているのではないか。エウニセの恐怖が観る者にも伝わってくる。その反面、看守的な役目をしていた若い軍人が、最後にエウニセに「本意ではなかった」と話すように、大きな力が彼らを動かしていたことも示唆する。
エウニセは疲れ果てて家へ帰る。そこから彼女は、行方知れずになった夫のルーベンスの消息を突き止めるため奔走する。それは軍事政権下では危険な行動だった。家の前にはいつも監視の車が停まっていた。国内のマスコミに訴えようとするが、政権のコントロール下にあるマスコミにとってそれは無理なことだった。
それでもエウニセは執念で追求する。夫がいなくなり生活費を工面するのにも苦労するが、それでも追求をやめない。同時に、エウニセは幼い子どもたちを動揺させまいと平穏を装おう。その不屈の闘志がよけいに独裁政権の恐ろしさを際立たせる。
エウニセの執念が乗り移ったようなサレス監督の気迫の筆致が印象的だ。殊更に悲劇性を強調するのでもなく、権力による犯罪を声高に糾弾するのでもなく、むしろ淡々とエウニセの奮闘ぶりを描く。だが、その底流には明らかに軍事政権に対する怒りが、ふつふつとたぎっている。それがスクリーンのこちら側にも伝わってくる。
やがてエウニセのもとにルーベンスの死の知らせがもたらされる。エウニセは衝撃を受けるが、涙を隠して子供たちとレストランに食事に行く。そこで子供たちがはしゃぐ中、他の幸せそうな家族を見つめるエウニセの姿が切ない。彼女はもう二度と夫に会えないのだ。
エウニセが夫の死を知っても、軍は彼を誘拐したことそのものを否定していた。もちろん彼の死も認めていない。
ドラマはそこから25年後に飛ぶ。弁護士になっていたエウニセの奮闘ぶりがようやく結実する。それはある意味、皮肉な光景だった。
さらにドラマは2014年に飛ぶ。エウニセは認知症になっていたが、子供たちに囲まれて記念写真を撮る。一家にとっての恒例行事だった。その直前、テレビでルーベンス殺人事件のニュースが流れた時に、エウニセの表情がわずかに変化するのが印象深い。
ちなみに、年老いたエウニセを演じたのは、主演のフェルナンダ・トーレスの実の母であるフェルナンダ・モンテネグロ。サレス監督が国際的に評価された「セントラル・ステーション」で主演を務め、ブラジル人として初めてアカデミー主演女優賞にノミネートされた俳優だ。セリフはないものの絶品の演技だった。
そして、もちろん主演のトーレスの演技が素晴らしい。家族に対する優しさと軍事政権に対峙する強い意志を同居させた巧みな演技だった。アカデミー主演女優賞ノミネートも納得。受賞したマイキー・マディソンにも負けない演技だった。
エンドロール前には、軍事政権下のブラジルで多くの人が殺害され、行方不明者も多数いることがテロップで知らされる。さらに、ルーベンス殺害事件で当事者が起訴されたが、いまだに逮捕されることも裁判にかけられることもないことが告げられる。
この映画では直接的に軍による暴力を描いた場面はほとんどない。当時の軍事政権の在り様や事件の真相を暴くわけでもない。しかし、だからこそ恐ろしい。ある日、突然、普通の市民が連れ去られ、家族は平凡な日常を奪われる。その犠牲者である女性の姿を丹念に描くことで、独裁政権による暴力の怖さをリアルに伝えているのである。
「何より重要なのは軍事政権の犯罪を明らかにして裁くことだ。そうしなければ、同じあやまちが繰り返されることになる」というエウニセの言葉が重い。ブラジルでは近年、保守派でトランプの盟友とも呼ばれるボルソナロ前大統領が強権的政治を行い、かつての軍事政権下の犯罪もうやむやにしようとした。その後、ボルソナロは退陣したが、このことがなおさらサレス監督の創作意欲に火をつけたのだろう。
最近は世界中で不穏な空気が流れている。そんな中で、この映画の持つ意味は大きい。ひとたび独裁政権を許せば、恐ろしいことが待ち受けている。それは日本も無縁ではないはずだ。
◆「アイム・スティル・ヒア」(AINDA ESTOU AQUI/I'M STILL HERE)
(2024年 ブラジル)(上映時間12時間17分)
監督:ウォルター・サレス
出演:フェルナンダ・トーレス、セルトン・メロ、フェルナンダ・モンテネグロ、バレンチナ・ヘルツァジ、マリア・マノエラ、ルイザ・コソフスキ、マルジョリエ・エスチアーノ
*新宿武蔵野館ほかにて公開中
公式ホームページ https://klockworx.com/movies/imstillhere/
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