映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「はじまりへの旅」

「はじまりへの旅」
ヒューマントラストシネマ渋谷にて。2017年4月2日(日)午後2時25分より鑑賞(スクリーン1/D-11)。

フリーランスゆえ定収入はない。仕事がなかった月はほとんど収入がない。その代わりたくさん仕事があったり、たまたま締め払いが重なった月はそこそこ収入がある。といっても、大した額ではない。昔は30分の脚本を書いて100万円くれるという夢のような仕事があったりして、けっこうな額の振り込みがあったりしたのだが、最近は悲惨なものだ。わずかな収入をやりくりして、どうにか生存している次第である。

そんな生活を続けていると、ときどき山奥にでも行って、お金をかけない自給自足の生活でもするか……と思ったりもする。だが、どう考えても無理だ。それを可能にする知識もノウハウも体力もない。おそらく1週間、いや3日で死ぬな。確実に。

「はじまりへの旅」(CAPTAIN FANTASTIC)(2016年 アメリカ)の主人公一家は、山奥の森の中で暮らしている。森の熊さんではない。れっきとした人間の一家だ。

冒頭は森林の俯瞰。そこはアメリカ北西部の山奥の森の中。そこに登場するのは、熊さんではなく鹿さんだ。ムシャムシャと葉っぱを食べている。すると物音が……。む? と振り向く鹿さん。しかし、再び葉っぱを食べ始める。次の瞬間、ナイフを持った若い男が鹿さんを襲い仕留める(撮影では動物は傷つけておりません。たぶん)。

というわけで、この山奥の森で暮らすのが父親ベン(ヴィゴ・モーテンセン)と6人の子供たち。彼らは自給自足のサバイバル生活を送っている。鹿さんを仕留めたのは長男。どうやら成人の儀式らしい。そして仕留めた鹿さんを解体処理する。子供たちは厳格なベンの指導の下で過酷なトレーニングをしているため、すさまじい体力の持ち主だ。そして学校にこそ通っていないものの、多彩な読書によって豊富な知識を持ち、6か国語を操る。

ちなみに、父親ベンがこんな暮らしをしている根底には反体制・反権力のラジカルな考えがある模様。彼は有名な言語学者のノーム・チョムスキーを信奉しているが、チョムスキーといえばまさに反権力的な人々にとってのカリスマだ。

しかし、まあ、どう考えてもこの父親、自分の身勝手で子供たちを縛っているとしか思えないわけだ。そのうちに絶対に破綻がくるのが目に見えている。つまり、このドラマ。話の大筋は読めてしまうのだ。

だが、それでも面白い映画になっている。何といっても風変わりな家族を生き生きと描いているのが魅力だ。見た目は普通なベンの子供たち。しかし、山奥の隔絶された暮らしゆえ、世間とはかけ離れた言動を繰り返す。それがたくさんの笑いを振りまくのだ。それ以外にも、観客を飽きさせない工夫がそこかしこにある。

一家の転機は入院していた母レスリーの死によって訪れる。以前から精神を病んで病院に入っていたレスリーが亡くなり、ベンと仲の悪いレスリーの父親は、「お前ら葬式に来るな!」と拒否する。それに対して子供たちが「葬儀に出たい!」といい、ベンもレスリーの遺言状に書かれていたことを実現しようと決意。一家は2400km離れたニューメキシコを目指して自家用バスを走らせる。

ここからはロードムービーになる。そこでは様々な出来事が起きる。一家はベンの妹の家に滞在するが、自説を曲げないベンは周囲と軋轢を巻き起こす。また、オートキャンプ場でベンの長男はある女の子と知り合い、初めてのときめきを覚える。そうしたことを通して、子供たちは父親が主導する今の生活に疑問を持ち始める。

そして、ついに一家は葬儀の場に乗り込む。さぁ、上を下への大騒ぎだ(ベンのド派手な衣装や子供たちのいでたちが爆笑モノ)。だが、それをきっかけに、子供たちは自立へのカウントダウンに突入する。そして、父親ベンも、今まで自分がやってきたことに、ようやく疑問を感じ始める。

このあたりも予期したとおりの展開だ。とはいえ、一家の言動をテンポよく見せて飽きさせない。クライマックスも、なかなかの盛り上げ方だ。いったんは、バラバラになりかけた家族。しかし、母の遺言貫徹という目標を再び掲げて、ミッション遂行に乗り出す。

その躍動感あふれる展開の後に待っているのは、水辺での弔い。そこで家族が歌うガンズ・アンド・ローゼズの「Sweet Child O’Mine」が実に印象的だ。それがあるから、その後の後日談が納得できる。家族は再び絆を結ぶのだが、それは以前のものとは全く違う。長男は自立し、残った子供たちも……。

ラストにかなり長めに映される食卓シーン。何も言わず、ただ子供たちを見つめる父親。そして、めいめい自由に振る舞う子供たち。清々しさと未来への希望を感じさせるラストである。

陳腐な話になりがちなドラマをこれだけ面白くしたのは、マット・ロス監督(もともとは俳優)による演出・脚本の功績だろう。笑いとマジメのバランスが良い。この作品で、第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門の監督賞を獲得した。

それ以上に見事なのがヴィゴ・モーテンセンの演技だ。エキセントリックさと普通さを巧みに混在させ、ここぞという時には観客の胸に迫る演技を披露する。ヒゲをそっただけでたくさんのことを物語ってしまう。さすがである。アカデミー主演男優賞ノミネートも納得。受賞は逃したけどね。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカード料金です。

「タレンタイム 優しい歌」

「タレンタイム 優しい歌」
シアター・イメージフォーラムにて。2017年3月30日(木)午後1時より鑑賞(シアター2/自由席(整理番号17))。

東京・渋谷はかつてミニシアターの聖地だった。ロードショー館も多かったが、それ以上にBunkamuraル・シネマ、ユーロスペースアップリンクなどの個性的なミニシアターの存在感が際立っていた。だが、ここ数年、シネマライズ、シネクイントと歴史あるミニシアターが閉館するなど、ちょっと心配な状況もある。これ以上閉館がないことを祈るばかりである。

そんなミニシアターの中でもシアター・イメージフォーラムは、かなり異色の存在といえるだろう。2000年の開館以来、野心的な作品をラインナップしている。濱口竜介監督の上映時間5時間17分に及ぶ名作「ハッピーアワー」もここで上映されたっけ。

ちなみに、この劇場の経営母体は映像研究所を手がけていて、それも同じビルにあるらしい。そのせいかロビーが狭い!!! スクリーンが2つもあるので、上映時間が重なると朝の通勤ラッシュ並みの混雑になる。なので、オレは一度受付をした後は開場ギリギリまで、近くのカフェ・ベローチェで待機している。あそこのサンドイッチはけっこう美味い。

さて、この日もカフェ・ベローチェでサンドイッチとコービーで待機してから、久々のシアター・イメージフォーラムに向かった。鑑賞したのは、「タレンタイム 優しい歌」(TALENTIME)(2009年 マレーシア)(上映時間1時間55分)という作品。

む? 2009年? そう。この映画は2009年のマレーシア映画。女性監督のヤスミン・アフマドは、この映画の発表後に病気で急死し、これが遺作となった。まだ51歳。合掌。というわけで、ようやく公開になったこの映画、予想以上に見応えある作品だった。

舞台となるのはマレーシアの高校。この学校で音楽(歌や踊りなど)コンクールの「タレンタイム」が開催されることになった。それにかかわる高校生たちの日々を描く。

ピアノの上手な女子学生ムルー(パメラ・チョン)は、耳の聞こえないマヘシュ(マヘシュ・ジュガル・キショール)と恋に落ちる。二胡を演奏する優等生カーホウ(ハワード・ホン・カーホウ)は、成績優秀で歌もギターも上手な転校生ハフィズ(ハマド・シャフィー・ナスウィップ)を嫌っていた。家族との葛藤なども抱えながら、彼らはコンクールを目指すのだが……。

ドラマの中心になるのは4人の高校生だ。ピアノの上手な女子学生ムルーの家はけっこうなお金持ち。宗教はイスラム教だが、父親は英国系。一方、インド系でヒンドゥー教徒のマヘシュは、耳が聞こえない高校生。彼はタレンタイムに出場するムルーをバイクで送迎する役目を仰せつかり、彼女と恋に落ちる。

ギターの上手な転校生ハフィズはマレー人。彼の母は重い脳腫瘍で入院している。ハフィズは学業も優秀なため、二胡を演奏する中国系の高校生カーホウから嫌われている。カーホウは父親から、一番の成績をとるように厳しく言われているのだ。

そんな彼らと家族の日常が描かれる。ムルーとマヘシュの幼い恋、カーホウのハフィズに対する嫉妬心、そしてコンクールを目指す高揚感など、あの年代に特有のキラキラしたきらめきが、フレッシュな映像によって瑞々しく綴られている。ムルーとマヘシュがバイクで街を走るシーンには、思わず胸がときめいてしまった。

ユニークな教師たちの存在もあって、ユーモアもたっぷり盛り込まれている。教師の1人が自分もコンクールに出場しようとして、女装で踊ったり……。

ただし、この映画、普通の青春映画以上の見応えがある。映画の冒頭に登場するのは高校の教室風景だ。そこには様々な民族や宗教の高校生たちがいる。マレーシアは、マレー系、インド系、中国系など様々な民族が集まる多民族国家。宗教も言語(この映画にも複数の言語が登場)も社会階層も、複雑に入り組んでいる。

中盤では、コンクール出場をかけたオーディションが行われ、様々な民族が様々な芸能を披露する。これもマレーシア社会を端的に表現したシーンだ。

この映画には、そんなマレーシアの多層社会がキッチリと織り込まれている。そして、それがやがて分断に発展する。ムルーとマヘシュの恋愛の行方からそれが露呈するのだ。マヘシュの叔父に悲劇が起き、それをきっかけに彼の母はイスラム教を毛嫌いするようになる。そのことが、2人の恋に大きな影響を及ぼすのである。

この映画で描かれたマレーシア社会は、多層構造でありながら、表面的にはそれが見事に融合しているように見える。しかし、それがほんの小さなことから大きな分断に発展することも、この映画から伝わってくる。

楽曲の良さもこの映画の魅力だ。特にムルーとハフィズによる劇中での歌(歌は吹替のようだが)が素晴らしい。だが、クライマックスのコンクールでは、両者が対照的に描かれる。ムルーは耐え難い思いを抱えて、ステージを降りる。しかし、悲劇では終わらせない。その前にマヘシュの亡き叔父と母の秘話を見せることで、2人の未来に微かな希望を灯す。

そして、ハフィズはステージで見事な演奏を披露する。しかも、そこには思わぬサプライズが待っている。それは民族や宗教も越えて結びつくことができる、次世代の若者たちの可能性を示したシーンである。

瑞々しくきらめく見事な青春映画であるのと同時に、マレーシア社会の分断と和解の可能性を描いた素晴らしい映画だと思う。オレ的に、とても好きになった。ヤスミン・アフマド監督の急死が惜しまれる。

日本でも、こういう青春映画ができないものだろうか。瑞々しい青春ドラマでありながら、社会状況もきちんと投影されるような……。

●今日の映画代、1500円。渋谷109のチケットポートで事前に鑑賞券を購入。

 

「未来よ こんにちは」

「未来よ こんにちは」
Bunkamuraル・シネマにて。2017年3月28(火)午前10時45分より鑑賞(ル・シネマ1/D-6)

時は過ぎゆく。時間とともにいろいろなものが変化し、思うようにならない現実に直面する。だが、それを素直に受け入れることは難しい。

「未来よ こんにちは」(L'AVENIR)(2016年 フランス・ドイツ)(上映時間1時間42分)の主人公ナタリーにも、受け入れ難い現実が押し寄せる。それに対して、彼女はどう向き合うのか。

ナタリー(イザベル・ユペール)は50代後半。高校で哲学を教えている。夫ハインツ(アンドレ・マルコン)も哲学教師だ(そんな背景から、この映画には哲学的言辞があちこちに登場する。それがドラマに深みをもたらしている)。2人の子供はすでに独立している。ひとり暮らしの母は認知症が進み、問題ばかり起こしていた。そんなある日、ハインツが「好きな人ができた」と告白し家を出る。傷ついたナタリーはかつての教え子ファビアン(ロマン・コリンカ)たちが暮らすアルプスの山荘を訪れるのだが……。

冒頭はナタリー夫婦と2人の子供がバカンスに出かけているシーン。そこから数年後に時間が飛んで、ドラマがスタートする。ナタリーは授業をしに高校に出かける。しかし、そこでは政府の政策に反対する生徒たちが、ストライキをしている。若い頃のナタリーは、彼ら以上に急進的な考えの持ち主だった。だが、今はストをかいくぐって授業を行っている(それでも最後は生徒たちの要求に応じてクラス討論を認めるのだが)。

エネルギッシュでラジカルな高校生たちの姿に、時の流れを感じさせられるナタリー。彼女が直面する現実はそれだけではない。ナタリーには一人暮らしをする認知症の母がいる。彼女はたびたびトラブルを起こして、ナタリーを苦しめていた。また、何冊も本を出している出版社からは、時代に合わないのでリニューアルしたい。でないと本は出せないといわれてしまう。

そして、まもなく極めつけの驚愕の事態が訪れる。夫が「好きな人ができた」といい、家を出て、2人は離婚することになるのだ。

と聞くと、いかにも波乱のドラマのようだが、劇的な展開や演出は極力排除している。例えば離婚の話にしても、劇的に盛り上げるなら夫が突然ナタリーに切り出す設定にするだろう。しかし、この映画では、最初に父の不倫に気づいた娘が「どちらかを選んで」と父に迫る前フリがある。

この映画の監督は、フランスの注目の若手女性監督ミア・ハンセン=ラブ。「あの夏の子供たち」「EDEN エデン」などの過去作があり、本作で第66回ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)を受賞した。

彼女が紡ぎだす抑制的なタッチの中で、主演のイザベル・ユペールがその演技力をいかんなく発揮する。こちらは、クロード・シャブロル監督の「ヴァイオレット・ノジエール(原題)」、ミヒャエル・ハネケ監督「ピアニスト」で2度カンヌ国際映画祭女優賞に輝くなど、数々のキャリアを重ねてきた名女優。60歳を過ぎた今もハイペースで出演を重ね、先日はポール・バーホーベン監督の「エル(原題)」で、アカデミー主演女優賞に初ノミネートされた。

そんなユペールの演技が絶品だ。気づけば時が流れ、老いを自覚せざるを得なくなり、しかも夫に去られて一人ぼっちになったナタリー。平静を装いつつも、怒りや悲しみがチラチラ顔をのぞかせ、時には爆発する。その心理の見せ方ときたら、絶品としかいいようがない。まさに名演技なのだ。

ナタリーに時の流れを自覚させる存在がもう一つある。かつての教え子のファビアンだ。豊かな才能の持ち主で彼女の監修で本も書き、情熱家で社会変革を目指すラジカルな青年。ナタリーはほのかな恋愛感情も彼に抱いているようである。

後半、ナタリーはファビアンに誘われて、彼が恋人や仲間たちと暮らすアルプスの山荘に行く。しかし、そこで彼女はファビアンから「あなたたちのやり方は甘かった。それでは世の中は変わらない」と批判されてしまい、疎外感を味わう。自身の老いと孤独に否応なく向き合うことになるナタリー。

何やら絶望的で自殺でもしそうな展開だが、そうはならない。ベッドで泣くナタリーだが、翌朝には再び毅然として歩き出す。そう。この映画のナタリーは、ひたすら歩き回っている。どんなことがあっても自分を見失うことなく、歩き続けるのだ。その姿が実に凛々しいのである。

そんな彼女を象徴するのが、ラストの後日談だ。彼女には孫が誕生し、元夫や2人の子供とも新たな関係を築いていく。その時のナタリーの表情には、間違いなくタイトル通りに明日が見える。

戸惑いのはてに、すべてをありのままに受け入れて、前を向いていく。誰にでもできるわけではありないが、ぜひそうありたいと思う人は多いだろう。

ナタリーと同世代の人はもちろん、多くの観客が自分の生き方に思いをはせそうな良作だと思う。

ついでに、パリの街並みやアルプスの美しい風景、そして丸々と太った黒猫も印象的な映画だった。

●今日の映画代、1100円。久しぶりのBunkamuraル・シネマ。毎週火曜はサービスデー。

 

「サラエヴォの銃声」

サラエヴォの銃声」
新宿シネマカリテにて。2017年3月26日(日)午後2時30分より鑑賞(スクリーン2/A-7)。

これまでに歴史関係の本をたくさん書いている。もちろんゴーストだ。オレの名前は本のどこを探しても出てきやしない。しかし、確実に原稿は書いている。なので、歴史の知識は豊富である。

というのはウソである。いや、確かに歴史本はたくさん書いているのだが、その都度資料に基づいて書いているだけで、終われば頭の中から消去される。たいしたことは覚えていない。ときどき昔書いた本を読み直しても、本当に自分が書いたのかどうか自信がない。歴史とは、そのぐらいいい加減な付き合い方しかしてこなかった。

そんなオレでも、1984冬季オリンピックの会場となったサラエヴォが、1990年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、メチャクチャなことになったのは知っている。そのサラエヴォを舞台にしたドラマがダニス・タノヴィッチ監督の「サラエヴォの銃声」(SMRT U SARAJEVU)(2016年 フランス、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)だ。2016年のベルリン国際映画祭銀熊賞審査員グランプリ)を受賞した。

第1次世界大戦勃発のきっかけとなったサラエヴォ事件から100年が経った2014年6月28日。その記念式典が行われようとしている「ホテル・ヨーロッパ」。屋上では、ジャーナリストが事件とその後の歴史についてインタビューしていた。客室ではVIPが式典での演説の練習をしていた。一方、ホテルの従業員たちは賃金未払いをめぐってストライキを企て、支配人はそれを阻止するべくギャングを動かす。やがてホテル内に1発の銃声が鳴り響く……。

というわけで、サラエヴォのホテルを舞台にした群像劇である。この映画を観るには、サラエヴォに関する多少の予備知識は必要だろう。まず、先ほど述べたように、1990年代には民族対立に起因したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の主戦場として、多くの人が犠牲になり街が破壊された。

そして、さらに歴史をさかのぼれば、サラエヴォでは1914年にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子が、プリンツィプという青年に暗殺された。これが第一次世界大戦の引き金になったサラエヴォ事件である。

その事件から100年後のサラエヴォの「ホテル・ヨーロッパ」の屋上。そこではインタビューが行われている。ドキュメンタリー番組の制作の一環で、女性ジャーナリストが学者などにサラエヴォ事件とその後の歴史について話を聞いているのだ。ところが、そこにサラエヴォ事件の犯人プリンツィプと同名の男が現れて、「プリンツィプはテロリストではなく英雄だ」と主張する。それに反発したジャーナリストと大口論になる。どうやら2人の口論には、1990年代の内戦が強く影響しているらしい。それが両者をどんどん感情的にさせる。

その一方で、ホテルの客室では式典に参加するらしいVIPが演説の練習をしている。その模様が警備室のカメラに映されている。警備スタッフは本来は護衛を頼まれただけなのに、なぜか手違いで監視カメラを仕掛けてしまったという。

そして、このホテルでは従業員たちがストライキを計画している。有名人もたくさん泊まったこのホテルだが、今は経営危機で2か月も給料が支払われていない。それに抗議するためのストというわけだ。しかし、強圧的な支配人はこれを阻止すべく、ホテルの地下のバーにたむろするワルたちにストを阻止するように依頼する。その一件には、フロント係の女性と、その母でリネン室で働く女性も絡んで、大変なことになってしまう。

こんなふうに、ホテルを縦横無尽に移動しながら、長回しのカメラを中心にして、リアルかつスリリングな映像で様々な人物を描いていくタノヴィッチ監督。何やら不穏な空気が増幅していく。

やがて一発の銃声が響く。何が起きたのかはあえて伏せるが、100年前のサラエヴォ事件とリンクする出来事で、思わず息を飲んでしまった。そして、その後に映される無人になったホテルを見て、寒々しい気持ちにさせられたのである。

タノヴィッチ監督といえば、「ノー・マンズ・ランド」「鉄くず拾いの物語」、そして先日公開されたばかりの「汚れたミルク/あるセールスマンの告発」など、明快で力強いメッセージで知られる。だが、今回はそうした明快さはない。

何しろ事態は複雑だ。表面的には平穏に見えても、ひと皮むけば民族同士の憎悪が渦巻き、ちょっとしたきっかけで恐ろしい事態に発展しかねない。それはサラエヴォだけでなく、ヨーロッパ全体、さらには世界中にあてはまることなのかもしれない。そんな事態に対して、簡単に処方箋など出せるわけがない。ましてタノヴィッチ監督は、ボスニア・ヘルツェゴビナ生まれなのだから。

いまだに渦巻く民族同士の敵意や憎悪。それに対してどうすればいいのか。この映画にはその解答はないし、すぐに見つかるものでもないだろう。それでも、絶望的な状況を描いたこの映画が、解決への出発点になるのかもしれない。問われているのはこの映画の観客自身なのである。

●今日の映画代、1500円。先日観た同じタノヴィッチ監督の「汚れたミルク/あるセールスマンの告発」の半券割引サービスでした。

 

「おとなの事情」

「おとなの事情」
新宿シネマカリテにて。2017年3月22日(水)午前11時30分より鑑賞(スクリーン1/A-7)。

昔、バンドをやっていた時には年を秘密にしていた。プロフィールには「年齢不詳」と書き、メンバーにも本当の年を教えなかった。25歳過ぎてからバンドを始めたため、周囲より年上だったという事情もあるが、それ以上に年齢不詳にしたほうがミステリアスで面白いだろうという完全なウケ狙いの行動だった。「そんなところに気を回すなら、もっと演奏の腕を磨け!」という話ではあるのだが。

というわけで、オレの場合は大した秘密ではなかったわけだが、それとは違って、絶対に他人に知られたくない秘密を持っている人も多いだろう。そして、そういう人に限って、「秘密なんてない!」と強がったりするものだ。

そんな人々が痛い目にあってしまうのが、「おとなの事情」(PERFETTI SCONOSCIUTI)(2016年 イタリア)という映画である。イタリア映画で、イタリアのアカデミー賞に当たるダビッド・ディ・ドナテッロ賞で作品賞、脚本賞を受賞した。

ある月食の夜、幼なじみの男4人とそのパートナーが集まり、エヴァ(カシア・スムトゥニアク)とロッコ(マルコ・ジャリーニ)夫妻宅で食事会を開く。参加したのは7人。そんな中、1人があるゲームを提案する。「メールが届いたら全員の目の前で開くこと」「かかってきた電話にはスピーカーに切り替えて話すこと」というもので、秘密など何もないという信頼度を確認するためのゲームだった。平静を装ってゲームを始める7人だったが、ゲームが進むにつれて、それぞれの本当の姿が次々と露呈していく……。

舞台となるのは食事会のみ。いわゆるワンシチュエーションのドラマだ。食事会に参加したのは、幼なじみの4人の男とそのパートナー。ただし、そのうちの1名のバツイチ男は新恋人が熱を出したとかで、1人で参加する。

映画の冒頭は、彼らが食事会に参加する前の様子が描かれる。そこでそれぞれが抱えた事情がチラリと見える。反抗期の娘との関係に悩む母親、義母に不満をぶつける嫁、何やら秘密を抱えているらしい夫……。その後の展開を示唆する内容だ。

そして始まる食事会。食事をしながらの会話から、タイトル通りに大人の事情が少しずつ見え隠れする。とはいえ、まだ決定的な場面には至らない。それが現れるのはあるゲームがきっかけだ。不倫メールで破たんしたカップルの噂話をきっかけに、「俺たちにはそんな秘密はない」と豪語した参加者たちは、それを確認するためにスマホを使ったゲームを始める。全員が食卓にスマホを出して、スマホに届いたメールや電話は全員に公開しようというのである。

そこからポロポロと出てきたのは各自の意外な秘密。豊胸手術を受けようとしていた妻、妻に内緒でカウンセリングを受けていた夫、何度も転職しているのにまた転職を考えている夫などなど。彼氏の家に誘われたという娘からの相談電話などもかかってくる。

だが、これはまだ序の口だ。急展開のきっかけは、不倫相手からのメールが届くことになっている男が、同じ機種を持つ単身参加の男にスマホの交換を持ちかけたことから。この作戦が裏目に出て大変なことになる。不倫男は、それとは別のあらぬ疑惑をかけられて追い詰められ、妻との関係が危険水域に突入するのである。

その後は、その妻が抱えた秘密も露見。さらに別の新婚男の不倫関係も明らかになるなど、しっちゃかめっちゃかになってしまう。親子の確執や夫婦間のズレ、性的傾向などの様々な問題が浮上してくるのだ。

ゲーム開始以降、いったいどんなメールや電話が来て、どんな事態に発展するのか予測不能の展開が続く。ハラハラドキドキで目が離せない。各自のいろいろな事情が見えてくる中で、笑いもたくさん生まれてくる。イタリア人らしい陽気さによって何でもジョークにしてしまうのだが、露見する様々な秘密と相まってブラックな笑いに発展していく。

食事会が行われるのが月食の夜だというのも、独特の空気感を醸し出す。時々登場する月食が、人々を狂わせているのかも……なんてことまで思わせてしまうのだ。

ラストはついに全崩壊。すべての終わり。ジ・エンド……かと思いきや、そこには驚きの結末が待っている。これって、あり得たかもしれない過去ってこと? うーむ、あり得たかもしれない過去といえば、「ラ・ラ・ランド」の終盤を思い出すが、こちらはまったく違う世界。あまりの逆転劇に言葉を失ってしまった。

それにしても、ホスト宅夫妻の夫ロッコが言った最後の言葉が説得力満点だ。大人は誰しも人に知られたくない秘密を持っている。むやみにそれに触れないほうがよいのだ、と。

スマホを使ったユニークな仕掛けが見事な映画。スマホに慣れ親しんだ今の人間にとっては、他人事とは思えないだろう。そういう意味で、コメディーではあるものの、ホラー的な要素もある映画だといえる。

皆さまも、くれぐれもスマホの公開などなさりませんように。後で大変なことになっても知りませぬゾ。

●今日の映画代、1000円。新宿シネマカリテの毎週水曜映画ファンサービスデー料金で

「わたしは、ダニエル・ブレイク」

「わたしは、ダニエル・ブレイク」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年3月20日(日)午後12時25分より鑑賞(スクリーン1/E-12)。

2014年11月に駅で転倒して膝蓋骨を複雑骨折した。救急車で運ばれて手術をして1か月近く入院した。退院してからも1年間リハビリに通うハメになった。その間、前のように仕事ができなくなり、収入が減ってしまった。このブログに「貧乏日記」とあるのには、そういう事情もあるのだ。

今も後遺症は残っていて、膝が痛くなったり、十分に曲がらないこともあるのだが、それでも何とか仕事をしている。だが、もしもドクターストップがかかったらどうなるのか。医療費や生活費をどうするのか。それを考えただけでゾッとするのである。

そんなオレにとって共感せざるを得ないのが、「わたしは、ダニエル・ブレイク」(I, DANIEL BLAKE)(2016年 イギリス・フランス・ベルギー)の主人公のダニエル・ブレイクである。

社会派の映画をたくさん撮り続けてきた名匠ケン・ローチ監督の作品だ。2016年の第69回カンヌ国際映画祭で、最高賞のパルムドールを受賞した。ローチ監督作品にとっては、「麦の穂をゆらす風」に続く2度目のパルムドールだ。

舞台となるのは、イギリス北東部ニューカッスル。長年、大工として働いてきた59歳のダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は、心臓病を患い医者から仕事を止められる。仕方なく国からの援助を受けようとするが、複雑な制度と頑迷なお役所仕事に阻まれ、満足な援助を受けることができないでいた。そんな中、ダニエルは2人の子供を抱えたシングルマザーのケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)を助けたことから、彼女たちと交流を深めていく。だが、ダニエルとケイティたちは、さらに厳しい局面に追い詰められていく……。

ダニエルを苦しめる社会システムが何とも複雑怪奇だ。おまけに、応対する役所(といっても民間に委託されたりしている模様)の態度がどうにもヒドい。例えば、心臓病なのに「手が挙げられるか」とか「帽子がかぶれるか」とか、全然関係ない質問をして、その挙句に「不支給」の結論。それに抗議する電話をかければ、1時間以上も保留音が鳴り続ける始末である。

そこで別の手当てを申請しようとすると、受付はオンラインのみ。パソコンなど持っていないダニエルは困ってしまう。おまけに仕事ができないダニエルに対して、「求職活動をしないと手当は支払わない」というのだ。あまりにも理不尽ではないか。理不尽すぎて冗談みたいだ。だから、ついつい笑ってしまう。そう。この映画は深刻なテーマであるにもかかわらず、あちこちにユーモアがあるのだ。そこがいかにもローチ監督らしい。

そういえば、「ぜんざい公社」という落語の演目があったっけ。ぜんざいを食べるのに、いろいろ書類を書いたり、手続きしなくちゃいけないという冗談みたいな役所のシステムを皮肉った作品だ。思わずそれを連想してしまった。

さて、そんなダニエルは、まもなくケイティという若いシングルマザーと知り合う。彼女は2人の子供を抱えて、貧困にあえいでいる。見かねたダニエルは、救いの手を差し伸べる。

自分自身が大変なのに、それでも困っている人を見捨てられないダニエル。彼はそういう人物なのだ。権力には媚びないが、隣人には大いに手を差し伸べる。アパートの隣人たちとも、口では文句を言いつつも、親しく交流している。いわば役所などの硬直した社会システムとは、対極にあるような人物だ。彼が長い間亡き妻の介護をしていたという事実も、彼の実直さを示す。だから、観客は自然に彼に感情移入していく。「どうして彼のような人物がこんな理不尽な目にあうのだ?」と。

主演のデイヴ・ジョーンズはイギリスのコメディアンとのことだが、そんなダニエルにピッタリのキャストだと思う。

ダニエルはケイティや子供たちと交流を重ねる。そこにあるぬくもりもまた、理不尽な社会システムと対極をなす。そして、その社会システムが、彼らをますます苦境へと追い込んでいく。ダニエルは満足な手当てが受けられずに、家具を売り払って現金を調達する。一方、ケイティはフードバンクを頼るものの、それだけではどうにもならず、闇に足を踏み入れる。

そんなこんなで、ついにぶち切れたダニエルは、ある行動に出る。そこで登場するのがタイトルの「I, DANIEL BLAKE」の文字。それはアイデンティティさえ否定された彼の、誇りをかけた自己主張だ。そして、そんな彼に拍手喝采するたくさんの人々の姿。現実社会の理不尽さを嘆きつつ、けっして絶望せずに未来を信じるローチ監督らしいシーンだと思う。

結末はハッピーエンドとはいかないが、けっして絶望的なものでもないと思う。そこで読み上げられるダニエルのメッセージは、愚直ながら力強いもので、観客の胸を強く打つ。彼の思いが、いつか世の中を変えるのではないか。そんなことも考えてしまうのだ。

弱者が虐げられ、アイデンティティまで奪われてしまう今の世の中に対して、「これでいいのか?」と異議申し立てをしている作品だ。ただし、声高なメッセージではなく、庶民の日常を丹念に、ユーモアも忘れずに描き、わずかな未来への希望も示す。

今年80歳のローチ監督の熱い思いが詰まっていて、ズシリとした見応えがある。間違いなく、今年の上位にランクされる映画だと思う。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカードの会

「ラビング 愛という名前のふたり」

「ラビング 愛という名前のふたり」
TOHOシネマズシャンテにて。2017年3月17日(金)午前10時45分より鑑賞(スクリーン3/E-9)。

今年の第89回アカデミー賞は従来とはかなり様相が違った。トランプ大統領への批判や皮肉に満ちたコメントがテンコ盛りだったのに加え、作品賞、脚色賞、助演男優賞の3部門を受賞した「ムーンライト」をはじめ、アフリカ系アメリカ人が活躍する作品が賞レースを席巻した。白人中心だった過去の歴史からは、考えられないことだった。

主演のルース・ネッガが主演女優賞にノミネートされた「ラビング 愛という名前のふたり」(LOVING)(2016年 アメリカ)も、そうした作品の1つといえるだろう。異人種間の結婚が違法とされていた1950年代のバージニア州を舞台にした実話をもとにした映画である。ジェフ・ニコルズ監督は、これまでに「MUD マッド」「テイク・シェルター」というなかなか面白い映画を撮ってきたが、今回はまた違った個性を発揮している。

1958年、バージニア州。白人男性のリチャード・ラビング(ジョエル・エドガートン)は、幼なじみで恋人の黒人女性ミルドレッド(ルース・ネッガ)から妊娠を告げられ、結婚を決意する。だが、バージニア州では異人種間の結婚は法律で禁止されていたため、2人はワシントンD.C.で結婚の手続きをする。その後、地元で暮らし始めた2人だが、ある日、自宅に押しかけてきた保安官に逮捕されてしまう。そして裁判で離婚するか、25年間州外に退去するか選択を迫られる……。

タイトルの「ラビング」とは主人公夫妻の名前。同時に「愛」ともかかっている。つまり、これは一組の夫婦の愛のドラマなのだ。2人は人種差別と闘うことになるのだが、それはただ愛を守りたいから。そんな視点が貫かれた映画なのだ。

前半で印象的なのはバージニア州ののどかな田園風景だ。そこでは黒人と白人が一緒になって働いている。一見、差別など感じさせない光景だ。しかも、リチャードは子供の頃から黒人と過ごしており、ミルドレッドを好きになったのはごく自然なことだった。そうした描写があるからこそ、逮捕という事実が、観客にとってなおさら理不尽でショッキングなものに感じられるのである。

2人の愛は真実の愛だ。たとえ裁判で有罪になろうとも離婚など考えられない。その結果2人は故郷を離れて暮らすことを余儀なくされる。しかし、いざミルドレッドの出産が近づくと、どうしても故郷で出産したくなり(リチャードの母親は助産師)、故郷に戻る。しかし、そこで彼らはまたしても逮捕され、再び故郷を離れることになる。

その後、3人の子供に恵まれた夫妻だが、やはり故郷への思いは断ちがたく、ミルドレッドはケネディ司法長官に手紙を書く。ちょうど当時は公民権運動が盛んな時だった。その手紙がきっかけで、人権派弁護士と知り合った2人は、裁判によって理不尽な処置を覆そうとする。

というわけで、後半ではラビング夫妻は人権派弁護ととともに立ち上がるのだが、そこでも声高に何かを叫んだりはしない。それもまた2人にとっては、愛を貫くための行動にしかすぎない。闘いはそのための手段でしかない。

だから、後半になっても社会派映画にありがちなお説教臭さとは無縁だ。むしろ新米の人権派弁護士の頼りなさを前面に出したり、裁判に積極的なミルドレッドと消極的なリチャードのすれ違いを描くなど、ドラマ的な妙味にあふれている。

もちろん、すれ違いといっても、それが決定的になることはない。リチャードが積極的になれないのも、周囲の嫌がらせなどを見て、家族を守りたい一心でそうなるからだ。ミルドレッドはそれをよく理解している。

終盤は裁判闘争がドラマの大きな核になる。それでも法廷自体は必要最低限にしか描かれない。あくまでも夫婦の姿を中心に描く(ミルドレッドは夫の意をくんで出廷しなかったのでなおさら)。

そしていよいよ判決。ラストは文句なしに感動できる。夫婦の愛の強さと、それが世の中を動かしたという事実が心を揺り動かすのである。

寡黙ながら芯の強さと優しさを表現したジョエル・エドガートン、健気さの中にたくましさを見せたルース・ネッガの演技が見事だ。セリフなしでも、それぞれの心の内が伝わってくる演技だった。

実話ものとはいえ、メッセージ性の強い社会派映画や偉人伝にしようと思えばできたはずなのに、あえてそれを封印してシンプルな夫婦愛の物語を紡いだことが、この映画の最大の勝因だろう。だからこそ、心に深く刺さるのである。

●今日の映画代、1500円。久々にムビチケ購入しました。