映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「憐れみの3章」

「憐れみの3章」
2024年10月1日(火)新宿ピカデリーにて。午後1時20分より鑑賞(シアター7/C-6

~ランティモス節全開の中編映画3本。毒気の向こうに何かが見える……かも

 

アカデミー賞はじめ各賞を総なめにした「哀れなるものたち」や「女王陛下のお気に入り」を観てヨルゴス・ランティモス監督の映画を知った人は、新作「憐みの3章」を見てビックリするかもしれない。何しろ奇妙奇天烈でアクの強い作品なのだ。

といっても、「ロブスター」「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」といった彼の初期作品は、いずれも奇妙奇天烈な映画。そういう意味で、原点回帰ともいうべき作品だろう。脚本も「ロブスター」「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」でコンビを組んだエフティミス・フィリップと共同で担当している。

3つの物語から構成された映画だ。それぞれの物語は独立していて関係がない。いわば3つの中編映画(50分程度)3本立ての映画といえる。

第1章。主人公の男は勤め先の上司にすべてをコントロールされている。起床時間、朝食のメニュー、読む本、妻との性交渉まで、彼の指示に従うように要求されている。ところがある日、車で事故を起こして相手を殺害するという指示を受け、初めて拒絶する。すると妻が消え、上司からもらった贈り物がなくなり、彼からまったく相手にされなくなる。途方に暮れた男はバーである女性をナンパするが、彼女の周囲にも上司の影がちらついて……。

第2章。警官である夫。妻は研究のために船に乗り込み、海難事故に遭い行方不明。心労の夫だったが、やがて妻は無事に発見される。ところが、家に戻ってきた彼女は、甘いものが苦手なはずなのにチョコを貪り食い、足のサイズまで変わっている。男は妻は別人ではないかと疑い、無理難題を押しつける。そして、ついに妻は……。

第3章。夫と娘を捨ててカルト教団に入った妻。死者をよみがえらせる能力を持った人物を探していた。だが、夫と娘のことが気になり、少しだけ家に戻って食事をする。そこで夫は彼女を眠らせ関係を持つ。それを知った教祖は、「汚れている」と彼女を高温のサウナ室に閉じ込めたのち、見捨ててしまう。妻は何とか教団に戻ろうと、自力で超能力者を見つけ出すのだが……。

わかりにくいといえばわかりにくいドラマだ。設定が謎だらけだし、登場人物の行動も不可解。だいたい各章のタイトルに「R.M.F」なる人物の名が冠され、中年の男が劇中に台詞もなしに登場するのだが、あれは誰なのだ? ランティモス版「世にも奇妙な物語」と言った人がいるが、そんな生易しいものではない。最後まで首を傾げたままの観客もいそうだ。

一応テーマは「支配や服従」「信頼や疑念」といったところだろうが、ストレートにそのテーマを追うわけでもない。3つの章に共通しているのは、不穏な空気が流れていること。そこではピアノの単音が効果的に使われる。

ランティモス作品は、いかにも毒々しいものが多いが本作も同じ。1章では追い詰められた主人公が男を何度も車でひくし、2章では妻が夫に言われるまま自分の指を切り落とす(指だけじゃないけど……)。3章では水のないプールに落下して死ぬ女性が描かれる。そんなグロテスクで過激な描写も目立つ。

とはいえ、過去のランティモス作品と同じように最後まで見入ってしまった。その理由は独特のユーモアにある。1章では「マッケンローの壊したラケット」だの「アイルトン・セナの焼けたヘルメット」といった奇妙なアイテムがこれみよがしに登場する。2章では失踪した妻を思い出すため、夫が友人とともに妻とのエッチ場面を収録したビデオを見るというアホとしか言えない場面がある。3章ではカルト教団の奇怪な儀式などが笑いを誘う(お腹をなめて純潔かどうか判定するとか)。笑いのネタに尽きない映画だ。

そして、何よりも映像が鮮烈で魅力的だ。シニカルなランティモス監督の視点をそのまま反映させたようなやや突き放したような映像は、「おお、そう来ますか!」と思わず膝を打つような斬新さにあふれている。それを観ているだけで最後まで飽きなかった。

さらに、面白さのダメ押しともいえる仕掛けがある。この映画では主要な人物が違う役ですべての章に出てくるのだ。エマ・ストーンジェシー・プレモンス、ウィレム・デフォー、マーガレット・クアリー、ホン・チャウ。みんなアクの強い役をノリノリで演じている。終幕近くのエマのダンスなんてもう爆笑もの。さて、誰がどんな役をやっているかは観てのお楽しみ。

3つのドラマの結末はどれもとんでもないものだ。徹頭徹尾、ランティモス監督の毒気に当てられた。それでも面白いから、混乱しながらも最後まで観てしまった。過去の作品がそうだったように。

ランティモス監督はやっぱりただものではない。毒気や笑いの向こうに、人間の様々な側面が見えてくる。この映画のような例は極端にしても、多少なりとも自分たちに関係する心の動きが見て取れないこともない。そういう意味で、人間観察ドラマといった趣も感じられる映画である。

エンドロールでは「R.M.F」がホットドッグを食す。ケチャップが服に飛ぶ。誰なんだ? R.M.F(笑)。

◆「憐れみの3章」(KINDS OF KINDNESS)
(2024年 アメリカ・イギリス)(上映時間2時間45分)
監督:ヨルゴス・ランティモス
出演:エマ・ストーンジェシー・プレモンス、ウィレム・デフォー、マーガレット・クアリー、ホン・チャウ、ジョー・アルウィン、ママドゥ・アチェイ、ハンター・シェーファー
* TOHOシネマズ 日比谷ほかにて全国公開中
ホームページ https://www.searchlightpictures.jp/movies/kindsofkindness

 

 

 

*はてなブログの映画グループに参加しています。よろしかったらクリックを。

 

*にほんブログ村に参加しています。こちらもよろしかったらクリックを。

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村

「西湖畔(せいこはん)に生きる」

「西湖畔(せいこはん)に生きる」
2024年9月29日(日)新宿シネマカリテにて。午後3時10分より鑑賞(スクリーン2/A-3)

山水画のように美しい大自然の映像とマルチ商法の激烈な映像

 

中国の若手監督グー・シャオガンの「春江水暖~しゅんこうすいだん」は鮮烈な映画だった。変わりゆく中国社会に翻弄される家族を描いたドラマなのだが、その背景に使われる風景をとらえたカメラワークが流麗でまるで山水画のようだった。特に10分近い長回しの水泳シーンは圧巻だった。

そのシャオガン監督の長編第2作が「西湖畔(せいこはん)に生きる」だ。本作は釈迦の十大弟子の1人・目連が地獄に堕ちた母を救う仏教故事「目連救母」に着想を得たという。なるほど、確かに役名にはそれにちなんだ名前がつけられている。

中国杭州市の西湖。この地の名産は龍井茶。タイホア(ジアン・チンチン)は10年前に夫が家を出て以来、茶摘みをして生計を立て、息子のムーリエン(ウー・レイ)を育て上げてきた。ムーリエンは求職中で、何とかして母を楽にしてあげようとしていた。

一方で、タイホアは10年前に失踪した夫が、すでに死んでいると考えていた。しかし、息子のムーリエンは父が生きていると信じ、探し出そうとする。

実はタイホアが夫が死んだと思う背景には、彼女が茶畑の主人チェンと親しく交際している事実がある。だが、ムーリエンにそれとなくその事実を話すと、露骨に嫌な顔をされてしまう。

そんな中、チェンの母親が息子とタイホアが恋仲だと知り、激怒して彼女を追い出してしまう。タイホアはこうして職を失ってしまう。

本作も前作同様に大自然の美しい風景が描かれる。今回は前作の川ではなく山だ。映画の冒頭でタイホアたち茶摘みの人々が、夜明け前に「山起き」という豊作を願う行事を行う場面が登場する。そこでのカメラワークが絶品。よくもまあこんなに美しく自然をとらえるものだと感心するばかり。その後も山水画のような映像が次々に映し出される。

ところがやがて様相が変わってくる。職を失い途方に暮れたタイホアは、友人に誘われてバタフライ社という会社のセミナーに参加する。その会社は表向きは足裏シートを販売していたが、裏ではマルチ商法の違法ビジネスを展開していたのだった。

このマルチ商法の会社のイベント場面がスゴイ。ド派手なパフォーマンスで、参加者を引き込んでいく。まるで、この波に乗らなければ生きていけないと言わんばかりだ。集団心理を巧みに利用し、ついには参加者を洗脳していく。

序盤の山水画のような世界とは全く異質な世界。同じ映画だとは思えない。終始圧倒され目がスクリーンにくぎ付けになるとともに、「こりゃスゲエや。なるほど人はこうやって洗脳されていくんだな」と納得。

被害に遭うのは弱い人たちだ。自身で何らかの弱みを抱え、何とかしてそれを克服しようとしている。タイホアも夫や雇い主に翻弄される人生を脱却して、自立して生きたいと思っている。そこにマルチ商法がつけ込んだわけだ。

そして、その背景には拝金主義や貧富の格差など、今の中国の様々な社会問題も存在しているのだろう。直接的にそこに言及しているわけではないが、ドラマを通じて伝わってくるものがある。

タイホアはマルチ商法にのめり込み、見た目も大きく変わり、自信満々になる。それを見た息子のムーリエンは必死に母を止める。彼もまた詐欺的な商売(老人をだまして健康器具を売りつける)に片足を突っ込んだものの、すぐにその怖さを知ってやめたのだった。

タイホアとムーリエンが雨中で対決する場面が壮絶だ。タイホアの心の叫びが響き渡る。ムーリエンも全力で母を地獄から救おうとする。

タイホア役のジアン・チンチンはドラマ「清越坊の女たち 当家主母」などで知られるそうだが、かなりの演技力の持ち主だ。一人芝居のような場面もあり、その力量がいかんなく発揮されていた。

ムーリエン役のウー・レイはドラマ「長歌行」などに出演しているらしいが、こちらも好演。端正なマスクで日本でも人気が出そう。

ムーリエンの思いも実らず、タイホアはマルチ商法を続ける。そこでムーリエンは最後の手段に出る。

終盤は再び山水画のような風景が映る。そこではファンタジー的な場面も登場する。なんと虎まで出現する。ムーリエンは母を救えるのか。

山水画のような美しい大自然の映像と、マルチ商法のド派手な映像の対比によって、人間の欲望や弱さが際立って見えた。前作よりもエンタメ寄りになったという見方もできるだろうが、シャオガン監督は作風には関心がないらしい。これからもこちらが予想もしない作風の映画を撮るのかもしれない。今後も要注目の監督だ。

◆「西湖畔(せいこはん)に生きる」(草木人間/DWELLING BY THE WEST LAKE)
(2023年 中国)(上映時間1時間58分)
監督・脚本:グー・シャオガン
出演:ウー・レイ、ジアン・チンチン、チェン・ジエンビン、ワン・ジアジア、イェン・ナン、チェン・クン、ウー・ビー、ジュー・ボージャン、ワン・チュアン、ワン・ホンウェイ、リャン・ロン、ウーバイ、リュー・シンチェン
*新宿シネマカリテほかにて公開中
ホームページ https://moviola.jp/seikohan/

 


www.youtube.com

 

*はてなブログの映画グループに参加しています。よろしかったらクリックを。

 

*にほんブログ村に参加しています。こちらもよろしかったらクリックを。

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村

 

「本日公休」

「本日公休」
2024年9月26日(木)新宿武蔵野館にて。午後3時10分より鑑賞(スクリーン1/C-9)

~昔ながらの理髪店を営む母と今の時代を生きる子供たち。一服の清涼剤のような映画

 

台湾映画を取り上げるのは久々かな?

台中の理髪店を舞台にしたドラマ「本日公休」。作家やミュージックビデオの監督としても活躍する台湾のフー・ティエンユー監督が、自身の母親をモデルに脚本を書き映画にした。撮影も実家の理髪店で行ったという。

台中にある昔ながらの理髪店。ところが「本日公休」の札がかかり、店主のアールイ(ルー・シャオフェン)が行方不明。どうやら車でどこかに出かけたらしい。スマホも置いていったため連絡も取れない。近所に住む長男、たまたま実家に寄った長女は大騒動。ヘアーサロンで働く次女も巻き込んで、母がどこに行ったのかと心配する。

というわけで、ここからはこれまでの家族の肖像が描かれる。アールイは丁寧な仕事ぶりで常連客たちの信頼も厚い。常連客たちは、子供の結婚式や卒業式には必ずアールイの店を訪れて髪を整える。アールイは彼らとおしゃべりしながら、仕事をする。「そろそろ髪が伸びたから切りに来て」と電話することもある。いわば彼らの人生に寄り添うのだ。それは温かで穏やかなアナログの世界。人情のふれあいがある。

それに対して3人の子供たちは何事も合理的に考える。太陽光発電設備の販売をしているという長男は、アールイに店で最新式の掃除ロボットを導入するように勧める。ドラマ撮影の現場などでスタイリストをしている長女も、今の時代を生きている。そして次女は、今風のコストパフォーマンスの高い1000円カットの店(台湾で何というのか知らないが)の出店を考えている。

この母と子供たちの対比を軸に、前半のドラマが進んでいく。ただし、過剰にノスタルジーに流れたり、劇的な展開を追い求めることはしない。あくまでも母と子供たちそれぞれの人生を何の気負いもなく、ありのままに見せていく。

そこには、ユーモアもある。長女のドラマ撮影の現場では、何やら日本語を操るヒーローらしき人物が登場して笑いを誘う。そのほかにも笑える箇所が満載だ。

ところで、このドラマには主要な登場人物がもう一人いる。次女の元夫チュアン(フー・モンボー)だ。彼は自動車修理工をしていて、今も次女とつかず離れずの生活を送っている。そして彼はアールイ同様に昔ながらの商売をしている。友人が金に困っていると言えば、ツケをいとわず、金を貸すこともある。合理性より情を優先する。それが原因で次女と離婚したのだが、アールイとは通じるところがあり、今も親しく交流している。その交流場面が心にしみる。

後半は、ロードムービー的な展開も加わる。アールイは実は、離れた町から通い続けてくれる常連客の歯科医が病に倒れたことを知り、理髪道具を持って出張理髪に向かったのだ。その道中で田舎道を古い愛車で走る彼女の冒険譚が描かれる。そこではある農業青年(「藍色夏恋」のチェン・ボーリン)と出会い、髪を切ってやるほほえましい場面もある。そしてトラブルにも巻き込まれる。

その果てにたどりついた歯科医の家。その場面は感動的で心を揺さぶる。その後には、アールイの修業時代の若い姿が映るなど、さらに感動を誘うシーンもある。それを見て、人生や老いについて思いをはせる人も多いのではないだろうか。

終幕には、次女と元夫チュアンの新たな旅立ちなど周囲の変化を描きつつ、その変化を受け入れながらもアールイ自身はこれまでの生き方を貫き通すであろうことが示唆される。彼女にとって髪を切ることは、すなわち生きること、人生なのだ。

アールイを演じたのはアン・ホイ監督の「客途秋恨」で知られる名優ルー・シャオフェン。本作の脚本にほれ込んで24年ぶりにスクリーンに復帰したという。頑固だが温かみのある誠実なアールイを好演していた。

自身の経験を映画にすると、ともすれば激情に流れがちになるが、そうしたところもなくメリハリを利かせた人情物語だった。世知辛い世の中で、ホッとできる一服の清涼剤のような映画だった。

◆「本日公休」(本日公休/DAY OFF)
(2023年 台湾)(上映時間1時間46分)
監督・脚本:フー・ティエンユー
出演:ルー・シャオフェン、フー・モンボー、ファン・ジーヨウ、アニー・チェン、シー・ミンシュアイ、リン・ボーホン、チェン・ボーリン
*新宿武蔵野館ほかにて公開中
ホームページ https://www.zaziefilms.com/dayoff/

 


www.youtube.com

 

*はてなブログの映画グループに参加しています。よろしかったらクリックを。

 

*にほんブログ村に参加しています。こちらもよろしかったらクリックを。

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村

 

「あの人が消えた」

「あの人が消えた」
2024年9月24日(火)イオンシネマ板橋にて。午後1時30分より鑑賞(スクリーン1/F-9)

~あなたも絶対騙される!? 不可思議なミステリーが爆笑のコメディーに転化。そしてさらに……

 

前回取り上げた「ぼくが生きてる、ふたつの世界」を9月25日(水)に新宿ピカデリーで、もう一度鑑賞した。前回はちょっと手話の字幕が見にくかったのだが、今回はそれもすべてクリアになり、より親子の情愛がくっきりと浮かび上がってきた。そして出演している聾者の演技の達者なこと。大がパチンコ店で知り合った女性など、存在感十分の演技だった。本当に良い映画だと思う。

 

 

閑話休題。9月24日、皮膚科のクリニックに出かけて診察が終わったのが午後12時ちょうど。薬局に寄って12時20分。さて、このまま帰るのはもったいない。かといって観たい映画は時間が合わない。うーむ。時間的に都合がいいのは「あの人が消えた」か。まあ、これでいいか。

というのでイオンシネマ板橋に出かけ、サブウェイのサンドイッチで急いで昼食を済ませて、「あの人が消えた」を鑑賞。食後の腹ごなし程度の期待しかなかった。

謎のマンションを舞台にしたミステリーだ。主人公は配達員の丸子(高橋文哉)。コロナ禍で職を失い配達員になったものの、思うようにいかない。彼の担当地域には「次々と人が消える」という噂のマンションがあった。ある日、そのマンションのある部屋に荷物を届けると、住人は丸子が愛読するウェブ小説の作者・小宮(北香那)だった。彼女のことが気になる丸子。そんな中、挙動不審な住人・島崎(染谷将太)に、小宮のストーカー疑惑が持ち上がる。丸子は先輩配達員の沼田(田中圭)に相談しながら、疑惑の真相を確かめようとするのだが……。

前半は不気味で不可解なミステリー。コロナ禍での物流業界の事情などを導入部に織り込みつつ、主人公の配達員・丸子がウェブ小説の作者・小宮の身の上を気遣い、マンションの住人の正体を探ろうとする。

これがまあ、みんな怪しいのだ。猫を抱いた長谷部(坂井真紀)、几帳面そうな巻坂(中村倫也)、ちょっとヤバそうな沼田(袴田吉彦)、常に不在の男までいる。極めつけは島崎。芸人でテレビの企画で事故物件の部屋に住んでいるなどと言うが、どうも怪しい。盗聴器を備え、小宮にストーカーしている形跡がある。

いったい何がどうなっているのか。丸子は疑惑が膨らみ交番の警官に通報するものの、全く相手にされない。ただし、「あのマンションは次々と住人が消える噂がある」と告げられる。

そんな謎めいたドラマの一方で、丸子と先輩の沼田とのやりとりが笑いを誘う。沼田はウェブ小説を投稿しているが、丸子はちっとも面白くない。その代わりに小宮の小説に夢中になったわけだ。2人のやりとりはまるで漫才。沼田がボケまくる。小宮が消えたのは「神隠しじゃないか?」と言う。実は小宮は「千尋」という名前なのだ。だから「千と千尋の神隠し」。くだらなすぎて笑うしかない。

ところが、この「笑い」こそが後半の大きなポイントになる。後半は、前半で起きたことの真相が明らかになり、次々と伏線が回収される。そこでは小宮と島崎の驚くべき正体が明らかにされ、事件は政治テロへと発展する(詳細は伏せるが)。そして、なんとそこには笑いが満載のコメディー的展開が待ち受けているのだ。

特に笑えるのが島崎の大袈裟な演技。「パーソナルトレーナー」の発音を聞いただけで笑ってしまう。小宮もなかなかのコメディエンヌぶりを発揮する。こちらも漫才のようなやりとり。ついでに彼らの上司の寺田(菊地凛子)も登場する。あれ? これってもしかして夫婦共演か? 染谷と菊地は。

さらに、ある電話番号に電話するとあの大物俳優につながるという奇想天外な展開。これ、言っちゃダメなのか? キャストにも書かれていないし。まあ、いいや。「夢芝居」を歌う人です。彼が登場するに至ってはもはや大爆笑。ついでに猫ちゃんの名演技にも大爆笑。 

いろいろと不自然に感じられるところもあるが、それなりによくできたミステリーじゃないの。腹ごなしにはちょうどいいし。などと思っていた前半。ところが、この予想もつかない後半の展開で、一挙に得した気分になれたのだった。

ところが、ところが、なんとまあその先にはさらに驚きがあった。え? まさかそんな。なんだこのシリアスで苦い展開は。とにもかくにも、地縛霊で観客を感動に引き込んでジ・エンド。

ではなかった。最後の最後に今度は小宮のウェブ小説を生かして、転生物の話で締めくくるのだから参ったもの。これって、絶対に原作があるよな。原作は誰が書いたんだ?

えええ! これ、水野格監督のオリジナルなの? 大ヒットドラマ「ブラッシュアップライフ」の演出を手掛け、「劇場版 お前はまだグンマを知らない」で長編デビューしたらしいが、どっちもよく知らないゾ。しかし、こんな奇想天外で、予想もつかない話を思いつくとはスゴイ……。

役者たちもノリノリの演技を披露している。みんな楽しそうだものなぁ。それも、この映画を面白くしている要因。

エンタメ映画として実によくできている。すっかり騙されてしまいました。ここまでやってくれたら文句はない。降参です。

◆「あの人が消えた」
(2024年 日本)(上映時間1時間44分)
企画・監督・脚本:水野格
出演:高橋文哉、北香那、坂井真紀、袴田吉彦菊地凛子中村倫也染谷将太田中圭
*TOHOシネマズ 日比谷ほかにて公開中
ホームページ https://ano-hito.com/

 


www.youtube.com

 

*はてなブログの映画グループに参加しています。よろしかったらクリックを。

 

*にほんブログ村に参加しています。こちらもよろしかったらクリックを。

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村

 

 

「ぼくが生きてる、ふたつの世界」

「ぼくが生きてる、ふたつの世界」
2024年9月20日(金)シネ・リーブル池袋にて。午後2時5分より鑑賞(シアター2/F-4)

~聾者の両親を持つ息子の葛藤と成長。これは私の物語

 

9月19日、大宮ソニックシティ大ホールへ伊藤蘭のコンサートを観に行ってきた。相変わらず若々しくてエネルギッシュなステージだった。約2時間、歌って踊り続けるのだから大したものだ。それに刺激されて観客も大盛り上がりで、私もずっとスタンディングでペンライトを振り、踊りまくってしまった。こんなにはしゃいだのはいつ以来だろう?

さて、そんなことには関係なく、「そこのみにて光り輝く」「きみはいい子」の呉美保監督が、9年ぶりに長編映画を発表した。これは観に行かねばなるまい。

作家・エッセイストの五十嵐大による自伝的エッセイ「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」を映画化した「ぼくが生きてる、ふたつの世界」だ。

冒頭は、宮城県の小さな港町で五十嵐陽介(今井彰人)が船に塗装をしているシーン。まもなく彼は同僚から早く帰るように言われる。家に帰ると陽介と明子(忍足亜希子)の間に誕生した大の出生を祝う宴が開かれるところだった。博打好きの祖父、鈴木康夫(でんでん)、祖母の広子(烏丸せつこ)もいる。

というように、幸せいっぱいの場面からドラマがスタートする。明子と陽介は耳が聞こえない聾者で、大とは手話で会話をしていた。両親は大に愛情をたっぷり注ぎ、大も素直に育っていった。

だが、小学生になると次第に自分の家庭が「普通」ではないと感じ始める。友達もそうした目を向ける。それまで普通だと思っていた母の「通訳」をすることも、何だか恥ずかしいと感じるようになる。母はとびっきり明るい女性だったが、それさえ疎ましく思えてくる。そうした思いは大(吉沢亮)が高校生になって、いっそう強くなる。

などと書くと、どこかで聞いたありがちな話と思うかもしれない。しかし、呉監督と「正欲」など多数の作品で脚本を手掛ける港岳彦とのコンビは、劇的な展開を極力排し、繊細に登場人物の感情を切り取っていく。予告編を見ると、いかにも明子と大には抜き差しならない問題があるように思えるが、そういうわけではない。様々な些細な出来事が積み重なって、大には複雑な感情が芽生えていくのである。そこには思春期ならではの親に対する反抗心も巧みに織り込まれている。

だから、彼は決定的に明子を突き放さない。自分の家庭が普通ではないことに対して苛立ち、時には「こんな家に生まれたくなかった」と言い放つが、それでも明子に優しく接するときもある。行きつ戻りつしつつ、自分の居場所を探すのだ。

複雑な心情を抱えたまま、大は役者になろうとするものの、「他人を見返したい」という程度の動機ではうまくいくはずもない。20歳になった大はついに上京を決意し、パチンコ店で働き始める。誰も自分の生い立ちを知らない場所で、自立の道を模索する。やがて大は編集者の道を歩み始めるが……。

この間、明子は大の声を聞きたいと何度も電話をかける。それを疎ましく思いつつも、それでも明子に声を聞かせる大。そのあたりのやり取りはユーモラスで笑いを誘う。そう。この映画には笑えるところもたくさんあるのだ。

一方で、大は聾者と知り合いになり、彼らのサークルに加わったり、飲み会に参加するようになる。両親以外の聾者と親しく接することで、今まで知らなかったことがわかるようになる。耳の聞こえない両親を持つ子供のことを「コーダ」と表現することも初めて知る。

こうして大は改めて両親のことを思いやる。おりしも父親が倒れ、彼は故郷に久しぶりに帰ることになる。そこでの両親との交流がとても自然でよいのだ。両親への様々な思いを胸に抱え、明子に対して「ありがとう」と言う大。「何を言ってているのか」と受け流す明子。その瞬間、不覚にも私の涙腺が決壊してしまった。

この映画のタイトルにある「ふたつの世界」とは、「聞こえる世界」と「聞こえない世界」を指すのだろう。コーダである大は、ふたつの世界を行き来する。だが、単にそういう世界を超えて、このドラマは普遍的な物語として成立している。すべての人の親に対する葛藤や後悔、懐かしい思い出などが呼び起こされるのだ。だからこそ、私は泣いてしまったのである。私の両親はすでに他界しているので、後悔ばかりが募るのだが……。

本作が普遍的な物語として成立する背景には、徹底的にリアリズムを追求し、噓臭さを微塵も感じさせないつくりになっていることもある。聾者の出演者には、聾者俳優として活躍する忍足亜希子、日本ろう者劇団などで活動する今井彰人らが演じている。手話監修協力として全日本ろうあ連盟が参加するなど手話演出も丁寧に行っている。

また、本作には「劇伴」がない。これも「ふたつの世界」を対比させる意図だろう。その代わり、店内音楽などの現実の音で、さりげなく主人公たちの心情をすくいあげる。

最後の仕掛けが心憎い。東京に戻る大を見送る明子。その背中に、大がかつて上京間際だった時のある微笑ましいエピソードがかぶる(詳しいことは伏せるけど)。私は、ここで再度泣いてしまった。あざとさなど全くないだけに、余計に涙腺を刺激されてしまったのである。

エンドロールに流れる曲も素敵だ。どうやら、この曲は母から大への手紙を英語の歌にしたものらしい。スクリーンの端に映される日本語字幕が感動的だ。

達者な手話を披露した吉沢亮の繊細な演技が印象深い。息子に愛を注ぎ続ける忍足の自然な演技も見逃せない。

個人的な思いもあるが、それにしても素晴らしい映画だった。親に対する様々な思いが込み上げてきた。映画で泣いたのも久しぶりだな。

◆「ぼくが生きてる、ふたつの世界」
(2024年 日本)(上映時間1時間45分)
監督:呉美保
出演:吉沢亮忍足亜希子、今井彰人、ユースケ・サンタマリア烏丸せつこ、でんでん、原扶貴子、山本浩司、河合祐三子、長井恵里
*新宿ピカデリーシネスイッチ銀座ほかにて公開中。全国順次公開
ホームページ https://gaga.ne.jp/FutatsunoSekai/

 


www.youtube.com


www.youtube.com

 

*はてなブログの映画グループに参加しています。よろしかったらクリックを。

 

*にほんブログ村に参加しています。こちらもよろしかったらクリックを。

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村

 

 

「ぼくのお日さま」

「ぼくのお日さま」
2024年9月16日(月・祝)イオンシネマ板橋にて。午後2時35分の回(スクリーン2/C-10)

フィギュアスケートを学ぶ少年と少女、コーチの温かで美しすぎる物語

 

しまった! こんなに前だったのか……。予約したC-10。行き慣れない映画館だからなぁ。前すぎて観にくいなぁ。けど仕方ないか。

などと上映前はあれこれ思ったものの、映画が始まったらそんなことは全く気にならなくなってしまった。

「僕はイエス様が嫌い」で第66回サンセバスチャン国際映画祭の最優秀新人監督賞を受賞した奥山大史監督の商業映画デビュー作「ぼくのお日さま」だ。奥山監督は脚本のほか撮影、編集も手掛けている。本作は2024年・第77回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に選出された。

フィギュアスケートを学ぶ少年、少女、コーチの3人を中心としたドラマだ。

雪国の田舎町。少し吃音のある小学6年生タクヤ(越山敬達)。夏は野球、冬はアイスホッケーに励んでいたが、どちらも今ひとつ。ゴールキーパーを務めるアイスホッケーでは、体にアザを作っていた。

ある日、タクヤスケートリンクで、ドビュッシーの「月の光」に合わせてフィギュアスケートの練習をする少女さくら(中西希亜良)に心を奪われる。その後、タクヤはホッケー靴のままフィギュアのステップを真似して何度も転倒する。それを見ていたさくらのコーチで元フィギュアスケート選手の荒川(池松壮亮)は、フィギュア用のスケート靴をタクヤに貸して練習につきあう。やがて荒川の提案で、タクヤとさくらはペアでアイスダンスの練習を始めることになるが……。

思春期の初々しい恋とスポーツの物語。ストーリーを見たら誰でもそう思うはずだ。もちろんそれは間違いではないのだけれど、単純なジャンル分けでは括れない独自の魅力にあふれたドラマだ。まるでポエムのように美しく、瑞々しいひと冬の物語が展開する。

静かで穏やかな映画だ。台詞はけっして多くない。しかも、その台詞はごく自然なものだ。あまりにも自然すぎて聞き取れないところもあった。もしかしたら、台詞の一部はアドリブかもしれない。

その台詞に頼らない心情描写が素晴らしい。登場人物の視線や表情、しぐさなどで多くのことを物語る。タクヤのさくらに対する淡い恋心、さくらの荒川コーチに対する憧れ、そしてこの地にやってきた荒川の揺れる思い。そうした心の機微が余すところなく伝わってきた。

そして何よりもこの映画で素晴らしいのが、スタンダートサイズで撮られた映像だ。特に淡い光を使った映像が見事。タクヤが初めて見たさくらのスケートシーンの美しさは、筆舌に尽くしがたい。そこでは光に加えてスモークも効果的に使われている。それはまるでこの世のものとは思えないほどの美しさだ。幻想的で見とれてしまう。きっとタクヤならずとも、さくらに恋してしまうはず。

それ以外のスケートシーンも印象深い。すべてのシーンが絵画のように美しい。構図も緻密に考えられているのだろう。タクヤ、さくら、荒川コーチの3人が、生き生きと躍動すする。3人で連れ立って凍った湖に出かけるシーンも忘れ難い。

奥山監督の登場人物に向けられたまなざしは柔らかい。思春期の少年と少女たちを優しく見守っている。それがスクリーンのこちら側の心も温かくしてくれる。

タクヤとさくらは、次第に息の合ったアイスダンスを見せるようになる。それにともなってタクヤ、さくら、荒川の絆も強まっていく。

しかし、ドラマの後半はそれまでの3人の関係性に波風が立つ。さくらの荒川コーチへの憧れが波乱を起こす。実は、荒川は恋人を頼ってこの地にやって来たのだった。

とはいえ、それも過剰に劇的に描くようなことはしない。あくまでも静かに穏やかに、些細な感情のもつれを浮き彫りにする。

そして、迎えた終盤。後日談として、中学に進学したタクヤが登場する。タクヤと荒川の湖畔でのキャッチボール。そしてさくらの美しいスケートシーン(ここのシーンも素晴らしすぎる!)。続くラストシーンで顔を合わせるタクヤとさくら。さくらの微妙な表情。何かを言いかけるタクヤ……。深い余韻を残してくれる「これしかない!」というぐらい絶妙な幕切れである。

音楽の使い方も秀逸。80~90年代の洋楽らしき曲が荒川の車で効果的に流れる。主題歌のハンバートハンバートの2014年の曲「ぼくのお日さま」もずっと耳に残りそうだ。奥山監督は自身のフィギュアスケート体験に加え、この曲に出会ったことから本作を構想したとのこと。

タクヤ役の越山敬達とさくら役の中西希亜良の瑞々しくも繊細な演技が目を引く。越山はテレビドラマ「天狗の台所」に出演しているが本作が映画初主演。中西はアイスダンス経験者で本作が演技デビュー。2人とも今後の活躍が楽しみだ。コーチ役の池松壮亮の安定した演技も若い2人を支えている。

先日の「ナミビアの砂漠」の山中瑶子監督といい、本作の奥山監督といい、最近は若手の才能ある監督が次々に飛び出している印象がある。日本映画の未来は明るい!?

ミニマムだが宝物のような映画だ。観終わった今でもいくつものシーンが頭から離れない。きっとこれから私は何度もこの映画が観たくなるだろう。

と書いたが、実はこの翌日の17日、シネ・リーブル池袋(シアター1/D-8)で二度目の鑑賞をしてしまった。本当に見事な映画である。

◆「ぼくのお日さま」
(2023年 日本)(上映時間1時間30分)
監督・脚本・撮影・編集:奥山大史
出演:越山敬達、中西希亜良、山田真歩、潤浩、若葉竜也池松壮亮
*テアトル新宿ほかにて公開中
ホームページ https://bokunoohisama.com/

 

 


www.youtube.com

 

*はてなブログの映画グループに参加しています。よろしかったらクリックを。

 

*にほんブログ村に参加しています。こちらもよろしかったらクリックを。

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村 

「幻の光」(デジタルリマスター版)

幻の光」(デジタルリマスター版)
2024年9月4日(水)シネ・リーブル池袋にて。午後2時55分より鑑賞(シアター1/D-8)

是枝裕和監督のデビュー作がデジタルリマスターに。一人の女性の喪失と再生のドラマ

ナミビアの砂漠」の衝撃は大きく、もう一度観て色々と再確認しようと思ったものの、結局今週はまた映画館に行けず。もともと大学病院の定期通院の予定が2件もあったのに加え、それとは別の症状が出たため別の病院に行って検査することに。私は病気のデパートか? まあ、幸い大きな異常はなかったので良かったが……。

というわけで、10日ほど前に観た映画の感想をお届けします。

家のそばのTSUTAYAで以前はかなり頻繁にレンタルDVDを借りていた。その時に、気になって借りよう借りようと思っていた映画がある。是枝裕和監督の映画デビュー作「幻の光」だ。

しかし、結局借りないままで終わり、TUTAYAはその後「蔦屋書店」に変わり、今月ついに閉店することになった。最近はあまり足を運ばなかったとはいえ、寂しい限りである。

その「幻の光」がデジタルリマスター版になり、8月上旬から各地の劇場で上映されるという話を聞いた。本作が輪島市でロケをしたことから、その恩返しの意味で能登半島地震の支援(収益を寄付する)ために上映されるのだという。ということで、池袋の映画館でようやく「幻の光」を観ることができた。

宮本輝の小説の映画化だ。冒頭は主人公のゆみ子の幼少時代が描かれる。12歳の時、祖母が「四国で死にたい」と家を出る。どうやら認知症の気配があるらしい。しかし、ゆみ子は祖母を止めることができなかった。その後祖母は行方不明になる。ゆみ子はそのことを深く悔いている。

実は、この冒頭の場面は、25歳になったゆみ子(江角マキコ)の夢の場面なのだった。彼女は郁夫(浅野忠信)と結婚し、長男の勇一も生まれていたが、今も時々幼い時の夢を見てしまう。それでも、傍目には幸せな暮らしを送っているように見えた。

だが、ある日、突然、郁夫は自転車の鍵だけを残して自殺してしまう。何の前触れもなかった。

それから5年後、ゆみ子は日本海に面する奥能登の小さな村に住む民雄(内藤剛志)と再婚する。民雄は先妻に先立たれ、娘の友子と父と暮らしていた。

これで民雄がDV男だったりすれば、大波乱のドラマとなるのだが、そんなことにはならない。民雄はとても優しく、勇一のことも可愛がる。ゆみ子と民雄は幸せに暮らす。

だが、それでもゆみ子の心には郁夫の影が残る。特に、弟の結婚式のために里帰りしたのを機に、その影が大きくなる。

是枝監督はゆみ子の心理を繊細に切り取る。それまでドキュメンタリーの演出をしていたことも関係しているのかもしれないが、長回しの映像を多用し、台詞以外の部分で心の揺れ動きを巧みに表現する。

このあたりは、その後の是枝作品に通じる部分だろう。そのおかげで、静かでそれほど波乱のない映画なのに、最後まで目が離せない。

人物以外のショットも効果的に使われる。特に、海に面した能登雄大な自然の風景をそこかしこに挿入し、情趣を高める。

終盤が圧巻だ。あることから家を出たゆみ子が、葬列の後を追う。それを海を背景に遠方からとらえた映像は、まるで絵画のようで心を深く突き刺す。

その後、海辺の岩場で燃える柩の火を見つめ、たたずむゆみ子が、民雄に「なぜ、郁夫が自殺してしまったのか、未だにわからない」と告げる。それに対して民雄が「幻の光」の話をする。このシーンも圧倒的に素晴らしい。

そしてラストでは、ゆみ子の新たな人生がさりげなく示唆される。

是枝監督のその後の作品に通じる要素がたくさん詰まった映画。勇一と友子の交流する場面が生き生きと描かれるのも、子役の使い方が巧みな後年の是枝作品に通じるところかもしれない。

静謐でありながら様々なゆみ子の感情が浮かび上がる。まさしく彼女の喪失と再生を描いた作品といえるだろう。29年経ってもその輝きは色あせない。

ゆみ子を演じた江角マキコの存在感が際立つ。本作が彼女の俳優デビュー作だが、演技の巧拙という次元を超えて、ゆみ子の魂を見事にスクリーンに刻み付けていた。いろいろあって2017年に芸能界を引退してしまったのが惜しいところ。

その他にも、若き日の浅野忠信内藤剛志らの演技が本作で堪能できる。現在の彼らと比較するのも一興。木内みどり大杉漣桜むつ子市田ひろみ寺田農などすでに鬼籍に入った人々が多いのが時代を感じさせる。ちなみに、柄本明は当時から老け役だったのね。

長いこと念願だった映画をスクリーンで観ることができて、とても良い時間を過ごせた。心に染みる映画だった。

◆「幻の光
(1995年 日本)(上映時間1時間50分)
監督:是枝裕和
出演:江角マキコ浅野忠信、柏山剛毅、渡辺奈臣、吉野紗香木内みどり大杉漣桜むつ子赤井英和市田ひろみ寺田農内藤剛志柄本明
*テアトル新宿ほかにて公開中
ホームページ https://maborosi.online/

 


www.youtube.com

 

*はてなブログの映画グループに参加しています。よろしかったらクリックを。

 

*にほんブログ村に参加しています。こちらもよろしかったらクリックを。

 

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村