映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「たかが世界の終わり」

「たかが世界の終わり」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年2月12日(日)午後12時30分より鑑賞。(スクリーン1/E-12)

いい年していまだにブレイクを果たせないオレのような人間から見ると、若くして世に出たヤツの才能がうらやましくて仕方ない。嫉妬のあまり「フン。どうせ年とともに尻すぼみになって、落ちぶれるに決まってるぜッ!」などと悪態をついて、なおさら惨めったらしい気持ちになったりするわけだ。

カナダのグザヴィエ・ドラン監督も、オレの嫉妬光線の格好のターゲットだ。何しろわずか19歳で監督・主演した「マイ・マザー」(2009年)で衝撃の監督デビューを飾り、その後も「わたしはロランス」(2012年)、「トム・アット・ザ・ファーム」(2013年)、「Mommy/マミー」(2014年)と才気あふれる作品を送りだしてきたのだ。あ~、悔しい!

そんなドラン監督の新作が「たかが世界の終わり」(JUSTE LA FIN DU MONDE)(2016年 カナダ・フランス)である。最初に言っておくが、これまた見事な映画なのだ。やれやれ。

この映画のもとになったのは、38歳で死去したフランスの劇作家ジャン=リュック・ラガルスの戯曲。家族を描いたドラマだ。

主人公は34歳の人気作家で同性愛者(ドラン監督自身も同性愛者で、映画にも同性愛者がよく登場する)のルイ(ギャスパー・ウリエル)。彼が12年ぶりに帰郷するシーンからドラマが始まる。彼は病気で死期が迫っていて、それを家族に告げるために帰郷するのだ。

出迎える家族は、母のマルティーヌ(ナタリー・バイ)、妹のシュザンヌ(レア・セドゥ)、兄のアントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)、彼の妻のカトリーヌ(マリオン・コティヤール)の4人。

この人たち、みんなどこか変なのである。マルティーヌは息子の大好きな料理を作って歓迎するのだが、大はしゃぎでひたすら喋りまくる。妹のシュザンヌは、兄が家を出た時にまだ小さくてよく覚えおらず、慣れない化粧をしたりして兄を出迎える。一方、兄のアントワーヌは、何やら不機嫌そうだ。もともとこの人、家族を怒鳴りまくっているのだが、勝手に家を出た弟にはなおさらわだかまりがある模様。そして、彼の妻のカトリーヌは初対面のルイに気を使うが、意外に鋭い感性の持ち主だったりする。

この映画はほとんどがルイの実家の中で進行する。わずかに回想が挟み込まれたり、ルイが兄とともに車で出かける展開がある程度で、それ以外は家の中で家族全員で、あるいは1対1で会話が繰り広げられる。大きな事件などは起きないが、それでも密度の濃い時間が生み出されている。

もとが舞台劇だけに、セリフの言い回しや強弱を中心に演劇の良さは十分に生かされている。同時に、そこに映像的な妙味を加えている。具体的には、会話をする人物の表情をアップでキッチリ捉え(それ以外はわざとぼかしたりして)、セリフとは裏腹の感情なども含めて、家族の心理を繊細に描写している。

そこから見えてくるのは、機能不全に陥った家族の姿だ。彼らの感情は葛藤やすれ違いの連続である。ただし、完全に家族崩壊に至る間際で無意識に踏みとどまる。まさに微妙なバランスの上に成立した家族。そんな家族の無意味な会話が続き、ルイは帰郷の目的を告白するタイミングを見失ってしまう。そして観客は「いつルイは告白できるのか」とハラハラしながらスクリーンを見つめるのだ。

それと同時に、観客はいろいろと想像力をかき立てられる。この映画では、詳しいディテールの説明などはない。例えば、ルイが家出した理由も明確ではないし、その他の家族が抱えたものもぼんやりしたままだ。いったい彼らの過去に何があったのか。目の前で繰り広げられ会話を通して、観客の想像力が試されるのである。

ギャスパー・ウリエル、レア・セドゥ、マリオン・コティヤールヴァンサン・カッセル、ナタリー・バイという5人の実力派俳優の演技も見ものだ。特に少ないセリフながら、その表情で多くのことを物語ったルイ役のギャスパー・ウリエル。ルイの病気を見抜きつつ、直接的には口に出すことなく、チラリチラリと不安な感情を見せたマリオン・コティヤールの演技が素晴らしい。

まあ、あまりにも強烈すぎる個性の家族なので、「こいつらがいるなら、ルイも家を出たくなるよなぁ」と思ったりもしてしまうわけだが、それでも家族というものの複雑さを的確に捉えた映画なのは間違いない。

ドラン監督がこの映画を監督したのは27歳の時。そして、この作品で第69回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。はたして、こののちどんな作品を送り出すのか。末恐ろしいとはこのことだろう。

あ~、それにしても悔しい。ほんのひとかけらでもいいから、オレに才能を分けてくれんものでしょうか? ドラン監督。

●今日の映画代、1300円。今日もTCGメンバーズカード料金。貧乏人なのでつい安く観られる映画館に行ってしまうのだ。

 

「エリザのために」

「エリザのために」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年2月5日(日)午前11時50分より鑑賞(スクリーン1/D-12)

.ルーマニアといえば、1989年の革命でチャウシェスク大統領夫妻があっさりと処刑されてしまった映像が今も記憶に残る。いくら独裁者とはいえ、あんなに情け容赦なく、混乱の中のどさくさ紛れみたいに処刑するのはどうなんだ? そんなことして民主化しても、ろくなことにならんのじゃないか?という不安感がぬぐえなかった。

あれから30年近くたった今、オレの不安は的中したようだ。少なくともクリスティアン・ムンジウ監督の「エリザのために」で描かれたルーマニア社会は、かなりヤバイことになっている。

ルーマニアの家族の物語だ。冒頭は、ある家の窓ガラスが投石によって割れるシーン。この家に住む一家が、このドラマの主人公。父のロメオ(アドリアン・ティティエニ)は医師、母のマグダは図書館員、娘のエリザ(マリア・ドラグシ)はイギリス留学を間近に控えている。

ある朝、ロメオはエリザを車で学校に送る。しかし、ロメオが急いでいるらしいことを知ったエリザは、途中で車を降りて徒歩で学校に向かう。しかし、その後彼女はすぐに暴漢に襲われてしまう。

その知らせをロメオが受けたのは、なんと愛人宅。実は彼と妻のマグダの夫婦関係は破たん状態。マグダは夫の愛人の存在を知っているが、エリザはそれを知らなかった。

ロメオは考えようによっては身勝手な人間にも思えるが、その一方で医師としては患者からのお礼を一切受け取らず、常に倫理的に振る舞う。そして何よりも娘のエリザのことを強く気にかけている。

ただし、その方向性が問題だ。どうやらイギリス留学の話はエリザが希望したものではなく、ロメオが強く勧めたものらしい。彼はルーマニア民主化された1991年に妻とともに帰国したのだが、ルーマニアの現状は彼の期待とは大きく違ってしまった。民主化後も汚職と不正が蔓延し、治安も良いとはいえない状態だ。そのため、彼は何が何でも娘を外国に送り出そうとしているのである。

エリザは幸い腕を負傷しただけで大事には至らなかったものの、ショックで激しく動揺する。留学を実現するには卒業試験で一定の成績を取らねばならないが、今の精神状態ではそれもおぼつかない。事件の起きた朝に愛人宅へ向かった自責の念もあって、ロメオは娘のために何かをしたいと考える。

そこで彼は警察署長や副市長など、あらゆるコネを使って娘が無事に試験を通過できるように働きかける。 そこに、民主化後のルーマニアのゆがんだ現状が、赤裸々に映し出される。

ムンジウ監督は手持ちカメラを使って、ドキュメンタリータッチの映像でドラマを描く。それによって、登場人物の心理がリアルに伝わってくる。ロメオが抱えた不倫の後ろめたさや、娘のためとはいえあれほど嫌っていた不正に手を染める苦悩と葛藤。あるいは、恐ろしい事件に遭い苦しみながらも、それを乗り越えようとするエリザの心の揺れ動き。それらがヒシヒシと伝わってくる。

同時に何やらサスペンスフルで、謎めいた雰囲気も漂ってくる。エリザを襲った犯人は誰なのか。そしてロメオの自宅や車への投石は誰の仕業なのか。そんな出来事を背景に不穏な緊張感がスクリーンを包みこむ。

後半、エリザはロメオに反発し、ロメオは自らの不正が暴かれそうになるなど、ドラマは急展開を迎える。自分が尾行されていると信じ込み、突然バスを降りて夜の住宅街をさまようロメオの姿が、何ともやるせなく感じられる。

この映画には、わかりやすい結末や明確なハッピーエンドが用意されているわけではない。しかし、ラストの卒業式シーンでのエリザの笑顔は、彼女の成長と自立を予感させるもので、微かな希望を感じさせる。

ルーマニアの社会問題を背景にしつつ、親子や夫婦の関係、正義やモラルなど様々な問いが観客に突き付けられる作品である。

ムンジウ監督は、この作品で2016年の第69回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した。パルムドールを獲得した『4ヶ月、3週と2日』、脚本賞を獲得した『汚れなき祈り』に続いて3度目のカンヌ映画祭受賞となった。それも納得できる密度の濃い映画だと思う。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカード料金。火曜、水曜なら1000円でさらに安くなるんだけどね。

「この世界の片隅に」~その2

この世界の片隅に~その2
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年2月4日(土)午前11時15分より鑑賞(スクリーン5:H-11)。

東京国際映画祭で最初に観た時の感想はすでに書いたのだが、その時にはまさか5回も観ることになるとは思わなかった。原作:こうの史代、監督・脚本:片渕須直によるアニメ映画「この世界の片隅に」だ。

その時に書いた感想
→ http://cinemaking.hatenablog.com/entry/2016/11/03/212252

最初の鑑賞時の「もしやこれは傑作では?」という思いから(東京国際映画祭は関係者向け上映でタダだったし)、それを確かめに近所のシネコンに足を運び、さらに公開の本家本元でもあるテアトル新宿に2度観に行き。そしてまたしても近所のシネコンに足を運んでしまった。

その間に、もちろん最初の思いは確信に変わった。これは間違いなく傑作だ。おまけに世間的にもキネマ旬報ベストテンの日本映画1位になるなど、各方面から高く評価されて、異例の大ヒットを続けている。公開前にいち早く目を付けたオレとしては、実にうれしい限りだ。

さすがに5回も観れば、新しい発見などないかと思えばさにあらず。まだまだいろいろなことがわかってくる。それだけ細部までこだわって作られているということだろう。綿密なリサーチに基づいて描かれた絵は、同時に的確なデフォルメや省略も加えられ、全てのカットが息づいている。

そして何よりも、この映画には温かで心地よい世界が広がっている。戦争を描いた映画で、こんな気持ちになったことはいまだかつてなかったと思う。

音響も素晴らしい。特にシネコンの大きなスピーカーで聞くと、それが一層際立つ。空襲シーンのリアルな音なども印象深い。そしてコトリンゴの音楽だ。冒頭近くの「悲しくてやりきれない」やエンディングの「たんぽぽ」など、すべてが見事にこの世界を包み込んでいる。

登場人物の微妙な表情の変化がわかるのも、鑑賞回数を重ねたおかげだろう。例えば、結婚前のすずが水原に会った時の表情は、その後の2人の関係、さらに夫の周作との関係を納得できるものにしている。

今回5回目を観て再確認できたのは、これはすずの自分探しの物語だということだ。自分で選択することもなく(当時の時代性もあるのだろうが)、流されるままにお嫁に行った彼女が、日々の暮らし(当然そこには戦争の影が忍び寄る)の中から、やがて自分の居場所を見つけていく。表面的にはそれが以前と同じ場所だとしても、今度は自ら選び取ったものである。

しかし、それでも以前とは明らかに違うものがある。それこそが戦争が奪っていったものだ。玉音放送のあとのすずの怒りは、政府によって叩き込まれた好戦性によるものではなく、戦争の中でも必死に日常を生きようとした努力が、すべて否定されたかのように思えたからではなかったのか。

いずれにしても、戦争は突然どこかからやってくるものではなく、日常と地続きのものであることを強く意識させられる。

エンドロールは、いつ観ても泣けてくる。あの後日談をグダグダと描かなかったのは正解だ。おかげでよけいに余韻が残る。

そして最後に流れるクラウドファンディングの協力者たちの名前。何度も言うが、オレも入りたかったゾ~! 悔しい~!

たぶん、これからも何回も観ることになると思う。オレにとってそのぐらい特別な映画である。

●今日の映画代、0円。すいません。ユナイテッド・シネマの貯まったポイントで鑑賞しました。

「スノーデン」

「スノーデン」
TOHOシネマズ新宿にて。2017年2月1日(水)午前9時50分より鑑賞。(スクリーン5/E列10番)

もしかしたらオレのことを誰かが監視していて、ヘタなことをするとすぐにとっ捕まるのではないか……。などと荒唐無稽なことを思ったことが何度もある(自意識過剰でスイマセン)。しかし、それがあながち荒唐無稽なことといえないという事実が発覚した。2013年6月のことだ。イギリスのガーディアン誌が報じたスクープによって、アメリカ政府が極秘に構築した国際的監視プログラムの存在が発覚し、世界を驚かせたのである。

まあ、要するに犯罪人でなくとも、世界のすべての人の個人情報が監視されてしまう恐ろしいプログラムなわけだ。その中にはオレも入っているのだろうか。それともさすがにオレのような小物は相手にしないのだろうか。いや、別に監視されたって何にもありゃしないんですけどね。やっぱり気持ち悪いじゃないですか。

そんな恐ろしい機密情報をリークしたのが、NSAアメリカ国家安全保障局)の職員であるエドワード・スノーデンという青年である。これまでもドキュメンタリー映画になったりしたこの事件だが、初の劇映画として登場したのが、その名も「スノーデン」(SNOWDEN)(2016年 アメリカ)という作品だ。

軍への入隊を志願したものの、訓練で負傷し除隊を余儀なくされた青年エドワード・スノーデンジョセフ・ゴードン=レヴィット)。その後、コンピュータの知識を生かしてCIAの採用試験に合格し、指導教官コービン・オブライアンからも一目置かれる存在になる。一方プライベートでは、SNSで知り合ったリンゼイ・ミルズ(シェイリーン・ウッドリー)と親しくなる。そんな中、ジュネーヴのアメリカ国連代表部に派遣された彼は、全世界の個人情報が監視されている事実を知り愕然とする……。

冒頭は、香港のホテルでガーディアン誌の記者やドキュメンタリー作家とおち合ったスノーデンが、いよいよ情報を提供するところ。そして、そこから過去の彼の人生が語られ始める。

9.11テロ以降国家の役に立ちたいと考えるようになったスノーデンは、2004年に軍への入隊を志願するものの訓練で足を負傷し除隊に追い込まれる。その後、コンピュータオタクの特徴を生かして、CIAの採用試験に合格。そこで出会ったのが指導教官のオブライアン(リス・エヴァンスがいい味を出している)。彼に目をかけられたスノーデンは、重要な仕事をするようになる。

一方、プラスベートでは、SNSで知り合ったリンゼイ・ミルズという女性と恋人になる。国家に忠誠を尽くしたいと思っていたスノーデンに対して、リンゼイはリベラル派で当時のブッシュ政権に反対している。そんな彼女にスノーデンは大きく影響を受けるようになる。

2007年にスノーデンはスイス・ジュネーヴにあるアメリカの国連代表部に派遣される。そこで彼は、一般市民のメール、チャット、SNSからあらゆる情報を収集する極秘検索システムの存在を知る。政府はそれを使った情報収集を行っている。その後、スノーデンはCIAを退職するが、今度はIT企業の出向者としてNSA(米国国家安全保障局)の仕事をするようになり東京の横田基地に勤務、さらにハワイのCIA工作センターへと赴任する。そうした中で、ついに情報を暴露することを決意する。

この映画のオリヴァー・ストーン監督は、社会派の硬派な映画で知られているが、実はエンタメ性豊かな作品もたくさん撮っている。例えば2006年の「ワールド・トレード・センター」は、9.11テロの際に崩落した世界貿易センタービルから生還した警察官の感動ドラマ。「テロの深層を描いていない」という批判もあったが、監督本人は「これはエンタメ映画であり、テロをきちんと描くならもっと違う映画にする」という主旨の発言をしていた。

この映画も基本はエンタメ映画である。前半から中盤にかけては、スノーデンの人物像に焦点を当て、恋人のリンゼイとの関係も織り込みながら、もともと国家に忠誠を尽くしていた彼が、どうして機密情報を暴露するに至ったかを描く。

ただし、それは単純明快な図式ではない。CIA長官が監視の事実を否定するなど、いくつもの要素が重なった末の行動だ(もちろんリンゼイとの関係も大きく影響する)。劇的でないがゆえに、よけいにリアルに感じられる。

終盤は現在進行形と過去の2つのドラマがスリリングに交錯する。現在進行形のドラマでは、スノーデンがマスコミに情報提供し、それがギリギリのせめぎあいの中で公開され、その結果彼は政府のお尋ね者になってしまう。一方、過去のドラマでは、周囲の目を盗んで情報を外部に持ち出そうとするスノーデンが描かれる。そこでは、彼が映画の冒頭で手にしていたルービックキューブが効果的に使われる。

スノーデンが機密を暴露したとわかった瞬間、ニコラス・ケイジ演じるCIA職員が快哉を叫ぶ。いかにもエンタメ映画らしいシーンだ(ニコラス・ケイジはこういう地味な役が意外に似合ったりする)。この映画には、その他にも様々な見せる工夫が施されている。映像的にはリンゼイが撮影した写真や、ドキュメンタリー監督が撮影した動画、オバマ大統領をはじめ実際のニュース映像なども使って観客を飽きさせない。また、わかりにくいITに関する話も、あえて深く踏み込まずにシンプルに描く。

ラストは、ロシアに亡命したスノーデンがネット中継に登場するシーン。そして、彼のおかげで少しは状況が改善されたこと、それにもかかわらず彼は今もアメリカに帰れないことが告げられる(リンゼイもロシアに渡った)。

というわけで、この映画はヒューマンドラマやサスペンス、ラブストーリーなど様々な要素を持つエンタメ映画であると同時に、権力の暴走に対する警鐘を鳴らす社会派の側面も持つ(それはアメリカだけでなく、日本をはじめ世界のすべての国にも関係することだろう)。とにかく観応え十分の映画だ。何よりも、スノーデンになりきったジョセフ・ゴードン・レヴィットの演技が見事。変な言い方だが、本人より本人らしいと思えるほどの演技だった。

で、オレは本当にアメリカ政府に監視されているのだろうか?

●今日の映画代、1100円。毎月1日は映画サービスデー。1100円で鑑賞できます。

 

「マグニフィセント・セブン」

「マグニフィセント・セブン」
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年1月27日(金)午後12時45分より鑑賞

黒澤明監督が日本映画史を代表する巨匠であることは、誰もが認めるところだろう。だが、オレは晩年の映画はどうにも好きになれない。形式美ばかりが先に立って、ドラマの中身が伴っていない感じがするのだ。

その代わり初期から中期にかけては、文句なしに面白い映画が並ぶ。「七人の侍」(1954)もその1本だ。戦国時代の農村を舞台に、野武士たちに苦しめられる農民たちに雇われた7人の浪人を描いた作品。世界的にも高く評価され、この作品を翻案したジョン・スタージェス監督の西部劇「荒野の七人」(1960)も登場した。

この「七人の侍」「荒野の七人」を原案にした(というか「荒野の七人」のリメイクといったほうが適切かもしれないが)新たな西部劇が公開された。「トレーニング・デイ」「イコライザー」に続いて、アントワーン・フークア監督とデンゼル・ワシントンがコンビを組んだ「マグニフィセント・セブン」(THE MAGNIFICENT SEVEN)(2016年 アメリカ)である。

西部開拓時代の小さな町。冷酷な悪徳実業家バーソロミュー・ボーグ(ピーター・サースガード)が町の資源を独占しようと、横暴の限りを尽くしていた。そんな中、ボーグに夫を殺されたエマ(ヘイリー・ベネット)は、町の全財産を差し出してサム(デンゼル・ワシントン)と名乗る賞金稼ぎの男を雇い、町を救ってほしいと依頼する。サムは、ギャンブラー、流れ者、ガンの達人など7人のアウトローを集めて、ボーグ率いる悪党軍団に無謀とも思える戦いを挑んでいく……。

話の大枠は「七人の侍」や「荒野の七人」と同じだが、興味を失うことはない。いろいろと細かな工夫をして、最後まで飽きずに楽しめる映画に仕上げている。

まず目を引くのがボーグの悪党ぶりだ。なにせアウトローVS悪党の戦いなので、悪党を徹底して悪く見せないといけないわけだ。その点、ピーター・サースガード演じるボーグは、まさに憎たらしいぐらいの悪党である。町の教会で、子供の手を瓶の中に突っ込ませるシーンなどは背筋ゾクゾクものの怖さだ。

そして、彼と対決する7人の男たちのキャラも立っている。賞金稼ぎのサムは、何だかいろんな肩書きを並べ立てて、いわくありげな人物。銃の名手のグッドナイトも、心に傷を抱えている。その他にも、ギャンブラー、流れ者、謎のアジア人、はては先住民までが仲間に加わる。拳銃、斧、ナイフ、弓矢などそれぞれ得意な武器があるのも面白いところだ。

それらを演じるのは、デンゼル・ワシントンクリス・プラットイーサン・ホークヴィンセント・ドノフリオイ・ビョンホン、マヌエル・ガルシア=ルルフォ、マーティン・センスマイヤーという個性豊かな俳優。彼らの競演を見ているだけでも楽しくなる。

もちろん西部劇だけに、最大の見せ場はアクションにある。最初は町に着いたばかりの7人が、ボーグの一派を駆逐するシーン。20数人をド派手なバトルで次々に倒すシーンは迫力満点。

その後、アウトローたちは決戦に備えて町の人々を訓練する。だが、これが揃いも揃ってヘタレなのだ。そこから笑いも生まれてくる。そんな中、サムを雇ったエマは銃を手に孤軍奮闘する。その勇ましい姿が後で生きてくる。演じるヘイリー・ベネットもなかなかの女っぷりだ。

そしてクライマックスは、いよいよボーグ本人と彼が率いる200人の大軍団との戦いだ。ここでは炭鉱が近いこともあって、ダイナマイトも炸裂する。サムたちが仕掛けた巧妙な仕掛けが、次々に敵をやっつける。アウトローたちが操る銃やナイフ、弓矢などの武器も縦横無尽に活躍する。

だが、簡単に勝利は手に入らない。アウトローたちを苦しめるのが、ボーグ軍団の秘密兵器のガトリン銃だ。その破格の威力にサムたちは窮地に追い詰められる。はたして、その運命は……。

七人の侍」や「荒野の七人」と同様に、激しい戦いの中でアウトローは、1人、また1人と死んでいく。しかし、ただ無残に殺されるのではない。そこで各人には見せ場がたっぷり用意される。

ラストはボーグによって焼かれた教会での対決。そこでサムを救うのはあの女性。ここもなかなかの見せ場である。

あえて気になるところを言えば、「最初は金目当てで雇われたはずのサムだが、実はその裏には……」というのが本来の筋書きらしいのに、デンゼル・ワシントンのいい人キャラのおかげで、訳ありなのが初めから見え見えなこと。実際に、ラストにはこの戦いが彼にとって、特別な意味を持っていたことが明かされるわけだ。

まあ、しかし、そのあたりは目くじら立てなくてもいいだろう。けれん味タップリの娯楽活劇で、観応えは十分。たいていの人なら、難しいことを考えずに楽しめそうだ。

●今日の映画代、1000円。毎週金曜日はユナイテッド・シネマの会員サービスデー。

「マギーズ・プラン-幸せのあとしまつ-」

「マギーズ・プラン-幸せのあとしまつ-」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年1月25日(水)午後12時10分より鑑賞。

アメリカのインディーズ映画を観ていていつも思うのは、役者の演技力の高さだ。ハリウッドメジャーの作品の超有名俳優と遜色のない演技をする無名の役者が、テンコ盛りでいるのだ。

2012年の「フランシス・ハ」を観た時にもビックリした。「イカとクジラ」(2005)や「ヤング・アダルト・ニューヨーク」(2014)などのノア・バームバック監督が、ニューヨークでプロのダンサーを夢見ながら、思うようにかない27歳の女性をモノクロ映像で描いた作品。主演のフランシスを演じたグレタ・ガーウィグの存在感にはすさまじいものがあった。

そんな彼女の新たな主演作が、「マギーズ・プラン-幸せのあとしまつ-」(MAGGIE'S PLAN)(2015年 アメリカ)だ。監督・脚本は女性監督のレベッカ・ミラー。

こちらもインディーズ映画で、ニューヨークで暮らす男女の奇妙な三角関係を描いている。とはいえ、ドロドロの三角関係というわけではない。軽快で笑いに満ちたコメディー映画だ。

主人号は大学で働くアラサー女性のマギー(グレタ・ガーウィグ)。恋愛下手で同じ相手と半年も続かず、いまだに独身。そのため、人工授精でシングルマザーになることを決意する。いざそれを実行しようと思った時に現れたのが、同じ大学で教える文化人類学者のジョン(イーサン・ホーク)。ジョンは妻子持ちだが、妻のジョーゼット(ジュリアン・ムーア)は有名な学者で仕事一筋。マギーとジョンは親しくなり、ジョンはジョーゼットに愛想を尽かして離婚し、マギーと結婚する。

この映画の魅力はユーモアとウィットにとんだセンスの良い会話。いかにも都会的なのと同時に、それぞれの人物のキャラクターが正確に反映されていて、そこから本音がチラリチラリと垣間見える。

マギーに精子を提供する相手が家に訪ねてきてその最中にマギーが踊りだすシーンや、人工授精の真っ最中にジョンが訪ねてくるシーンなど、絶妙の展開もあちこちに用意され、そこから小気味よい笑いが生まれる。

この手のラブコメにありがちな不自然さも感じない。ジョンは小説を書いている。それ使い、マギーが小説にのめり込むのと同時にジョンに心を奪われる経緯が効果的だ。

後半に描かれるのは3年後の出来事。ジョンとマギーの間には、かわいい女の子が誕生している。しかし、ジョンの前妻ジョーゼットが忙しいため、マギーは時々前妻との間の2人の子供まで面倒まで見る。しかも、マギーは仕事を続け、ジョンは小説の執筆に専念しているのだが、それがいつまでたっても完成しない。おまけにジョンはいまだにジョーゼットと連絡を取り、相談に乗ったりしている。

そんなこんなで「この結婚は間違いだった」「ジョンはジョーゼットのところにいるほうが幸せだ」と確信したマギーは、ジョーゼットに協力してもらい、ジョンを彼女のところに返す計画を敢行するのだ。

後半もサエた会話が続く。何度もクスクス笑ってしまった。そして、表面的には笑いながらも、内心は裏腹のマギーの心理が巧みに表現されている。彼女とジョーゼットが屈折した感情を持ちつつ、距離を縮めていくところもよく描かれている(ジョーゼットの出版パーティでの二人の表情がよい)。

夫を元妻に返却するというのは、何とも奇想天外な計画だが、ウソくささを感じさせない。マギーの作戦は、学会を利用して2人を復縁させようとするもの。そこで雪の中で2人が迷子になるところが印象的だ。大枠はマギーの計画によって動く復縁劇だが、予期せぬことも起きるわけだ。それによってラストの結末が納得できるものになるのである。

マギーの計画はストレートに成功とはいかないが、最後には心の温まる結末が待っている。ここでもジョンの書く小説が小道具として、効果的に使われる。ジョンとジョーゼットのレストランでのシーンが、何ともほほえましい。

そして、マギー自身の今後にも期待を抱かせる仕掛けが、エンディングに用意されている。スケートリンクにある人物が登場して、それを見つめるマギーの表情が大写しになる。

この映画の登場人物は欠陥だらけの人間だ。それでも自分なりに反省したり、少しでも良い方向に進もうとポジティブに生きている(もちろん、それが失敗することもあるわけだが)。だから、どうしても嫌いになれないのだ。この映画のあと味のよさはそこから来ていると思う。

おまけにマギーはとても人間くさい。孤独は嫌だけど、誰かと一緒にいると思い通りにいかない……というような状況は、独り身で他人と暮らしたことのないオレにもよくわかる。そうした思いは、誰にとっても身近なものではないだろうか。

グレタ・ガーウィグは今回も抜群の存在感を見せている。彼女なしにこの映画は成立しない。そして、その相手役を務めたジョン役のイーサン・ホークジョーゼット役のジュリアン・ムーアという2人のメジャー俳優が、さすがに貫禄の演技を披露している。

クスクス笑って、観終わって心がポカポカと温まった。三角関係を描いた映画で、こんなにあと味が良い作品も珍しいかもしれない。

●今日の映画代、1100円。テアトル系の水曜サービスデー料金(男女とも)で鑑賞

「トッド・ソロンズの子犬物語」

トッド・ソロンズの子犬物語」
ヒューマントラストシネマ渋谷にて。2017年1月22日(日)午後3時15分より鑑賞。

犬が好きだ。子供の頃には家に犬がいた。今では珍しいスピッツの雑種だ。だが、残念ながら病気で早くに死んでしまい、それ以降は一度も犬を飼ったことがない。住宅事情などが原因で、いつか飼おう飼おうと思っているうちに、とうとう今日まで来てしまった。それゆえ、ネットなどでかわいい犬の映像などがアップされていると、つい見てしまうオレなのだった。

犬の映画といえば、何といっても忘れられないのは、2006年に公開になった「いぬのえいが」だ。11の短編からなるオムニバス映画で、犬童一心監督の作品もあった。なかでも、最後のエピソードの「ねえ、マリモ」で、オレは号泣してしまった。宮崎あおいが、自分より早く成長して老犬になり、死にゆく犬に語りかける映画なのだが、これがもうたまらないのだ。今思い出しても泣けてくるぜ。

そんな犬好きのオレが久々に観た犬の映画が、「トッド・ソロンズの子犬物語」WIENER-DOG)(2015年 アメリカ)である。タイトルのトット・ソロンズとは、この映画の脚本と監督を担当した人。オレは過去の映画は未見だが、ブラックな笑いで人間の暗部を描いてきた監督らしい。

ところが、そんなイメージでこの映画を観たら、良い意味で裏切られてしまった。確かにブラックな笑いはあるものの、えげつなさは感じられず、むしろ不思議な詩情さえ感じてしまったのである。

ダックスフントの子犬の話だ(みんなウィンナー・ドッグと呼んでいる)。といっても、かわいらしい動物物語ではない。犬は狂言回しのような存在で、その飼い主たちの人間模様を描いている。

最初の飼い主はがん患者の男の子。父親が子供のために子犬を連れてきたのだが、母親(ジュリー・デルピー)は最初から嫌そうだ。子犬はいろいろと問題を起こし、留守中に子供が人間の食べ物を与えて下痢をして、あちこちにウンチをまき散らす。それに母親がブチ切れて安楽死を決断する。

しかし、持ち込まれた動物病院で助手の女ドーン(グレタ・ガーウィグ)がかわいそうに思って、自分の家に連れてくる。彼女は孤独を抱えているようで、たまたま会った昔の同級生の男(キーラン・カルキン)に誘われて、一緒に旅に出る。向かった先はダウン症の弟夫婦の家。そこでは、酒浸りで寂しく死んだ彼らの父親の死を介して、兄弟の和解が描かれる。

こうして今度はその家に飼われたはずの子犬。しかし、そこでインターミッション(途中の休憩)が挟み込まれる。それは子犬が西部劇のような荒野を進むシーン。何とも人を食った仕掛けだ。子犬がアメリカ中をさまよったことを表現したものだろう。

後半、子犬は落ち目の脚本家(ダニー・デヴィート)に飼われる。せっかく書いた脚本の売り込みがうまくいかず、講師をしている学校でも悪評まみれでクビの危機にある彼は、犬を使ってとんでもない行動に出る。

最後は偏屈そうな老女(エレン・バースティン)に飼われる子犬。そこに孫が金を借りに来る。どうやらその老女は孤独で、人生にたくさんの後悔を抱えている模様。それが少女時代のたくさんの分身たちと対話するユニークな仕掛けで描かれる。

というわけで、ブラックな笑いはあちこちにあるものの、それほど過激ではない。意外にマジメな映画だ。犬の飼い主になった様々な個性的な人物を通して、人間のダメさや弱さが見えてくる。同時に家族の抱えた問題や人生の孤独など、現代社会の様々な風景も描かれる。

それにしても、ラストはちょっとやりすぎでしょ~。何もあんなにダメ押ししなくてもね。あれがこの監督の持ち味なのだろうが……。それでもあと味はそんなに悪くない。そのシーンのあとに、最後の老女のエピソードを引き取った後日談でクスリとさせてくれる。それより何より、ダメ人間やどうにもならない人生を否定せずに、優しく見つめる視線がこの映画には感じられるから、嫌な気持ちにならないのである。

変わった映画なので誰にもおススメするわけではないが、独特の世界観は一見の価値があると思う。今後の作品にも期待したくなる監督だ。

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