映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「サラエヴォの銃声」

サラエヴォの銃声」
新宿シネマカリテにて。2017年3月26日(日)午後2時30分より鑑賞(スクリーン2/A-7)。

これまでに歴史関係の本をたくさん書いている。もちろんゴーストだ。オレの名前は本のどこを探しても出てきやしない。しかし、確実に原稿は書いている。なので、歴史の知識は豊富である。

というのはウソである。いや、確かに歴史本はたくさん書いているのだが、その都度資料に基づいて書いているだけで、終われば頭の中から消去される。たいしたことは覚えていない。ときどき昔書いた本を読み直しても、本当に自分が書いたのかどうか自信がない。歴史とは、そのぐらいいい加減な付き合い方しかしてこなかった。

そんなオレでも、1984冬季オリンピックの会場となったサラエヴォが、1990年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、メチャクチャなことになったのは知っている。そのサラエヴォを舞台にしたドラマがダニス・タノヴィッチ監督の「サラエヴォの銃声」(SMRT U SARAJEVU)(2016年 フランス、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)だ。2016年のベルリン国際映画祭銀熊賞審査員グランプリ)を受賞した。

第1次世界大戦勃発のきっかけとなったサラエヴォ事件から100年が経った2014年6月28日。その記念式典が行われようとしている「ホテル・ヨーロッパ」。屋上では、ジャーナリストが事件とその後の歴史についてインタビューしていた。客室ではVIPが式典での演説の練習をしていた。一方、ホテルの従業員たちは賃金未払いをめぐってストライキを企て、支配人はそれを阻止するべくギャングを動かす。やがてホテル内に1発の銃声が鳴り響く……。

というわけで、サラエヴォのホテルを舞台にした群像劇である。この映画を観るには、サラエヴォに関する多少の予備知識は必要だろう。まず、先ほど述べたように、1990年代には民族対立に起因したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の主戦場として、多くの人が犠牲になり街が破壊された。

そして、さらに歴史をさかのぼれば、サラエヴォでは1914年にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子が、プリンツィプという青年に暗殺された。これが第一次世界大戦の引き金になったサラエヴォ事件である。

その事件から100年後のサラエヴォの「ホテル・ヨーロッパ」の屋上。そこではインタビューが行われている。ドキュメンタリー番組の制作の一環で、女性ジャーナリストが学者などにサラエヴォ事件とその後の歴史について話を聞いているのだ。ところが、そこにサラエヴォ事件の犯人プリンツィプと同名の男が現れて、「プリンツィプはテロリストではなく英雄だ」と主張する。それに反発したジャーナリストと大口論になる。どうやら2人の口論には、1990年代の内戦が強く影響しているらしい。それが両者をどんどん感情的にさせる。

その一方で、ホテルの客室では式典に参加するらしいVIPが演説の練習をしている。その模様が警備室のカメラに映されている。警備スタッフは本来は護衛を頼まれただけなのに、なぜか手違いで監視カメラを仕掛けてしまったという。

そして、このホテルでは従業員たちがストライキを計画している。有名人もたくさん泊まったこのホテルだが、今は経営危機で2か月も給料が支払われていない。それに抗議するためのストというわけだ。しかし、強圧的な支配人はこれを阻止すべく、ホテルの地下のバーにたむろするワルたちにストを阻止するように依頼する。その一件には、フロント係の女性と、その母でリネン室で働く女性も絡んで、大変なことになってしまう。

こんなふうに、ホテルを縦横無尽に移動しながら、長回しのカメラを中心にして、リアルかつスリリングな映像で様々な人物を描いていくタノヴィッチ監督。何やら不穏な空気が増幅していく。

やがて一発の銃声が響く。何が起きたのかはあえて伏せるが、100年前のサラエヴォ事件とリンクする出来事で、思わず息を飲んでしまった。そして、その後に映される無人になったホテルを見て、寒々しい気持ちにさせられたのである。

タノヴィッチ監督といえば、「ノー・マンズ・ランド」「鉄くず拾いの物語」、そして先日公開されたばかりの「汚れたミルク/あるセールスマンの告発」など、明快で力強いメッセージで知られる。だが、今回はそうした明快さはない。

何しろ事態は複雑だ。表面的には平穏に見えても、ひと皮むけば民族同士の憎悪が渦巻き、ちょっとしたきっかけで恐ろしい事態に発展しかねない。それはサラエヴォだけでなく、ヨーロッパ全体、さらには世界中にあてはまることなのかもしれない。そんな事態に対して、簡単に処方箋など出せるわけがない。ましてタノヴィッチ監督は、ボスニア・ヘルツェゴビナ生まれなのだから。

いまだに渦巻く民族同士の敵意や憎悪。それに対してどうすればいいのか。この映画にはその解答はないし、すぐに見つかるものでもないだろう。それでも、絶望的な状況を描いたこの映画が、解決への出発点になるのかもしれない。問われているのはこの映画の観客自身なのである。

●今日の映画代、1500円。先日観た同じタノヴィッチ監督の「汚れたミルク/あるセールスマンの告発」の半券割引サービスでした。

 

「おとなの事情」

「おとなの事情」
新宿シネマカリテにて。2017年3月22日(水)午前11時30分より鑑賞(スクリーン1/A-7)。

昔、バンドをやっていた時には年を秘密にしていた。プロフィールには「年齢不詳」と書き、メンバーにも本当の年を教えなかった。25歳過ぎてからバンドを始めたため、周囲より年上だったという事情もあるが、それ以上に年齢不詳にしたほうがミステリアスで面白いだろうという完全なウケ狙いの行動だった。「そんなところに気を回すなら、もっと演奏の腕を磨け!」という話ではあるのだが。

というわけで、オレの場合は大した秘密ではなかったわけだが、それとは違って、絶対に他人に知られたくない秘密を持っている人も多いだろう。そして、そういう人に限って、「秘密なんてない!」と強がったりするものだ。

そんな人々が痛い目にあってしまうのが、「おとなの事情」(PERFETTI SCONOSCIUTI)(2016年 イタリア)という映画である。イタリア映画で、イタリアのアカデミー賞に当たるダビッド・ディ・ドナテッロ賞で作品賞、脚本賞を受賞した。

ある月食の夜、幼なじみの男4人とそのパートナーが集まり、エヴァ(カシア・スムトゥニアク)とロッコ(マルコ・ジャリーニ)夫妻宅で食事会を開く。参加したのは7人。そんな中、1人があるゲームを提案する。「メールが届いたら全員の目の前で開くこと」「かかってきた電話にはスピーカーに切り替えて話すこと」というもので、秘密など何もないという信頼度を確認するためのゲームだった。平静を装ってゲームを始める7人だったが、ゲームが進むにつれて、それぞれの本当の姿が次々と露呈していく……。

舞台となるのは食事会のみ。いわゆるワンシチュエーションのドラマだ。食事会に参加したのは、幼なじみの4人の男とそのパートナー。ただし、そのうちの1名のバツイチ男は新恋人が熱を出したとかで、1人で参加する。

映画の冒頭は、彼らが食事会に参加する前の様子が描かれる。そこでそれぞれが抱えた事情がチラリと見える。反抗期の娘との関係に悩む母親、義母に不満をぶつける嫁、何やら秘密を抱えているらしい夫……。その後の展開を示唆する内容だ。

そして始まる食事会。食事をしながらの会話から、タイトル通りに大人の事情が少しずつ見え隠れする。とはいえ、まだ決定的な場面には至らない。それが現れるのはあるゲームがきっかけだ。不倫メールで破たんしたカップルの噂話をきっかけに、「俺たちにはそんな秘密はない」と豪語した参加者たちは、それを確認するためにスマホを使ったゲームを始める。全員が食卓にスマホを出して、スマホに届いたメールや電話は全員に公開しようというのである。

そこからポロポロと出てきたのは各自の意外な秘密。豊胸手術を受けようとしていた妻、妻に内緒でカウンセリングを受けていた夫、何度も転職しているのにまた転職を考えている夫などなど。彼氏の家に誘われたという娘からの相談電話などもかかってくる。

だが、これはまだ序の口だ。急展開のきっかけは、不倫相手からのメールが届くことになっている男が、同じ機種を持つ単身参加の男にスマホの交換を持ちかけたことから。この作戦が裏目に出て大変なことになる。不倫男は、それとは別のあらぬ疑惑をかけられて追い詰められ、妻との関係が危険水域に突入するのである。

その後は、その妻が抱えた秘密も露見。さらに別の新婚男の不倫関係も明らかになるなど、しっちゃかめっちゃかになってしまう。親子の確執や夫婦間のズレ、性的傾向などの様々な問題が浮上してくるのだ。

ゲーム開始以降、いったいどんなメールや電話が来て、どんな事態に発展するのか予測不能の展開が続く。ハラハラドキドキで目が離せない。各自のいろいろな事情が見えてくる中で、笑いもたくさん生まれてくる。イタリア人らしい陽気さによって何でもジョークにしてしまうのだが、露見する様々な秘密と相まってブラックな笑いに発展していく。

食事会が行われるのが月食の夜だというのも、独特の空気感を醸し出す。時々登場する月食が、人々を狂わせているのかも……なんてことまで思わせてしまうのだ。

ラストはついに全崩壊。すべての終わり。ジ・エンド……かと思いきや、そこには驚きの結末が待っている。これって、あり得たかもしれない過去ってこと? うーむ、あり得たかもしれない過去といえば、「ラ・ラ・ランド」の終盤を思い出すが、こちらはまったく違う世界。あまりの逆転劇に言葉を失ってしまった。

それにしても、ホスト宅夫妻の夫ロッコが言った最後の言葉が説得力満点だ。大人は誰しも人に知られたくない秘密を持っている。むやみにそれに触れないほうがよいのだ、と。

スマホを使ったユニークな仕掛けが見事な映画。スマホに慣れ親しんだ今の人間にとっては、他人事とは思えないだろう。そういう意味で、コメディーではあるものの、ホラー的な要素もある映画だといえる。

皆さまも、くれぐれもスマホの公開などなさりませんように。後で大変なことになっても知りませぬゾ。

●今日の映画代、1000円。新宿シネマカリテの毎週水曜映画ファンサービスデー料金で

「わたしは、ダニエル・ブレイク」

「わたしは、ダニエル・ブレイク」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年3月20日(日)午後12時25分より鑑賞(スクリーン1/E-12)。

2014年11月に駅で転倒して膝蓋骨を複雑骨折した。救急車で運ばれて手術をして1か月近く入院した。退院してからも1年間リハビリに通うハメになった。その間、前のように仕事ができなくなり、収入が減ってしまった。このブログに「貧乏日記」とあるのには、そういう事情もあるのだ。

今も後遺症は残っていて、膝が痛くなったり、十分に曲がらないこともあるのだが、それでも何とか仕事をしている。だが、もしもドクターストップがかかったらどうなるのか。医療費や生活費をどうするのか。それを考えただけでゾッとするのである。

そんなオレにとって共感せざるを得ないのが、「わたしは、ダニエル・ブレイク」(I, DANIEL BLAKE)(2016年 イギリス・フランス・ベルギー)の主人公のダニエル・ブレイクである。

社会派の映画をたくさん撮り続けてきた名匠ケン・ローチ監督の作品だ。2016年の第69回カンヌ国際映画祭で、最高賞のパルムドールを受賞した。ローチ監督作品にとっては、「麦の穂をゆらす風」に続く2度目のパルムドールだ。

舞台となるのは、イギリス北東部ニューカッスル。長年、大工として働いてきた59歳のダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は、心臓病を患い医者から仕事を止められる。仕方なく国からの援助を受けようとするが、複雑な制度と頑迷なお役所仕事に阻まれ、満足な援助を受けることができないでいた。そんな中、ダニエルは2人の子供を抱えたシングルマザーのケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)を助けたことから、彼女たちと交流を深めていく。だが、ダニエルとケイティたちは、さらに厳しい局面に追い詰められていく……。

ダニエルを苦しめる社会システムが何とも複雑怪奇だ。おまけに、応対する役所(といっても民間に委託されたりしている模様)の態度がどうにもヒドい。例えば、心臓病なのに「手が挙げられるか」とか「帽子がかぶれるか」とか、全然関係ない質問をして、その挙句に「不支給」の結論。それに抗議する電話をかければ、1時間以上も保留音が鳴り続ける始末である。

そこで別の手当てを申請しようとすると、受付はオンラインのみ。パソコンなど持っていないダニエルは困ってしまう。おまけに仕事ができないダニエルに対して、「求職活動をしないと手当は支払わない」というのだ。あまりにも理不尽ではないか。理不尽すぎて冗談みたいだ。だから、ついつい笑ってしまう。そう。この映画は深刻なテーマであるにもかかわらず、あちこちにユーモアがあるのだ。そこがいかにもローチ監督らしい。

そういえば、「ぜんざい公社」という落語の演目があったっけ。ぜんざいを食べるのに、いろいろ書類を書いたり、手続きしなくちゃいけないという冗談みたいな役所のシステムを皮肉った作品だ。思わずそれを連想してしまった。

さて、そんなダニエルは、まもなくケイティという若いシングルマザーと知り合う。彼女は2人の子供を抱えて、貧困にあえいでいる。見かねたダニエルは、救いの手を差し伸べる。

自分自身が大変なのに、それでも困っている人を見捨てられないダニエル。彼はそういう人物なのだ。権力には媚びないが、隣人には大いに手を差し伸べる。アパートの隣人たちとも、口では文句を言いつつも、親しく交流している。いわば役所などの硬直した社会システムとは、対極にあるような人物だ。彼が長い間亡き妻の介護をしていたという事実も、彼の実直さを示す。だから、観客は自然に彼に感情移入していく。「どうして彼のような人物がこんな理不尽な目にあうのだ?」と。

主演のデイヴ・ジョーンズはイギリスのコメディアンとのことだが、そんなダニエルにピッタリのキャストだと思う。

ダニエルはケイティや子供たちと交流を重ねる。そこにあるぬくもりもまた、理不尽な社会システムと対極をなす。そして、その社会システムが、彼らをますます苦境へと追い込んでいく。ダニエルは満足な手当てが受けられずに、家具を売り払って現金を調達する。一方、ケイティはフードバンクを頼るものの、それだけではどうにもならず、闇に足を踏み入れる。

そんなこんなで、ついにぶち切れたダニエルは、ある行動に出る。そこで登場するのがタイトルの「I, DANIEL BLAKE」の文字。それはアイデンティティさえ否定された彼の、誇りをかけた自己主張だ。そして、そんな彼に拍手喝采するたくさんの人々の姿。現実社会の理不尽さを嘆きつつ、けっして絶望せずに未来を信じるローチ監督らしいシーンだと思う。

結末はハッピーエンドとはいかないが、けっして絶望的なものでもないと思う。そこで読み上げられるダニエルのメッセージは、愚直ながら力強いもので、観客の胸を強く打つ。彼の思いが、いつか世の中を変えるのではないか。そんなことも考えてしまうのだ。

弱者が虐げられ、アイデンティティまで奪われてしまう今の世の中に対して、「これでいいのか?」と異議申し立てをしている作品だ。ただし、声高なメッセージではなく、庶民の日常を丹念に、ユーモアも忘れずに描き、わずかな未来への希望も示す。

今年80歳のローチ監督の熱い思いが詰まっていて、ズシリとした見応えがある。間違いなく、今年の上位にランクされる映画だと思う。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカードの会

「ラビング 愛という名前のふたり」

「ラビング 愛という名前のふたり」
TOHOシネマズシャンテにて。2017年3月17日(金)午前10時45分より鑑賞(スクリーン3/E-9)。

今年の第89回アカデミー賞は従来とはかなり様相が違った。トランプ大統領への批判や皮肉に満ちたコメントがテンコ盛りだったのに加え、作品賞、脚色賞、助演男優賞の3部門を受賞した「ムーンライト」をはじめ、アフリカ系アメリカ人が活躍する作品が賞レースを席巻した。白人中心だった過去の歴史からは、考えられないことだった。

主演のルース・ネッガが主演女優賞にノミネートされた「ラビング 愛という名前のふたり」(LOVING)(2016年 アメリカ)も、そうした作品の1つといえるだろう。異人種間の結婚が違法とされていた1950年代のバージニア州を舞台にした実話をもとにした映画である。ジェフ・ニコルズ監督は、これまでに「MUD マッド」「テイク・シェルター」というなかなか面白い映画を撮ってきたが、今回はまた違った個性を発揮している。

1958年、バージニア州。白人男性のリチャード・ラビング(ジョエル・エドガートン)は、幼なじみで恋人の黒人女性ミルドレッド(ルース・ネッガ)から妊娠を告げられ、結婚を決意する。だが、バージニア州では異人種間の結婚は法律で禁止されていたため、2人はワシントンD.C.で結婚の手続きをする。その後、地元で暮らし始めた2人だが、ある日、自宅に押しかけてきた保安官に逮捕されてしまう。そして裁判で離婚するか、25年間州外に退去するか選択を迫られる……。

タイトルの「ラビング」とは主人公夫妻の名前。同時に「愛」ともかかっている。つまり、これは一組の夫婦の愛のドラマなのだ。2人は人種差別と闘うことになるのだが、それはただ愛を守りたいから。そんな視点が貫かれた映画なのだ。

前半で印象的なのはバージニア州ののどかな田園風景だ。そこでは黒人と白人が一緒になって働いている。一見、差別など感じさせない光景だ。しかも、リチャードは子供の頃から黒人と過ごしており、ミルドレッドを好きになったのはごく自然なことだった。そうした描写があるからこそ、逮捕という事実が、観客にとってなおさら理不尽でショッキングなものに感じられるのである。

2人の愛は真実の愛だ。たとえ裁判で有罪になろうとも離婚など考えられない。その結果2人は故郷を離れて暮らすことを余儀なくされる。しかし、いざミルドレッドの出産が近づくと、どうしても故郷で出産したくなり(リチャードの母親は助産師)、故郷に戻る。しかし、そこで彼らはまたしても逮捕され、再び故郷を離れることになる。

その後、3人の子供に恵まれた夫妻だが、やはり故郷への思いは断ちがたく、ミルドレッドはケネディ司法長官に手紙を書く。ちょうど当時は公民権運動が盛んな時だった。その手紙がきっかけで、人権派弁護士と知り合った2人は、裁判によって理不尽な処置を覆そうとする。

というわけで、後半ではラビング夫妻は人権派弁護ととともに立ち上がるのだが、そこでも声高に何かを叫んだりはしない。それもまた2人にとっては、愛を貫くための行動にしかすぎない。闘いはそのための手段でしかない。

だから、後半になっても社会派映画にありがちなお説教臭さとは無縁だ。むしろ新米の人権派弁護士の頼りなさを前面に出したり、裁判に積極的なミルドレッドと消極的なリチャードのすれ違いを描くなど、ドラマ的な妙味にあふれている。

もちろん、すれ違いといっても、それが決定的になることはない。リチャードが積極的になれないのも、周囲の嫌がらせなどを見て、家族を守りたい一心でそうなるからだ。ミルドレッドはそれをよく理解している。

終盤は裁判闘争がドラマの大きな核になる。それでも法廷自体は必要最低限にしか描かれない。あくまでも夫婦の姿を中心に描く(ミルドレッドは夫の意をくんで出廷しなかったのでなおさら)。

そしていよいよ判決。ラストは文句なしに感動できる。夫婦の愛の強さと、それが世の中を動かしたという事実が心を揺り動かすのである。

寡黙ながら芯の強さと優しさを表現したジョエル・エドガートン、健気さの中にたくましさを見せたルース・ネッガの演技が見事だ。セリフなしでも、それぞれの心の内が伝わってくる演技だった。

実話ものとはいえ、メッセージ性の強い社会派映画や偉人伝にしようと思えばできたはずなのに、あえてそれを封印してシンプルな夫婦愛の物語を紡いだことが、この映画の最大の勝因だろう。だからこそ、心に深く刺さるのである。

●今日の映画代、1500円。久々にムビチケ購入しました。

「チア☆ダン 女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話」

「チア☆ダン 女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話」
TOHOシネマズ日本橋にて。2017年3月16日(木)午後6時55分より鑑賞(スクリーン4/D-10)。

昨日のことぐらいなら憶えているが、昔のことなんて憶えちゃいない。高校生の頃に自分が何をしていたのかなんて、これっぽっちも思い出せない。一度だけ部活に参加した記憶があるのだが、何でやる気になったのか、そして何でやめたのか、今となっては全然記憶にない。あとはずっと帰宅部だった。そんなこんなで、一生懸命に部活をやっている高校生とかを見ると、ちょっぴりうらやましい気持になったりするのである。

「チア☆ダン 女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話」(2017年 日本)は、タイトル通りにチアダンスに熱中する女子高生たちの青春スポ根映画だ。福井県の高校のチアリーダー部が全米チアダンス選手権で優勝したという、実話をもとにしている。

主人公は友永ひかり(広瀬すず)という女の子。県立福井中央高校に入学した彼女は、中学からの同級生でサッカー部に入った山下孝介(真剣佑)を応援したくて、チアリーダー部に入る。ところが、そこに待ち受けていたのは顧問の早乙女薫子(天海祐希)というスパルタ教師。彼女はチアダンスの全米大会制覇を目標に掲げ、おでこ出し必須、恋愛禁止など厳しい指導をする。最初はやる気のなかったひかりだが、早乙女に反発した先輩が退部したこともあって、練習に打ち込むようになる……。

この手の青春スポ根ドラマでは、部員たちのキャラが重要になる。その点、この映画はなかなかユニークなキャラが揃っている。男の子のために部に入った主人公のひかりをはじめ、ダンスの得意な彩乃、いつも暗い顔の唯、太めの体型の多恵子などいずれも個性派ばかり。早乙女先生の前で一人ずつ踊るシーンで、端的に彼女たちのキャラを表現する仕掛けが秀逸だ。

そしてユーモアも満載である。あちらこちらに笑いが散りばめられている。しかもけっこうマンガチックな笑いが多いのが特徴。漫才のボケとツッコミのような会話や大げさな映像(早乙女先生の登場シーンなど)などで、わかりやすい笑いを振りまいていく。

その一方で、青春ドラマらしい醍醐味もある。目標に向かって努力する部員たちだが、そこには様々な困難が待ち受けている。初の大会で大失敗したり、練習の過程で仲間割れしたり。そうした困難を乗り越えながら、友情をはぐくんでいく部員たちの姿がまぶしく映る。もちろん、厳しい練習シーンもところどころに織り込まれている。

というわけで、楽しい映画なのは間違いがないけれど、部員たちの人間ドラマが足りないんじゃないの?

と思ったら、中盤でひかりの家庭が登場。元高校球児の父親、そしてやはりチアリーダーだったらしい亡き母の存在を示し、ひかりのアイデンティティーを刻みつける。また、多恵子の複雑でつらい家庭環境なども描く(シングルマザーらしき安藤玉恵の演技が相変わらず絶品)。

主要な部員それぞれに見せ場を用意して輝かせるのも、巧みな手腕だ。その反面、主人公のひかりは、中盤まではあまり目立たないのだが、後半に彼女にケガをさせて追い込み、そこからの復活劇を通して主役らしい存在感に導いていく。

監督の河合勇人は『鈴木先生』『俺物語』などを監督しているが、けっこうな苦労人らしい。それだけにキッチリとツボを押さえた演出が目立つ。

この映画のクライマックスは、当然ながら全米大会である。実は、チアダンスの映画にもかかわらず、実際に部員たちが踊るシーンはあまりない。その封印を解いて、貯めに貯めて、満を持して、全米大会決勝での迫力のダンスシーンが披露される。相当に練習したらしい役者たちのダンスと、切れのある映像は観応え十分でワクワクさせられる。

ちなみに、その大会の様子を、男女のアナウンサーによるお茶らけ実況中継で描くところは、この手の映画の定番パターン。アメリカ映画「ピッチ・パーフェクト」などでもおなじみだ。そのあたりも、エンタメのツボを押さえている。

ところで、肝心のスパルタ教師・早乙女に関しては、ドラマらしいドラマが登場しないのはなぜだ。あんなに極端なスパルタ指導をするには、それなりの事情があるのではないか。でなきゃただのアホでしょ。

と思ったら、最後のほうでようやくその理由が明かされる。なぁ~んだ。それだけか。と思わないでもないのだが、まあ一応は納得できる。そして、そこから師弟の絆の爆発へとつなげていくわけだ(でも、あの後日談は余計かな)。

かなり無茶だったり、マンガチックなところの多いドラマだが、何しろ実話だという裏付けがあるので強い。最後は素直に感動してしまった。

何よりもこの映画を魅力的にしているのは、若い女優たちのキラキラした輝きっぷりだろう。広瀬すず中条あやみ山崎紘菜、富田望生、福原遥など、いずれも素晴らしい演技だった。

全体に人間ドラマが薄味なきらいはあるものの、これだけ笑わせて、ワクワクさせて、感動させてくれるのだから、青春スポ根映画としては上出来の部類だろう。リアルタイムに青春を生きている若者だけでなく、かつて青春時代を過ごしていた人たちにも元気を与えそうな映画だと思う。

しかし、オレらが高校生の頃に、チアリーダーなんていたかなぁ? あ、男子高だったからそんなものなかったわ。むさい男の応援団だけ。何とも悲しい青春であった(涙)。

●今日の映画代、1400円。直前に池袋で鑑賞券購入。

 

「汚れたミルク/あるセールスマンの告発」

「汚れたミルク/あるセールスマンの告発」
新宿シネマカリテにて。2017年3月15日(水)午前9時45分より鑑賞(スクリーン2/A-6)。

先週、確定申告書を提出した。改めて昨年の年収を見て愕然とした。なんだこれは。自転車操業の自由業者とはいえ、もうちょっと何とかならないのかオレ。というわけで、まだまだ貧乏生活が続く中、最近はいろいろと生活費も切り詰めているのである。

なに? 映画館に行かなきゃ少しは楽になるだろう、だと? うーむ。確かに。だが、それは絶対に無理な相談である。もはや映画ジャンキーとなったオレに、そんな理屈は通用しない。映画館に行かないと、禁断症状が出るのだから。

というわけで、最近はインスタントコーヒーも安物に変えてしまった。以前はネスカフェを愛飲していたのだが、あれ、けっこう高いんだよねぇ~。

さて、そのネスカフェは、巨大多国籍企業のネスレ社のブランドなのを皆さんご存知? でもって、そのネスレ社に関わる重大な事実を、オレは映画を通して知ってしまったのである。

「汚れたミルク/あるセールスマンの告発」(TIGERS)(2014年 インド・フランス・イギリス)。監督は、アカデミー外国語映画賞を受賞した「ノー・マンズ・ランド」で知られるダニス・タノヴィッチ。パキスタンで実際に起こった事件をもとに撮った映画である。

映画の冒頭では、1970年代のアメリカ議会での録音が流れる。そこではある企業の幹部が死亡事故の責任追及をされて、責任は「NO」と言い放つ。この事実が、この映画で取り上げられる事件とつながっていく。

それはいったいどんな事件なのか。1994年のパキスタン。国内製薬会社のセールスマン、アヤン(イムラン・ハシュミ)は、外国産の薬に押されてまったく売り上げが伸びず、妻の勧めで多国籍企業ラスタ社の面接を受けて採用される。病院を回ってあの手この手でなりふり構わず粉ミルクを売り込むアヤン。おかげで彼はトップセールスマンになる。

ところが、その後彼は衝撃的な場面に遭遇する。貧困層の人々が不衛生な水で溶かしたラスタ社の粉ミルクを乳幼児に与えた結果、多数の乳幼児が衰弱し死亡していたのだ。それを承知しながら同社は強引に粉ミルク販売を続けていた。心を痛めたアヤンは辞職し、ラスタ社を告発しようとする。だが、それを知ったラスタ社や権力者たちは、アヤンを潰しにかかる……。

まるで猛烈営業マンの出世物語のような前半。一転して衝撃的な映像が飛び出す中盤。そして、過酷な闘いに挑むアヤンを描いた後半。中盤での子供たちのあまりにも悲惨な姿には、ただ言葉を失ってしまう。それがあるから、観客は後半で描かれるアヤンの闘いを応援したくなるのである。

この映画の基本は正攻法の社会派ドラマだ。ただし、ドラマ全体に映画の製作過程という枠をはめている。つまり、アヤンたちの闘いを映画にしようと考えたプロデューサーや監督が、法律顧問を交えてアヤンや協力する医師などとテレビ電話を通じて話をするという構成なのだ。そこで語られることを再現したのが、先ほど紹介したドラマである。

そこでのアヤンの闘いはひたすら過酷なもの。知人の医師やNPOの関係者などがサポートするものの、自分はもちろん家族まで危険にさらしかねない闘いだ。同時に、それを映画化しようと目論むプロデューサーや監督たちの闘いも過酷なもの。世界的な巨大企業を相手にした告発映画を作るのだから、少しも付け入る隙を与えられないギリギリの闘いが続く。こうした闘いの二重構成が、この映画をより深く厚みのあるものにしている。

おまけに、そこにはスゴイ仕掛けがある。映画の製作過程では、実際の企業名を出した後で弁護士役に「社名を出すのはまずい」と言わせて、架空の社名に変更する場面がある。その架空の社名がラスタ社だ。そして本当の社名は……。それがネスレ社なのだ。あの世界的企業ネスレ社こそが、この事件の当事者なのである。それをひとひねり加えて暴露する痛快さよ!

それにしてもネスレ社はひどいんじゃないの? そりゃあ毒ミルクを売っているわけじゃないのだから、法的責任はないかもしれないけどさ。貧困層がきれいな水を手に入れられないことは十分にわかっているのに、委細かまわず売りまくるのだからどう考えても道義的責任アリだろう。責任者出てこい!! アヤンならずとも怒りを感じてしまうではないか。

とはいえ、アヤンを英雄として描いているわけでもない。終盤では、いかにも正義の味方のようだったアヤンに、大きな過ちがあったことが明かされる(ていうか、ハメられちゃったんですけどね)。それもあって、この映画の結末はスカッとはいかない。

ラストでアヤンと家族のその後がどうなったか告げられる。そして、その後にまたしても衝撃的な事実が明かされる。劇中の乳幼児の映像の中には、昔の記録映像だけでなく、何と最近撮影されたものがあることが明かされるのだ。

なに? てことは、今もこの問題は続いているんじゃないの。おいおいおい、ちゃんと貧困層にも水道整備するとか、衛生教育するとかしろよ。粉ミルク売りつけるのは、その後だろう。ネスレ社さんよ。

というわけで、現在進行形の問題にズバッと斬りこんだ作り手の心意気に拍手。それが災いしたのか、この映画は、2014年製作なのにちゃんと公開されるのは日本が初めてとか。まさかネスレ社の圧力? 日本で本作を配給したビターズ・エンドに心から敬意を表します。ビターズ・エンド偉い!!!

●今日の映画代、1000円。毎週水曜はシネマカリテのサービスデー。サンキューでした!

 

「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」
新宿シネマカリテにて。2017年3月12日(日)午後1時45分より鑑賞(スクリーン2/A-6)

セレブ生活とはどんなものなのだろう。貧乏生活を続けるオレには皆目見当がつかないのだが、それはそれでそれなりの苦労があるのかもしれない。自分の努力でのし上がったのではなく、運よくそうなった場合にはなおさら……。

ダラス・バイヤーズクラブ」「わたしに会うまでの1600キロ」のジャン=マルク・ヴァレ監督による作品「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」(DEMOLITION)(2015年 アメリカ)の主人公デイヴィスは、まさにそうした人物だ。義父、つまり妻の父のおかげでセレブ生活を送っている。ところが、ある日衝撃的な転機が訪れる。

映画の冒頭。主人公デイヴィス(ジェイク・ギレンホール)は、妻の運転する車で通勤している。2人の会話は何となくすれ違う。そして次の瞬間、交通事故が起きて妻は亡くなってしまう。

妻が運ばれた病院の自販機でデイヴィスは、ナッツを買おうする。だが、お金を入れたものの商品が出てこない。彼は自販機会社に返金要求の手紙を書く。そこで自分の過去や現在の心境を吐露する。

それによれば、デイヴィスは義父フィル(クリス・クーパー)の銀行で働き、彼の薫陶を受け、その指示に従ったおかげで、かなりいい暮らしをしていた。しかし、妻を亡くしたことで生活が一変する。それというのも妻を失ったというのに涙も出ず、彼女を愛していなかったと感じてしまったからだ。

とくれば、これは西川美和監督の「永い言い訳」と同じシチュエーションである。あちらは本木雅弘演じる主人公が、妻の死を悲しく思えない自分に気づいた後、父子家庭と関わることで少しずつ再生していく。しかし、こちらはかなり様相が違う。

なんとデイヴィスは、「心の修理も車の修理も同じだ。まず分解して隅々まで点検し、再び組み立て直せ」という義父の言葉を思い出して、身の回りのあらゆる物を破壊し始めるのだ。最初は家の家電製品から。それがエスカレートして、解体屋を手伝って他人の家を壊しまくる。

何かにとりつかれたように破壊を続ける彼の姿は、何を物語っているか。おそらく義父の庇護のもとセレブな生活を送ってきたことなど、過去のすべてが妻の死とともに厭わしいものとなり、何もかもぶち壊しくなったのだろう。何ともワイルドな行為で常人には理解不能。感情移入はしにくい。

だからというわけでもないだろうが、この後いったん破壊行為は影を潜め、その後は苦情の手紙を通して知り合ったシングルマザーのカレン(ナオミ・ワッツ)とその息子クリス(ジュダ・ルイス)との交流が描かれる。2人もそれぞれに問題を抱えている。カレンは現在の恋人との関係に悩み、クリスも周囲のあれこれに違和感を持ち反抗している。

デイヴィスの心の軌跡が明確に描かれるわけではないが、ところどころに挟まれる妻との過去などで、少しずつ何かがほぐれていく様子が伝わる。また、カレンとクリスも、少しずつ変化していく。

そんな中、デイヴィスはクリスとともに、ついに自宅を破壊しまくる。これで完全に過去を断ち切ったのか?

しかし、ことはそれで収まらない。終盤はややバタバタした展開だ。妻がかつて妊娠していた事実を知るデイヴィス。そして交通事故を起こした犯人の出現。そうした様々な出来事を経て、ついに彼は心から涙を流し、妻との間に愛があったことを確認する。2人の思い出を確認するかのように、義父と和解してあることを成し遂げる彼の姿に、最後は心が温められた。

この映画を観る前に主人公の破壊行為のことを聞いていたので、もっと荒っぽい映画なのかと思っていたのだが、実際は抑制的で丹念な描写が際立つ映画だった。正直なところ、主人公の心は複雑で簡単に感情移入できるものではないが、あと味はなかなかのものだった。

複雑な主人公の内面を巧みに表現したジェイク・ギレンホール、そしてシングルマザー役のナオミ・ワッツ、彼女の息子役のジュダ・ルイス、義父役のクリス・クーパーなどの役者の演技も見応えがある。映像も音楽も素晴らしい。

喪失からの再生物語は別に珍しくもないが、一風変わった作品として十分に見る価値のある映画だと思う。

●今日の映画代、1400円。新宿伊勢丹会館のちけっとぽーとで前売り券購入。