映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「来る」

「来る」
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2018年12月7日(金)午後3時より鑑賞(スクリーン5/G-14)。

~ケレンたっぷり。中島哲也ワールド全開のホラー・エンターテイメント映画

中島哲也監督といえば、もともとは気鋭のCMディレクター。映画監督としても2004年の「下妻物語」でブレイクした。その「下妻物語」は、オレにとって、その年の日本映画のベスト級の作品だった。

その後も、中島監督は「嫌われ松子の一生」「告白」「渇き。」などの個性的な作品を生み出してきた。いずれも、相当に面白い作品だった。多作ではないものの、新作が出るたびにオレが注目している監督の一人だ。

それらの作品に共通するのは、CGやアニメなども駆使したケレン味あふれる映像。人間の闇をあぶりだした作品も多い。そして何よりも、いずれの作品もエンターテイメントとして、観客の目を惹きつける工夫がたっぷり施されているのだ。

その中島監督の「渇き。」から4年ぶりの新作が登場した。「来る」(2018年 日本)である。第22回日本ホラー小説大賞の大賞受賞作、澤村伊智の『ぼぎわんが、来る』が原作。というわけで、この映画はホラー映画なのだが、そこには中島監督らしさがたっぷり詰まっている。

映画の滑りだしは典型的なホラー。幼い少女が少年に、自分が何者かに連れ去られることを予言する。その通り、その子はまもなく行方不明になってしまう。

そこから一気に時間が飛ぶ。田原秀樹(妻夫木聡)という青年がパニックに陥っている。彼こそが冒頭の少年が成長した姿である。秀樹は、電話の指示により水の入った器を並べ、家中の鏡を叩き壊す。いったいどうしてそうなったのか。そこから再び時間が巻き戻る。

それより数年前、秀樹と婚約者の香奈(黒木華)は揃って秀樹の実家の法事に顔を出す。その宴席の様子が奇妙だ。強烈な個性の人々が、人さらいに関する地元の伝承などについて言葉を交わし、飲み、食い、ケンカをする。さらに、その夜、秀樹は悪夢を見る。土着的な不気味さを通り越して、もはやカオス状態である。

続いて、いきなり秀樹と香奈の結婚式に場面が映る。その模様を延々と映し出す。2人のなれそめをコント仕立てで紹介する余興なども描かれる。ここもカオス状態だ。ホラー的な怖さとは無縁。思わず笑ってしまう。こんなふうに、この映画は通常のホラー映画の枠を軽々と超えた作品なのだ。

とはいえ、ホラー的な要素は当然出てくる。秀樹と香奈は結婚して幸せな新婚生活を送る。そんなある日、秀樹の会社に「知紗さんの件で」と謎の来訪者が現れる。「知紗」とは、まもなく誕生する秀樹と香奈の娘につける名前だった。来訪者がその名を知っていたことに恐怖を憶える秀樹。秀樹が会いに行くと、その人物は姿を消していた。おまけに、来訪者を取り次いだ後輩が変死してしまう。

ほらほら、ちゃ~んホラー映画になってるでしょ。本作の核になるのは、子供を連れ去る謎のバケモノをめぐる恐怖のドラマなのだ。

それから2年後、周囲で不可解な出来事が起こり不安になった秀樹は、友人の民俗学者の津田(青木崇高)を通して、オカルトライター・野崎(岡田准一)を紹介してもらう。野崎は、知り合いの霊能力を持つキャバ嬢・真琴(小松菜奈)のところに秀樹を連れて行き相談する。ちなみに、真琴の姉は日本最強の霊媒師・琴子(松たか子)である。

そうするうちにも、バケモノの影は次第に秀樹の家に忍び寄る。襲来の兆候は様々な形で現れるのだが、バケモノそのものの姿は見えない。そのことで得体の知れない恐怖が高まっていく。そして、ついに惨劇が起こる!!!

このあたりはスプラッター風の映像も含めて、いかにもホラー映画らしい展開が続く。ただし、そこでも独特の映像美やそこはかとない笑いなどがあって、単純な怖さとは違った雰囲気が漂っている。

その後のドラマは主人公が変わる。それまでの主人公は秀樹だったが、ここからは香奈の視点でドラマが描かれる。娘・知紗を抱えて大変な日々を送る香奈だが、その心の奥にはどす黒い思いが渦巻いている。赤裸々な欲望も見えてくる。

そうなのだ。中島監督の映画でしばしば描かれるのが、人間の二面性やふだんは見えない陰の部分だ。今回も、香奈の言動から彼女のそうした部分をあぶりだすとともに、最初のパートの主人公だった秀樹の闇もあぶりだす。

理想的なパパの姿をブログで綴っていた秀樹だが、家での生活ぶりはそれとは全く違うもの。外面の良さとは裏腹の闇を抱えていたことがわかる。彼らが演じるおどろおどろしい人間ドラマは、ある意味、バケモノよりも怖いかもしれない。

中島監督らしいケレン味あふれる映像は今回も健在だ。あの手この手で観客の目をスクリーンに惹きつける。様々な怪奇現象はもちろん、CGを使った鮮烈なイメージショットなども駆使した巧みな映像で見せていく。映画の内容そのものよりも、この映像に惹きつけられてしまう人も多いのではないだろうか。

そんな中でも、バケモノの影はますます濃くなっていく。そして、またしても惨劇が起きる!!!

その後はまたしても主人公が変わる。今度の主人公はライターの野崎だ。彼には子供にまつわる忘れたくても忘れられない過去があった。さらに、キャバ嬢・真琴にも子供に関する複雑な思いがある。その2人が知紗と深くかかわることで、バケモノに翻弄されることになる。

そこで大きな存在感を発揮するのが、真琴の姉で日本最強の霊媒師・琴子である。演じるのは松たか子。なんだ? この不気味な演技は。こんな松たか子は初めて観たぞ! ただし、不気味さの反面、野崎が買ってきたビールを「いただくわ」と気風良く飲んで笑いを取るあたりもまた、中島映画らしいところだろう。

そして訪れるクライマックス。これがまあ、壮大かつ壮絶なものなのだ。詳しいことは伏せておくが、簡単にいえば「お祓い」である。お祓いといえば、オカルトホラーにはよくあるパターン。「エクソシスト」や「コクソン」の例を挙げるまでもないだろう。だが、こちらは、そんじょそこらのお祓いではない。日本を挙げての総がかりでのお祓いなのだ。

一歩間違えば、荒唐無稽なただのおバカ映画になりそうなシーンだが、そんな心配はいらない。中島監督は強烈なビジュアルで「これでもか!」と畳みかける。虚実なんてもはやどうでもよい。観客を有無を言わせずにスクリーンに引きずり込むのだ。ここまでぶっ飛んだ映像を見せられたら、もはや何も言えません。降参です。

戦いの後、野崎が血だらけでコンビニで買い物をするシーンで笑いを取り、さらにその後には「オムライスの歌」のMVまで登場させる。いやぁ~、中島監督、相変わらずスゴイわ。いろんな意味で。

松たか子以外にも、岡田准一黒木華小松菜奈妻夫木聡青木崇高柴田理恵など、役者がすべて中島ワールドにどっぷりつかって、ふだんならあり得ない怪演を披露しているところも見ものだろう。

ホラー映画らしい恐怖はそれほどでもない。そこに過度に期待して観ると裏切られるかもしれない。その代わり、中身はぎっしりと詰まった濃い映画だ。どす黒い人間ドラマやケレン味あふれる映像、あちこちに散りばめられた笑いなど、いかにも中島監督らしい世界が展開する。これぞホラー・エンターテイメント映画!!!

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◆「来る」
(2018年 日本)(上映時間2時間14分)
監督:中島哲也
出演:岡田准一黒木華小松菜奈松たか子妻夫木聡青木崇高柴田理恵、太賀、志田愛珠、蜷川みほ伊集院光石田えり西川晃啓松本康太、小澤慎一朗
*TOHOシネマズ日比谷ほかにて全国公開中
ホームページ http://kuru-movie.jp/

「台北暮色」

台北暮色」
ユーロスペースにて。2018年12月4日(火)午後2時45分より鑑賞(スクリーン1/C-9)。

~台湾の大都会とそこに住む人々の息遣いをビビッドに見せる

長いこと東京に暮らしていて、日常でことさらに孤独を感じることはないのだが、たまたま何かの瞬間にそんな感情に襲われることがある。例えば、それは渋谷のスクランブル交差点を歩いている時だったりする。

台湾映画「台北暮色」(強尼・凱克/MISSING JOHNNY)(2017年 台湾)は、大都会の風景と、そこで暮らす人々の心情がリアルかつビビッドに描かれた作品だ。これがデビュー作となる女性監督ホァン・シーは、台湾の名匠ホウ・シャオシェン監督のアシスタントを務めた経験を持つ。そのホウ・シャオシェンが製作総指揮を務めている。

台湾の大都会の台北に暮らす3人の人々を中心にした群像劇だ。冒頭に登場するのは中年男のフォン(クー・ユールン)。乗っていた車がエンストしてしまう。彼はその車の中で生活しているらしい。

続いてリー(ホァン・ユエン)という少年が映る。彼は地下鉄の中でシュー(リマ・ジタン)という若い女性を見つけて声をかける。2人は同じ集合住宅に暮らしている。シューは箱を持っていて、リーは「鳥が入っているんだろう」と聞くのだが(確かに鳥が入っている)、なぜかシューは否定する。

このフォン、リー、シューがドラマの中心だ。とはいえ、さしたる事件は起きない。劇的なことは何もない。苦悩や葛藤のドラマもない。彼らの日常が淡々とスケッチされるだけだ。

シューはヨガ講師や民泊の受付係などをしている。フォンは便利屋として様々な仕事をしている。リーは自閉症らしく、物忘れが激しく母から行動を指示するメモを渡されるが、それが気にいらないようだ。

彼らの日常にはいくつもの謎がある。フォンはある家庭でしばしば食事をする。彼らは誰なのか? シューには恋人がいるようだが、どこかぎこちなく感じられる。はたしてその関係は? さらに、彼女には「ジョニーはそこにいますか?」という同じ男あての間違い電話が何度もかかってくる。ジョニーとは誰なのか?

この映画には説明的なところはほとんどない。したがって、観客は3人の日常のスケッチから、様々なことをすくい取っていくことになる。

都会に暮らす彼らの孤独や生きづらさが明確に提示されるわけでもない。序盤でシューのインコが逃げ出してしまうが、それとて悲しいエピソードとして描かれるわけではない。フォンの車中生活のつらさなどもストレートには描かれない。

それでも、彼らの生活ぶりがビビッドに描かれることで、そこから日常の光と影が少しずつ伝わってくる。彼らの等身大の姿が自然に見えてくるのである。例えば、リーの母親の疲れたような表情が映し出された時。そこには人と交われないリーの孤独が、如実に感じ取れるのだ。

等身大の姿が見えるのは、人間だけではない。台北の街の表情も等身大に描かれる。その映像は実に叙情的で、みずみずしい。特に陽の光を効果的に使った映像が魅力的だ。シューが鳥たちとくつろぐシーン、リーが水たまりで戯れるシーン、フォンの車越しに見える地下道など、どれもが鮮烈で印象に残るショットだ。

この映画は、人も街もその息遣いがリアルに聞こえてくる映画なのである。

先ほど挙げた謎がすべて明らかになるわけではない。ただし、そのいくつかはおぼろげながら実相が見えてくる。そして、終盤には彼らが抱えた過去の傷が見えてくる。

ある事情から街に飛び出したシューは、フォンの車に乗り込む。その後、コンビニの前で2人はそれぞれの家族にまつわる過去を告白し合う。そして、街を全力疾走する2人。走り疲れて並んで座る2人をとらえた長回しのショットも、心に染みるシーンだ。

シューとフォンは、過去を振り切るために大都会に出てきたのだろう。だが、そこには様々な生きづらさや孤独がある。「距離が近すぎるとケンカする。愛し方も忘れる」というフォンの言葉は、そうした都会の特質を的確にとらえているように思える。

シューとフォンだけでなく、リーにも家族にまつわる過去の傷があることが、ラスト近くで明らかにされる。

だが、けっして暗い余韻を残す映画ではない。夕暮れの中でインコを肩に乗せたシューのショットからは、すべてを抱えつつ前を向こうとする彼女の姿勢が見えてくる。

エンドロール前のシーンも味わい深い。シューとフォンの乗った車がエンストする。必死で車を動かそうとする2人と、後続の車の運転手たち。そこからカメラは無数の車が行き交う道路へと移動する。おそらく、シューもフォンも、そしてリーも、困難な中でも前向きさを失わずに生きていくのだろう。そう感じさせられて、温かな余韻に浸ることができたのである。

シューを演じたリマ・ジタンのたくましさも、この映画をポジティブにしている源泉だろう。レバノン人と台湾人の両親を持ち、モデルで映画はこれが初出演とのこと。まあ、何よりもスゲェー美人です。

フォンを演じたクー・ユールンは、かつてエドワード・ヤン監督の「カップルズ」で主人公を演じた。だからというわけでもないだろうが、ホウ・シャオシェン監督よりも、エドワード・ヤン監督の作品に近いテイストを感じさせる映画だった。

この映画は、2017年の第18回東京フィルメックスコンペティション部門に出品され、「ジョニーは行方不明」のタイトルで上映されている。今回、邦題を「台北暮色」としたのはなかなかのセンスだと思う。

台北を鮮やかに活写した映画であり、そこから東京をはじめ世界中の都会と共通する表情を感じ取ることができそうだ。

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◆「台北暮色」(強尼・凱克/MISSING JOHNNY)
(2017年 台湾)(上映時間1時間47分)
監督・脚本:ホァン・シー
出演:リマ・ジタン、クー・ユールン、ホァン・ユエン
ユーロスペースほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://apeople.world/taipeiboshoku/

「ヘレディタリー/継承」

「ヘレディタリー/継承」
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2018年11月30日(金)午前11時30分より鑑賞(スクリーン2/E-9)。

~巧みに仕掛けられた怖くておぞましい正統派ホラー映画

子供の頃に、お化け屋敷から逃走したほどの恐がりのオレだが、ホラー映画は意外に好きだったりする。特に最近は、「クワイエット・プレイス」のようなヒネリを加えたホラー映画が多く、なかなかに楽しかったりするわけだ。

そんな中、久々に正統派ともいえるホラー映画が登場した。低予算ながらアメリカでヒットしたという「ヘレディタリー/継承」(HEREDITARY)(2018年 アメリカ)である。

ドラマの発端はグラハム家の祖母エレンの死。彼女は相当に変わった人だったようで、娘のアニー(トニ・コレット)とは微妙な関係にあった。それでもアニーは夫のスティーブ(ガブリエル・バーン)、高校生の息子ピーター(アレックス・ウォルフ)、13歳の娘チャーリー(ミリー・シャピロ)とともにエレンの葬儀を無事に終える。

だが、その後、チャーリーは異常な行動をとり始める。鳩の首を切り落としたり、はだしのまま家を出て森に行ったりするのだ。生前の祖母と最も親しくしていた彼女に、いったい何が起きたのか?

このチャーリー、見るからに不気味な雰囲気の少女だ。常に舌打ちする癖も気色が悪く、他人をイラつかせる(そういえば、「検察側の罪人」に登場した酒向芳演じる容疑者も、舌打ちをして不気味さを増幅させていたっけ)。

そして、まもなくチャーリーの身にとんでもないことが起きる。ピーターがパーティーに行きたいと言い、アニーはチャーリーも連れていくことを条件に許可する。ところが、そこでトラブルがあって・・・。

ここはネタバレにはならないと思うのでバラしてしまってもいいのだが、まあやめておくか。とにかく衝撃的な出来事が起きて、ある人物が死んでしまう。ただし、それがかなりエグい死に方なのが、いかにも正統派のホラー映画っぽい。この映画には、こうしたスプラッター風のエグい映像が何度も登場する。

だが、そればかりではない。中盤は家族の心理ドラマが前面に出る。前述の惨劇をめぐって、アニー、スティーブ、ピーターはそれぞれ心に傷を抱える。特にアニーの嘆きようは尋常ではない。心の奥には惨劇の要因となったピーターへの複雑な思いが、チラリチラリと垣間見える。

一方、ピーターにしても母アニーに対して複雑な思いを抱えている。実は、アニーにはある病気があって、そのことによって過去にとんでもない出来事を引き起こしかけたことがあるのだ。そのことで、母子の間には抜き差しならない溝ができている。それがこの一件で一気に噴出する。

こうした家族たちの苦悩と葛藤のリアルな描写があるからこそ、その後の恐怖と狂気がズンズンと増幅していくのである。

映像も出色だ。映画の冒頭では、グラハム家の住宅の部屋に据えられたカメラが外を映す。その後、部屋の内部にカメラを転じ、部屋に置かれた精巧なミニチュアに焦点を当てる。その模型がそのまま現実の世界に転化するのだ。

このシーンだけで、この物語がある種の異界の物語であり、そこでは人間が無力であることを示唆しているように感じられる。ちなみに、このミニチュアはミニチュア作家であるアニーが制作したもの。これが随所で効果的に使われ、恐怖の増幅に一役買っている。

それ以外にも、寒色系の寒々しい映像が観客の心を凍てつかせる。いかにもホラー映画らしく不協和音を巧みに使った音楽も、恐怖と不気味さを煽っていく。

その後、ドラマは霊にまつわる話へと展開する。心が乱れ、いたたまれないアニーは、謎の女と知り合い、あらぬ方向へと暴走していく。このあたりは、オカルトもののホラー映画の様相を呈する。

ドラマの進行とともに、次第にこの世のものとは思えない様々な要素が出現する。それらはアニーやピーターの悪夢の形で登場したりするのだが、現実との境界線は曖昧だ。なぜか聞こえてくるチャーリーの舌打ち、怪しい人影、謎の光、ハエがたかりまくった死体などなど。そうした中でアニーやピーターはどんどん憔悴していく。

終盤は、祖母エレンの遺体をめぐる話や、アニーが知り合った謎の女の正体をめぐるミステリー風の展開も飛び出す。そこはまさに恐怖と不気味さ、エグさの連打である。

はたして着地点はどこにあるのか。「エクソシスト」のように悪魔祓い師が登場して一家を救うのだろうか。いやいや、そんな生易しいラストではない。まったく予想外のところに話は向かう。冒頭からたびたび映る奇妙なログハウス風の建物。祖母の「私を憎まないで」というメモ。そうした伏線がラストで見事に一つにつながる。邦題にある「継承」というフレーズがピッタリの結末である。

エンドロールに流れるのは名曲「青春の光と影」。あまりにもおぞましい映画の直後に流れるジュディ·コリンズの爽やかな歌声。何なんだ? この落差は。これもまた独特の雰囲気を醸し出す。最後の最後までよく考えられた映画である。

役者ではアニー役のトニ・コレットの恐怖顔が凄すぎる。あんな顔は普通の人には絶対にできない。名優はこういう演技も半端ないのだ。ピーター役のアレックス・ウルフ(この映画の日本のクレジットでは、ウォルフと表示)も、「ライ麦畑で出会ったら」とは全く違うタイプの熱演ぶり。そしてミリー・シャピロの怖すぎる存在感。よくもまあこんな子を見つけてきたものだ。今後が心配、いや楽しみである。

基本は悪魔絡みの定番ホラーだが、スプラッター、オカルト、幽霊など様々なホラー映画の要素を巧みに織り込み、さらに家族の苦悩と葛藤のドラマも付加し、ハイレベルな映像や音楽で綴った充実のホラー映画だ。本作が長編デビューとは思えないアリ・アスター監督の巧みな手腕が光る。ホラー映画好きなら見逃す手はないだろう。

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◆「ヘレディタリー/継承」(HEREDITARY)
(2018年 アメリカ)(上映時間2時間7分)
監督・脚本:アリ・アスター
出演:トニ・コレット、アレックス・ウォルフ、ミリー・シャピロ、アン・ダウド、ガブリエル・バーン
*TOHOシネマズ日比谷ほかにて全国公開中
ホームページ http://hereditary-movie.jp/

「ライ麦畑で出会ったら」

ライ麦畑で出会ったら
新宿武蔵野館にて。2018年11月24日(土)午後2時より鑑賞(スクリーン3/B-3)。

~伝説の小説家・サリンジャー探しを通して成長する若者

J・D・サリンジャーといえばアメリカの伝説の作家。後年は謎めいた隠遁生活を送ったことでも知られている。そのサリンジャーの代表作である『ライ麦畑でつかまえて』に感銘を受けた高校生の成長を描いた映画が「ライ麦畑で出会ったら」(COMING THROUGH THE RYE)(2015年 アメリカ)である。

1969年のアメリカ・ペンシルベニア州。全寮制の男子高校に通うジェイミー(アレックス・ウルフ)が、このドラマの主人公だ。彼の通う学校は運動部が幅を利かせ、演劇部で活動するジェイミーは周囲から低く見られている。そんなこともあって、学校になじめずに孤独な日々を送っていた。

そんな彼にとってのバイブルが、サリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』。ジェイミーはそれを脚色して、演劇として上演したいと考える。教師から「それにはサリンジャーの許可が必要だ」と言われたジェイミーは、エージェントに依頼しようとするが相手にされない。そもそもサリンジャーは隠遁生活を送っていて、エージェントですら手紙で連絡をとるしかないという。

まもなく転機が訪れる。ジェイミーがサリンジャーに宛てて書いた手紙が、他の生徒たちによって盗まれてしまう。生徒たちはジェイミーを嘲笑し、彼の部屋に爆竹を投げ入れる。完全なイジメである。これにショックを受けたジェイミーは寮を飛び出し、わずかなヒントをもとにサリンジャー探しの旅に出ることにする。

彼をサポートするのは、演劇サークルで知り合った少女ディーディー(ステファニア・オーウェン)。実はジェイミーは別な女の子に関心があって、『ライ麦畑でつかまえて』を舞台化した暁には自分が主役を演じ、その女の子をヒロインにしたいと考えていた。そのことを知ってか知らずか、同じくサリンジャー好きのディーディーは、ジェイミーを車に乗せて一緒に旅に出たのだった。

こうして小さな冒険の過程で様々な出来事を経験し、ジェイミーは成長していく……というストーリー展開自体は予想の範囲内で、特に新鮮味はない。それでも、彼らが旅に出た晩秋の美しい風景をバックに、その道中がなんとも魅力的に描かれている。

例えば、綿花が植えられた場所で綿が空中を軽やかに舞う中、ジェイミーとディーディーが願い事をして口づけを交わすシーン。まさに青春のきらめきと初々しい恋が、鮮やかにスクリーンに刻み込まれている。

あるいは夫婦を装って宿泊したホテルでのシーン。2人は深い関係になりかけるが、結局はうまくいかない。ここも青春ドラマらしく、不器用で気恥ずしさにあふれたシーンだ。2人が激しく対立する場面も登場する。全編に流れる温かで優しい歌声もあって、こうした青春の様々な出来事が、ノスタルジックかつキラキラした輝きとともに描かれ、心に染みてくるのである。

その一方で、サリンジャーの行方はつかめない。出会う人々はいずれも「知らない」と言ったり、あらぬ場所を告げるのだが、どうやら何かを隠しているようだ。それでも、やがてひょんなことからサリンジャーの居場所が判明する。

というわけで、ここがこの映画の大きな特徴だ。通常なら、この手の著名人が登場する話は「残念ながら本人には会えなかったけれど、彼は成長した」となることが多い。しかし、この映画ではサリンジャー本人が堂々と登場するのだ。

といっても、もちろん実際の本人は死んでいるから登場するのは役者だ。演じるのは2002年の「アダプテーション」でアカデミー助演男優賞を受賞するなど、様々な映画で印象的な演技を披露してきた名優のクリス・クーパー。これが、実に良い味を出しているのだ。

頑なに隠遁生活を送る男らしく、自己の信念を曲げずに何物にも絶対に迎合しない。その姿勢は崩さないものの、言動の端々にチラリチラリと人間味を少しだけ見せるのである。「実際のサリンジャーもきっとこんなだったんだろうな」と思わせるさすがの演技だ。彼をキャスティングしただけで、この映画は成功したといえるだろう。

さらに、初々しい高校生を演じたアレックス・ウルフとステファニア・オーウェンも、なかなかの演技を見せている。

サリンジャーには会えたものの、期待した結果は得られなかったジェイミー。彼に進むべき道を示すのはディーディーだ。そこでは、ジェイミーの心に大きな影を落としていた兄に関することや、友人との仲違いなどの事情も明らかにされる。

終盤にも意外なサプライズが用意されている。ある出来事を経て、ジェイミーは再びサリンジャーと言葉を交わすのだ。ここも実に良いシーンである。最初の対話以上にサリンジャーの温かさが伝わって、心にじわじわと染みてくる。

走り去る車。そこから道に落ちる脚本。ジェイミーの確実な成長を示し、温かな余韻を残すラストシーンである。

本作の監督・脚本を担当したジェームズ・サドウィズは、長らくテレビ業界で活動していたようで、この映画が長編映画初監督作品。おまけに、この物語は彼の学生時代の実体験をもとに描いたものだという。前半で、ジェイミーがカメラを向いて観客に語りかけるシーンが挿入されるのは、監督の照れ隠しなのかもしれない。いずれにしても、ユニークで後味の良い青春ドラマだ。サリンジャーのことを知らなくても楽しめると思います。

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◆「ライ麦畑で出会ったら」(COMING THROUGH THE RYE)
(2015年 アメリカ)(上映時間1時間37分)
監督・脚本:ジェームズ・サドウィズ
出演:アレックス・ウルフ、ステファニア・オーウェンクリス・クーパー、エイドリアン・パスダー、ジェイコブ・ラインバック、エリック・ネルセン
新宿武蔵野館ほかにて公開中
ホームページ http://raimugi-movie.com/

「A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー」

「A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー」
シネクイントにて。2018年11月22日(木)午後12時15分より鑑賞(スクリーン1/G-6)。

~妻を見守る夫の幽霊。壮大なテーマ性を感じさせる不思議な映像詩

幽霊が出てくるお話といえばホラー映画を思い浮かべがち。だが、「A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー」(A GHOST STORY)(2017年 アメリカ)は、ホラー映画ではない。実に、不思議な映画なのである。

最初に登場するのは郊外の一軒家に住む若い夫婦。名前は明らかにされないが、公式サイトのストーリーを見るとC(ケイシー・アフレック)とM(ルーニー・マーラ)となっている。そんな2人が仲睦まじく会話を交わす。それはごく普通の夫婦の会話。しかし、どこか不穏な空気に心がざわつく。しかも、この家では時折謎の物音がするらしい。

そして、場面は突如として病院に移る。そこに横たわる遺体。それはCの遺体だった。その直前にほんの短く、交通事故後のシーンが映されるから、おそらくCは交通事故死したのだろう。Mは遺体を確認し、シーツをかぶせて病院を去る。

その直後、やおらシーツが持ち上がる。死んだはずのCが、シーツを被ったまま静かに起き上がったのだ。目のところには穴が開いている。そして、そのまま妻のいる自宅へと戻っていくのだった。つまり、夫のCは幽霊になって甦ったのである。

ここでポイントになるのが、この幽霊は他人だけでなく、妻のMにも姿が見えないことだ。しかも、幽霊は意思を伝えることがうまくできない。幽霊になった夫が妻の前に出現し……といえば、ラブストーリーとして名高い「ゴースト ニューヨークの幻」を思い浮かべるが、意思疎通が困難だからああはならない。家に戻っても、ただひたすら妻を見守るしかないのである。

それでも前半はややラブストーリー的な要素も感じられる。Cの死からまもない頃に、Mは友人が持ってきてくれたパイをひたすら食べまくる。その挙句に吐いてしまう。それをCの幽霊がじっと見守る。Mが抱えた悲しみの深さと喪失感の大きさ、そして何もできないCのつらさが伝わってくる。2人の絆の強さを象徴するシーンだ。

だが、その後、Mは新しいボーイフレンドと現れる。その時の幽霊の態度が面白い。感情を抑えることができずに暴れた結果、書棚の本が落ちる。Mがそれを見ると、開いたページには実に意味深な文字が書かれてある。

そして、その直後、妻のMはどこかに引っ越してしまう。Cの幽霊はガランとなった家の中にたたずむ。どうやら幽霊は、この家から動くことができないらしい(地縛霊か!?)。

ちなみに、シーツをかぶった幽霊は隣家にもいる。その幽霊とCの幽霊は窓越しにお互いに手を振って挨拶をする。隣家の幽霊は誰かを待ち続けているらしい。

かくしてMはスクリーンから消えるが、その代わりCとMが暮らしていた家には、南米系の家族が引っ越してくる。それが気にいらないのか、Cの幽霊は家の中をあちこち歩きまわり、物音をたてて子供たちを怖がらせる。それどころか、皿をメチャクチャに投げつけまくるのだ。

この後もいろいろなことがある。なぜかパーティーらしきものが開かれ、そこではある男が「どうせいずれ人間は滅んで、地球も終わる」などとペシミスティック(厭世的)ともとれる発言をする。うむ? これはいったい何なのだ?

続いて家は荒廃し、取り壊しが始まる。その後は高層ビルが建てられる。そうかと思えば、突如として時代をさかのぼり、CとMが暮らした家が建てられる前の時代が登場する。そうやって時間を自由に行き来しながら、Cの幽霊は様々な事象を目撃する。

それにしても何という静謐な世界なのだろう。あまりにも静かで、寝不足で観たら確実に寝落ちしそうだ。何よりも光を効果的に使った映像が美しい。Cが音楽家(らしい)ということもあって、音楽も巧みに使われる。そしてスクリーンサイズは、スタンダードサイズ。つまり通常の映画より幅が狭い。当然ながらセリフもほとんどない。この独特のスタイルが、観客に様々な想像を促す。

ホラーでもなければ、ラブストーリーでもない。脚本も手がけたデヴィッド・ロウリー監督は、この映画で何を言いたかったのだろうか。個人的に思ったのだが、これは幽霊の実態そのものについて考察した映画ではないのか。つまり、それは、霊魂や死後の人間について思いをはせた映画だとも言えるだろう。さらには、人間存在や宇宙にもベクトルが向けられた映画なのかもしれない。それほど壮大なテーマ性を感じさせる。

というところで、オレは「ツリー・オブ・ライフ」をはじめとするテレンス・マリック監督の一連の作品群を思い浮かべてしまった。壮大なテーマ性や映像詩とも呼べる美しい世界観が、マリック監督の作品と共通しているように思えたのだ。

いずれにしても、不思議な映画である。そして、最後には何とも言えない哀切が漂ってきた。けっしてわかりやすい映画ではないが、この独特の映像表現は一見の価値がある。そこから見えてくるものは、おそらく観客それぞれに違うことだろう。

Mを演じたルーニー・マーラは相変わらず美しい。一方、Cを演じたというか、ほぼシーツをかぶったままのケイシー・アフレックの抑制的な演技も印象深い。ちなみに、デヴィッド・ロウリー監督とこの2人は「セインツ 約束の果て」の監督&主演コンビでもある。

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◆「A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー」(A GHOST STORY)
(2017年 アメリカ)(上映時間1時間32分)
監督・脚本:デヴィッド・ロウリー
出演:ケイシー・アフレックルーニー・マーラ
*シネクイントほかにて公開中
ホームページ http://www.ags-movie.jp/

「鈴木家の嘘」

「鈴木家の嘘」
シネスイッチ銀座にて。2018年11月19日(月)午後7時より鑑賞(シネスイッチ1/E-8)。

自死した青年と遺族たち。笑いをまぶして家族を問う

引きこもりだった青年が自死してしまう。遺された家族はどうなるのか……。とくれば、暗く重たい映画になるのは必至だ。だが、その予想を見事に裏切ってくれるのが、「鈴木家の嘘」(2018年 日本)である。

舞台になるのは鈴木家だ。父・幸男(岸部一徳)、母・悠子(原日出子)、長男・浩一(加瀬亮)、長女・富美(木竜麻生)の4人家族。だが、光一は長年引きこもり生活を送り、部屋からほとんど出てこない。

いきなりショッキングなシーンから映画は始まる。光一が自分の部屋で首を吊るシーンだ。これ以上ないほどの暗く重たいシーンである。しかも、まもなく悠子がその場面を目撃してショックのあまり意識を失ってしまう。現場には彼女が持ち出した包丁が落ちており、後追い自殺を試みたらしいことも示唆される。

悠子は入院するが眠り続けたままだ。ところが、何を思ったか幸男はソープランドへ行く。そして、支払いをめぐって店側とトラブルを起こし、慌てて富美が飛んでくる。幸男はショックのあまり錯乱したのか? 

このあたりから、ドラマは意外な方向へと滑り出す。悲劇の真っただ中にいるはずの鈴木家と周辺の人々が、ユーモラスに描かれるのである。幸男、富美、そして悠子の弟でアルゼンチンのエビを扱うビジネスをしている吉野博(大森南朋)、幸男の妹の鈴木君子(岸本加世子)。特に君子のあけすけで強烈なキャラと、博のいかにもお気楽な天然キャラが、数々の笑いを生み出していく。

二度と意識が戻らないことも懸念された悠子だが、光一の四十九日の日に突然、目覚める。その目覚め方も爆笑モノだ。入院患者の孫の男の子が見ている中でベッドから転がり落ち、床を這って男の子の元まで行く。まるでホラー映画のようなシーン。と思ったら、男の子が手に持っていた食べ物(お菓子? バナナ?)をパクリ。これを笑わずして、何を笑おうか。

ただし、悠子は倒れる直前の記憶を失っていた。つまり、光一の自殺のことも何も覚えていなかったのだ。「光一はどこ?」という悠子の問いに、富美はとっさに言ってしまう。「お兄ちゃんは引きこもりをやめて、アルゼンチンでおじさんの仕事を手伝っている」と。幸男もこの嘘に乗る。博も同様だ。医師も、「当分お兄さんのことは内緒にしておいた方が……」とアドバイス。かくして、鈴木家や親戚の人々は嘘をつきとおすことにして、必死にアリバイ作りを始めるのだった。

昏睡状態から目覚めた母に嘘をつくという構図は、2003年に公開されたドイツ映画「グッバイ、レーニン!」と共通している。あちらはベルリンの壁崩壊を知らない母親に対して、息子が必死で東ドイツ社会主義体制に変化がないことを偽装する映画だった。それが様々な笑いを生み出していた。

鈴木家のアリバイ工作も文句なしに笑える。幸男はチェ・ゲバラのTシャツを調達し、光一がアルゼンチンから送ってきたように装う。また、富美は光一からの手紙をでっち上げ、それをアルゼンチンにいる博の会社の駐在員が葉書に書いて送ってくる。何とも手の込んだ偽装工作である。これまた思わず笑ってしまう。

とはいえ、この映画、ただ笑えるだけではない。笑いの中から、次第にテーマがくっきりと浮き上がってくる。それは、自死によって遺された家族の苦悩を通して、家族というものの実像に迫ることである。

富美は兄と不仲で、兄が首を吊ったそばで母が倒れている現場を目撃したこともあって、心に大きな傷を負っている。自分と同じく近しい者が突然亡くなった人々の集まりにも参加するが、何も話せない状態が続く。その代わり、そこでは他の遺族の生々しい証言が観る者の胸をグサリとえぐる。

ただし、この集会でも強烈なキャラのおばさんを登場させて、笑いを誘うあたりの心憎いバランス感覚が、この映画の真骨頂と言えるだろう。

一方、悠子から「光一に無関心だった」と非難される父の幸男も、実はある行動を起こし、それが光一を苦しめた過去を持つことが明かされる。幸男もまた心に大きな傷を抱えていたのだ。

相変わらず母に嘘をつきとおすストレスも加わって、富美はどうしようもないところまで追い込まれる。新体操の練習中に大声を出し、遺族たちの集まりでは初めて手紙の形で痛切にその心情を吐露する。

そして、悠子に対する嘘は終わりを迎える。そこからは家族の苦悩と葛藤が描かれる。悠子、幸男、富美、いずれもが後悔を抱えている。「あの時ああしていれば」と。悠子は「あの日、買い物で留守にしなければ」と悔やみ、富美は兄にひどい言葉をぶつけたことに強い自責の念を持つ。その2人が川で絡み合うシーンは、思わず涙せずにはいられなかった。

というわけで、終盤はシリアスなタッチが強まるのだが、それでもところどころに笑いが挟まれる。何という展開の妙だろう。そして、最後には家族の再生を無理なく印象付け、幸男のソープ通いの謎にも決着をつけて、ドラマは終幕を迎える。温かく優しい余韻を残して……。

野尻克己監督は橋口亮輔石井裕也、大森立嗣などの数多くの作品で助監督を務めてきた。本作は野尻監督のオリジナル作品。今年の第31回東京国際映画祭の日本映画スプラッシュ部門で作品賞を受賞した。シリアスと笑いの絶妙なブレンド加減が素晴らしい。劇場映画初監督作とは思えない見事な手腕だ。そこには、兄を亡くした自身の体験も投影されているとのこと。

役者たちも見事である。岸部一徳原日出子らの貫禄の演技に加え、コメディー要素を盛り上げる岸本加世子、大森南朋宇野祥平らのはじけた演技が印象的だ。そして何よりも、瀬々敬久監督の「菊とギロチン」で主演の女相撲の力士・花菊を演じた木竜麻生が、身体の奥からにじみ出してくるような演技を見せている。東京国際映画祭では本作と「菊とギロチン」の演技で、期待される若手俳優に贈られる東京ジェムストーン賞に輝いた。今後も要注目!

しかしまあ、何度も言っているが、今年の日本映画は本当に充実しまくっています。ぜひぜひ劇場へ!!

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◆「鈴木家の嘘」
(2018年 日本)(上映時間2時間13分)
監督・脚本:野尻克己
出演:岸部一徳原日出子、木竜麻生、加瀬亮吉本菜穂子宇野祥平、山岸門人、川面千晶、島田桃依、金子岳憲、政岡泰志、岸本加世子、大森南朋
新宿ピカデリーシネスイッチ銀座ほかにて全国公開中
ホームページ http://www.suzukikenouso.com/

「ボーダーライン ソルジャーズ・デイ」

「ボーダーライン ソルジャーズ・デイ」
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2018年11月17日(土)午後2時20分より鑑賞(スクリーン9/E-11)。

~破格のスリルとリアルさの中、アクの強すぎる2人の役者が躍動する

ベニチオ・デル・トロジョシュ・ブローリンとくれば、どちらもコワもてのアクの強い俳優(知らん人は、ぜひ検索して2人の写真を見てくださいませ)。その2人が揃えば、桁外れにアクの強い作品になるのは請け合いだ。それが2015年の「ボーダーライン」である。アメリカとメキシコの国境をはさんで繰り広げられる壮絶な麻薬戦争の実態を描き、アカデミー賞で3部門にノミネートされた。

ただし、その時の主人公はエミリー・ブラント演じるFBI女性捜査官ケイト・メイサー。メキシコの麻薬組織壊滅を目的とする特殊チームにスカウトされた彼女が、正義のために行動するものの、善悪の狭間で葛藤するという物語だった。ジョシュ・ブローリン演じるCIA特別捜査官マット・グレイヴァーと、ベニチオ・デル・トロ演じるコンサルタント(要するに暗殺者)の謎のコロンビア人、アレハンドロは、彼女と行動をともにして違法捜査を繰り広げる役どころだった。

その「ボーダーライン」に続編が登場した。「ボーダーライン ソルジャーズ・デイ」(SICARIO: DAY OF THE SOLDADO)(2018年 アメリカ)である。今回はケイト・メイサーは登場しない。主人公は、CIA特別捜査官マット・グレイヴァー(ジョシュ・ブローリン)と、暗殺者のアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)だ。こりゃあ、どう考えても前作以上にアクの強い映画になるわけですよ。

ドラマの発端はアメリカ国内で発生した自爆テロ。その犯人の不法入国にメキシコの麻薬カルテルが関わっている疑いが浮上する。なぜそれがわかったかというと、ソマリアで捕まえた海賊の男の証言からだ。その証言を拷問まがいの手法で引き出したのが、誰あろうマット・グレイヴァーである。ここでのジョシュ・ブローリンの恐さときたら背筋ゾクゾクもの。あんなのに見つめられたら、やってないことまで白状しそう。

というわけで、アメリカ政府はマットに麻薬カルテル壊滅の極秘ミッションを命じる。マットは旧知の暗殺者アレハンドロに協力を依頼する。2人は麻薬カルテル同士の抗争を誘発するために、敵対するカルテルの仕業と見せかけて麻薬王カルロスの娘イサベル(イザベラ・モナー)を誘拐する。

いわば毒を以て毒を制す。いや、そんな生易しいものではない。敵をぶちのめすためなら、違法な事でも何でもやる。それがマットとアレハンドロだ。前作では、それを目の当たりにした女性捜査官ケイトが苦悩し葛藤したわけだ。マットとアレハンドロがやっていることは完全な犯罪だが、そこにはピカレスク的な魅力がある。

とはいえ、彼らの目的は抗争の誘発であり娘の誘拐は手段でしかない。首尾よく誘拐に成功した暁には、今度はアレハンドロは麻薬取締局の一員となって、誘拐犯のアジトを急襲してイサベルを救い出す。て、誘拐したのはお前らだろうが~~!! この自作自演の狸芝居ぶりも、堂に入っていて恐れ入る。

それにしても、相変わらず前作同様にヒリヒリするような緊張感とリアルさに包まれた映画である。まるで自分が現場に放り込まれたかのようだ。監督は前作のドゥニ・ヴィルヌーヴからイタリア人のステファノ・ソッリマに変わったが、そうした特色はまったく変わっていない。おそらくこれは、脚本のテイラー・シェリダンの力によるものだろう。彼が監督・脚本を担当した「ウインド・リバー」も、同様に破格のリアルさスリリングさを持つ作品だった。

前作同様に不気味な音楽もそれを煽り立てる。ちなみに、前作で音楽を担当したヨハン・ヨハンソンは2月に他界したため、弟子のアイスランド出身のヒドゥル・グドナドッティルが担当。エンドロールでは、「ヨハン・ヨハンソンに捧ぐ」というクレジットもある。

前半のハイライトは砂塵地帯での攻防戦だ。イサベルを帰すために車を走らせるマットやアレハンドロたち。空からの監視体制もバッチリで慎重に車を進める(ちなみに本作では空からの監視映像が何度も効果的に使われる)。しかし、まもなく舗装道路が尽きて、砂煙がもうもうと舞う中での走行となる。そこで一気に事態は変わる。いつ敵が襲ってくるかわからない緊張感に包まれて、予測不可能な世界が現出する。そして、ついに……。

激しい銃撃戦の中、イサベラは逃走してしまう。アレハンドロはマットと別れて、1人で彼女を探すことにする。まもなくイサベラを発見するが、そこからは国境越えを目指した2人の風変わりな逃避行が始まる。

問答無用に人を殺す殺し屋が麻薬王の娘を助ける? 何やら不自然に思うかもしれないが、アレハンドロが情け無用の殺し屋になったのには事情がある。彼はもともと検事として麻薬組織を追及していた。それがもとで組織の恨みを買い、ボスの手下によって家族を皆殺しにされたのだ(そのあたりの事情は前作で詳しく描かれています)。

イサベラとの逃避行の途中で、アレハンドロは聾者の男と出会い、手話で会話をするシーンがある。実は彼女の殺された娘も聾者だったというのだ。麻薬王に対する憎しみを持ち続ける一方で、殺された娘の親でもあるアレハンドロは、麻薬王の娘イサベラに複雑な感情を持っている。その果てに彼女を捨て置けないと考えたのだろう。前作での女性捜査官の葛藤といい、本作でのアレハンドロの葛藤といい、なかなかに観応えある心理ドラマではないか。

そんなアレハンドロとイサベラとのさりげない心の触れ合いも、本作のスパイスになっている。イサベラは早いうちに、自分を誘拐したのがアレハンドロたちであることを知ってしまう。だから、一度は逃げ出したわけだが、それでも行動をともにするしかなくなる。そのあたりの屈折した心理も面白い。何しろ彼女が最初に登場したのは学校での殴り合いの場面。自分の悪口を言った生徒をボコボコにしようとしたのだ。その強い少女が、様々な表情を見せるのだから。

そして、そこにもう一つ複雑な要素が加わる。メキシコ警察を相手にした砂煙の中での戦いが原因で、アメリカ政府はマットに作戦中止を命じる。同時に、証拠隠滅のためにアレハンドロとイサベルを消すように命じたのだ。さあ、どうするマット?

ということで、終盤もすさまじいスリルが襲いかかる。アレハンドロとイサベル、マット、そして麻薬組織が絡み合って、国境地帯での壮絶なバトルが展開する。そこでは、カルテルにスカウトされた少年も重要な役どころを果たす。当然ながら、その結末は伏せておくが、ここもまた現場に自分がいるかのようだリアルさだ。

そして観終わると、ホンモノのワルに思えたマットとアレハンドロが、実は血も涙もある人間だということがよくわかるのだ。このあたりも、今回の新機軸かもしれない。

しかし、まあ、ベニチオ・デル・トロジョシュ・ブローリンの貫禄の演技ときたら。そこに立ってるだけ絵になるのだから恐れ入る。それだけでも観る価値のある映画だろう。それにしても濃いなぁ~。この2人。

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◆「ボーダーライン ソルジャーズ・デイ」(SICARIO: DAY OF THE SOLDADO)
(2018年 アメリカ)(上映時間2時間2分)
監督:ステファノ・ソッリマ
出演:ベニチオ・デル・トロジョシュ・ブローリンイザベラ・モナージェフリー・ドノヴァン、マヌエル・ガルシア=ルルフォ、マシュー・モディーン、イライジャ・ロドリゲス、デヴィッド・カスタニェーダ、キャサリン・キーナー
新宿ピカデリーほかにて全国公開中
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