映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「さよなら、退屈なレオニー」

「さよなら、退屈なレオニー」
新宿武蔵野館にて。2019年7月14日(日)午後2時25分より鑑賞(スクリーン2/A-3)。

~閉塞感漂う街の不機嫌な少女のひと夏の屈折と輝き

国際映画祭というと、どうしても最高賞を争うコンペティション部門にばかり目が行くが、それ以外にも様々な部門があり、良質な映画が上映される。「さよなら、退屈なレオニー」(LA DISPARITION DES LUCIOLES)(2018年 カナダ)は、昨年の第31回東京国際映画祭の「ユース」部門で上映された。

その際に関係者向け上映であまり期待せずに鑑賞したのだが、これが意外にも心に残る青春映画だった。とはいえ、無名の監督、無名の役者による作品だけに、まさか日本公開されるとは思っていなかったのだが、予想に反して一般公開の運びとなった。なかなか目のつけどころが良い配給会社(ブロードメディア・スタジオ)ではないか。そこで、今度はちゃんとお金を払って、2度目の鑑賞となった次第。

ちなみに、東京国際映画祭上映時のタイトルは「蛍はいなくなった」。どうやら原題の「LA DISPARITION DES LUCIOLES」に沿ったタイトルだったようである。

ドラマの舞台となるのは、カナダ・ケベック州の海辺の街。主人公は高校卒業を1ヵ月後に控えた17歳の少女レオニー(カレル・トレンブレイ)だ。彼女はとにかく不機嫌でイラついていた。冒頭では家族が彼女の誕生パーティーをレストランで催す。だが、彼女はその場にいることが耐えられなくなって、途中で黙って姿を消してバスに飛び乗ってしまう。

いったい何がレオニーをイラつかせるのか。彼女は口うるさい母も、ラジオDJをしている義父も大嫌いだった。母親はレオニーが大好きな実父と離婚していた。実父は地元の工場で労働組合のリーダーをしていたが、リストラ騒動によって遠くの職場に飛ばされていた。しかも、その一件には義父も絡んでいたことが後に明らかになる。

そしてレオニーは閉塞感漂うこの街も大嫌いだった。だから、一刻も早く街を出たいと思っていた。だが、自分が何をしたいのかわからない。街を出るだけのお金もない。そういう中で、ひたすら窮屈な毎日を送るしかない。そんな彼女のイラつきを象徴するように、レオニーはひたすら歩き回り、動き回る。

まもなくレオニーは同級生たちと行ったダイナーで、ギター講師をしている年上のミュージシャンのスティーヴ(ピエール=リュック・ブリヤン)と出会う。彼に興味を持ったレオニーはギターを習い始める……。

このスティーヴとレオニーの交流が、ドラマの大きなポイントになる。今まで出会ったことのない不思議な大人と出会い、中古ギターを買ってレッスンに通うレオニー。その微笑ましい練習風景や、レオニーがバイトしている市営野球場でスティーヴがギターを弾きまくるユニークなシーンなどを積み重ねながら、2人の心の通い合いを描く。

また、久々にレオニーの実父もつかの間の休息で街へ戻ってくる。大好きな実父と一緒に過ごす時間も、レオニーの心を和ませる。

正直なところ最初に登場したレオニーの尋常ではないイラつき方には、違和感を禁じ得なかった。だが、観ているうちにその違和感は消えて行った。

もちろん特殊な家庭環境などはあるものの、彼女が感じるイラつきはあの年頃の少年少女が抱きがちなものだろう。自分が住む街や、家族をはじめとする周囲の人々を嫌悪し、一刻も早く現状から抜け出したいと思う。そんな気持ちを誰しも一度は持つのではないのか。そこにこのドラマの普遍性が見て取れる。

そして、何よりもセバスチャン・ピロット監督によるレオニーの心理描写が巧みである。基本となる描写は淡々としている。劇的な要素を極力排してレオニーの日常を描き出す。その中で、セリフはもちろん、それ以外の表情の変化などを通して、彼女の揺れ動く心の底をリアルにつかまえる。おかげで、観ているうちに自然に彼女の心情に寄り添うようになった。

音楽の使い方も巧みだ。冒頭でのストリングスの不穏な音楽から、アーケイド・ファイア、RUSHなどのロック、ポップスまで、その場にふさわしい音楽を使って、場の雰囲気を盛り上げる。

メインテーマではないものの、工場が縮小されて閉塞感漂う街の様子や、レオニーの義父による放送がいかにも右派のポピュリスト的な放送だったりするあたりに、今の時代を織り込もうとする監督の意図も感じられた。

この手の物語の多くは、最後には主人公の成長を見せて終わる。このドラマでもレオニーは成長する。だが、それはけっして劇的な変化ではない。相変わらずレオニーをイラつかせる義父は、聞きたくもない実父の過去を暴露する。

一方、とても良い関係に見えていたスティーヴに対しても、レオニーはイラつき始める。素晴らしいギターの腕を持つスティーヴだが、自宅の地下室にこもり、外部との接触を極力避けているように見えた。それもまたレオニーが望む生き方とは正反対に見えたのだろう。

終盤になってレオニーはブチ切れる。だが、そこからもうワンクッションが用意されている。スティーヴとの再びの心の交流を経て、彼女は新たな旅立ちをする。冒頭と同じようにバスに飛び乗ったレオニーの清々しい表情がすべてを語っている。彼女はほんの少し、だが確実に成長したのだ。

最後に映る野球場のシーンが余韻を残す。街から消えたはずの蛍の光が実に美しい。

主演のカレル・トレンブレイは、東京国際映画祭で若手女優に与えられるジェムストーン賞を受賞した。まさに17歳の少女の心理をキッチリと表現した等身大の演技だった。また、スティーヴ役のピエール=リュック・ブリヤンも、少ないセリフにもかかわらず、十分な存在感を示していた。資料には書かれていないのだが、確か彼は本物のミュージシャンだったはず。ということで、ギターの腕前も素晴らしかった。

若き日に、誰もが持つような心情を巧みに描き出した青春ドラマだ。青春の屈折と輝きが鮮やかに切り取られた佳作である。

 

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◆「さよなら、退屈なレオニー」(LA DISPARITION DES LUCIOLES)
(2018年 カナダ)(上映時間1時間36分)
監督:セバスチャン・ピロット
出演:カレル・トレンブレイ、ピエール=リュック・ブリヤン、フランソワ・パピノ、マリー=フランス・マルコット、リュック・ピカール
新宿武蔵野館ほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://sayonara-leonie.com/

 

「COLD WAR あの歌、2つの心」

「COLD WAR あの歌、2つの心」
ヒューマントラストシネマ渋谷にて。2019年7月11日(木)午後12時30分より鑑賞(スクリーン1/D-9)。

~15年に渡る男女の腐れ縁を静謐なモノクロ映像と音楽で見せる哀愁漂うドラマ

時間軸の長い物語を1本の映画の中で描き切るのはなかなか困難だ。そこでは当然大幅な省略や割愛が必要になる。だが、それによって慌ただしいだけの、駆け足のドラマになってしまうことも珍しくない。

「COLD WAR あの歌、2つの心」(ZIMNA WOJNA)(2018年 ポーランド・イギリス・フランス)は、15年間にもわたる物語。それを1時間28分という短い上映時間の中で描く。それでもまったく窮屈さが感じられないマジックのような映画である。

ストーリー自体はどうということのない恋愛ドラマだ。しかも、よせばいいのに別れたりくっついたりを繰り返す腐れ縁カップルの恋愛ドラマなのだ。

1949年、共産主義政権下のポーランド。新たに音楽舞踊団が結成されることになる。各地の伝統音楽を中心とした音楽舞踊団である。その指導者でピアニストのヴィクトル(トマシュ・コット)は、同僚とともに地方を回って様々な演奏を録音している。そこで登場するある教会を覚えておいてほしい。それが本作のラストで効果的に使われる。

まもなく、音楽舞踊団のオーディションが行われる。そこに歌手志望のズーラ(ヨアンナ・クーリク)が応募してくる。ヴィクトルは彼女に興味を抱き入団させる。そして2人はやがて恋に落ちる。

だが、その後、音楽舞踊団に対する国家の統制が厳しくなる。公演ではスターリン礼讃の歌なども演目に加えられるようになる。そんな体制に嫌気がさしたヴィクトルは、東ベルリン公演の際に西側へ亡命しようとする。そして、ズーラにも「一緒に行こう」と誘う。だが、ズーラは結局待ち合わせ場所に行かず、2人は離ればなれになる……。

15年間を凝縮したドラマだけに、そこには大幅な省略がある。例えば、ヴィクトルとズーラが距離を縮める様子をじっくりと描くようなことはしない。それどころか、ヴィクトルが西側へ亡命して2人が離ればなれになった直後には、いきなり2人がパリで再会する場面が登場する。その間に何があったかは全く描かれない(セリフでチラッとは出てくるが)。

それ以外にも全編に渡って省略しまくりのドラマだ。だが、それでも観ていて戸惑うことはなかったし、違和感もなかった。その最大の理由は、独特の雰囲気を漂わせる映像にある。

パヴェウ・パヴリコフスキ監督は前作「イーダ」で、ポーランド映画で初のアカデミー外国語映画賞に輝いた。1960年代初頭のポーランドを舞台に、孤児として修道院で育った少女が、修道女の誓いを立てる前に自らの出自を知る旅に出るドラマで、静謐なモノクロ映像が大きな特徴だった。

それと同様に、本作も静謐なモノクロ映像で綴られる。恋愛映画であるにもかかわらず、熱さや情熱とは無縁。被写体から一歩引いたクールな映像だ。それが何とも言えない哀愁をスクリーンに漂わせる。同時に観客をスクリーンに集中させ、描かれることのなかった2人の様々なドラマを想像させる。2人の表情、しぐさから多くのことが伝わってくる。

この映画では音楽も印象深い。伝統音楽からジャズまで、様々な音楽が映像のクールさとは裏腹に多くの情感を生み出し、ドラマに奥行きを与えている。特に当初は伝統音楽として歌われ、やがてジャズ風にアレンジされてズーラが歌う曲が絶品だ。こうした音楽がなければ、この映画がこれほど魅力的な作品になることはなかっただろう。

さらに、ヴィクトルとズーラの人物造型も巧みだ。こちらも大幅な省略が施され、多くが語られることはない。しかし、例えばズーラに「父親殺し」の噂をまとわせたり、突然キレて池に飛び込み水面に浮かびながら歌わせるなど、短いエピソードから彼女の不可思議な魅力を感じさせる。ヴィクトルが彼女に入れ込むのも「なるほど」と思わせるのだ。

そのズーラを演じたヨアンナ・クーリクが、15年の時の中で様々に変化する表情を存在感タップリに見せてくれる。また、ヴィクトル役のトマシュ・コットも、時代とズーラに翻弄されて疲弊していく姿を巧みに演じていた。

映画の後半、ヴィクトルとズーラはパリで一緒に暮らす。2人で新たな音楽を生み出そうとする。だが、そこに様々なすれ違いが生まれ2人の心は離れていく。このあたりの展開もありがちなものではあるのだが、観ている間に陳腐さを感じることはなかった。

そして冒頭近くで登場した教会で演じられる、美しくも悲しいエンディングへ……。

ヘタに描けば、ベタで気恥ずかしくなるような腐れ縁の恋愛ドラマを、これだけの作品に仕上げたパヴリコフスキ監督の力量に感嘆するばかりである。

 

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◆「COLD WAR あの歌、2つの心」(ZIMNA WOJNA)
(2018年 ポーランド・イギリス・フランス)(上映時間1時間28分)
監督:パヴェウ・パヴリコフスキ
出演:ヨアンナ・クーリク、トマシュ・コット、アガタ・クレシャ、ボリス・シィツ、ジャンヌ・バリバールセドリック・カーン、アダム・ヴォロノヴィチ、アダム・フェレンツィ、アダム・シシュコフスキ
*ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにて公開中
ホームページ https://coldwar-movie.jp/

「Girl/ガール」

「Girl/ガール」
新宿武蔵野館にて。2019年7月7日(日)午後2時40分より鑑賞(スクリーン1/A-6)。

バレリーナを目指すトランスジェンダーの苦悩と葛藤をリアルに伝える

トランスジェンダーに対する社会の見方は変わりつつある。あからさまな偏見も昔ほどはないようだ。とはいえ、そこにはやはり様々な悩みや苦しみがある。それをリアルに描きたしたのが「Girl/ガール」(GIRL)(2018年 ベルギー)である。

主人公の15歳のララ(ヴィクトール・ポルスター)はトランスジェンダー。体は男性だが、心は女性だ。彼女はバレリーナになることを夢見て、難関のバレエ学校の門を叩き編入を認められる。

よくあるトランスジェンダーのドラマなら、家族や周囲との軋轢が描かれそうだ。我が子がトランスジェンダーであることに納得できない親、そして偏見に満ちた周囲の目などが主人公を苦しめる……という具合に。

だが、このドラマにそれはない。シングルファーザーの父(アリエ・ワルトアルテ)はララに理解があり、彼女を支える。バレエ学校のために仕事を変わり、引っ越しまでした。治療のための病院にも付き添い親身になってララを支える。

また、バレエ学校もララがトランスジェンダーであることを受け入れている。級友たちもララの事情を知っていて、女子更衣室を使うことも許されていた。このあたりに、舞台となるベルギーの社会の成熟ぶりがうかがえる。

ララは体も女性になるべく病院で治療を受けている。待望のホルモン療法が始まり、18歳になれば性適合手術も受けることになっていた。病院は彼女のために親身になって治療を施し、カウンセリングなども続けている。

これだけ周囲が理解してくれるのだからララの行く手も順風満帆……と思うかもしれないが、そうはならないのである。

本作の最大の特徴はドキュメンタリータッチの映像だ。バレエ学校での厳しい練習風景や学校生活、父や幼い弟との家庭生活、そして病院での治療。そんな日常を手持ちカメラやアップを多用しながら、それぞれの場面でのララの心情を繊細にすくい取っていく。

例えばララは父などに対して、いつも「大丈夫」と明るく答える。だが、それがけっして本心ではなく、心の内には様々な悩みや葛藤を抱えていることが、自然に伝わってくるのである。

バレエ学校での訓練は非常に厳しいものだ。いくらララの事情に理解を示しているとはいっても、甘い態度で接するわけではない。そこは実力本位の世界なのだ。

そんな中、どんなにララが頑張っても越えられないハードルがある。男性の足はトーシューズになじまず血だらけになる。目立たないようにとテーピングしている股間も、炎症を起こしてしまう。

一見、理解を示しているように見えた同級生たちも、ララに複雑な視線を送るようになる。そればかりか面白半分でララをからかうなどして、彼女の心を傷つける。

さらに、望みの綱であるホルモン療法も、劇的な変化をもたらすほどのものではない。彼女の体は依然として男性のままだった。

こうしてララは傷つき、苛立ち、疲弊していく。彼女が本音を明かさないことが原因で、父との間にも距離が生まれてしまう。

その果てに彼女が下した決断は衝撃的なものだ。だが、同時にそれは彼女にとって必然でもあったのだろう。ラストシーンの毅然とした表情に、彼女の全ての思いがこもっているように思えた。

トランスジェンダーの心情を、当事者でない人間が理解するのはなかなか困難だ。それをこれほどリアルで自然に伝えるのだから恐れている。しかも、それは単にトランスジェンダーのドラマを越えて、傷つきやすいティーンエイジャーの普遍的なドラマとしても成立している。

これが長編デビューとなるベルギーの新鋭ルーカス・ドン監督は、1991年生まれ。18歳の時に新聞記事で、本作のモデルになる話を知り、9年間を費やして完成させた映画たという。2018年の第71回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に出品され、カメラドール(新人監督賞)を受賞した。

また、主演のヴィクトール・ポルスターは現役のダンサーで映画初出演。トランスジェンダーではなく男性とのこと。なるほど女性的な雰囲気も持つ美少年ではあるが、それでもやはり男性らしさがそこかしこに現れる。それがまたララの持つ違和感を見事に体現していた。

*チラシや写真が見つからなかったのですが、下記公式ホームページでヴィクトール・ポルスターをぜひチェックしてみてください。なかなかの美少年です。

 

◆「Girl/ガール」(GIRL)
(2018年 ベルギー)(上映時間1時間45分)
監督:ルーカス・ドン
出演:ヴィクトール・ポルスター、アリエ・ワルトアルテ、オリヴィエ・ボダール、タイメン・ホーファーツ、カテライネ・ダーメン、ヴァレンタイン・ダーネンス、マガリ・エラリ、アリス・ドゥ・ブロックヴィール、アラン・オノレ、アンジェロ・タイセンス、マリー=ルイーズ・ヴィルデライクス、ヴィルジニア・ヘンドリクセン
新宿武蔵野館、ヒューマントラスシネマ有楽町、Bunkamuraル・シネマほかにて全国公開中
ホームページ http://girl-movie.com/

 

「凪待ち」

「凪待ち」
池袋シネマ・ロサにて。2019年6月30日(日)午後2時40分より鑑賞(シネマ・ロサ1/D-9)。

香取慎吾が全身で体現するあまりにも弱い男の転落と微かな希望

人間は弱い存在だ。「こうしなければ」「こうすべきだ」と頭ではわかっていても、なかなかその通りに行動できるものではない。挙句は、自分の思いとは裏腹に、どんどん転落していくことだって珍しくない。「凪待ち」(2019年 日本)は、まさにそうした人物を描いたドラマである。

冒頭、主人公の木野本郁男(香取慎吾)が自転車をこいで川崎の街を走る。向かった先は競輪場だ。彼はいわゆるギャンブル依存症なのだ。彼にはシングルマザーの亜弓(西田尚美)という恋人がいて、彼女の娘の高校生の美波(恒松祐里)とともに暮らしていた。だが、ギャンブルの費用を亜弓の財布から黙ってくすねるなど、けっして褒められた生活は送っていない。仕事もうまくいかないようで、勤めていた印刷会社も首になってしまう。

それでも、彼とて今の生活が良いと思っているわけではない。何とか抜け出したいという思いは持っているようだ。郁男、亜弓、美波の3人は、亜弓の故郷・石巻に移り住み、人生をやり直す決意をする。実家では末期がんに侵されながらも漁師を続ける亜弓の父・勝美(吉澤健)がひとりで暮らし、近所に住む小野寺(リリー・フランキー)が何かと世話を焼いていた。

郁男は小野寺の世話で印刷会社で働き新生活を始める。だが、ある日、亜弓と衝突した美波が夜になっても戻らず、心配でパニックになった亜弓に罵られた郁男は、彼女を車から降ろし、置き去りにしてしまう。その夜遅く、亜弓は何者かに殺害され遺体となって発見される。

実のところ、亜弓の死の前から郁男の新生活にはすでに黒い影が差していた。印刷会社の同僚が競輪好きで、ノミ屋に通い詰めており、それにつられて郁男も再びギャンブルに手を染め始めていたのだ。そして起きた恋人の殺害事件。「もしも自分が車から降ろさなければ」という自責の念に駆られた郁男は、自暴自棄になっていく。

本作には殺人事件を巡るミステリーの要素がある。「亜弓を殺したのはいったい誰なのか?」という謎を巡る話だ。ただし、これに関して個人的には、早いうちから犯人の目星はついてしまった。それ以外にも、登場する刑事やヤクザがいかにもステレオタイプな描き方がされていたり、都合がよすぎる展開などもあって、違和感を持ってしまったのは事実である。

だが、それでも最後までスクリーンに引き込まれてしまった。なぜなら、ここにはまさしく“人間”がキッチリと描き込まれているからだ。冒頭に述べた弱い人間である郁男は、けっして悪人ではない。亜弓の娘の美波に対する態度を見ていれば、それがひと目でわかる。しかし、同時に彼は自身も言うように「ろくでなし」でもある。その狭間で揺れ動き、結局は転落への道をたどっていく。

郁男の言動には何度も揺り戻しがある。前に進むかに見えて、また元の道に戻ってしまう。亜弓の死以降は、無理解な周囲とも大きな軋轢が生まれ、ますます彼の心を乱す。そして堰を切ったように暴発してすべてを台無しにする。祭りでの派手なケンカ、ノミ屋への無鉄砲な襲撃、印刷会社での大立ち回り……。

その立ち居振る舞いはすべてがリアルだ。「なるほど、彼ならそう考えてそう行動するのも仕方のないところだ」と納得させられてしまう。「凶悪」「孤狼の血」などでおなじみの白石和彌監督に加え、脚本の加藤正人も人間を描くことには定評がある。それが見事に脚本、演出に発揮されている。

だが、何といっても特筆すべきは香取慎吾だろう。ぶっきらぼうで控えめなセリフはもちろん、わずかな表情や視線の変化、しぐさなどから、郁男の抱えた闇や屈折した心理がダイレクトに伝わってくる演技だった。特に印象深いのが後ろ姿である。そこに郁男の過去と現在がそのまま凝縮されているような何とも言えない雰囲気をたたえている。本作で何が一番の見どころかと問われれば、文句なしに香取の演技を挙げたい。

この映画では、郁男の周囲の人間たちも弱さやダメさを抱えている。勝美は震災の津波で妻を亡くしていた。また、若い頃には相当な不良だったようだ。亜弓の元夫の村上はDV男だし、彼の娘でもある美波は長い間、引きこもりだった。

だが、郁男をはじめそうした弱い人々に対する白石監督の視線には、温かさが感じられる。彼らを断罪するようなことはしない。むしろ彼らに対して、微かながら希望の灯をともす。

その灯は郁男にもともされる。自暴自棄になり、転落していく郁男に対して、勝美は救いの手を差し伸べる。美波もまた郁男に温かく接する。2人はけっして郁男を見捨てない。一度はそれに逆に耐え切れなくなった郁男だが、最後には少しだけ前を向く。美しい海でのラストシーンが、明確な再生ではないものの、今後の郁男の人生に微かな光を示す。彼にもようやく「凪」が訪れるのかもしれない。

心地よさや楽しさとは無縁の映画だが、終始スクリーンから目が離せなかった。人間という存在の奥底に迫った力作である。

 

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◆「凪待ち」
(2019年 日本)(上映時間2時間4分)
監督:白石和彌
出演:香取慎吾恒松祐里西田尚美、吉澤健、音尾琢真リリー・フランキー、三浦誠己、寺十吾、佐久本宝、田中隆三、黒田大輔、鹿野浩明、奥野瑛太麿赤兒不破万作宮崎吐夢、沖原一生、江井エステファニー、ウダタカキ、野中隆光、岡本智礼、本木幸世
*TOHOシネマズ日比谷ほかにて全国公開中
ホームページ http://nagimachi.com/

「新聞記者」

「新聞記者」
池袋HUMAXシネマズにて。2019年6月28日(金)午後1時30分より鑑賞(シネマ4/G-10)。

~日本映画を変えるか? 実際の事件を取り込みつつ日本の民主主義を問う緊迫のサスペンス

アメリカには実際の政治をネタにした映画が多い。しかも、ちゃんとエンタメとして成立させている。ここ2~3年に日本で公開になった作品では、「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」「スポットライト 世紀のスクープ」「記者たち 衝撃と畏怖の真実」などが挙げられるだろう。

かつては日本でもそうした映画があった。だが、最近はほぼ皆無だ。その筋からの圧力が怖いのか、面倒くさいことはやりたくないのか、政治ネタでは客が入らないと思っているのか。何にしても寂しい限りである。

そんな中、突如として登場したのだ。「新聞記者」(2019年 日本)という映画が……。フィクションではあるものの、現実に起きた事件を想起させるネタをいくつも盛り込んで、政治や社会に真正面から挑んだチャレンジングな作品だ。

主人公は、東都新聞社会部の若手記者・吉岡エリカ(シム・ウンギョン)。ある日、社会部に大学新設計画に関する極秘情報の匿名FAXが届き、吉岡は上司から調査を任される。一方、外務省から内閣情報調査室に出向しているエリートの杉原拓海(松坂桃李)は、現政権に不都合なニュースをコントロールする任務に就いていた。

そんな中、杉原はかつての上司・神崎と再会するが、神崎はその数日後に自殺してしまう。神崎の死に疑問を抱いた吉岡は真実に迫ろうとする。杉原もまた、神崎の死の背後にある闇に気づく。

ここまでのあらすじを聞いただけでも、異例の映画であることがわかるだろう。「大学新設計画」とくれば、誰もが例の「加計問題」を想像するはずだ。それ以外にも、文科省の元高官のスキャンダル、ジャーナリストが起こしたレイプ犯罪のもみ消し工作など、最近起こった事件を踏まえたと思われるネタが登場する。

映画の序盤に挟まれるテレビの座談会には、この映画の原案となったベストセラー『新聞記者』の著者である東京新聞の望月衣塑子記者が登場する。そう。あの菅官房長官の記者会見で、官邸側の敵意丸出しの態度に遭いつつも、執拗に食い下がる女性記者である。さらに、実際にスキャンダルに巻き込まれた元文部官僚の前川喜平氏も登場する。本作は、間違いなく今の政治問題や社会状況に依拠した作品なのである。

だが、けっして小難しい理屈を述べ立てた映画ではない。基本に据えられたのは緊迫感満点のサスペンス。つまり、エンタメとしての魅力を充分に備えた映画なのだ。

吉岡と杉原を交互に映し出す冒頭の映像から破格の緊迫感が漂う。随所に暗めの映像を配し、手持ちカメラを使ったり、カメラアングルに工夫を凝らすなどして、息苦しいほどの緊迫感を作り出す。それは終始変わらない。

いわゆる「悪」の描写も怠りがない。先ほど挙げた座談会では、ジャーナリズムのあり方などとともに、現在の内閣府が強大な権限を持ち、内閣情報調査室(内調)が様々な情報コントロールをしていることが語られる。まさに、その内調が実行する数々の汚い手口が描かれる。

政府に不利になる情報を握りつぶし、デタラメを捏造し、情報操作を繰り広げる。一般人に対しても容赦がない。そうした悪の親玉として、杉原の上司である多田智也(田中哲司)という人物を登場させ、その憎々しさを強調する。特に彼の冷徹な目には、背筋が凍らされるほどだった。

その内調の描写に比べて、「新聞記者」というタイトルにもかかわらず新聞社の内幕が十分に描き切れていないきらいはあるのだが、それはまあ置いておこう。

人間ドラマもある。若手記者の吉岡は、日本人の父と韓国人の母のもとアメリカで育った。父も新聞記者だったが、誤報事件をきっかけに謎の死を遂げた過去を持つ。それが彼女の新聞記者としての行動に大きな影響を与える。

一方、杉原は妻が出産間近だ。幸せな家庭を築きつつ、政府のためとはいえ汚い仕事をやらされる生活に彼の心は乱れている。その葛藤は後半に進むにつれてますます大きくなる。

神崎の死の背景には何があるのか。匿名FAXに描かれた羊の絵が効果的に使われた吉岡の追求劇が描かれる。同時に杉原も真実に迫ろうとする。そして、やがて吉岡と杉原は交錯する。

終盤に明らかになる真実は、エンタメ作品らしい壮大なものだ。しかし、昨今の政治や社会の姿を見ていると、けっして絵空事とも思えない。今この時も、安倍政権は本当にああした工作をしているのかもしれない。そんな思いさえ浮かんでしまう。そういう点でも、現実とフィクションをしっかりと結び付けた映画といえるだろう。

最後に究極の選択を迫られる杉原。その苦悩に満ちた表情が忘れ難い。それを交差点のこちら側から見つめる吉岡の複雑な表情もまた、頭にこびりついて離れない。様々な余韻を残してドラマは幕を閉じる。

吉岡を演じたのは、「サニー 永遠の仲間たち」「怪しい彼女」などで活躍してきた韓国のシム・ウンギョン。日本語がたどたどしいという設定だが、それでもなかなか達者な日本語だった。そして、何よりもその表情が様々な苦悩や葛藤を雄弁に伝えてくれる演技だった。

杉原を演じた松坂桃李も相変わらず見事な演技だ。こちらも杉原の苦悩や葛藤をセリフだけでなく、その表情や佇まいからキッチリ見せてくれた。

もう一度繰り返して言うが、政治や社会の文脈から離れても、エンターティメントとして十分に観応えある映画だと思う。だが、それでもやはり現実の政治や社会について思いを馳せてしまう。

終幕近くで、多田は「民主主義は形だけでいいんだ」と語る。これこそが、作り手たちの最大の問題提起かもしれない。今の日本の政治は本当に民主主義なのか。形だけになっているのではないか。観終わってそんな疑問が渦巻いた。

ただの偶然なのか意図したのかはわからないが、この映画が参議院選挙の前に公開されたことには大きな意味があるだろう。投票に行くつもりのある人もそうでない人も、政権を支持している人もそうでない人も、ぜひ観て欲しいものである。

何にしてもチャレンジングな作品だ。いや、これをただのチャレンジ終わらせてはいけない。日本の映画界よ、これに続け~!!

 

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◆「新聞記者」
(2019年 日本)(上映時間1時間53分)
監督:藤井道人
出演:シム・ウンギョン、松坂桃李、本田翼、岡山天音郭智博長田成哉、宮野陽名、高橋努西田尚美高橋和也北村有起哉田中哲司
新宿ピカデリーイオンシネマほかにて全国公開中
ホームページ http://shimbunkisha.jp/

 

「アマンダと僕」

「アマンダと僕」
YEBISU GARDEN CINEMAにて。2019年6月23日(日)午後1時より鑑賞(スクリーン1/E-7)。

~最愛の家族を失った青年と幼い姪の悲しみと強い絆

ここ数年、縁あって東京国際映画祭に足しげく通わせてもらっている。会期中はできるだけ仕事を減らし、上映作品を鑑賞する。特にコンペティション部門の作品は極力観るようにしている。とはいえ、さすがに全作品を観るのはなかなか難しい。

昨年の第31回東京国際映画祭でも、何本かのコンペ作品を見落としてしまった。「アマンダと僕」(AMANDA)(2018年 フランス)はその中の1本。しかも、なんと最高賞の東京グランプリと最優秀脚本賞をダブル受賞したのだ。それを知って見逃したことがなおさら悔しく思えた。

その「アマンダと僕」が一般公開された。そこで早速劇場に足を運んだのだ。ちなみに、グランプリ作品といえども一般公開されないケースもあるから、こうしてスクリーンで観られるのは幸運なことかもしれない。

テロで家族を亡くした青年と幼い姪の絆のドラマである。前半は、彼らのキラキラした日常が描かれる。

パリに住む24歳の青年ダヴィッド(ヴァンサン・ラコスト)は、アパートの管理人や庭の手入れなどバイトを掛け持ちしている。そんな中、パリにやって来たレナ(ステイシー・マーティン)という美しい女性と恋に落ちる。

一方、彼の姉のサンドリーヌ(オフェリア・コルプ)はシングルマザー。英語の教師をしながら、7歳の娘アマンダ(イゾール・ミュルトリエ)を育てている。

このダヴィッド、サンドリーヌ、アマンダの関係性の描き方が実に良い。サンドリーヌとアマンダがプレスリーの曲で、ノリノリで楽しく踊るシーン。2人がいかに仲の良い母娘であるかが即座にわかるシーンだ。

ダヴィッドとサンドリーヌの姉弟の仲の良さも際立つ。アマンダのお迎えを頼まれながら仕事で遅れたダヴィッドをサンドリーヌは叱責する。だが、それは心から非難するふうでもない。「しょうがないわね。ちゃんとしてよ!」と愛情をベースに諭すのだ。

そして、ダヴィッドとアマンダの叔父と姪の関係についても、2人が一緒に過ごすシーンを観ただけで、とても良好で温かな関係であることが伝わってくるのである。

こうした前半の描写があらからこそ、その後の悲しみがより深いものとなって迫ってくる。

やがてテロが起きる。イスラム過激派による銃乱射であることが示唆されるが、事件そのものについては詳細には描かれない。犯行の様子も映さない。穏やかな日常の中に突如として、犠牲者たちが公園の芝生に横たわるシーンが挿入されるだけなのだ。ここからもわかるように、これはテロの恐怖や社会的背景を描いた映画ではなく、残された家族の心に寄り添った映画なのである。

このテロによってサンドリーヌは亡くなる。レナも重傷を負ってしまう。ダヴィッドは姉を失くした悲しみを抱え、アマンダの面倒を見ることになる。だが、それは容易いことではない。これまで叔父と姪として仲良く過ごしてきたといっても、それとはまったく違うことなのだ。

「アマンダの後見人になるのか?」と聞かれてもダヴィッドは答えられない。自分の叔母モードの家とサンドリーヌの家で交互にアマンダの世話をしつつ、心は揺れて戸惑うばかりだ。アマンダを施設に預けることも考えるが、踏ん切りがつかない。一方、アマンダも母親の死を受け入れることができずにいる。

この映画で最も素晴らしいところは、ダヴィッドとアマンダの悲しみや戸惑いの描写にある。劇的に悲しみを煽り立てるようなことはしない。だが、それでもダヴィッドの深い悲しみが伝わってくる。特に彼の泣き方が絶品だ。号泣ではなく控えめに涙を流す。何の脈絡もなく突如として泣き出す場面もある。それはあまりにもリアルで、まるで自分もダヴィッドになったかのような気持ちになってしまうのだ。

一方のアマンダは、表面的にはほとんど泣くこともなく過ごす。だが、ある夜、突如として息苦しくなる場面がある。また、2つの家を行き来する生活に不満を漏らす。そして、ダヴィッドがサンドリーヌの歯ブラシを捨てたことに対して、猛然と抗議をする。モードが飼うウサギを無邪気にかわいがる半面、そうしたハッとする場面を見せることで、彼女の心の傷の深さを示す。こちらもリアルな描写である。

もしかしたら、ミカエル・アース監督はこうした被害者たちの心情を綿密に取材したのかもしれない。それぐらいリアルで自然な描写だった。

だが、アース監督は2人を悲しみの底に置いたままにはしない。悲しみと苦しみを抱えながらも、ダヴィッドとアマンダの微笑ましく温かな交流と支え合いを描き出す。アマンダの世話をするダヴィッドだが、アマンダを支えるだけでなく、自分もアマンダに支えられていることがクッキリと印象付けられる。だからこそ、その後のダヴィッドの決断が自然に受け入れられるのである。

終盤はロンドンに舞台を移す。そこでダヴィッドは早くに別れた実母と再会する。ここもまた劇的さを排して、2人のぎこちない再会をリアルに映し出す。

そしてハイライトはサンドリーヌとともに観戦するはずだったウィンブルドンのテニスの試合だ。その試合の行方とアマンダの心情に、冒頭に登場したプレスリー絡みの「ある言葉」を巧みに絡ませて、そこはかとない感動を呼ぶ。

こうして、2人の未来に微かな希望を灯してドラマは終わる。もちろん時間はかかるだろうし、困難もあるだろう。それでもダヴィッドとアマンダの未来に、希望を感じずにはいられなかった。同時にテロを乗り越えるものは憎しみや排除ではなく、愛であることも強く感じられるエンディングだった。

ダヴィッドを演じた若手のヴァンサン・ラコストの演技が光る。実に自然で繊細な演技だった。コメディーへの出演が多いそうだが、今後は活躍の場が広がりそうだ。そして、アマンダ役のイゾール・ミュルトリエも見事だ。とびっきりの可愛らしさと同時に、時に大人びた表情をチラリと見せる。初めての演技とはとても思えない出来だった。

脚本、演出、演技、すべてにおいて完成度が高い作品だ。東京国際映画祭の東京グランプリと最優秀脚本賞も頷ける。そして何よりも人生の悲しみと喜びを自然に伝えてくれる映画なのである。

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◆「アマンダと僕」(AMANDA)
(2018年 フランス)(上映時間1時間47分)
監督:ミカエル・アース
出演:ヴァンサン・ラコスト、イゾール・ミュルトリエ、ステイシー・マーティン、オフェリア・コルプ、マリアンヌ・バスレール、ジョナタン・コエン、グレタ・スカッキ
シネスイッチ銀座、YEBISU GARDEN CINEMAほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://www.bitters.co.jp/amanda/

「誰もがそれを知っている」

「誰もがそれを知っている」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2019年6月19日(水)午後7時10分より鑑賞(シアター2/A-5)。

~イランを離れてスターカップルを主演に迎えたファルハディ監督の新境地

イランのアスガー・ファルハディ監督といえば、「別離」「セールスマン」でアカデミー外国語映画賞を2度も受賞している監督だ。過去の作品は、サスペンスミステリーの形を取りながら、犯人探しや謎解き以上に、イランの社会状況を的確にあぶりだして高い評価を受けてきた。

そんなファルハディ監督が、イランを離れて、スペインの田舎町を舞台に全編スペイン語で撮り上げたのが「誰もがそれを知っている」(TODOS LO SABEN)(2018年 スペイン・フランス・イタリア)である。

今回も全体の構図はサスペンスミステリーだ。アルゼンチンで夫と2人の子どもと暮らすラウラ(ペネロペ・クルス)。妹の結婚式に出席するために、子どもたちを連れて故郷のスペインに帰省する。本当は夫も同行するはずだったのだが、仕事の都合で来られなくなる。

ラウラは、実家の家族やワイン農園を経営する幼なじみのパコ(ハビエル・バルデム)と久々の再会を喜び合う。だが、結婚式のパーティーの喧騒の中、娘のイレーネが姿を消してしまう。

やがて何者かから巨額の身代金を要求するメッセージが届く。警察に通報するなという犯人の言葉に従い、ラウラは警察に通報せずパコに協力を仰ぐ。ラウラの夫もアルゼンチンから駆けつける。

イランからスペインに舞台を移しても、ファルハディ監督らしさは健在だ。いつもなら事件を通して、男女差別をはじめとしたイランの社会状況をあぶりだすのだが、今回は当然それとは違うものをあぶりだす。それは、家族や近隣の人々の様々な過去だ。

例えば、かつて大地主だったラウラの老いた父は、事件をきっかけに土地を売った人々に対して、「ここは俺の土地だ!」「安く売り過ぎた!」と難癖をつけ始める。また、みんなが金持ちだと思っていたラウラの夫が、実は2年も前から失業中であることが明らかになる。そんなふうに事件の真相を巡って人々が疑心暗鬼に陥る中で、様々な過去の秘密や確執が見えてくるのである。

考えてみればファルハディ監督は、過去の作品でも別にイラン社会だけを描き出していたわけではない。そこでは当然、登場人物たちの様々な人間模様や秘密も描き出されていた。今回は、そうした部分に焦点を絞って描いたことで、より普遍的な人間ドラマになったともいえるだろう。

そんな中でも、最大の秘密はラウラとパコの関係に絡むものだ。実は、2人はかつて恋人同士だったのである。娘の安否を巡って憔悴していくラウラを前に、パコは元刑事の男の助言に従い、身代金を用意するフリをして時間稼ぎをする。だが、やがてそれはただのフリでは済まなくなってくる。そして、誘拐された娘に関して大きな秘密が明らかになるのだ。「誰もがそれを知っている」という邦題は、まさにその秘密のことを指しているのだろう。

ファルハディ監督の作品は謎解きや犯人探しが主眼の映画ではないが、それでもそうした要素も毎回きちんと押さえられている。特に今回はいつも以上に巧みな仕掛けが施されている。例えば冒頭に登場する、過去の誘拐事件の新聞記事を切り抜く謎の手。あるいはイレーネと男の子が遊ぶ鳩だらけの時計台。それらがサスペンスミステリーとしての魅力をアップさせる。そこにはヒチコック的なタッチも見て取れる。

時間の経過とともに、ラウラ、パコ、パコの妻ベア、ラウラの夫アレハンドロなど様々な人物たちの関係がどんどんもつれ合い、それぞれの苦悩がスクリーンを色濃く覆うようになる。

やがて、ついに真相が明らかになるが、けっして大団円とはならない。それを巡って、また新たな家族の苦悩が始まることを示唆して、ドラマは終焉を迎える。このあたりの余韻の残し方も、いかにもファルハディ監督らしいところだと思う。

この映画には大きな話題がある。ラウラ役はペネロペ・クルス、パコ役はハビエル・バルデム。そう。実生活の夫婦が主演を務め、元恋人同士を演じているのだ。はたして、やりにくくはないのだろうか? などというのは余計なお世話。さすがに2人とも抜群の演技を披露している。特に苦悩する2人の演技が胸に迫ってくる。

これまでは、どうしてもイランという国と切り離して考えられなかったファルハディ監督だが、イランと関係のないスペインを舞台に、しかもスターカップルを主演に迎えてこれだけ面白い映画を撮ったことで、あらためてその力量を思い知らされた。良い意味で、普通に凄い映画監督なのである。

 

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◆「誰もがそれを知っている」(TODOS LO SABEN)
(2018年 スペイン・フランス・イタリア)(上映時間2時間13分)
監督・脚本:アスガー・ファルハディ
出演:ハビエル・バルデムペネロペ・クルス、リカルド・ダリン、エドゥアルド・フェルナンデス、バルバラ・レニー、インマ・クエスタ、エルビラ・ミンゲス、ラモン・バレア、カルラ・カンプラ、サラ・サラモ
Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにて公開中。全国順次公開予定
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