映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「彼女の人生は間違いじゃない」

「彼女の人生は間違いじゃない」
新宿武蔵野館にて。2017年8月14日(月)午後2時55分より鑑賞(スクリーン3/B-4)。

2011年の東日本大震災から6年以上が経過した。時間の経過とともに危惧されるのは、やはり「風化」だろう。特に都会に住む人々にとって、ともすれば震災は記憶の彼方に消えていきそうな出来事かもしれない(かくいうオレにも確実にその傾向がある)。だが、けっして風化などさせてはいけない。被災地では震災の傷跡は今も大きく残っているのだから。

そんなことを考えさせられた映画が「彼女の人生は間違いじゃない」(2017年 日本)である。監督は廣木隆一。廣木監督といえば、メジャー映画からインディーズ映画、さらにはテレビドラマまで様々な作品を手がけているが、やはりその個性が強く出るのは「ヴァイブレータ」「さよなら歌舞伎町」などのインディーズ系の作品だろう。本作は、故郷・福島を舞台に書き下ろした処女小説の映画化(脚本は加藤正人)。それだけに、なおさら作家性の強い作品に仕上がっている。

当然ながら、このドラマの背景には東日本大震災がある。主人公のみゆき(瀧内公美)は震災の津波で母を亡くし、今は仮設住宅で父の修(光石研)と2人で暮らしている。平日は市役所に勤務するみゆきだが、週末になると「英会話教室に行く」と修に嘘をついて、高速バスに乗って東京に出て、デリヘル嬢として働いている。

というわけで、彼女を主人公にしたドラマではあるものの、それ以外の人物のドラマも重要な位置を占めている。妻を亡くした修は、土壌汚染で農業ができず、酒を飲み補償金をパチンコにつぎ込む毎日だ。みゆきに「仕事を探したら!」となじられても、何もできずにいる。

また、みゆきの同僚の新田(柄本時生)は、母が宗教にはまるなどして家に両親がよりつかず、幼い弟の面倒を見ながら暮らしている。そんな中で、被災地の現状を卒論にしたいという東京の女子大生の取材を受けるが、当時の状況についてのあまりにもストレートな質問に言葉を詰まらせてしまう。

それ以外にも、もがき苦しみながら暮らす福島の人々の様々なエピソードが登場する。みゆきたちの仮設住宅の隣人で、原発で除染作業をする多忙な夫を持つ妻が精神を病むエピソード。被災者にうまく取り入って高額の壺を売りつけようとする男のエピソード。ガンで死期が迫る妻のために墓を用意してやろうとする老人のエピソード等々だ。

そうした人物たちの繊細に揺れ動く心情を、廣木作品ではおなじみの手持ちカメラによる長回しの映像などで、リアルに、そして静かに切り取っていく。彼らを見ているうちに、あの日に被災者がいかに多くのものを失い、すべての日常が一変し、今もその傷がほとんど癒えていないことを再認識し、慄然とさせられるのである。

彼らが抱えた喪失感は、みゆきの行動にも反映している。なぜ彼女がデリヘルで働いているのか、明確な理由は明かされないのだが、それでも大きな喪失感を抱えたまま、自らの心身を傷つけることでしか癒されない彼女の悲しみが、そこかしこからにじみ出てくるのだ。

実際に福島で撮影したらしい被災地のショットの数々も、胸にグサリと突き刺さる。特に修が亡き妻の服を取りに、立ち入り禁止区域に入った際の映像は衝撃的だ。震災前の生活がフリーズしたまま朽ち果てたような街の風景を通して、あらためてあの震災の重さを感じさせられた。

同時に、みゆきが福島と東京を行き来する設定によって、被災地と東京の温度差にも気づかされる。寒々とした被災地の映像と、華やかな東京・渋谷の映像の対比が、心に苦いものを残していく。

とはいえ、この映画のタイトルは「彼女の人生は間違いじゃない」という肯定的なもの。はたして、被災者たちに救いはあるのか。

安直なハッピーエンドなどは訪れない。だが、ほんの少しだけ変化がもたらされる。みゆきは、元カレの山本(篠原篤)との再会や、デリヘルの用心棒の三浦(高良健吾)との触れ合いの中で、様々な感情が沸き上がり、少しずつ変化していく。そこには痛切な思いもあるのだが、それもまた彼女を少しだけ前進させる。

また、新田は被災地を撮影する女性の写真を使って、写真展を催して、市民たちを集める。弟との絆も再確認する。

そして、修もまた明確ではないものの、少しずつ前を向いていきそうな予感を残す。

温かなラストシーンが心に残る。子犬を抱く修、ごく普通に朝ごはんの支度をするみゆき。光に包まれた彼らを見ているうちに、「彼女の人生は間違いじゃない」「いつかは傷が癒えるかもしれない」。そう思わせられるのである。

震災という難しいテーマに真正面から向き合った役者たちの演技も見事だ。修役の光石研はさすがの演技だし、高良健吾柄本時生、篠原篤などの存在感も素晴らしい。その中でも、最も鮮烈だったのは、みゆき役の瀧内公美だろう。これまでに「グレイトフルデッド」「日本で一番悪い奴ら」などに出演していたようだが、今回の繊細な演技で一気に注目されそうである。

正直なところやや詰め込みすぎの感もある映画だが、それだけ作り手の思いが強かったということだろう。震災から6年が過ぎてこういう映画が作られたことには大きな意味があると思うし、これからも作られねばならないのだと、観終わって実感した次第である。

●今日の映画代、1400円。チケットポート新宿店で鑑賞券を購入。

「ブランカとギター弾き」

ブランカとギター弾き」
シネスイッチ銀座にて。2017年8月13日(日)午後2時50分より鑑賞(スクリーン1/D-8)。

先日、フィリピンのスラムを舞台にした映画「ローサは密告された」を取り上げたが、ほぼ同時期に同じフィリピンのスラムを舞台にした映画が公開になっている。「ブランカとギター弾き」(BLANKA)(2015年 イタリア)である。

監督・脚本を手がけた長谷井宏紀は、もともと写真家として活動していたらしい。その日本人がなぜイタリア映画を撮ることになったのか。ヴェネツィアビエンナーレヴェネツィア国際映画祭の全額出資のもとで製作したからだ。どうやらこのプロジェクトは、若手監督の育成を目指したものらしく、それだけ長谷井監督の才能が関係者に高く評価されたということだろう。

物語の舞台はフィリピン・マニラのスラム街。ただし、「ローサは密告された」とはだいぶ雰囲気が違う。あちらは、警察の腐敗を背景にスラムの家族を描いた作品で、スラムの様子がリアルすぎるほどリアルに切り取られていた。

それに対して、本作は貧しかったり弱い立場の人々が登場するものの、暗さはあまり感じられない。街の様子も色鮮やかだし、登場人物もみんな生命力にあふれている。リアルというよりも、寓話的な明るさや温かさが感じられる映画である。

主人公のブランカ(サイデル・ガブテロ)は、マニラの路上で窃盗や物乞いをしながら暮らす孤児の少女だ。ある日、彼女はテレビで、有名な女優が自分と同じ境遇の子供を養子に迎えたニュースを見た中年男が、「あの女優いい女だな。金があれば買うのに」と言ったのを真に受けて、「お母さんをお金で買う」というアイデアを思いつく。

ブランカはその少し前に、路上でギターを弾く盲目の老人ピーター(ピーター・ミラリ)と知り合う。そして、孤児仲間の少年たちから意地悪をされて、ダンボールハウスを壊されて途方に暮れたことから、ブランカはピーターを誘って一緒に旅に出る。

ブランカは旅先で、“3万ペソで母親を買います”というビラを街中に貼り、お金を工面しようとする。一方、ピーターはブランカに歌でお金を稼ぐことを教える。まもなく2人はレストランで演奏する仕事を得てお金を稼ぎ、ブランカの計画は順調に進むように見えたのだが……。

この映画の魅力は、何といってもブランカとピーターの交流に尽きる。ブランカ役のサイデル・ガブテロは、YouTubeで披露した歌声がプロデューサーの目に止まって本作で女優デビューを果たした。撮影時はわずか11歳だったというが、その生き生きとした演技と抜群の存在感が実に魅力的だ。

歌声も見事である。ピーターから教えられて歌う「カリノサ」は、フィリピンの民族音楽で、劇中歌は長谷井監督自らが歌詞をつけたとのことだが、素朴で温かいメロディが彼女の声にマッチしている。

それに対してピーター役のピーター・ミラリは、本物の流しのミュージシャンだという。おおらかで温かな人柄がにじみ出る演技で、ブランカを優しく包んでくれる。ちなみに、彼は映画完成後に病気で亡くなっている。それを考えれば、なおさら感慨深い演技だ。

この2人の化学反応が、スクリーンに独特の空気感を立ち昇らせている。印象深いシーンはいくつもあるが、その中でも個人的に最も印象的なのは以下のシーンだ。

ブランカが「盲目なのに夢を見るの?」と尋ねたのに対して、ピーターが「もちろんさ。触ったものが夢になる」と答えると、ブランカが自分の顔を触らせて、「これで夢に出られるね」と告げる。ブランカの健気さが心にしみて、素直に感動してしまうシーンである。

それ以外にも、なかなか含蓄に富んだセリフが多い。「みんな目が見えなければ戦争なんてないのに」というピーターのつぶやき。「どうして金持ちと貧乏がいるの?」という孤児の素朴な疑問。そうしたセリフがドラマに深みを与えている。

孤児たちやトランスジェンダーの人たちなど、脇役にしっかりした存在感があるのも、この映画の魅力だろう。そのほとんどは現地でスカウトしたらしいが、自然で地に足の着いた演技である。

後半、せっかく順調に歩み始めたブランカたちだが、ある罠に引っかかり、再び苦境に陥る。その後、ブランカは街の孤児と行動をともにするが、それがきっかけで彼女の身に危険が及ぶ。

このあたりのドラマの背景には、貧困や人身売買などのフィリピンの負の側面が描き込まれている。もちろん社会派の映画ではないから、正攻法から取り上げているわけではないが、それでも長谷井監督が、しっかりと地元に根を下ろしてこの映画を撮ったことがうかがえる。

とはいえ、脚本には物足りないところもある。ブランカたちがレストランのオーナーにスカウトされるあたりの展開は性急で都合がよすぎるし、一転して苦境に陥るあたりの展開はステレオタイプで予想がついてしまう。

それでも、そうした欠点を凌駕するのがブランカとピーターの絆である。クライマックスではその絆が再確認され、ラストでもう一度、それを強く印象付ける。その時に映るブランカの表情が絶品だ。この表情の輝きだけで、観客はきっと幸せな気分で映画館を後にできるだろう。それほど素晴らしい表情である。

長谷井監督、そして主演のサイデル・ガブテロの今後の活躍が楽しみだ。

●今日の映画代、1500円。チケットポート銀座店で鑑賞券を購入。

 

cinemaking.hatenablog.com

 

「ウィッチ」

「ウィッチ」
新宿武蔵野館にて。2017年8月9日(水)午後12時5分より鑑賞(スクリーン2/C-5)。

映画「魔女の宅急便」やテレビアニメ「魔女っ子メグちゃん」のように、かわいらしい魔女もいたりするわけだが、だいたいのところ魔女といえば怪しくて怖い印象が強い。そのためホラー映画でも、魔女は格好のネタになる。

映画「ウィッチ」(THE WITCH)(2015年 アメリカ)も、魔女をネタにしたホラー映画である。タイトルの「ウィッチ」とは「魔女」のことだから、まさにそのものズバリというわけだ。

1630年、ニューイングランド。信仰に篤いウィリアム(ラルフ・アイネソン)は、教会と衝突して入植地から追放されてしまう。そこで彼は妻キャサリン(ケイト・ディッキー)と5人の子供たちとともに、森の近くの荒れ地に移り住み、自給自足の生活を送るようになる。

そんなある日、長女のトマシン(アニヤ・テイラー=ジョイ)が赤ん坊のサムを相手に「いないいないばあ」をしていると、サムが忽然と姿を消してしまう。サムは見つからず、ウィリアムは「狼にさらわれたんだ。あきらめろ」と言う。しかし、妻のキャサリンは大いに傷つき、トマシンにつらく当たるようになる。

本作は低予算のインディーズのホラー映画のはずなのだが、とてもそうは見えない。冒頭からラストまで見事な映像が続く。セットも衣装もチープさは全くなし。むしろ格調や荘厳ささえ感じさせる映像である。そして、それらを通じて醸し出される不穏な雰囲気が絶品だ。音も効果的に使われていて、ますます不気味で不穏な空気を煽っている。

魔女ネタの映画だけに、魔女の痕跡は早くから登場する。赤ん坊のサムがさらわれた時に現れる不可思議な映像。あれは間違いなく魔女による行動だろう。ただし、それが現実なのか幻覚なのかは、曖昧なまま進んでいく。このあたりのさじ加減も絶妙だ。

赤ん坊の消失だけでなく、一家には説明のつかない様々な不幸が続く。凶作が続き、獲物もなく生活は困窮し、夫婦は仲違いし始める。

そんな中、決定的な出来事が起きる。長男の失踪だ。姉のトマシンが奉公に出されると知った彼は、何か策があるらしく馬で町に行こうとする。しかし、トマシンは「自分も連れていけ」といい、2人は一緒に森に入り込む。そして、まもなく長男は姿を消す。

長男が姿を消す過程でも、魔女らしき人物が現れて彼を誘惑するのだが、それもまた現実なのか幻覚なのか曖昧な描写になっている。やがて戻ってきた長男は、何かに呪われたようにまったく違う姿になっており、まもなく奇怪な死を遂げる。

ここに至って、ウィリアムと妻は「これは魔女の仕業に違いない」と信じ込むようになる。おりしも、双子の子供たちは「魔女はトマシンだ!」と主張する。実は、トマシンは、言うことを聞かない双子の片割れに「私は魔女だ」と脅かしたことがあるのだ。

それを聞いた両親はトマシンを疑う。一方、トマシンは「双子こそが魔女だ!」と主張する。魔女が変身した黒ヤギと、双子が契約を交わしたというのだ。こうして、どんどん疑心暗鬼が渦巻き、カオスに突入していく一家。その末に待っているのは取り返しのつかない事態だった……。

当然ながらこの映画の本筋はホラー映画であり、ディテールまでこだわり抜いた仕掛けでホラー映画らしい怖さを生み出している。唐突に出現する魔女や、いかにも怪しげなウサギや黒ヤギなどの動物たちが、実に効果的な使われ方をしている。

ただし、単なるホラー映画を越えた魅力があるのが本作の真骨頂だ。それは何かといえば、人間の心理描写である。ウィリアム一家は強い信仰心を持ち、自分たちは罪人であるとして、すべてを神に委ねた生活を送っている。そんな彼らに災いが次々に降りかかることで、混乱ぶりが倍加され、異常な心理状態に陥っていく。信仰に対する思い、家族に対する疑念、得体の知れない恐怖、その果てに直面する絶望など、一家の人々による異常な心理劇が濃密に展開されているのである。

おかげで、チープなホラー映画のようなウソ臭さを感じることもなく、素直にその怪し気な世界に入り込んでしまうのだった。

考えてみれば、中世の魔女裁判を見ればわかるように、魔女を生み出したのは人間の心理そのものなわけで、それを再現したドラマといえるかもしれない。本当に怖いのは魔女よりも、きっと人間の異常な心理なのだ。

ラストシーンも意味深だ。トマシンは本当に魔女になったのか。それとも、あれもまたただの幻覚なのか。はたして皆さんはどう考えるだろうか。

そんなトマシン役を演じたアニヤ・テイラー=ジョイは、この映画で一気に注目されて、M・ナイト・シャマランの「スプリット」でヒロインを務めた。父親役のラルフ・アイネソンはじめ、その他の役者の演技もいずれも出色だ。アメリカのインディーズ映画を観ると、本当に役者の層の厚さを見せつけられる。

そして、この映画で第31回サンダンス映画祭の監督賞に輝いたロバート・エガース監督は、ホラー映画の古典的名作「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922)のリメイク版監督に抜てきされたとか。そりゃあ、誰でも目をつけるでしょう。インディーズでこれだけの映画を撮ってしまうのだから。

とにもかくにも、ホラー映画好きならずとも一見の価値がある魅惑的な作品である。

●今日の映画代、1000円。新宿武蔵野館の毎週水曜のサービスデー料金で鑑賞。

「君はひとりじゃない」

「君はひとりじゃない」
シネマート新宿にて。2017年8月8日(火)午後2時より鑑賞(スクリーン2/C-5)。

年間100本前後も映画を観ていると、予告編を観ただけで、だいたいどんなタイプの映画か想像がつくようになる。ここで取り上げる映画の予告編を観た時も、「傷ついた父と娘の再生」というよくあるパターンの物語だと思った。いや、確かに概要はそうなのだが、実は相当に変わった映画だったのである。

その映画とは、「君はひとりじゃない」(CIALO/BODY)(2015年 ポーランド)。ポーランドの女性監督マウゴシュカ・シュモフスカの作品で、2015年の第65回ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)を受賞した。ポーランドアカデミー賞であるイーグル賞でも、作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞を受賞している。

病気で母を亡くした娘と検察官の父の再生を描いたドラマ。といっても、そう単純ではない。冒頭からいきなり信じられないシーンが登場する。検察官の父ヤヌシュ(ヤヌシュ・ガヨス)が首つり自殺の現場に到着し、捜査活動を行う。ところが何と自殺した遺体が、いきなり起き上がって普通に歩いていくではないか。

その後も、この映画では、ところどころに死者が普通に現れる。まさに「超自然的」なカラーに彩られた映画なのだ。

ヤヌシュは妻の死をきっかけに、どんなに凄惨な死体と対面しても何も感じなくなっている。産み落としたばかりの赤ん坊を殺害した女性の事件など、様々な事件が登場するのだが、部下がショックを受けてもヤヌシュは平然としている。

そんな父に対して、娘のオルガ(ユスティナ・スワラ)も母の死をきっかけに摂食障害を患うようになり、やせ細っていく。ヤヌシュはそんな娘を前にどう接していいかわからず、両者の関係はギクシャクしている。

ある日、トイレで倒れているオルガを発見したヤヌシュは、ついに彼女を精神病院へ入院させる。すると、そこには、セラピストのアンナ(マヤ・オスタシェフスカ)という女性がいた。彼女は患者たちに対して、思いっきり叫ばせたり、感情をぶつけさせるなどユニークな方法でセラピーを行っている。

いやいや、それだけではない。実はアンナは霊と交信して、死者の言葉を手紙に書いて遺族に渡すという「霊媒師」的な活動も行っていたのだ。彼女がそんな能力を身につけたきっかけは、幼い息子の突然の病死だったという。ヤヌシュとオルガの父娘同様に、彼女もまた喪失感を抱えているわけだ。そして、その死んだはずの息子も幽霊として登場するのである。

まさに奇想天外で、予測不能なシーンが続出する。そのおかげで、「何じゃ、こりゃ?」と思いながらも、スクリーンから目が離せなかった。おまけに、この映画、そこはかとない笑いの要素もある。ユニークすぎる人々が登場し、突拍子もないシーンが相次ぐせいで、大爆笑ではなくクスクス笑えるネタがあちこちに転がっているのである。

父と娘の絆の再生といえば、少しずつ両者の心が打ち解けて、ほつれた糸が徐々にほぐれていくというのが一般的な展開だが、この映画ではそうはならない。2人の関係は終盤まで平行線のままである。

その代わり、ラストではすべてが一気に変化する。その転機となるのはヤヌシュとオルガが暮らす家で起きる数々の異変だ。誰も蛇口をひねっていないはずの水道の水が流れたり、亡き母が生前好きだったらしい音楽が突然流れたり。

それを聞いたセラピストのアンナは、「それは母の幽霊が現れているのだ」と告げ、幽霊との交信を持ちかける。しかし、ヤヌシュは信じない。ところが、終盤近くになってある驚愕の手紙が見つかったことから、ヤヌシュもその申し出を受けることになる。

こうしてヤヌシュとオルガ、そしてアンナの3人はテーブルを囲んで、亡き母の霊と交信しようとするのだが……。

その結果がどうなったのかは伏せるが、これまた何ともユニークで人を食った展開で思わずニンマリしてしまった。そして、その直後に映し出されるヤヌシュとオルガの表情が素晴らしい! セリフはまったくないのに、2人の心情がキッチリと込められていて、父娘の今後の関係を暗示してくれる。こんなに能弁な沈黙の表情はめったにないだろう。

けっしてオカルトチックな映画ではない。幽霊などが登場するが人間を怖がらせるわけではない。死者と生者の境界線は希薄だ。それは、つまり、こういうことではないだろうか。すでに死んだ者もこの世に影響を与え続け、生者と関わり続けている……。ヤヌシュとオルガの父娘の関係を変化させるのも、亡き母の存在である。シュモフスカ監督は、そのことを伝えたかったのかもしれない。

そういえば、この映画では上からのショットがあちこちに挿入されている。それは死者が生者を見守っている視線なのだろうか。

ありきたりではない父娘の再生物語。わかりやすい映画ではないが、その分、いろいろと想像力をかき立てられる。観る人によって解釈が異なる部分も多そうだ。そういう意味でも、ユニークで観応えある映画だと思う。

●今日の映画代、1000円。TCGメンバーズカードの会員に料金で鑑賞。

「きっと、いい日が待っている」

「きっと、いい日が待っている」
YEBISU GARDEN CINEMAにて。2017年8月6日(日)午後12時55分より鑑賞(スクリーン1/H-7)。

デンマークというと福祉国家のようなイメージがあるが、実際はどうなのだろうか。たとえ手厚い福祉制度があっても、血が通った運営が行われなければ、きちんと機能しないのではないだろうか。少なくとも1960年代の養護施設には、それを証明するような恐ろしい事例があったようだ。

「きっと、いい日が待っている」(DER KOMMER EN DAG)(2016年 デンマーク)は、1960年代にデンマーク児童養護施設で起きた実話を基にしたドラマである。そこでは、何ともおぞましい事実が描かれている。

アメリカのケネディ大統領による、月面に人間を送るアポロ計画に関する演説から映画はスタートする。実はこれが、この映画のストーリーに厚みを与える役割を果たしている。

そんな月面への到達に憧れ、将来は宇宙飛行士になりたいと願っているのが10歳の少年エルマー(ハーラル・カイサー・ヘアマン)だ。彼と13歳の兄のエリック(アルバト・ルズベク・リンハート)は母親と3人で暮らしている。父は自殺して母は病弱にもかかわらず、必死で働いているが生活は楽にならない。

ある日、その母がガンと診断されて入院してしまう。叔父が兄弟を引き取ろうとするが、彼は定職に就いていないことから役人に拒否され、兄弟は養護施設に送られることになる。

しかし、この施設がとんでもない施設だったのだ。強権的なヘック校長(ラース・ミケルセン)のもとで、軍隊的な規律に従った生活を強いられるだけでなく、しつけという名目で体罰が横行していたのである。上級生によるイジメもある。兄弟はそれに否応なく巻き込まれ、過酷な生活を送るようになる。

というわけで、「これでもか!」というような体罰シーンが続く映画だ。それだけではない。施設には少年愛の嗜好を持つ教師もいて、少年たちを餌食にしている。エルマーも彼から性的虐待を受けてしまう。

イェスパ・W・ネルスン監督は、目をそむけたくなるような描写をできるだけ避けているのだが、それでも嫌悪感を覚えずにはいられない。特にヘック校長の恐ろしさには背筋が凍り付く。まるでサイコパスのような冷徹な目で子供を見下し、いったん怒りが爆発すれば留まるところを知らない。

ちなみに、ヘック校長を演じるラース・ミケルセンは、ハリウッド映画などでも活躍するあのマッツ・ミケルセンのお兄さんだそうだ。弟もかなりのくせ者ぶりを発揮しているが、こちらも負けず劣らずアクの強い演技である。

そんな嫌な場面が続いても、スクリーンから目が離せないのは、一生懸命に生き延びようとする兄弟の健気さが伝わってくるからだ。兄のエリックは「ここでは幽霊になるしかない」と覚悟し、脚の悪い弟をかばいながら何とか前を向こうとする。

また、施設には新任の女性教師のハマーショイ先生がいて、弟のエルマーに読み書きの才能があると知ったことから郵便係を任せるなど、兄弟に優しく接してくれる。ただし、そんなハマーショイ先生も、校長や他の教師の体罰を止められず、やがて施設を去っていく。

中盤では性的虐待を繰り返す教師に対して、エリックが機械に細工して大けがを負わせるような胸のすく場面もあるのだが、基本はつらい場面が続く。多少希望の光が見えることもあるが、そのたびにことごとく潰されて、事態はますます悪化してしまう。

それでも兄弟は「クリスマスになれば母のもとに帰れる」と、じっと耐え続けるのだが……。

後半も様々な波乱が起きる。しかし、どんなに過酷な出来事が続いても、絶望して席を立ってはいけない。その先に待っているのはスリリングでありながら、同時にファンタスティックな破格のクライマックスだ。

ある出来事から苦境に陥った兄を救おうと奮闘するエルマー。そこでは、かつて施設で親切にしてくれたハマーショイ先生も大きな役割を果たす。そして、紆余曲折の果てにエルマーは、決然と行動する。そうである。ついに、彼は自らが憧れる宇宙飛行士になり、月面へと旅立ったのだ。

子供の純真な想像力が過酷な現実をぶっ壊すことを印象付けたこのシーンは、まさに名シーンといってもいいだろう。このシーンだけでも観る価値のある映画だ。そして、その結末を知った時に、観客はハマーショイ先生とともに感動の涙を流すに違いない。

ラストには兄弟の思いが、他の子供たちにも届いたことを告げるとともに、それでもこの出来事がいかに罪深く、深刻なものであったことかを付記して映画は終わる。

この映画は、デンマークアカデミー賞で作品賞をはじめ6部門に輝いたそうだが、なるほど、それに恥じない見事な映画である。嫌悪感を覚える描写も多いが、目を背けずに見つめていれば、子供たちのまっすぐな思いが胸に届き、そして最後にはカタルシスが味わえる。文句なしの秀作だと思う。

●今日の映画代、1500円。ユナイテド・シネマの会員料金で鑑賞。

「夜明けの祈り」

「夜明けの祈り」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年8月5日(日)午後12時55分より鑑賞(スクリーン1/D-11)。

昨年秋まで放送されていたBS-TBSの番組で、全国の医師を取材して台本を書いていたのだが、その時に思ったのは本当に医者というのは大変な仕事だということである。まあ、取材したのが基本的に、地域医療に奮闘する立派なお医者さんだからということもあるのだが、それにしてもオレのようないい加減な人間には務まらないだろう。

映画「夜明けの祈り」(LES INNOCENTES)(2016年 フランス・ポーランド)は、第二次世界大戦直後のポーランドで、悲劇に見舞われた修道女たちを救ったフランス人女医を描いた実話を基にしたドラマである。彼女もまた、大変な困難に立ち向かいながら、目の前の患者を救おうと奮闘する。

映画は1945年12月のポーランド修道院の場面からスタートする。祈りを捧げ聖歌を歌う修道女たち。しかし、その時、何やら悲鳴のようなものが聞こえてくる。いったい何が起きているのか。

まもなく、その中の一人の修道女が修道院を抜け出して、フランス赤十字の施設を訪れる。そこにいたのは女医のマチルド(ルー・ドゥ・ラージュ)。修道女は彼女に「大変なことが起きているので来て欲しい」と助けを求める。だが、マチルドは「ここはフランス人を診るところなので、ポーランド赤十字を訪ねなさい」と断る。

その後、マチルドは手術の助手を務め、それが終わると何気なく窓の外を見る。すると、あの修道女が雪の中で一心に祈っているではないか。放っておけなくなったマチルドは、彼女に連れられて遠く離れた修道院に向かう。

マチルドが修道院に着くと、そこにいたのは大きいお腹を抱えて苦しむ女性だ。マチルドは帝王切開で出産させる。生まれた赤ん坊は、修道院の院長がすぐに連れ去ってしまう。

実は、この修道院には戦争末期にソ連兵が侵入し、修道女たちを暴行したのだ。それによって7人の修道女が妊娠していた。彼女たちを見捨てることができないマチルドは、職場や恋人の同僚医師にも内緒で修道院に通い、彼女たちを診察し続ける。

素材的にはマチルドの偉人伝になりそうだが、「ココ・アヴァン・シャネル」で知られる女性監督のアンヌ・フォンテーヌは、そんな単純な描き方はしない。マチルドの職務への情熱や若さゆえの熱い思いとともに、戸惑いや苦悩もきちんと描き出す。恋人の同僚医師との関係なども、そこに絡ませていく。

そして、何よりもじっくりと描かれるのが修道女たちの心理である。彼女たちにとって純潔は神に捧げるものだが、それがねじ曲げられてしまったわけだ。そんな残酷な現実と信仰の狭間で悩み苦しむ修道女たちの姿を通して、信仰という難しい問題にも切り込んでいる。

自らもソ連兵に襲われそうになるなど、危険な目に遭いつつも修道院通いをやめないマチルドの献身的な活動は、修道女たちの心を少しずつ溶かしていく。そこから信仰の奥に隠された修道女たちの本音も見えてくる。

修道女たちをステレオタイプに描かずに、一人ひとりの個性を際立たせているのもこの映画の特徴だ。先ほど「彼女たちはソ連兵に暴行された」と書いたが、ある修道女は「彼は私を守ってくれた婚約者だ」と信頼を口にする。また、修道院に来る前には恋人がいたという修道女なども登場する。

一方、修道院の院長は、一連の事実が露見して修道院が閉鎖されては困ると、事実をひた隠しにする。信仰の名のもとに自らを正当化し、頑迷で恐ろしい道に足を踏み入れる。

そうした様々な人物模様を紡ぎつつ、ドラマは終盤を迎える。そこで明らかになるのは衝撃的な出来事だ。次々に出産する修道女たち。それを全力で手助けするマチルド。マチルドの恋人の医師もそれをサポートする。

ところが、そこである隠されたが事実が発覚し、それに起因して大きな悲劇が起きる。それを経て、マチルドとある修道女は大きな賭けに出る。このあたりはネタバレになるので詳しい内容は伏せるが、修道院に新たな未来と希望をもたらす展開だ。

そして、この終盤の一件を通して、フォンテーヌ監督の意図が明確になる。人を不幸にするような頑なな信仰や体面などよりも、もっと大切なものがあるはずだ。そう、人の命こそが最も重い存在であり、それに代わるものはない。それこそが監督たち作り手の伝えたかったことではないだろうか。そういう意味で、ある種の生命賛歌と呼べる映画かもしれない。

この映画の映像の素晴らしさも必見だ。こちらも女性の撮影監督カロリーヌ・シャンプティエによる映像は、まるで絵画のような美しさである。特に修道院のシーンにおける光の使い方が印象的だ。頑なな信仰心が現れるようなシーンを暗めに描きつつ、生命誕生の瞬間やラストの新生を果たした修道院のシーンなどは、光に満ちた明るい映像を映し出す。その巧みな変化が見事だ。

主演のルー・ドゥ・ラージュの力強い演技も見ものである。まだ20代の若手女優だが、なかなか繊細な演技力の持ち主で、今後が楽しみな存在だ。

戦争の悲劇を描いているだけに、悲しみや苦しさにも満ちた映画だが、ぜひ敬遠することなく観てほしい。信仰や戦争をはじめ様々なテーマに迫りつつ、最後には必ず明るい光が差し込むのだから。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカードの会員料金で鑑賞。

「ローサは密告された」

「ローサは密告された」
シアター・イメージフォーラムにて。2017年8月3日(木)午前11時より鑑賞(自由席/整理番号2番)。

「麻薬に関わるものは皆殺し!」などいう過激な言動のドゥテルテ大統領が登場して、国民から高い支持を得ているフィリピン。どうしてそうなるのか?

その背景が見えてくるのが、映画「ローサは密告された」(MA' ROSA)(2016年 フィリピン)である。フィリピンのインディペンデント映画界を代表する俊英ブリランテ・メンドーサ監督による第69回カンヌ国際映画祭のコンペ部門出品作だ。

最初に登場する女性が、この映画の主人公のローサ(ジャクリン・ホセ)である。ちょっと太めの肝っ玉母さん風の彼女は、息子とともにスーパーで買い物をしている。そして、大量の買い物袋を抱えてタクシーに乗り込む。向かった先は自宅のあるスラム街。だが、運転手は「道が狭い」と途中で降りるように言う。

折からの雷雨に濡れながら、自宅に戻るローサと息子。そこは店というにはあまりにも小さい雑貨店だ。現地では「サリサリストア」というらしい。夫と4人の子供を抱えるローサは、ここでスーパーで購入した商品を小分けして販売しているのだ。

しかし、大した稼ぎにはならない。そこで、ローサは生活のために売人から仕入れた麻薬の小商いもしている。といっても、ローサは極悪人ではない。そういうことをしている人間は、スラムにはウジャウジャいる。それだけ貧困層の生活は苦しいのだ。そして、それだけフィリピンでは麻薬が蔓延しているということでもある(ちなみに、電気工だというローサの夫も麻薬に手を出している)。

そんな中、一家が食事をしていると、突然警察がやってきてガサ入れを始め、麻薬を見つける。こうして、ローサと夫は逮捕されてしまう。

それにしても何というスリリングさとリアルさだろう。メンドーサ監督は、この映画を全編手持ちカメラのドキュメンタリー・タッチの映像で描いていく。今ではそれほど珍しくない手法だが、それでもスラムが舞台だというのが効いている。ごみごみした街の様子、湿度の高そうな空気、そしてそこに暮らす人々のたくましさと弱さ。そういうものがリアルに伝わってきて、まるで自分もスラムに足を踏み入れたような感覚に襲われてしまうのである。

中盤以降の舞台は警察署に移る。連行されたローサと夫に対して取り調べが行われるかと思いきや、そうはならない。警官たちは、「釈放してやるから20万出せ!」と賄賂を要求してくるのだ。

「そんな大金はない」とローサが断ると、今度は「それなら売人を教えろ!」と要求する。仕方なくローラは、売人のジョマールに連絡して彼をおびき出す。警官たちはジョマールを捕まえる。捕まったジョマールのバッグからは、大量の麻薬と金が出てくる。警官たちは押収した金を山分けする。そして、ジョマールにも「釈放してやるから金を出せ!」と要求するのだ。

あきれるほどの警察の腐敗ぶりである。汚職警官の話は映画にはよく登場するが、これはそんな生易しいものではない。彼らの悪事は組織的で、どうやら署長など上層部も公認のようだ。ローサたちを逮捕したのも、ローサに「売人を教えろ」と言ったのも、麻薬を撲滅するためではなく私腹を肥やすためなのだ。フィリピンの警官たちの給料は安く、それがこうした悪事の温床になっているらしい。

ローサたちが捕まった背景には、彼女に近い人物が、自分の家族を助けるために密告したという事実がある。そして、ローサもまた家族を守るために麻薬の売人を密告する。この貧困層の負の連鎖が何ともやるせない。

後半になっても、スリリングさとリアルさは失速しない。相変わらず手持ちカメラの映像で、警官たちの悪行の数々をドキュメンタリー・タッチでスクリーンに刻みつける。喜々として押収した金を山分けし、酒を買い込んで宴会を始め、さらにジョマールがある画策をしたことから彼を半殺しにしてしまう。警官役の俳優たちの演技も自然で、なおさら憎々しさと怖さが増幅する。

結局のところ、ローサたちは5万という金を支払わねばならなくなる。両親を心配して警察にやってきた3人の子供に、ローサは金策を指示する。だが、それは思うようにいかない。

そこからの展開が秀逸である。子供たちは、今度は自らの意志で、自らの方法で、家族の絆を取り戻すために金を用意しようとするのだ。そこにはローサが嫌う相手からの借金や、ヤバい行為などもある。だが、それらを通して、子供たちの成長がきっちりと物語られる。

また、彼らに対する周囲の人々の反応から、この絶望的な社会の中でも、人の善意や思いやりが健在であることも明らかになる。このあたりのさじ加減が実に巧みである。

そして、そんな子供たちの行動を受けて、今度はローサが奮闘する。それもまた、自分と夫の釈放だけでなく、家族の絆を取り戻すための行動だろう。

抜群の存在感を見せたローサ役のジャクリン・ホセは、この映画でカンヌ国際映画祭の女優賞を獲得した。

ラストでの彼女の演技も素晴らしい。串焼きのようなものを食べつつ、無言で一点を見つめるローサの視線が様々なことを物語っている。どん詰まりの滅茶苦茶な社会の中で、ローラたちの家族の絆が、微かな希望の光として浮かび上がってくるのである。

これだけ麻薬が蔓延し、それに絡んで警官が平気で悪いことをするのだから、ドゥテルテ大統領の出現も何となく理解できる気がする。そんな現実社会を冷徹に描きつつ、それでも前を向こうと奮闘する家族を描き切った秀作である。

●今日の映画代、1500円。渋谷のチケットポートで鑑賞券を購入。