映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「50年後のボクたちは」

「50年後のボクたちは」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年9月22日(金)午後2時50分より鑑賞(スクリーン1/D-12)。

日常に息苦しさを感じているのなら、とりあえず一度その場所から飛び出してみればいい。そんなことを思わせてくれる映画が、「50年後のボクたちは」(TSCHICK)(2016年 ドイツ)だ。

ドイツの青春ロードムービーである。原作はドイツでベストセラーになったヴォルフガング・ヘルンドルフの児童文学(日本でも『14歳、ぼくらの疾走』というタイトルで出版されているようだ)。それを「ソウル・キッチン」のファティ・アキン監督が映画化した。

主人公の男の子14歳のマイク(トリスタン・ゲーベル)は、不器用で臆病で、同級生から変人扱いされている。おまけに母はアル中。父親は不動産関係の仕事をしていて一見金持ち風だが、実はそうでもないようだ。まあ、何にしてもマイクは、学校でも家庭でも居心地が悪い生活を送っていたのだ。

そんなある日、クラスにロシアからチック(アナンド・バトビレグ)という転校生がやってくる。チックは刈り上げた髪型からして、不良を絵にかいたような少年(ロシア・マフィアの息子だという噂もあり)。長髪で線の細いマイクとは好対照だ。このコントラストがとても効いている。マイクにとってチックは苦手なタイプで、なるべく関わらないようにする。

まもなくマイクにとって衝撃の出来事が起きる。彼はクラスの美少女タチアナが好きで、誕生パーティーでプレゼントしようと彼女の肖像画を描いていた。ところが、クラスの中で彼とチックにだけは招待状が来なかった。それだけ彼らは浮いた存在だったわけだ。

夏休みになって、マイクの母はアル中の治療のため保養施設に行くことになる。一方、若い女と浮気中の父親は、出張と称してその女とどこかへ出かけてしまう(2人が出ていく時にマイクが銃で撃ち殺す妄想が面白い)。

こうして、ひとりぼっちになったマイク。そこにズカズカとやってきたのがチックだ。チックはマイクをドライブに誘う。2人は、無断借用したオンボロ車に乗り、チックの祖父が住むという“ワラキア”という場所を目指して旅に出る。

このヤンチャで冒険に満ちた旅での出来事の数々を、ファティ・アキン監督が瑞々しく描き出す。畑の中を車で走り回ったり、風力発電の風車の下で野宿したり、謎の母と子供たち(2人よりはるかに賢い)に食事をごちそうになったり。なにせ盗難車&無免許での旅だけに、警察に追われて逃げ惑う場面もある。

そうした数々の波乱を通して、マイクは少しずつ積極的になり、成長していくのである。

そんな中で、マイクにとって最も大きかったのが、ゴミの山での少女イザ(メルセデスミュラー)との出会いだろう。汚い服を着て、ボサボサの髪をして、2人に悪態をつきまくるイザ。「プラハの姉のところに行きたい」というのだが、どう見てもワケありだ。しかし、そのワケについて詳しく描かれることはない。

その代わり、3人で湖に入ってはしゃぐシーンと、その後のマイクとイザとの親密なシーンを通して、性的な目覚めも含めて、マイクの成長を描き出す。

その後には、チックのある秘密もさりげなく明かされる。こちらも、それを深く追求することはない。この絶妙なさりげなさも、このドラマにふさわしいタッチだと思う。

全編にユーモアが散りばめられているのも、この映画の特徴だ。特に個人的に気に入ったのが、車の中でいつもかかっているリチャード・クレイダーマンの音楽。いかにもマイクが好きそうな曲なのだが、これが実に緩い感じで、いい味を出している。

まさにマイクにとって、絶対に忘れられない一生の宝物になった旅だが、やがて終わりが訪れる。冒頭でもチラリと出てくるのだが、大変な出来事が起きてマイクは家に戻る。

ラストは、タチアナへの態度の変化を通してマイクの成長を強く印象づけるとともに、タイトルにある「50年後」がキーワードになったある「約束」を示して余韻を残す。マイクは、そしてチックとイザは、50年後にどんな人間になっているのだろうか。

原作が児童文学ということで、主人公たちと同年代の子供たちにアピールするのは間違いないだろう。だが、同時にかつて少年少女だった大人たちの心にも響きそうな映画だ。観ているうちに、かつての自分を思い起こす観客も多いのではないだろうか。オレも何やらノスタルジックで温かな心持ちになったのである。

●今日の映画代、1000円。TCGメンバーズカードの会員料金。

◆「50年後のボクたちは」(TSCHICK)
(2016年 ドイツ)(上映時間1時間33分)
監督:ファティ・アキン
出演:トリスタン・ゲーベル、アナンド・バトビレグ、メルセデスミュラー、ウーヴェ・ボーム、アニャ・シュナイダー、ウド・ザメル、アレクサンダー・シェーア、マルク・ホーゼマン、フリーデリッケ・ケンプター
*ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテほかにて公開。全国順次公開
ホームページ http://www.bitters.co.jp/50nengo/

「ダンケルク」

ダンケルク
TOHOシネマズ日本橋にて。2017年9月20日(水)午後7時15分より鑑賞(スクリーン8/I-15)。

クリストファー・ノーラン監督の「メメント」(2000年)を観た時にはぶっ飛んだ。記憶が短時間しか持たない男を描いていて、それゆえ時間軸を解体して再構成して見せるという離れ業を仕掛けていたのだ。

このインディーズ作品が出世作となり、ノーラン監督は「バットマン」シリーズや「インセプション」「インターステラー」などのハリウッド大作を撮るようになったわけだ。それでも、そうした作品の多くにノーラン監督の個性が色濃く反映しているのが面白い。

話題の新作「ダンケルク」(DUNKIRK)(2017年 アメリカ)にも、ノーラン監督らしさはしっかり盛り込まれている。

ダンケルクとはフランス北端の地名。第二次世界大戦で、どんどん侵攻するドイツ軍によって、英仏連合軍の兵士40万人がダンケルクに追い詰められてしまう。そこでイギリス首相のチャーチルは、彼らを救出する決死のダイナモ作戦を発動する。その結果、兵士の犠牲を最小限に抑えることに成功し、その後の戦局に大きな影響を与えた。その史実をクリストファー・ノーラン監督が映画化したのである。

映画は街の中から始まる。若き英国兵トミー(フィオン・ホワイトヘッド)が街中を必死で逃げ回る。しかし、突然の銃撃で仲間はバタバタと死んでいく。ようやく海岸にたどり着いたトミー。そこには多数の兵士たちが救助の船を待っていた。

ここからトミー目線でのドラマが続くのが普通の映画。しかし、ノーラン監督はそんな普通のことはしない。トミーたち浜辺の兵士のドラマ、空中戦に飛び立ったイギリス空軍のパイロットのドラマ、そして軍に徴用されてダンケルクに向かうイギリスの民間船(それもほとんどが小さな船)のドラマという3つの要素を並行して描くのである。

それも3つの要素は時間軸が違う。浜辺の出来事は1週間、民間船は1日、空軍パイロットは1時間。それを巧みに絡ませて描くのは並大抵のことではない。さすがに「メメント」で、時間軸を再構成して見せたノーラン監督らしい構成だ。

それが破格のスリルを生み出している。最初から最後まで緊張感がまったく途切れない。3つの要素とも「ヤバイ!」場面の連続でハラハラドキドキが続くのだ。

浜辺の兵士たちは船に乗り込んで逃げようとするものの、敵の銃撃によって船が沈む。そのうちトミーたちは、座礁した船に乗り込んで満潮とともに脱出しようとするのだが、その船が敵の銃撃訓練の標的になり穴だらけになってしまう。

一方、空軍パイロットの戦いでは敵機を見事に撃墜するものの、自分も銃撃されて不時着を余儀なくされる。しかも、脱出できずに機内に閉じ込められてしまう。

また、民間船では途中で行き場をなくしていた一人の兵士を救うのだが、敵の攻撃でトラウマを負っていた彼が大暴れしたために、大変なことになってしまう。

そんな3つの視点の様々なドラマを、絶妙に組み合わせて見せるのだから、これが面白くないわけがないのである。

これだけの大規模なスケールのアクションなのに、極力CGを使わずにIMAXフィルムカメラなどを駆使して実写で撮っているというのも驚きだ。リアルな映像になるのも当然だろう。兵士たちが乗り込んだ船が魚雷に砲撃されて沈没するシーンも、ほぼ実写で撮ったとか。ドイツ軍戦闘機との空中戦も、実際にコックピットにカメラを取り付けて撮影しているのだから、ある意味常軌を逸している。

おなじみのハンス・ジマーによる音楽(というかサウンドといったほうがいいかも)も、破格の緊迫感を煽る。そんなわけで、観客はまるで自分も戦場にいるような臨場感に叩き込まれてしまうのである。

戦場を舞台にしているだけに、戦争の様々な側面も見えてくる。仲間のはずのフランス軍兵士をイギリスの兵士たちが差別したり、それどころかイギリス軍内部で仲違いしたりと、「戦争の修羅場ではこんなことまで起きてしまうのだ」的な側面がところどころで描かれる。

とはいえ、戦争の本質に迫っているわけではない。ノーラン監督自身にも、そういう意図はないようだ。瀬戸際に追いやられた人間の姿をスリリングに描くことに専心しているのだろう。

それでも、ラストはちょっと意味深に思える。イギリスにとって撤退戦とはいえ、奇跡の快挙に違いないわけで、この映画にはあちらこちらに「イギリス万歳」的な雰囲気が漂っている。ラストでもそれが見えるのだが、新聞記事を読む形で語られるのが印象的。もしかしたら、愛国的な色合いは、けっして作り手が主体的に生み出しているのではないことを示そうとしたのかもしれない。というのは深読みのしすぎか?

これといった人間ドラマはないから、役者が目立ちにくい映画ではあるものの、それでも名優ケネス・ブラナーをはじめ、キリアン・マーフィ、マーク・ライランス、トム・ハーディあたりが、さすがの存在感を発揮している。新人のフィオン・ホワイトヘッドもなかなかの演技だ。

細かなことを抜きにしても、破格の臨場感とスリルは体感してみる価値が十二分にある映画だと思う。観るならやはり大スクリーンの劇場がおすすめだ。

●今日の映画代、1400円。事前にムビチケ購入済。

◆「ダンケルク」(DUNKIRK
(2017年 アメリカ)(上映時間1時間46分)
監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン
出演:フィオン・ホワイトヘッドトム・グリン=カーニー、ジャック・ロウデン、ハリー・スタイルズアナイリン・バーナードジェームズ・ダーシーバリー・コーガンケネス・ブラナーキリアン・マーフィ、マーク・ライランス、トム・ハーディ、マイケル・フォックス、ジョン・ノーラン
丸の内ピカデリーほかにて全国公開
ホームページ http://wwws.warnerbros.co.jp/dunkirk/

「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール」

奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年9月19日(火)午後12時15分より鑑賞(スクリーン5/自由席)。

長いタイトルの映画はけっこうあるが、その中でもこれは相当に長いほうだろう。しかも、「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール」って、なんだ? このふざけたタイトルは? 責任者出てこい!!

と思ったら、渋谷直角という人のマンガ、それもサブカル色の濃いマンガが原作だとのこと。そちら方面には全く疎いのであしからず。

そんなユニークなタイトルのマンガを映画化したのは「モテキ」「バクマン。」などでおなじみの大根仁監督である。

タイトルにあるように、主人公は奥田民生に憧れて、彼のような“力まないカッコいい大人”を目指す33歳の雑誌編集者コーロキ(妻夫木聡)。おしゃれライフスタイル雑誌の編集部に異動となった彼は、仕事でファッションプレスの美女、天海あかり(水原希子)に出会う。そのあまりの可愛さに衝撃を受けたコーロキは、たちまち恋をする。そして思い切って交際を申し込む。

意外や意外、すぐにつきあうようになったコーロキとあかり。だが、あかりは、これまたタイトルにあるように、出会った男をことごとく狂わせてしまう魔性の女なのだった。あかりに見合う男になるべく、一生懸命に仕事をして、デートにも必死になるコーロキ。しかし、あかりの自由奔放な言動に振り回され、どんどん空回りして、身も心もボロボロになっていく……。

要するにコーロキの恋物語と、彼の編集者としての成長をリンクさせた物語である。とはいえ、恋物語にしては胸キュンだったり、切なかったり、キラキラ感だったりがあまり感じられない。正直ドラマ的には物足りなさを感じてしまったのだ。

だが、この映画にはそれを上回って余りある魅力がある。それは、何といっても、あかりを演じた水原希子の魅力である。大根監督といえば「モテキ」で、長澤まさみをこの世のものとは思えないほど魅力的に描いて(特に美脚がスゴかった)、女優として大成長させたわけだが、今回のターゲットの水原希子についてもぬかりがない。

初めて登場した時の破格のキュートさ、男たちとの親密なシーンでのエロチックさ、小悪魔というには限度を超えた自由奔放さ。いずれもが観客の(特に男性諸氏の)心をわしづかみにすること請け合いなのだ。そりゃあ、コーロキじゃなくても、メロメロになってボロボロになっちゃいますぜ。まったく。

そしてもうひとつの魅力が、強烈なキャラたちのはじけた言動だ。特に、リリー・フランキー演じるフリーライターの傍若無人な態度が爆笑モノ。まさに鼻つまみ者を地でいく演技である。それ以外にも、新井浩文演じるDV男、安藤サクラ演じる度を越した猫好きのコラムニスト、ワンシーンだけ登場する天海祐希の社長など、奇人変人大集合の趣なのだ。

サブカルネタやSNSツールを中心に、様々なネタをディテールにぶち込んで観客を楽しませるのも、いかにも大根監督らしいところ。テンポの良い演出、ポップで、けれん味たっぷりの映像も相変わらずである。

さて、奇人変人たちがひしめく中で、わずかにまともな人物として描かれているのが松尾スズキ演じる編集長だ。時には温かく、時には厳しくコーロキを一人前の編集者へと導く。コーロキも彼を大いに信頼する。

ところが、である。実はそんな編集長にも、大変な秘密があったのだ。それが明らかになる終盤は、予想もしない恐怖の四角関係へと突入する。何じゃ? こりゃ。まあ、一応、ラストではコーロキの編集者としての成長を示して終わるのだが、どうしてもドタバタな印象がぬぐえない。

とはいえ、そんなものを吹っ飛ばすのが、やっぱり水原希子なのである。最初のうちは、「ああ、確かにあんな性格のコいるかも」と思って観ていたのだが、次第にリアルでない部分が増幅するようになる。いったい何なのだ? この女。

最後まで観てようやく納得がいった。彼女はリアルな存在の美女というよりは、この世のものとは微妙に違う、それこそ天使や悪魔のように異界からやってきた存在だったのではないか。だからこそ、なおさら魅力的で妖しくて、男たちをメロメロにしてしまうのではないだろうか。

ラストシーンを観て、そんなことをつくづく考えてしまったのである。あの何ともいえない笑みは、絶対にこの世のものじゃないよなぁ~。

というわけで、この映画は水原希子のための映画といっても過言ではないだろう。彼女を観ただけで、モトを取った気分になったのである。

おっと、水原希子にばかり気を取られて忘れるところだったが、なにせ奥田民生を崇拝する主人公だけに、全編で奥田民生の曲が流れて、ドラマにも絶妙に絡んでくる。なので、奥田民生ファンにとっても見逃せない映画といえるだろう。

●今日の映画代、1500円。ユナイテッド・シネマの会員料金。

◆「奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール
(2017年 日本)(上映時間1時間39分)
監督・脚本:大根仁
出演:妻夫木聡水原希子新井浩文安藤サクラ江口のりこ天海祐希リリー・フランキー松尾スズキ
*TOHOシネマズ六本木ヒルズほかにて全国公開
ホームページ http://tamioboy-kuruwasegirl.jp/

「エイリアン:コヴェナント」

エイリアン:コヴェナント
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年9月18日(月・祝)午後5時より鑑賞(スクリーン9/F-10)。

けっこう長いこと物書きをやっているのだが、金銭的には勧められる仕事ではない。もちろん売れっ子で、相当に稼いでいる物書きもいるのだろうが、残念ながらオレの周りに関しては皆無だ。むしろ最近は「食えないので転職した」などという話ばかりである。

それでもオレがいまだにこの仕事をしているのは、「低空飛行を続けつつも墜落しないから」という理由でしかない。仕事が途絶えて「いよいよ終わりかな」と思うたびに、なぜか仕事が入ってくる。

というわけで、ここ数日も仕事の連続で忙しく、映画館に足を運べなかった。映画中毒者にとって、禁断症状が出かねない非常に危険な状況だったのだ!!(大げさでスイマセン)

ようやく昨日の夕方になって時間ができたので、近所のシネコンに行こうと思ったのだが、うまいこと時間が合う作品があまりない。かろうじて「エイリアン:コヴェナント」(ALIEN: COVENANT)(2017年 アメリカ)に間に合いそうなので鑑賞した次第。

正直なところ事前には、あまり興味が引かれる映画ではなかった。1979年製作の初代「エイリアン」は、まさにSF映画の金字塔で、オレも大いに楽しんだのだが、それ以降の続編は何だかなぁ~、という感じ。なので、初代の前日譚を描いた2012年の「プロメテウス」も観ていない。今回はその続編ということもあって、パスしようと思っていたのだ。

だが、これが予想に反してなかなかに観応えある映画だった。まずオープニングのシーンが秀逸だ。アンドロイドのデヴィッド(マイケル・ファスベンダー)と創造主の社長(たぶん、ガイ・ピアース。でもなぜかクレジットはなし)と対話する。創造に関する対話で、およそコワイ映画に似つかわしくない静かで謎めいたシーン。これが物語全体の伏線になっている。

続いて、いよいよ宇宙空間に舞台が移る。滅びゆく地球からの人類移住計画を託され、多数の移住者と乗組員(ちなみに乗組員はみんなカップル)を乗せたコヴェナント号。新たな植民地となる惑星オリガエ-6を目指す。だが、突然のアクシデントで、船長をはじめ数十人が命を落としてしまう。

その直後、コヴェナント号は謎の電波を受信する。急遽、船長代理となったオラム(ビリー・クラダップ)は、亡くなった船長の妻で科学者のダニエルズ(キャサリン・ウォーターストン)の反対を押し切り、進路を変更して電波の発信元の惑星へ向かう。ところが、そこにはかつて誰かが住んでいた痕跡が残っていた……。

リドリー・スコット監督は映像のこだわりがハンパではない。ドラマ的にどうでもいいような映画でも、映像だけはいつも出色の出来なのだ。それだけに今回の映像も素晴らしい。特にコヴェナント号の人々が到着した謎の星の風景が圧巻だ。厚い雲が垂れ込めた雄大な自然、誰かが築いたらしい巨大な人造物など、不穏で怪しい雰囲気がスクリーンを覆っている。

そんな中、いよいよエイリアンの登場だ。そのあまりにもエグくて凶暴な姿が恐怖心を煽り立てる。特に生体前段階のネオモーフが壮絶だ。初代「エイリアン」から格段にパワーアップした凄味を感じさせる(もちろんCGなど技術の進歩が大きいのだろうが)。

そのエイリアンたちによって、1人、また1人と襲われていく乗組員たち。いつバケモノに襲われるかわからない恐怖をケレン味たっぷりに見せる。エイリアンの気配を観客に感じさせ、それに気づかない乗組員に対して「おい、ヤバイぞ!」とハラハラドキドキ感を煽り立てるあたり、さすがベテラン監督の職人技である。

エイリアンが人間を食い破って出てくる描写など、おぞましい描写が満載の映画なのだが、個人的には独特の映像美のおかげでスクリーンから目を離さずに済んだ。

そんな中、この映画の大きなテーマが浮かび上がってくる。それは、「誰がエイリアンを創造したのか」。そのカギを握るのはアンドロイドだ。

謎の星に到着した乗組員たちの前には、冒頭のシーンに登場したアンドロイドのデヴィッドが現れる。彼は以前この星に到着したプロメテウス号の生き残りだという。そしてコヴェナント号にもアンドロイドのウォルター(マイケル・ファスベンダー)がいる。2体のアンドロイドの対面。そこから物語は大きく動く。

デヴィッドとウォルターの二役を演じたマイケル・ファスベンダーの演技が見事だ。当然ながら見た目はそっくりなのだが、それぞれの全く違う心根を繊細な演技で表現している。マッドサイエンティストを思わせるデヴィッドの生物実験室の造形なども、背筋ゾクゾクものの映像である。

はたして、エリイアンの正体は何なのか? そして乗組員たちは無事にコヴェナント号に戻ることができるのか? 終盤は宇宙船でのスリリングなバトルが展開する。そこでキャサリン・ウォーターストンが、初代のシガニー・ウィーバーを思わせる表情で鬼気迫る演技を披露しているのも面白い。

観客は終盤に一度ホッとするだろう。だが、その後にどんでん返しが待ち受けている。その背景にあるアンドロイドの暴走は、SFではけっして目新しい話ではない。しかし、AIが発達し、人間の能力を超える可能性さえささやかれる今だからこそ、リアルに感じられる。これもまた、エイリアンとは違った恐怖といえるだろう。

ドラマ的には、さして目新しさはないし、予想がつく展開も多い。だが、独特の映像美と世界観で最後まで飽きさせない。今年79歳のリドリー・スコット監督だが、まったく衰えを感じさせないのがうれしい。そして、久々に初代の「エイリアン」がまた観たくなったのである。

●今日の映画代、1300円。ユナイテッド・シネマの会員向けクーポンを利用。

◆「エイリアン:コヴェナント」(ALIEN: COVENANT)
(2017年 アメリカ)(上映時間2時間2分)
監督:リドリー・スコット
出演:マイケル・ファスベンダーキャサリン・ウォーターストンビリー・クラダップ、ダニー・マクブライド、デミアン・ビチル
*TOHOシネマズ日劇ほかにて全国公開
ホームページ http://www.foxmovies-jp.com/alien/

「散歩する侵略者」

散歩する侵略者
シネ・リーブル池袋にて。2017年9月10日(日)午後1時50分より鑑賞(スクリーン1/G-8)

オレは宇宙人である。

というのは、もちろんウソである。ただし、宇宙人が地球人そっくりの格好で日常に紛れ込むという話はよくある。黒沢清監督の新作「散歩する侵略者」に登場する宇宙人も、地球人そっくりの格好で登場する。いや、正確にいえば、地球人の体を乗っ取って現れるのだ。

この映画は、劇作家・前川知大率いる劇団イキウメの舞台劇を映画化したものだ。イキウメの舞台劇では、「太陽」入江悠監督によって2015年に映画化されている。こちらも新人類と旧人類が共存する近未来を舞台にしたSFだった。残念ながらイキウメの舞台を見たことはないのだが、きっとこういう作品が得意なのだろう。

冒頭に描かれるのは金魚すくいの場面。続いて謎の一家惨殺事件が発生する。その現場から飛び出してきたのは血だらけの女子高生。彼女が一本道を歩いてくると、その背後で車が大事故を起こす。いかにも黒沢監督の作品らしい不穏な空気が漂う幕開けではないか。

その後登場するのは1組の夫婦だ。加瀬鳴海(長澤まさみ)と夫の真治(松田龍平)。真治は数日間行方不明だったが、帰ってきた彼は見た目は前と変わらないものの、内面は別人のようになっている。戸惑う鳴海をよそに、真治は会社を辞め、毎日散歩するようになる。

一方、例の一家惨殺事件を取材するジャーナリストの桜井(長谷川博己)は、偶然出会った奇妙な青年・天野(高杉真宙)に興味を抱き、彼とともに事件のカギを握る女子高生・立花あきら(恒松祐里)の行方を追うようになる。

というわけで、この2つのエピソードが並行して描かれる。真治はどうして別人のようになってしまったのか。そして天野とあきらは何者なのか。この疑問がドラマの中心かと思いきや、その答えは早いうちにあっさりわかってしまう。

真治、天野、そしてあきらは、地球人の体を乗っ取った宇宙人なのだ。彼らは地球侵略を目論んでいて、そのために地球人のことを調べにやって来たのである。真治は鳴海に「自分は地球を侵略に来た宇宙人だ」と告白する。天野もそのことを桜井に告げる。

もちろん告白された方は、最初のうちは信じないのだが、それでも不可思議なことが起きるうちに、彼らが宇宙人であることを信じざるを得なくなるのである。

ただし、彼らの正体が明らかになっても、面白さが失われることはない。「散歩」と「侵略者」という不似合いなタイトルに象徴されるように、前半は不条理なユーモアがタップリ詰め込まれている。特に、地球人のことを理解しないまま体を乗っ取ってしまった宇宙人たちによる、あまりにも奇妙な言動が笑いの種を振りまいている。

そして面白いのは、宇宙人たちが人間の「概念」を奪い取るという設定だ。家族、所有、仕事といった様々な概念を人間から奪い取って、人間のことを学習する。奪い取られた人間はその概念をなくしてしまい、元とは違った人間になってしまう。こうした設定を通して投げかけられるのは、「人間らしさとは何か」という問いかけだろう。

その他にも、侵略者VS地球人という構図を通して、戦争について考えさせたり、現代に対する社会批判めいた部分もあったりする。

だが、それが深まることはない。あくまでもSFドラマの盛り立て役として使われるのみだ。また、過去の黒沢作品にあったように人間の深層心理をグサリと突いたり、それを背景にした心理的な恐怖をあぶりだすようなところも皆無である。

おそらく黒沢監督の今回の狙いは、過去のハリウッド映画などもふまえつつ、SFエンタメ作品としての面白さを徹底的に追求しようとしたのではないだろうか。

それが後半になると明確になってくる。地球でつかんだ情報を伝えるため通信機を作ろうとする天野とあきら。その過程では格闘アクションや銃撃アクションなどが炸裂する。そして、そんな宇宙人の野望を阻止するべく、自衛隊や政府機関などもうごめいて、ドラマのスケールはどんどん拡大していくと同時に、予測不能な展開へと突入していく。

そんな中で、鳴海と真治との関係にも微妙な変化が訪れる。以前は不仲だった2人が、宇宙人による地球侵略という緊急事態の中で、少しずつ絆を深めていく。つまり、この映画は鳴海と真治によるラブストーリーでもあるわけだ。

終盤は、飛行機による大爆撃まで飛び出すケレン味たっぷりの展開。前半は、正直なところ元の舞台劇の色合いが強くて、「わざわざ映画にする意味があるのか?」と疑問に思ったりもしたのだが、後半は映画ならではの魅力が詰まっている。

それを経て、ついに開始される宇宙人による侵略。はたして、人類は全滅するのか。鳴海と真治の運命は?

そこで大きなカギを握るのが「愛」という概念だ。宇宙人が概念を奪うという設定が、ここに至って絶妙な効果を発揮する。まさに愛は地球を救うのか?

とにもかくにも、アクションやラブストーリーなど様々な要素を盛り込みつつ、徹底的に映画的な面白さを追求したSFエンタメ映画になっている。細かなことを言えば、ウイルス感染という話の持って行きどころか迷走している感じもするし、桜井が天野たちに肩入れしていく過程もよく理解できないのだが、まあ、そのあたりは目をつぶって観るべき映画なのだろう。

豪華キャストの共演も見応えがある。松田龍平の宇宙人は想像通りのハマリっぷりだが、高杉真宙恒松祐里の若い宇宙人コンビの妖しくてハジケた演技も印象的だ。ラストにチラッと出てくる小泉今日子も含めて、脇役陣にも存在感がある。

全体を包む不穏な空気感をはじめ黒沢監督らしさはあちこちにある。黒沢作品では生死の境界線があいまいになり、生者と死者が混在することがよくあるが、今回は宇宙人と地球人の境界線が曖昧になっているドラマと言えないこともない。

とはいえ、最近の「岸辺の旅」「クリーピー 偽りの隣人」あたりとは明らかにタッチが違う。それだけにやや拍子抜けする人もいそうだが、痛快エンターティメント+さりげない温かみを持つ愛のドラマとして観れば、それなりに楽しめるのではないだろうか。あんまり難しいことを考えずに観ることをおススメします。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカードの会員料金にて。

◆「散歩する侵略者
(2017年 日本)(上映時間2時間9分)
監督:黒沢清
出演:長澤まさみ松田龍平高杉真宙恒松祐里前田敦子満島真之介児嶋一哉光石研東出昌大小泉今日子笹野高史長谷川博己
新宿ピカデリーほかにて全国公開
ホームページ http://sanpo-movie.jp/

 

「三度目の殺人」

三度目の殺人
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年9月9日(土)午後12時20分より鑑賞。(スクリーン3/F-17)

今のところ裁判には全く縁がない。原告になったこともなければ、被告になったこともない。証人に呼ばれたこともない。裁判員裁判が始まった頃には、「お、もしかしたらオレも呼ばれるのか?」と変な期待をしたのだが、幸か不幸か一度もそんな連絡は来ない。

とはいえ、新聞などで裁判のニュースを見ていると、もしも自分が裁判員だったら判断を迷いそうな事件がたくさんある。そもそも、オレごときに人を裁くことなどできるのか。いや、オレだけでなく人が人を裁くことなんてできるのか。

是枝裕和監督の新作「三度目の殺人」(2017年 日本)を観て、そんな思いがますます強まった。

「誰も知らない」「歩いても 歩いても」「空気人形」「そして父になる」「海街diary」「海よりもまだ深く」など素晴らしい作品を立て続けに送り出している是枝監督が、「そして父になる」で組んだ福山雅治を再び主演に迎えた作品だ。

この映画について「法廷ミステリー」と紹介しているメディアが多いようだが、実際は法廷シーンはそれほど多くない。厳密にいえば、裁判をめぐるミステリーといったほうが正確だろう。

いや、ミステリーという言い方も微妙なところだ。最後にすべての真実が明らかになるのがミステリーだと考える人は、その期待を完全に裏切られる作品だからである。

ドラマは、いきなり殺人シーンから始まる。三隅高司(役所広司)という男が、解雇された工場の社長を後ろから殴打して殺害し、遺体を焼くシーンが描かれる。それによって観客は、間違いなく三隅が殺人犯だと印象付けられる。

それは弁護士も同様だ。同僚の摂津(吉田鋼太郎)から頼まれて三隅の弁護を渋々引き受けることになった弁護士の重盛朋章(福山雅治)は、すでに三隅が犯行を自供していることから、犯人であることは認めたうえで量刑を争おうと考える。三隅は30年前に殺人を犯した前科があり、このまま強盗殺人を適用されれば死刑は確実だ。それをどうにか無期懲役にできないかと調査を始めるのである。

そんな重盛は、いわゆる「正義の弁護士」や「人情味あふれる弁護士」とは対極の人物だ。司法システムの中の歯車の一つとなり、その中でいかに「裁判で勝つか」だけを追求する。そのためには被告のことを理解したり、真実を解明する必要などないと考えている。

しかし、今回ばかりは重盛にとって想定外のことが続く。三隅の証言はコロコロ変わり、重盛たちを煙に巻く。二度も殺人を犯したというとモンスターのような人物を想像するかもしれないが、三隅は違う。つかみどころがなく、得体が知れない雰囲気の男だ。かつて北海道で彼が犯した最初の殺人事件を担当した刑事は、「空っぽの器のようだ」と表現していたが、まさにそれがピッタリな人物なのである。

この三隅と重盛が拘置所の接見室で話すシーンが、この映画のかなりの部分を占める。派手さはないものの観応え十分なシーンだ。三隅を演じる役所広司、重盛を演じる福山雅治、いずれも圧巻の演技である。その2人をとらえる映像も緊迫感にあふれている。おかげで、生々しく、スリリングで、そして何やら不気味な雰囲気が漂ってくる。

そうするうちに、重盛は次第に三隅に翻弄されていく。三隅が抱える闇にズブズブと引きずり込まれていくところは、ある種の心理ホラーのような危険な魅力さえ感じられる。三隅がかつて住んでいた北海道に足を運ぶ際に、重盛が見る夢が何とも象徴的である。そこには三隅と彼の娘と重盛が同じ空間に存在する。

こうして重盛は、関心のないはずだった真実を知りたいと思うようになる。いったい三隅の殺人の真の動機は何なのか。しかし、調べれば調べるほど謎は深まっていく。そこでは、謎の十字架マークや三隅が飼っていた鳥の話など、様々な小ネタも効果的に使われている。

やがて、三隅と被害者の娘・咲江(広瀬すず)との意外な接点が浮かび上がる。続いて、三隅と被害者の妻・美津江(斉藤由貴)との疑惑も浮上する。被害者が経営していた会社の不正なども示唆される。

そして、さらに衝撃的な出来事が起きる。それは被害者の咲江による、あるおぞましい出来事に関する告白だ。はたして、それこそが三隅の殺人の本当の動機だったのか? 

多くの謎がまき散らされた本作だが、実のところ最後まで明快な真実が語られることはない。サスペンスとしての謎解きは、宙ぶらりんのまま終幕を迎える。そこに居心地の悪さを感じてしまうのは仕方のないことだろう。

だが、それによって同時に、観客にはズシリと重たい問題提起が突き付けられる。それは硬直化しシステム化された司法制度についての問題提起だ。三隅をめぐる裁判は法廷よりも、法廷外で大方のことが決まり、効率優先で進められる。裁判官が目配せで意思を伝え、弁護士や検察官が阿吽の呼吸でそれに応じる場面も登場する。重盛が初めのうち真実を軽視していたように、今の日本の司法システム自体が真実を追求する場ではないことが、徐々に明らかになってくるのだ。

それを背景に、人が人を裁くことの意味が問いかけられる。三隅の殺人の動機が強盗なら彼は文句なしに死刑。しかし、怨恨なら情状酌量の余地あり。その差はどこから来るのか。はたして、それは正しいことなのか。人間は人間をきちんと裁けるのか。観ているうちに、いろいろな疑問が湧いてくるのである。

そういえば「三度目の殺人」というタイトルも意味深だ。三隅が犯した殺人はこれが二度目。なのに、「三度目」とは? 最初の事件の被害者は2名ということだから、今度が3人目ということなのか。はたまた、三隅が死刑になるとすれば、それも考えようによっては国家による殺人なわけで、それを意味しているのか。

終盤では、三隅が本当に犯人なのかどうかさえ、怪しく感じられてくる。冒頭のシーンの強烈な印象がグラグラと揺らいでくる。真実とはそれほど曖昧なものなのかもしれない。

ラスト近くの重盛と三隅の最後の対話を経て、この映画で投げかけられた問いが、さらにグサリと胸に突き刺さったのである。

最近の是枝作品とはずいぶん違うタイプの作品だが、人間の内面をじっくり掘り下げようとする姿勢は不変だ。スッキリできる映画ではないが、今の社会を生きるオレたちにとって絶対に観るべき価値のある作品だと思う。

●今日の映画代、1400円。新宿のチケットポートで事前に鑑賞券を購入。

◆「三度目の殺人
(2017年 日本)(上映時間2時間5分)
原案・監督・脚本・編集:是枝裕和
出演:福山雅治広瀬すず満島真之介市川実日子、松岡依都美、蒔田彩珠、井上肇橋爪功斉藤由貴吉田鋼太郎役所広司
*TOHOシネマズスカラ座ほかにて全国公開
ホームページ http://gaga.ne.jp/sandome/

「ギミー・デンジャー」

「ギミー・デンジャー」
新宿シネマカリテにて。2017年9月6日(水)午後2時30分より鑑賞(スクリーン1/B-10)。

著名な映画監督が音楽ドキュメンタリーを手がけるケースは珍しくない。例えば、あのマーティン・スコセッシザ・バンドの解散コンサートを描いた「ラスト・ワルツ」や、ボブ・ディランを描いた「ノー・ディレクション・ホーム」を監督している。日本でも、「64-ロクヨン-」の瀬々敬久監督が、かつて314分という長尺の「ドキュメンタリー頭脳警察」を手がけている。

そんな中、「パターソン」が日本公開になったばかりのジム・ジャームッシュ監督による音楽ドキュメンタリーが、新たに公開になった。「ギミー・デンジャー」(GIMME DANGER)(2016年 アメリカ)である。

そこで取り上げられているのは、1960年代後半から70年代前半にかけて活動した伝説のバンド「イギー・ポップ&ザ・ストゥージズ」だ。1967年に結成され、3枚のアルバムを出したのち、1974年2月のライブを最後に活動停止したバンドである。

もともとジャームッシュイギー・ポップやザ・ストゥージズの大ファンで、イギー・ポップを自身の作品で役者としても起用している。そんなイギー直々の依頼を受けて制作したのが本作だそうだ。

映画の構成は基本的にオーソドックスだ。イギーをはじめメンバーなどの証言をもとに、昔の映像や写真も交えつつ描いていく。

両親とトレーラーハウスに住みドラムを叩いていた幼少時代のイギー。やがて高校生バンドなどを経てザ・ストゥージズを結成する。その経緯を当時の音楽状況を交えながら描いていく。その中でも面白かったのがバンド名の由来。アメリカのコメディーグループの「三ばか大将」(The Three Stooges)からつけたらしい。何とも人を食った話である。

そうやって結成されたザ・ストゥージズは、やがてレコード会社と契約を結ぶ。その前後の兄貴分的バンドMC5との関係なども興味深い。その後、ザ・ストゥージズは3枚のアルバムを制作する。その制作過程にも面白いエピソードが満載だ。かつてヴェルヴェット・アンダーグラウンドに参加したニコがバンド周辺に出入りして、何かとルー・リードと比較していたという話には思わず笑ってしまった(マニアックな話ですいません)。

しかし、やがてザ・ストゥージズは自然消滅してしまう……。

先ほどオーソドックスな構成と言ったが、そこかしこにはジャームッシュ監督らしいヒネリもある。例えば時系列で話を始める前に、いきなりバンド活動末期の行き詰まり状況を見せる。満足に金が稼げずに、客はやたらに暴れて問題を起こす。まあ、イギー・ポップ自身が過激なパフォーマンスで知られていたわけだから、客がそうなるのもわからんではないのだが。

また、この映画では、イギーたちの証言に合わせて、アニメだったり、昔の映画の一場面だったりをスマートに挟み込む工夫もある。「パターソン」では詩を文字にして映したが、同じように証言のキーワードを文字にして見せる場面もある。そのあたりから、ジャームッシュ監督独特のオフビートの笑いも生まれてくるのだった。

本作で特に印象深かったのは、クリエイティブな活動と商業主義とのせめぎ合いだ。当初のイギーたちは、サイケやジャズ、前衛音楽など色々な音楽に刺激を受けて、オリジナリティあふれる音楽を構築していた。しかし、それがセールス的に芳しくないと、レコード会社の圧力が日増しに強くなってくる。それが彼らの自由な創作活動を阻害する。

映画の中の証言で、イギーは、アメリカのアイドル・オーディション番組「アメリカン・アイドル」を強烈に批判しているが、エアロスミススティーヴン・タイラーがあの番組の審査員を務めるなど、いまやロックもビジネスと不可分の時代。ザ・ストゥージズは、その端境期にあったバンドと言えるのかもしれない。

ビジネスと言えば、ザ・ストゥージズの活動末期にデヴィッド・ボウイと関わる経緯も面白い。その後は、音楽的交流を深めていくイギーとボウイだが、映画の中の証言を聞いていると最初はいろいろと面倒なこともあったようだ。

もう一つ「時代だなぁ」と思ったのはドラッグの蔓延だ。当時、イギーはじめメンバーのほとんどはドラッグ漬けの日々を送っていた。今でも時々ミュージシャンの死とドラッグの関係が噂されたりするが、当時はそれが当たり前の世界だった。イギーにしても、ストーンズキース・リチャーズにしても、そうした時代からのサヴァイバーというわけだ。

さて、この映画の終盤には感動的な話が綴られる。ラモーンズやダムド、セックス・ピストルズなどのパンクロック・バンドをはじめ、多くのバンドがザ・ストゥージズに影響を受け、曲をカバーしている姿が描かれる。カルト的な人気はあったものの、世間的な評価は低かったバンドが、のちに最高のバンドとして高く評価されるようになったのだ。

感動はそれだけではない。イギーは2003年にストゥージズを再結成する。活動停止後、バンド活動を続けながらも、金を稼ぐためにタクシー運転手など様々な職業を経験したメンバーもいる。そうしたメンバーたちが再結集(映画では再統一と表現されていた)して、活動を再開したのである。

その後も、ザ・ストゥージズは断続的に活動を行い、2013年には6年ぶりの新作『レディ・トゥ・ダイ』を発表している。そこでは、亡くなったギタリストのロン・アシュトンに代わり、ジェームズ・ウィリアムスンがギターを担当している。彼は、バンド解散後、大学で電子工学の学位を取得し、ソニーの技術部門の副社長まで務めている。まさに人生いろいろである。

その間、バンドは2010年にロックの殿堂入りを果たしている。そこでのイギーのスピーチが、なかなか味わい深い。

実のところ、この映画の制作期間中に、メンバーの3人(ロン・アシュトンスコット・アシュトン、スティーヴ・マッケイ)が相次いで亡くなっている。もちろん、彼らの証言もこの映画に登場する。

そうである。まさにロックは人生なのだ。それをつくづく感じさせるドキュメンタリー映画が本作だ。

ちなみに、このオレも、さすがにザ・ストゥージズはリアルタイムで体験していないが、ソロになってからのイギーは好きなミュージシャンの一人だ。1998年のフジロックフェスティバルでは生のステージも体験している。会場(その年の会場は、諸般の事情により東京・豊洲地区の東京ベイサイドスクエアだった)には2つのステージがあり、大きなステージでは確かビョークが演奏していたはずだが、オレは迷わずイギー・ポップのステージに足を運んだ。それはそうだろう。だって、天下のイギー・ポップなんだぜ!

そんな個人的な思い入れもあって、なかなか感慨深い作品なのであった。イギー・ポップやザ・ストゥージズのファンならずとも、ロックに興味のある人にはぜひ観てもらいたい。

●今日の映画代、1000円。シネマカリテの毎週水曜のサービスデー料金にて鑑賞。