映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「女は二度決断する」

女は二度決断する
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2018年4月17日(火)午後12時10分より鑑賞(スクリーン1/D-12)。

ファティ・アキン監督は、カンヌ、ベネチア、ベルリンの世界3大映画祭で受賞歴を誇るドイツの監督。それぞれの受賞作「愛より強く」「そして、私たちは愛に帰る」「ソウル・キッチン」をはじめ、移民問題などの社会的テーマを扱った作品が多い。ただし、作品のタイプはバラエティーに富んでいる。例えば前作「50年後のボクたちは」は痛快な青春コメディだった。

そんなアキン監督が今回手がけたのは、ドイツで起きたネオナチによる連続テロ事件にインスパイアされた「女は二度決断する」(AUS DEM NICHTS)(2017年 ドイツ)。今回も様々な社会的なテーマが提示された作品だが、エンタメ性が高くサスペンスとしての魅力にあふれている。

冒頭に登場するのは刑務所のシーン。ある受刑者がタキシードを着て、受刑者仲間から祝福されている。麻薬取引で服役しているトルコ系移民のヌーリ。彼とドイツ人女性のカティヤ(ダイアン・クルーガー)の結婚式が行われるのだ。手持ちカメラを使いプライベートフィルム風に見せるその映像が出色。こうして手持ちカメラやアップを多用して、リアルさやスリリングさを増幅させるなど、魅力的な映像が満載の作品である。

本作は3章構成となっている。そこから1章「家族」がスタートする。数年後、ヌーリは出所して、トルコ人街で在住外国人相手にコンサルタント会社を始め、カティヤは経理を担当していた。2人の間には6歳の息子ロッコもいて、幸せな日々を送っていた。

そんなある日、親友とスパに行くために、カティヤはロッコをヌーリの職場に連れて行き、世話を任せる。だが、それからしばらくして、ヌーリの事務所前で爆発事件が起こり、彼とロッコが犠牲になってしまう。警察はヌーリがトルコ系移民であることから外国人同士の抗争を疑うが、カティヤは移民を狙ったネオナチによるテロに違いないと訴える。

主人公カティヤのキャラ設定が秀逸だ。彼女はけっして品行方正な女性というわけではない。ヌーリと知り合ったのは大学時代に、彼から麻薬を買ったことがきっかけ。その後、彼女は大学も中退している。そんなこともあって、母はヌーリを嫌っていた。そうした人間臭いキャラのおかげで、観客は彼女に感情移入しやすくなる。

そして何よりも彼女は生粋のドイツ人だ。それでも移民と関わったことでテロ事件の被害者となり、警察からも理不尽な扱いを受けてしまうのだ。こうした経緯を見れば、どんな人でも移民問題は他人事ではないと感じるのではないだろうか。

1章で目につくのは、ヌーリの心理描写のリアルさである。爆発事件を知った時の戸惑いと混乱、夫と息子が犠牲になったと聞いた時の放心状態、警察の理不尽な質問に対する怒り、そして拭いようもない喪失感。

アキン監督は、カティヤのアップを中心に彼女の心理を切り取っていく。それに応えたダイアン・クルーガーの演技が素晴らしい。激しい演技から抑制的な演技まで、すべての演技が納得できるし、見応えがある。特に感情を押し殺しつつも、そこからにじみ出してくる言いようのない思いを伝える演技が絶品だ。タバコを吸うだけで、彼女の心の内が伝わってくる。

ちなみに、もともとドイツ出身の彼女だが、ハリウッドやヨーロッパの他国で活躍することが多く、母国語であるドイツ語で演じるのは今回が初めてとか。

印象深いシーンが多い作品だ。カティヤが初めて事件現場に足を踏み入れたシーン、息子のベッドで悲嘆にくれるシーン、そして自殺を決意したバスルームでの鮮烈なシーンなど、頭からずっと離れそうにないシーンが続く。

やがてカティヤの主張通り、ネオナチの若いドイツ人夫婦が逮捕される。その知らせを受けたカティヤが留守番電話を何度も聞くシーンも、印象的なシーンの一つだ。

犯人逮捕となれば、2章は当然法廷劇となる。題して「正義」。逮捕されたネオナチ夫婦は、どう見ても真犯人だ。夫の父も、2人が犯人だとしてカティヤに謝罪する。それでも判決の行方に不穏な空気を漂わせる。特に被告側弁護士の強烈なキャラが、法廷劇の緊迫感を煽り立てる。彼は些細なことに拘泥し、狡猾な法廷戦術によって事実を捻じ曲げようとする。それを通して法廷サスペンスとしての醍醐味が膨らんでいく。

もちろん2章でも、カティヤの心理描写が冴えわたる。遺体の損壊状況を語る検死官の証言を聞いて、そのむごたらしさに耐えられなくなった彼女の心痛。真実は明らかなのに、それがなかなか判決につながらない苛立ちや怒り。あるいは親友のもとに誕生した赤ん坊を見た時の彼女の複雑な気持ち。そうした心理がひしひしと伝わってくるのである。

はたして、「正義」は貫かれるのか。裁判の結果は意外なものであり、それによって司法の持つ限界がさらけ出される。これもまた移民排斥などと同様に、この映画に込められた重たいテーマになる。

「海」と題された3章。すでに2章までのあまりにもリアルで切迫感に満ちた心理描写によって、ほとんどの観客はカティヤに感情移入し、彼女の行動を肯定的に受け止めているのではないか。

その思いに応えるかのように、復讐という目的を達成するために突き進むカティヤだが、そこには当然ためらいもある。はたして、彼女はどんな決断をするのか。

ラストのカティヤの行動には賛否両論がありそうだ。とはいえ、それまでのドラマを見ていれば、けっして不自然な行動とはいえないだろう。「なるほどそれもありか」と思わせられる。

何よりも観客に判断をゆだねた曖昧な結末ではなく、衝撃的なラストを選択したことによって、アキン監督はカティヤの復讐を後押しした観客に対して、「それは本当に正しいのか?」と重たい問いを投げかけたのだと思う。観客は、もはや傍観者ではいられないのである。

オレ的には傑作の部類に入る映画だと感じた。移民、司法、復讐など硬派の社会的テーマを抱え込みつつ、リアルでスリリングなサスペンスとしてエンタメ性もきちんと確保している。これだけレベルの高い作品は、アキン作品の中でも群を抜いているのではないだろうか。ラストがラストだけに爽快さや痛快さとは無縁だが、超ヘヴィー級の見応えを持つ作品であることは保証する。

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 ◆「女は二度決断する」(AUS DEM NICHTS)
(2017年 ドイツ)(上映時間1時間46分)
監督・脚本:ファティ・アキン
出演:ダイアン・クルーガー、デニス・モシット、ヨハネス・クリシュ、サミア・シャンクラン、ヌーマン・アチャル、ウルリッヒ・トゥクール
*ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほかにて全国公開中
ホームページ http://www.bitters.co.jp/ketsudan/

「心と体と」

「心と体と」
池袋シネマ・ロサにて。2018年4月15日(日)午後1時35分より鑑賞(シネマ・ロサ1/D-9)。

世界には次々に監督作を送り出す多作の監督もいれば、めったに作品を発表しない寡作の監督もいる。もちろん自分では作品を撮りたいのに、周囲の環境によってそれが困難なケースもある。

「心と体と」(TESTROL ES LELEKROL)(2017年 ハンガリー)は、長編デビュー作「私の20世紀」でカンヌ国際映画祭カメラドール(最優秀新人監督賞)を受賞したハンガリーイルディコー・エニェディ監督が、何と18年ぶりに発表した長編映画。2017年の第67回ベルリン国際映画祭で最高賞の金熊賞をはじめ4部門に輝いた。いかなる理由によって、18年も間隔が空いたのかは知らないが、その手腕は衰えていなかったようだ。

孤独な男女のラブストーリーである。ただし、それを独特の世界観で描いている。舞台は現代だが、どこか神秘的で詩情にあふれた寓話的な世界だ。ラブストーリーは数多あるが、こういうタイプの映画はあまり見たことがない。

最初に映るのは冬の森の中で出会うオス鹿とメス鹿。この2頭の鹿の映像は、その後何度も登場する。

続いて場面は変わってハンガリーブダペスト郊外にある食肉処理場。そこに産休の食肉検査官の代理として、マーリア(アレクサンドラ・ボルベーイ)という若い女性がやってくる。彼女はコミュニケーションが苦手で職場になじめず、孤独な日々を送っている。どうやら恋愛経験もほとんどなさそうだ。

そんな彼女のことを気にかけるのが、片手が不自由な上司の中年男性エンドレ(ゲーザ・モルチャーニ)。彼はかつては家族がいたようだが、今は人生も恋愛もあきらめているらしい。社員食堂でマーリアに話しかけるエンドレだが、2人とも不器用で終始気まずい空気が漂う。

エニェディ監督は、そんな2人の孤独な日常を等身大で描いていく。大仰な描写や派手な仕掛けは何もない。にもかかわらず、それぞれの心の孤独がひしひしと伝わってくる。特に何事にも無表情を通して、感情を表に出さないマーリアが印象的だ。光を巧みに使った映像も見逃せない。

やがてある出来事をきっかけに、2人は距離を縮める。工場の薬品が盗まれ、その犯人捜しのために、全従業員が精神分析医のカウンセリングを受けることになったのだ。ちなみに、その薬品というのが牛の交尾薬だというのが笑える。「盗んだ奴は自分で使おうとしているのではないか?」などという話まで飛び出す。この映画には、こうしたユーモアがあちこちに散りばめられている。

そのカウンセリングの中で、マーリアとエンドレは、なぜか2人とも毎晩同じ夢を見ていることに気づく。それは冒頭に登場した2匹の鹿の夢だ。メス鹿はマーリア、オス鹿はエンドレというわけだ。

こうして夢の中で鹿となって恋愛していた2人は、現実世界でも距離を縮めていく。そこで、マーリアが次第に変化していく描写が絶品だ。相変わらず大きくは表情を変えない彼女だが、ほんのわずかな表情や行動の変化を見せる。その微妙な変化が彼女の恋心を端的に表現する。

マーリアが人形を使ってままごとをするシーンが面白い。エンドレと初めて会った時にも、調味料の容器を使って2人の会話を再現したりするのだが、それが伏線になって彼女の恋愛感情の高まりを見事に表現している。

だが、なにせ恋愛経験の少ない彼女のこと。エンドレとの距離を縮めようとしてかけた言葉が、何とも珍妙だったりする。それがまた笑いを誘う。それに比べればストレートに彼女に近づこうとするエンドレだが、根底には「恋愛はもう打ち止め」という思いがあるから、なかなか前には進めない。「一緒に寝る」というのが、文字通り同じ部屋で寝るだけだったりするのである。お前らは小学生か!(笑)

おまけに、マーリアは潔癖症で、他人と肉体的接触を持つことに恐怖を感じている。それを克服するために、マッシュポテトや食肉処理を待つ牛など、いろいろなものを触る。さらにぬいぐるみを買ってきて一緒に寝たり、公園でカップルをじろじろ観察したりする。そうしたシーンが何ともほほえましくて、クスクス笑ってしまう。そうやって、彼女がまとっていた鎧が少しずつはがれるところを、観客は静かに見守るのである。

冷徹だったりシニカルな描写もある。食肉処理場が舞台ということで、血にまみれた牛の解体シーンなども登場する。だが、そうした異質な様々な要素が違和感なく溶け込んでいる不思議な映画だ。そして、エニェディ監督の2人に対する視線は常に温かい。ぎこちない恋を優しく見つめている。それこそがこの映画の最大の魅力だと思う。

順調にいくかと思われたマーリアとエンドレの恋だが、終盤には波乱が待っている。ほんのちょっとしたすれ違いが悲劇につながる。だが、ドラマはそこで終わらない。その先に待つのは温かなぬくもりだ。そして、ラストで映る鹿の消えた森が静かな余韻を残してくれる。

アーリアの複雑な心理を繊細な演技で披露したアレクサンドラ・ボルベーイの見事な演技は必見。エンドレを演じたゲーザ・モルチャーニの渋い演技も味がある。この人、何と演技初挑戦らしい。

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◆「心と体と」(TESTROL ES LELEKROL)
(2017年 ハンガリー)(上映時間1時間56分)
監督・脚本:イルディコー・エニェディ
出演:アレクサンドラ・ボルベーイ、ゲーザ・モルチャーニ、レーカ・テンキ、エルヴィン・ナジ、ゾルターン・シュナイダー、タマーシュ・ヨルダーン、イタラ・ベーケーシュ
*新宿シネマカリテほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://www.senlis.co.jp/kokoroto-karadato/

「さよなら、僕のマンハッタン」

さよなら、僕のマンハッタン
新宿ピカデリーにて。2018年4月14日(土)午前10時55分より鑑賞(シアター8/D-9)。

ニューヨークには一度も行ったことがない。昔、現地に移住したばかりの女の子がホームシックになり、「今すぐにこっちに来い!」と電話で言われたことがあるが、そんなことできるかいっ!!

それでもいつか遊びに行ってやろうかと思っていたのだが、その後は貧乏生活まっしぐらゆえ、ニューヨークどころか伊豆にだって行けないのだ。

とはいえ、ニューヨークの街を何となく理解している気がするのは、ニューヨークを舞台にした映画をたくさん観ているせいかもしれない。

さよなら、僕のマンハッタン」(THE ONLY LIVING BOY IN NEW YORK)(2017年 アメリカ)も、ニューヨークを舞台にした映画である。「(500)日のサマー」「gifted/ギフテッド」のマーク・ウェブ監督が、未発表の優れた脚本を集めたハリウッドの「ブラックリスト」に入っていたアラン・ローブによる脚本を映画化。実現までに10年以上かかったとか。

ちなみに、原題の「THE ONLY LIVING BOY IN NEW YORK」に聞き覚えがあると思ったら、サイモン&ガーファンクルの名曲「ニューヨークの少年(The Only Living Boy in New York)」と同じタイトル。劇中でも、この曲が効果的に使われている。

映画が始まってすぐに飛び込んでくるのが、隣人役を演じているジェフ・ブリッジスの渋い声。昔は危険だが創造的な街だったのに、今では安全で刺激のない街になっている云々と、ニューヨークの街の変化について語っている。

そのニューヨークに暮らす主人公トーマス(カラム・ターナー)。彼もまた安全だが刺激のない青年だ。大学を卒業して親元を離れひとり暮らしを始めたが、これといった人生の目的も見いだせずにいる。ちょっと古い言葉だが、いわゆるモラトリアム人間的な立ち位置といえるだろう。そんなトーマスが様々な人生経験をして、大人になっていくという成長物語が、このドラマの柱になる。

彼が経験するのは恋愛と家族をめぐる出来事だ。最初にトーマスが夢中になっているのは、古書店員のミミ(カーシー・クレモンズ)という女性。ただし、彼女には彼氏がいて、「あなたは恋人ではなく友達」と言われてしまう。純真でいい人だが、恋人にするには刺激が足りないというのだ。

いるよなぁ、こういう若者。恥ずかしながらオレもそうだったのだ。これまで何回もそういうこと言われてきたもん。だから、つい身につまされてトーマスに同情してしまった……というような個人的なことはどうでもいいのだが、何にしてもトーマスはまだ大人になりきれていない若者なのである。

ところが、まもなく彼はショッキングな出来事に遭遇する。ミミと一緒に入ったナイトクラブで、トーマスは父(ピアース・ブロスナン)の浮気現場を目撃してしまうのだ。母(シンシア・ニクソン)のことが心配なトーマスは、浮気相手の女性ジョハンナ(ケイト・ベッキンセイル)を尾行するようになる。

出版社の経営者で何かと口うるさい父と、ぎくしゃくした関係にあるトーマスは、浮気を目撃したことを父に告げられない。そうこうするうちに、ジョハンナに尾行を気づかれてしまい、「父と別れてくれ!」と直訴する。

このあたりも、いかにも純粋真っすぐなトーマス君である。彼の母はもともと精神が不安定で、父の浮気のことを知られたら大変だという事情はあるにしても、いきなり浮気相手本人に別れを要求してしまうのだから。やれやれ。

だが、話はそれで終わらない。なんと彼はひょんなことから、そのジョハンナと関係を持ってしまうのだ!!

何やらウディ・アレンのラブコメに出てきそうな展開だが、もちろんこの恋愛模様もトーマスの成長につながってくる。ミミとジョハンナ、2人の恋愛模様を通して、自分ではどうにもならない思いや、言葉とは裏腹の本心など、大人ならではの様々な心理を経験するのである。

その微妙な心理の揺れ動きを、マーク・ウェブ監督が繊細に描いていく。派手さはまったくないが、じわじわと観客の心に染みこんでくるような描き方が巧みだ。トーマスだけでなく、彼の両親やミミ、ジョハンナの心理描写についても同様だ。

そして、この映画にはもう1人忘れてはならない人物が登場する。トーマスのアパートの隣室に越してきたW・F・ジェラルド(ジェフ・ブリッジス)と名乗る不思議な中年男性だ。彼はトーマスの話を聞き、人生についてアドバイスを送るようになる。時にはズバリとトーマスの本心を見抜き、時には含蓄のある文学的表現を用いて助言をする。

いったい、コイツは何者なのだ? と思ったら、終盤に彼のビックリの正体が明かされる。まさかそんな……という展開ではあるのだが、人生の不可思議さと複雑さをトーマスに知らしめる点では、これ以上ない究極のエピソードかもしれない。

ラストの後日談ではトーマスの成長が印象付けられる。劇的な変化ではなく、ほのかな灯りをともして、観客をほのぼのした気分にさせる。「きっとこれから彼は前に進んでいける」。そうと思わされるのである。

地味で小ぶりな映画だが、しみじみとした味わいは何物にも代えがたい。誰しも人生においてトーマスのような時期があるだけに、自分の経験を思い出して甘酸っぱい気分になるかもしれない。

主演のカラム・ターナーは、純真かつ繊細で傷つきやすい若者にピッタリの演技だった。もしかしたら、これからブレイクするかも。ケイト・ベッキンセイルピアース・ブロスナンシンシア・ニクソンジェフ・ブリッジスといった脇役たちのツボを心得た演技もこの映画の魅力。

さらに、サイモン&ガーファンクルの曲だけでなくボブディランの曲なども効果的に使われているので、そちらにもご注目を。

◆「さよなら、僕のマンハッタン」(THE ONLY LIVING BOY IN NEW YORK)
(2017年 アメリカ)(上映時間1時間28分)
監督:マーク・ウェブ
出演:カラム・ターナーケイト・ベッキンセイルピアース・ブロスナンシンシア・ニクソン、カーシー・クレモンズ、ジェフ・ブリッジス
丸の内ピカデリー新宿ピカデリーほかにて全国公開中
ホームページ http://www.longride.jp/olb-movie/

「ワンダーストラック」

ワンダーストラック
角川シネマ有楽町にて。2018年4月13日(金)午後1時10分より鑑賞(F-8)。

マーティン・スコセッシ監督による冒険ファンタジー「ヒューゴの不思議な発明」(2011年)の原作者ブライアン・セルズニックの小説の映画化「ワンダーストラック」(WONDERSTRUCK)(2017年 アメリカ)。脚本を手がけたのはセルズニック自身。そして監督は「エデンより彼方に」「キャロル」のトッド・ヘインズ

正直なところ、このコンビニには違和感がタップリだった。ヘインズ監督は人種差別や同性愛などをテーマにしてきた監督。それが冒険ファンタジーの作者と組んで、はたしてうまくいくのか?

この映画では、2つの異なる時代のドラマが交互に描かれる。最初のドラマの舞台は、1977年のミネソタ州ガンフリント。狼に追われる夢(これがラストのオチの伏線になる)を見る12歳の少年ベン(オークスフェグリー)。図書館員だった彼の母(ミシェル・ウィリアムズ)は交通事故で亡くなり、伯母の家に身を寄せている。父親は会ったこともなく名前も知らなかった。

そしてもう1つのドラマの舞台は、1927年のニュージャージー州ホーボーケン。厳格な父に育てられる少女ローズ(ミリセント・シモンズ)は、女優のリリアン・メイヒュー(ジュリアン・ムーア)に特別な思いを抱いていた。映画館に彼女の主演作を観に行くローズ。

この2つのドラマの大きな違いは映像にある。1977年のベンのドラマがカラー映像で描かれるのに対して、1927年のローズのドラマは、白黒映像で描かれる。しかも、サイレント映画のように音声がない。それは単に時代の違いを感じさせるだけでなく、ベンとローズのキャラクターにも大きく関係している。

ローズはリリアン・メイヒュー主演の映画を観に映画館に行く。その作品もサイレント映画のようだ。ところが、彼女が映画館を出てくると、そこには「トーキー登場」「あの女優がしゃべる!」といった宣伝文句がある。ローズが観た映画はサイレント映画ではなく、トーキー映画だったのだ。

だが、ローズには聴覚障がいがあって音が聞こえない。つまり、彼女のドラマをサイレント映画で描くことは、時代性だけでなく、音のない彼女の世界も表現しているのである。

一方、ある夜、ベンは母の遺品の中から父の手がかりを見つける。「ワンダーストラック」という本だ。その中にはニューヨークのキンケイド書店のしおりが挟まれていた。ところが、その直後にベンは雷に撃たれて耳が聞こえなくなってしまう。

こうしてローズ同様に、音のない世界に足を踏み入れたベンだが、彼のドラマパートは基本的に音声付きで描かれる。ただし、時々彼の心象風景を表現するように、わざと音を消した場面を挟み込む。これが実に効果的に作用する。ベンの心理がリアルに伝わってくるのである。

父を捜すためにベンは病院を抜け出して、ニューヨークへと旅立つ。初めて見たニューヨークの街の風景にドキドキしたり、不安を覚えるなど彼の揺れる心が繊細に描かれる。

これに対して、ローズもリリアン・メイヒューが舞台に立つと知って、彼女に会うために家を飛び出しニューヨークへと向かう。こちらのドキドキ感や不安もベンと同じように繊細に描かれる。

2人とも耳が聞こえないから会話に頼ることはできない。それぞれの表情やしぐさで、心の内を表現するしかない。それをきちんと成し遂げているのは、ヘインズ監督の演出に加え、オークスフェグリーとミリセント・シモンズという子役2人の演技によるところが大きい。2人とも様々に変化する表情が印象的だ。ちなみにミリセント・シモンズは、実際に聴覚障がい者だという。

映画の中盤で、2人は同じ場所に足を踏み入れる。ベンはキンケイド書店に行くが、店は閉店している。途方に暮れたベンは、声をかけてきたジェイミー(ジェイデン・マイケル)という少年のあとをついて行き、自然史博物館にたどり着く。

ローズはリリアンが稽古中の劇場に行くが冷たくされて、兄のウォルター(コーリー・マイケル・スミス)が働く自然史博物館に向かう。

というわけで、まったく時代の違う2人が同じ自然史博物館に入り込む仕掛けだ。ジェイミーとともに館内を探検し、秘密の部屋にまで入るベン。警官に怪しがられて、その目から逃れるローズ。子供たちの冒険ストーリー的な世界が展開する。そこでは同じ展示物を前にした場面を描くなど、2人をリンクさせる工夫もある。

終盤になって、ベンは懸案の父親捜しを再開する。別な場所に移転していたキンケイド書店に行き、そこである人物と出会う。むむ? もしかして、この人物ってあの人?

そうなのだ。ベンの父親の正体と出生の秘密は、けっして予想外なものではない。むしろ予想通りといってもいいかもしれない。しかも、そこは駆け足でどんどんと種明かしをしてしまう。何だかあっけない気はしたのだが、それでもベンの父親にとって重要な意味を持つジオラマを効果的に使い、魅力的な映像で描いている。ベンとローズの絆の強さ、そして人生の不可思議さが伝わってきた。

70年代のニューヨークの街の風景の作り込みにもこだわりが感じられるし、デビッド・ボウイの「スペース・オディティ」をはじめ、当時の音楽も効果的に使われている。

観る前の不安は杞憂に終わったようだ。「エデンより彼方に」や「キャロル」とはずいぶん違う感じの作品だが、それでも映像や人物の心理描写などにヘインズ監督らしさは充分に発揮された作品だと思う。観終わって温かな気持ちになれた。

それにしても、ジュリアン・ムーアの相変わらずの怪演がすごい。大女優リリアン・メイヒューを華麗に演じたかと思えば、終盤には全く違う表情を見せる。およそ同一人物とは思えない演技である。

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●『ワンダーストラック』(WONDERSTRUCK)
(2017年 アメリカ)(上映時間1時間57分)
監督:トッド・ヘインズ
出演:オークスフェグリー、ミリセント・シモンズ、ジュリアン・ムーアミシェル・ウィリアムズ、ジェイデン・マイケル、トム・ヌーナン、コーリー・マイケル・スミス
角川シネマ有楽町新宿ピカデリーほかにて全国公開中
ホームページ http://wonderstruck-movie.jp/

「きみへの距離、1万キロ」

「きみへの距離、1万キロ」
新宿シネマカリテにて。2018年4月8日(日)午後1時より鑑賞(スクリーン1/A-8)。

「運命の恋」なんて信じちゃいない。今まで一度もそんなことはなかったし、この先もきっとないだろう。ただし、映画の中なら話は別だ。ある種の寓話として、運命の恋を魅力的に描いた作品がたくさんある。

第85回アカデミー外国語映画賞にノミネートされた2012年の「魔女と呼ばれた少女」で知られるカナダのキム・グエン監督の新作「きみへの距離、1万キロ」(EYE ON JULIET)(2017年 カナダ)も、運命の恋を描いた作品だ。しかも、遠く離れた男女の恋である。

インターネットの普及した現代。メールやSNSなどを使って、遠く離れた2人がロマンスを繰り広げる話は、けっして珍しくはない。ただし、本作はそのディテールがユニークだ。2人を仲立ちするのはメールでもSNSでもなく、監視ロボットなのだ。

北アフリカの砂漠地帯にある石油パイプライン。そこでは石油泥棒を監視するためにロボットが活躍していた。それを1万キロ離れたアメリカ・デトロイトから遠隔操作しているのがオペレーターの青年ゴードン(ジョー・コール)だ。ある日、彼は監視ロボットを通してアユーシャ(リナ・エル=アラビ)という若い女性と出会う。彼女には相思相愛の恋人がいたが、親が決めた男性と無理やり結婚させられようとしていた。それを知ったゴードンは、2人を応援しようと考える。

ゴードンとアユーシャを結びつける監視ロボットの造型が良い。外見はクモのような形。6本足を器用に使ってユーモラスに歩行する。それでいて高性能の監視カメラと武器を装備。怪しい人物を監視して攻撃もできる。オペレーターの声を現地の言葉に翻訳して、相手と会話することも可能だ。このロボットが効果的に使われる。

ドラマ的に感心するのは、対照的な2つの要素を巧みに盛り込んでいるところだ。例えば、最新のハイテクに囲まれたデトロイトに対して、荒涼とした砂漠に包まれた北アフリカの土地柄。あるいは親の目が厳しい自宅周辺では厚いコートを着込み、街中の仕事場ではそれを脱いで開放的に過ごすアユーシャの服装。

その中でもとりわけ大きなのは恋愛模様の対照である。ゴードンはアユーシャの許されざる恋のことを知り、彼女たちを応援しようと心に決める。その背景にあるのは、ゴードン自身の恋愛だ。恋人にフラれて心に痛手を負い、同僚に勧められた出会い系アプリで出会った女性と、その場限りの関係を持ったりするゴードン。その痛手や虚しさが、アユーシャのこの上なくピュアでひたむきな恋に反応して、応援する気持ちが生まれる。2つの対照的な恋愛模様によって、こうしてドラマに説得力がもたらされるのである。

このドラマには、「ロミオとジュリエット」的な雰囲気も漂っている。アユーシャの恋は許されざる恋。親が決めた男性との結婚を逃れるため、彼女と恋人は国外脱出を計画する。終盤にはアユーシャが親によって幽閉されてしまう展開もある。

そういえば、ゴードンはロボットに「Juliet3000」と名付けている(原題の「EYE ON JULIET」はそこからきたものだろう)。また、アユーシャへの送金の際には「ロミオとジュリエット」というパスワードが使われる。表面的には最新ロボットが活躍する時代の先端を行くドラマだが、その根底にあるのは「ロミオとジュリエット」のような普遍性ある恋愛ドラマというわけだ。

ただし、シリアス一辺倒の恋愛ドラマではない。道に迷って盲目の老人をロボットが道案内するシーンなど、ユーモラスな場面もあちこちにあって、それがちょうどよいスパイになっていたりもする。

アユーシャは国外脱出の費用を稼ぐために、祖母の貴金属を内緒で売る。彼女の恋人も資金稼ぎのために危険な仕事を請け負う。そのことがドラマに波乱をもたらす。悲劇的な展開が観客の胸を直撃する。

だが、悲劇のままでは終わらない。その後に描かれるのは運命の恋の顛末だ。ゴードンはアユーシャの運命を変えるべく大胆な行動に出る。

そこに関しては、もう少しハラハラドキドキの展開にして盛り上げて欲しかった気はするのだが、最後の後日談ともども、観客を温かで爽やかな気分にしてくれることは間違いないだろう。

都合の良い展開があるし、話がスムーズに進みすぎるきらいもある。また、アユーシャを束縛する封建的な社会制度や、監視ロボットが活躍する時代性に迫るような洞察はない。しかし、それは意図したことだろう。キム・グエン監督がこの映画で描きたかったのは、運命の恋をめぐる現代の寓話なのだと思う。そういう点で実に後味の良い素敵な映画に仕上がっている。

ゴードンを演じたジョー・コールは、モニターを前にした表情や態度だけで感情を表現する難しい演技をきちんとこなしている。アユーシャ役のナ・エル=アラビの起伏に富んだ演技もなかなかのものだ。

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◆「きみへの距離、1万キロ」(EYE ON JULIET)
(2017年 カナダ)(上映時間1時間31分)
監督・脚本:キム・グエン
出演:ジョー・コール、リナ・エル・アラビ、ファイサル・ジグラ、ムハンマド・サヒー、ハティム・セディキ、マンスール・バド
*新宿シネマカリテほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://kimikyori.ayapro.ne.jp/

 

「ラブレス」

「ラブレス」
YEBISU GARDEN CINEMAにて。2018年4月7日(土)午前11時より鑑賞(スクリーン1/F-7)。

失踪事件をめぐるサスペンスは多数あるが、事件の真相そのものよりも、それが巻き起こす人間模様に重点を置いた作品も目につく。

父、帰る」(2003年)、「裁かれるは善人のみ」(2014年)などで世界的に評価の高いロシアのアンドレイ・ズビャギンツェフ監督による2017年のカンヌ国際映画祭審査員賞受賞作「ラブレス」(NELYUBOV)(2017年 ロシア・フランス・ドイツ・ベルギー)も、そうしたタイプの作品である。

この映画でまず注目してもらいたいのが映像だ。冒頭で最初に映る冬の森の風景。凍てついた寒々としたその映像が、映画全体の空気感を支配する。それ以降も、隅々まで計算された詩的で緊張感にあふれたショットが次々に登場する。

その森を通るのが、学校帰りの12歳の少年アレクセイだ。彼の両親は一流企業で働くボリス(アレクセイ・ロズィン)と美容サロンを経営するジェーニャ(マリヤーナ・スピヴァク)。2人は離婚協議中で口論ばかりしている。2人にはすでにそれぞれ別々のパートナーがいて、一刻も早く新生活を始めたいのだが、家が売れないためにまだ同居を続けていた。

2人の目下の最大の問題は、アレクセイをどちらが引き取るかだ。そのことについて、激しく言い争い罵り合う。「自分が引き取る」と言って譲らないのではない。新生活に邪魔だから「そちらが引き取れ」と押しつけ合っているのだ。アレクセイはそれを聞いて涙を流す。

その直後、学校に行ったはずのアレクセイがそのまま行方不明になってしまう。さすがに両親は慌てて警察に通報するが、多忙な警察は「事件性が確認できない以上すぐには動けない」と言い、ボランティアの人々に頼ることを勧める。ロシアでは警察に代わって(時には協力しながら)、こうしたケースに積極的に関わるボランティア団体が活躍しているらしいのだ。

こんなふうに、ドラマの背景にロシアの社会状況をチラチラと示すのもこの映画の特徴。例えば、ボリスの勤務する企業では、社長が厳格なキリスト教徒で社員の離婚を許さないという。そこにロシア社会が抱える息苦しさを見出すのは考え過ぎだろうか。

あるいは、ジェーニャをはじめスマホを頻繁に使う登場人物が目立つのだが、これはロシアに限らず世界的にコミュニケーション不全に陥っている人々を象徴しているとも解釈できる。そういう点で、単なる一家族のドラマを超越した深みのあるドラマに思えるのだ。

それにしてもアレクセイはどこに消えたのか。ボランティア団体のリーダーは、ジェーニャの母の家をあたるように言うが、そこにアレクセイの姿はなく、以前から険悪の仲だったジェーニャと母は激しくぶつかってしまう。

ボランティア団体は、夫婦の自宅マンションの周辺を捜索する。さらに、同級生からの情報に基づいて、廃墟となったビルの内部を捜す。だが、アレクセイは見つからない。しかも、天候が悪化して思うような捜索ができなくなってしまう。

このドラマは、息子の失踪によって変化する両親の心理を描き出す。といっても、安直に夫婦の愛が再生したりはしない。混迷する捜査と同様に、両親の心理も迷走し複雑な様相を呈するようになる。

全体を貫くのは、タイトルにもある「愛の不在」あるいは「愛の喪失」だろう。そもそもボリスもジェーニャも、息子のアレクセイへの愛を失っている。ジェーニャに至っては、自分の過去の人生を悔い「あの子を産まなければよかった」とまで語る。それが息子の失踪によって変わるかといえば、そんな単純なことにはならない。

もちろんボリスとジェーニャとの夫婦愛もとうに失われている。ジェーニャなどは、そもそも2人の間に愛などなかったとまで断言する。

では、2人と新たなパートナーとの間はどうなのか。ジェーニャは「初めて愛を知った」と言って相手に入れ込む。ボリスも妊娠中の相手と一見仲睦まじい。だが、これまたひと皮むけば何やら危うげなものを感じてしまう。前半でそれぞれのカップルのベッドシーンが、けっこう長目に描かれるのだが、あれはいったい何を意味するのか。

「お前ら、そんなに仲良くしてるけど、ホントは脆い関係なんじゃないの?」という冷徹な視線を感じるのはオレだけだろうか。ズビャギンツェフ監督は、愛というものに対して、かなり懐疑的な立ち位置にいるのではないか(少なくともこの映画では)。そう思えてくるのである。ミヒャエル・ハネケ監督ほどの意地悪さは感じないが、人間の負の側面を描き出しているのは間違いない。

さて、アレクセイは無事に見つかるのか。その答えは明確には提示されない。あることに対するボリスとジェーニャの反応から、観客それぞれが推し量るしかない。

そして最後に描かれる後日談が心を直撃する。数年後に新生活を始めているボリスとジェーニャ。その背後に流れるのはウクライナ紛争の混乱を報じるニュースだ。「結局のところ、争いばかりしている地球。ボリスとジェーニャの周辺だけでなく、世界中から愛なんて消えているんじゃないの?」と思ってしまったオレなのである。

ロシアのジャージを着て、ルームランナーで走るジェーニャのショットが、実に意味深なラストシーンだった。世界中の人々が幸せや愛を求めつつ、それが得られない現実を確実に照射した映画である。幸せや愛についての重たい問いかけが残る。

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◆「ラブレス」(NELYUBOV)
(2017年 ロシア・フランス・ドイツ・ベルギー)(上映時間2時間7分)
監督・脚本:アンドレイ・ズビャギンツェフ
出演:マリヤーナ・スピヴァク、アレクセイ・ロズィン、マトヴェイ・ノヴィコフ、マリーナ・ヴァシリヴァ、アンドリス・ケイス、アレクセイ・ファティーフ、セルゲイ・ボリソフ、ナタリア・ポタポヴァ
新宿バルト9ほかにて全国公開中
ホームページ http://loveless-movie.jp/

 

「ダンガル きっと、つよくなる」

「ダンガル きっと、つよくなる」
TOHOシネマズシャンテにて。2018年4月6日(金)午後1時10分より鑑賞(スクリーン1/E-10)。

女子レスリングといえば、最近の日本ではパワハラ問題で大騒ぎになっているわけだが、そんな暗い話題を吹き飛ばすかのような映画が登場した。といっても、舞台は日本ではなくインド。インド発の実話をもとにした涙と感動のスポ根ドラマ「ダンガル きっと、つよくなる」(DANGAL)(2016年 インド)である。

レスリングの有望選手でありながら、生活のために金メダルの夢を諦めたマハヴィル(アーミル・カーン)。彼は自分に息子ができたら、その夢を託そうと考えていた。だが、生まれてきたのは4人とも女の子。落胆するマハヴィルだったが、ある日、長女ギータ(幼少期:ザイラー・ワシーム、青年期:ファーティマー・サナー・シャイク)と次女バビータ(幼少期:スハーニー・バトナーガル、青年期:サニャー・マルホートラ)が、男の子とケンカして相手をボコボコにしたことを知り、2人に格闘センスがあることを確信する。翌日からギータとバビータにスパルタ特訓を始めるマハヴィルだったが……。

そこからは完全に「巨人の星」の展開だ。星一徹状態のマハヴィルが、2人の娘に有無を言わせずスパルタ訓練を課す。それがまあ常軌を逸した訓練で、ランニングやレスリングの基礎訓練はもちろん、川に飛び込ませたり、反抗すると髪の毛まで切ってしまうのだ。

それはもはや人権問題だろう! とツッコミたくもなるわけだが、それによって娘たちの健気さ、かわいらしさがよけいに引き立って、観客は彼女たちに圧倒的な同情の念を抱くのだから、なかなかよく考えられた展開である。

おまけに、けっして重たいタッチの映画ではない。むしろユーモアも散りばめた生き生きとした描写が目立つ。例えば、息子の誕生を期待するマハヴィルに、周囲の人々が変な迷信を実行させるくだりなど、笑いどころがけっこうある。

いわゆるコテコテのインド映画に比べれば控えめだが、音楽も効果的に使われる。姉妹の感情を歌い上げる曲などが印象的だ。短いカットをつないだテンポの良い映像も心地よい。そんなこんなで理不尽な父ちゃんの仕打ちにもかかわらず、暗い映画にはならないのである。

それにしてもマハヴィルを演じるアーミル・カーンがスゴイ。「きっと、うまくいく」「PK」など、映画ごとにまったく違う姿を見せる役者だが、今回は冒頭では筋肉ムキムキのいかにもレスラー風体型で登場。ところが、ドラマが進んで年をとるとお腹の突き出た中年太り男に大変身。まるで別人だ。

何でもこの映画では30キロ近く体重を増減させたらしい。これぞインドのデ・ニーロである。いや、ただ体型を変えただけではない。演技も今回の役柄に合わせて、寡黙で、コワイ父ちゃんを見事に演じ切っている。

こうして無理やり父にスパルタ訓練を課されていた娘たちが、あることから自ら進んでスポーツに打ち込むようになる……という展開もスポ根ドラマの定番だ。ただし、その「あること」というのが、同世代の女の子のひと言だというのが面白い。それは「あなたたちは幸せよ。私なんか家事ばっかりやらされて、14歳になったら知らない男と結婚させられて子育てするのよ!」というもの。

それをきっかけに2人はトレーニングに打ち込み、メキメキと強くなる。そうなのだ。あの女の子のひと言によって、彼女たちの成長はそのままインドに根強く残る女性差別との戦いにつながる仕掛けなのだ。

大会に出場しようとする姉妹に対して、周囲は冷笑して相手にしない。その壁に父とともに挑み、2人はそれをぶち破っていく。ここに至って理不尽父ちゃんの思い込みの暴走が、社会に対する問題意識に転化していくのである。

そういえば、同じくアーミル・カーン主演の「PK」は、インドの宗教問題を見事に喝破していた作品だった。そして今回は女性差別との戦い。うーむ、インド映画、意外に硬派ではないか。

トレーニングや試合シーンが本格的なのも、この映画の大きな魅力。というか、そこはスポ根ドラマの肝だから絶対にはずせない。幼少時のザイラー・ワシームとスハーニー・バトナーガルは、相当にトレーニングを積んだのではないだろうか。青年期の2人を演じたファーティマー・サナー・シャイクとサニャー・マルホートラも素晴らしい熱演だ。本物のレスリング選手と遜色がない。

後半は、父と娘のすれ違いと絆の強さが大きなテーマになる。姉のギータは国内大会で優勝してナショナルスポーツセンター(だっけ?)に入る。いわば自立への第一歩だ。しかも、そこには新たなコーチがいて(プライドばかり高いアホコーチなのもスポコンものの定番)、「過去を捨てろ」と言う。こうしてギータは父の手を離れる。

一方、父は寂しさを抱えつつ、妹バビータのトレーニングに力を注ぎ、彼女はどんどん強くなっていく。

だが、ギータの自立はそう簡単には行かない。彼女はスランプに陥り、それをきっかけに父と娘は再びタッグを組むことになる。

クライマックスは国際大会の舞台だ。ギータの初戦、準決勝、決勝の試合が、手に汗握るスリリングさと迫力で描かれる。その中でも決勝は、試合前の父の言葉によって、重要な位置づけが与えられる。それは、ギータ自身の戦いであるのと同時に、インド中の女性の自立と女性差別との戦いに対する応援歌でもあるのだ。

その決勝に関しては、もう一つの仕掛けが用意されている。ただでさえ盛り上がる試合が、それによってさらに盛り上がるわけだ。そして、最後にはもちろんカタルシスが!!

理不尽父ちゃんの暴走劇は、やがて父娘の強い絆のドラマとなって最後には観客を涙と感動の渦に巻き込む。さらにインドの女性をめぐる社会問題も織り込むなど、見応えは満点。こういう映画がつくれるのも、映画大国インドならではだろう。さすがデス。

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*映画館の写真も、チラシもなかったので、新聞広告など載せてみました。雰囲気は伝わるかな?


◆「ダンガル きっと、つよくなる」(DANGAL)

(2016年 インド)(上映時間2時間20分)
監督:ニテーシュ・ティワーリ
出演:アーミル・カーン、ファーティマー・サナー・シャイク、サニャー・マルホートラ、ザイラー・ワシーム、スハーニー・バトナーガル、サークシー・タンワル、アパルシャクティ・クラーナー
*TOHOシネマズシャンテほかにて全国公開中
ホームページ http://gaga.ne.jp/dangal/