映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「いぬむこいり」再び

この間の日曜日に、新宿K’s cinemaで公開中の「いぬむこいり」を再度鑑賞してしまった。お金に余裕のないオレだが、以前にも面白かった映画を2度観るケースがなかったわけではない(「この世界の片隅に」は4回観たし・・・)。だが、上映時間4時間5分の映画をもう一度観るというのは、それなりに勇気のいることだった。それでも、やはり観に行くことにしたのは、「いぬむこいり」の何やら不思議な魅力にとりつかれてしまったからである。

実際に観てみたら、やっぱり面白かった。一度目の驚きこそないものの、それでも飽きることがなかった。こんな破天荒で、ごった煮スープのような、カオスに満ちた映画はめったにお目にかからない。片嶋一貴監督の頭の中はどうなっているのか。難しい理屈を並べようと思えば、いくらでも並べられる気がするが、とにかくシンプルに面白い映画なのである。2度観ると、最初に観た時とはセリフの持つ意味が微妙に違って感じられたりするのも、とても興味深いことだった。

それにしても上映時間4時間越えなどというのは、上映する劇場にしても面倒な話で(上映回数が少ないと、それだけ収入も減るわけだから)、たとえ1日1回の上映で2週間のみの公開とはいえ、全国の先陣を切って上映した新宿K’s cinemaは偉い。拍手!!

おまけに80名強の定員の劇場で、1日1回のみの上映とはいえ、平日でもほぼ満席に近い入りだというから驚いた。これって、ある種の快挙ではないだろうか。わかりやすかったり、ダイレクトに感情を刺激するような映画も、それはそれでよいのだが、こういう変な映画(もちろん褒め言葉です)も、絶対に日本映画には必要だと思う。4時間5分に臆せず、劇場へ足を運んだ観客も偉い。こちらにも拍手!!(ていうのは自画自賛か!?)

今後、「いぬむこいり」は26日までK’s cinemaで公開された後、全国のあちこちで順次公開になる模様なので、お近くの方はダマされたと思って足を運んでみてはいかがでしょうか。「本当にダマされたじゃないか!」と怒っても、当方一切責任は負いませぬが(笑)。

ちなみに、この日は上映終了後に、出演の武藤昭平とPANTAによるミニライブがあり。片嶋監督と主演の有森也実も登場。

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「メッセージ」

「メッセージ」
TOHOシネマズ日本橋にて。2017年5月22日(月)午後7時より鑑賞(スクリーン7/J-18)。

宇宙人は存在するのだろうか。しないのだろうか。そんなことに関係なく、SF映画には宇宙人がひんぱんに登場する。彼らはもちろん宇宙船で地球にやってくる。その宇宙船は様々な形をしている。それはそうだ。本当の宇宙船なんて誰も見たことがないのだから。

そんな中でも、実にユニークな形の宇宙船が登場した。何かに似ている。確かに似ている。だが、思い出せない。いったい何に似ているのだろうか……。

家に帰ってネットの記事を見て思わず手を叩いた。“「ばかうけ」×映画「メッセージ」コラボ実現!”。そうか。栗山米菓のお菓子「ばかうけ」にそっくりだったのだ!!

というわけで、SF映画「メッセージ」(ARRIVAL)(2016年 アメリカ)を鑑賞した。テッド・チャンの短編集『あなたの人生の物語』に収められた表題作の映画化だ。いくら宇宙船が「ばかうけ」に似ているからといって、コミカルな映画などではない。むしろシリアスすぎるぐらいシリアスなドラマである。

主人公は言語学者のルイーズ・バンクス(エイミー・アダムス)という女性。映画の冒頭、そのルイーズが娘ハンナを出産し、ハンナが成長し、そして若くして病気で亡くなってしまう経緯がコンパクトに描かれる。美しく静謐なシーンが連なったこのパートが、実はあとあとで大きな意味を持ってくる。

そして登場する宇宙船。不思議な形の飛行物体(これが「ばかうけ」にそっくり)が、世界の12カ所に飛来する。いったいこれは何なのか。世界中が混乱する中で、ルイーズはアメリカ軍のウェバー大佐(フォレスト・ウィテカー)から協力要請される。ルイーズは同じく軍の依頼を受けた物理学者のイアン(ジェレミー・レナー)とともに、宇宙船の内部へ入り異星人と接触する。

こうした設定は特に奇抜なものではない。異星人もののSFではおなじみのパターンだ。しかし、陳腐な感じはまったくしない。何よりも映像が素晴らしい。宇宙船内部の独特の質感、半透明の壁越しにぼんやり見える7本足の異星人(ちょっとイカかタコっぽい?)。斬新で格調高い映像のおかげで、不穏な感じが途切れずに続いていく。重低音が印象的な音楽も、緊張感を高めるのに一役買っている。ごく普通のSFとして観ても面白い映画だと思う。

最初はまったくコミュニケーションが取れないルイーズたちだが、少しずつ異星人たちと意思疎通ができるようになる。異星人たちは墨を吐き出し(やっぱりイカ?)、それで図形のようなものを描く。それこそが異星人たちの言語のようだ。ルイーズたちはそれを解読しながら、彼らが何の目的で地球に来たのかを探ろうとする。

後半になると世界の混乱がエスカレートする。それに業を煮やした国の中から、中国を先頭に宇宙船を攻撃しようという動きが出てくる。

とくれば、地球人VS異星人による宇宙戦争が始まりそうにも思える。CG全開で迫力の戦闘シーンが繰り広げられるのか? だが、そんな単純な展開には至らない。むしろ複雑で深い世界へと突入していく。

この映画では、途中からルイーズの記憶らしきシーンがところどころに挟まれる。そうである。冒頭でも描かれたルイーズと娘とのシーンだ。これはルイーズの過去の記憶であり、彼女が抱えるトラウマを表したものだ……とばかり思っていたのだが。え? なに? そ、それって、もしかして……。

こうして訪れる終盤のどんでん返し。その詳しい内容は伏せておくが、ヒントになるのは異星人たちの時間に関する感覚だ。彼らには地球人のような時間の感覚がない。だから、何千年も先の出来事も見通すことができる。そして、ルイーズもまた……。

この驚愕の真実が明らかになるとともに、本作は哲学的な色彩を帯び始める。これこそが、この映画の最大の特徴だ。それは人間の生き方に対する問いかけである。

もしも未来の運命というものがわかっているとしたら、はたして人間はそれを避けるべく生き方を変えるのだろうか。だが、どんなに運命を変えようとしても、我々は最終的に死という運命からは逃れられない。ならば、未来を案じるよりも、それを受け止めて、今この時を精一杯に生きる方が大切ではないか。そんな重い問いが観客に投げかけられるのである。

ラスト近くで、すべてを理解して宇宙戦争を止めるべく行動するルイーズ。そして、最後に彼女が示した選択は、まさに運命を丸ごと受け入れて前に進むというものだ。その姿を通して、生きることに対する圧倒的な肯定感がスクリーンを覆いつくすのである。

うーむ。ここまで哲学的で、詩的で、美しいSF映画は久しく目にしていなかった。SF映画史に残る名作であるスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」やアンドレイ・タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」などとも、共通する資質を持った映画だと思う。そのぐらい深みのある作品だ。SF映画を侮ってはいけない!

カナダのドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は、「灼熱の魂」「プリズナーズ」「複製された男」「ボーダーライン」と違ったタイプの映画を撮りながら、すべて面白い作品に仕上げてきた。今回も期待にたがわぬ力作だ。ヴィルヌーブ監督は今年公開予定の「ブレードランナー 2049」(名作SF映画「ブレードランナー」の続編)の監督も務めている。そちらもますます楽しみになってきた。

●今日の映画代、1400円。事前にムビチケ購入済み。

「追憶」

「追憶」
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年5月19日(金)午後2時40分より鑑賞(スクリーン9/E-11)。

画面が立体的に見える3D映画はすでにおなじみだが、現在は4D映画というものも登場している。映画に合わせて座席が前後左右に稼働したり、風、水(霧)、香り、煙りなどの演出が体感できる技術で、MX4Dと4DXという二つの種類がある。オレは一度も体験したことがないのだが、テーマパーク感覚で映画を楽しむにはピッタリかもしれない。

だが、4Dでなくても香りがする映画がある。観ているうちに、映画の内容から独特の香りが立ちのぼるのである。

「追憶」(2017年 日本)(上映時間1時間39分)も香りのする映画だ。それはズバリ、「昭和」の香りだ。高倉健主演の「夜叉」「鉄道員(ぽっぽや)」をはじめ、数々の名作を手がけた大ベテランの降旗康男監督と撮影の木村大作が9年ぶりにタッグを組んだ映画。まさに昭和の名作を生み出したコンビである。

殺人事件をめぐるサスペンスと人間ドラマが融合した映画だ。最初に描かれるのは、25年前の出来事。主人公の四方篤をはじめ川端悟、田所啓太という親に捨てられた3人の子供たちが、喫茶店を営む涼子(安藤サクラ)という女性のところに身を寄せ、何かと面倒を見てもらう。そんな中、涼子を苦しめる悪い男の存在に業を煮やした3人は、その男を殺そうとする。その事件をきっかけに、彼らは散り散りになる。

続いて描かれるのは25年後の事件だ。成長して富山で刑事になった四方篤(岡田准一)は、ラーメン屋で突然、川端悟(柄本佑)から声をかけられる。25年ぶりの再会だ。川端は東京でガラス店を営んでいるものの、経営が苦しく、能登半島で土建会社を営む田所啓太(小栗旬)に金を借りに来たという。

その翌日、殺人事件が起きて四方が現場に駆けつけると、被害者はなんと川端だった。しかし、彼は川端と昨夜会ったことを誰にも言えない。それが知られれば、25年前の出来事に行きつく可能性がある。そこで彼は独自に捜査を始める。疑わしいのは、当然ながら川端が会うと言っていた田所だ。四方は25年ぶりに田所に会いに行く。しかし、田所は頑なに口を閉ざす。

最初に、サスペンスと人間ドラマが融合した映画だと言ったが、サスペンス的な面白さはあまりない。それを本気で追求するなら、25年前に何があったかはギリギリまで明かさないだろう。しかし、あえて事件の内容を冒頭近くで見せてしまうことで、過去の傷を背負った3人の男たちの葛藤を描くことに注力する。

彼らは今も25年前の事件を抱えて生きている。表面的には心の奥に閉じ込めて鍵をかけているようでも、常に彼らの生き方に影響を及ぼしている。それが次第に明らかになってくる。

四方は子供を失ったことをきっかけに妻と別居し、問題を起こしてばかりいる実母とぶつかる。川端は妻の父親から引き継いだ店を守るために、あらゆる犠牲を払おうとする。そして、田所も妻の父親の土建会社を引き継いでおり、妻は出産間近だ。

彼らに共通するのは家族の問題だ。25年前にある種の疑似家族が崩壊して以来、様々な葛藤を抱え、迷い苦しみ、ある者は家族を失い、ある者は新たな家族を作り、ある者は今ある家庭を必死で守ろうとしている。そんな彼らの心の内をじっくりとあぶりだす降旗康男監督。同時に、彼らの家族や涼子を慕う男の思いなども、きちんと描き出していく。

撮影の木村大作の映像もさすがに見事だ。特に北陸の海の荒々しい波、美しい夕日などの自然風景が素晴らしい。登場人物の心象風景をそのまま投影したような映像である。千住明による情感に満ちた音楽も、この映画にふさわしい。

というわけで、いかにも降旗康男監督と撮影・木村大作らしい情感あふれる世界が展開する。ただし、今回このドラマを演じているのは岡田准一小栗旬などの若い俳優たちだ。そこにこの映画の妙味がある。

3人の幼なじみを演じた岡田准一小栗旬柄本佑は、いずれも十分な存在感を発揮している。また、四方の妻を演じた長澤まさみ、田所の妻を演じた木村文乃なども陰影に富んだ演技を見せる。そして、忘れてならないのは、この映画が遺作となったりりィである。四方の母の悔恨の人生を全身で表現している。

この映画で残念なのは終盤のバタバタ感だ。特に殺人事件の真相には拍子抜けしてしまう。ああいう事件の構図にするのはかまわないが、もう少し伏線を張るなどして納得できる決着にしてほしかった。

また、田所の妻の出産にまつわる経緯と、それに関係して彼女の出生の秘密が語られるあたりも、何だか唐突な感じがする。ここまですべてが急速に収束されると、違和感を持たざるを得ない。この映画の上映時間は1時間39分。ドラマの中身からして、あと20分ぐらい長くして、もう少し時間をかけてじっくり描いてもよかったのではないか。

それでも日本映画、特に昭和の香りのする映画の伝統を、こういう形で継承した点で意味のある映画だと思う。時代は変われど、こうした映画には消えてほしくないものである。

●今日の映画代、1000円。毎週金曜はユナイテッド・シネマの会員サービスデー。

「マンチェスター・バイ・ザ・シー」

マンチェスター・バイ・ザ・シー
YEBISU GARDEN CINEMAにて。2017年5月17日(水)午後1時30分より鑑賞(スクリーン1/G-7)。

トラウマで心が凍りついたり、闇を抱えた人物を描くなら、舞台はやはり寒い土地が良い。高倉健主演の「駅 STATION」にしても、北海道を舞台にしたからこそ成立した映画であり、南国のリゾート地だったら全く違う作品になったことだろう。

第89回アカデミー賞ケイシー・アフレックベン・アフレックの弟)が主演男優賞を、そしてケネス・ロナーガン監督が脚本賞を受賞した映画「マンチェスター・バイ・ザ・シー」(MANCHESTER BY THE SEA)(2016年 アメリカ)も、舞台となる町がドラマと見事にリンクしている。

タイトルの「マンチェスター・バイ・ザ・シー」とは、アメリカのマサチューセッツ州にある港町の名前。夏になるとビーチに大勢の人がやってくるらしいが、この映画の冒頭で映る風景は何とも寒々しい。まるで主人公の凍りついた心を象徴しているようである。

マンチェスター・バイ・ザ・シーは、この映画の主人公リー(ケイシー・アフレック)の故郷だ。彼が兄のジョーカイル・チャンドラー)とその息子とともに、船に乗って釣りを楽しむシーンが登場する。ただし、これは過去の出来事だ。

現在のリーは、ボストン郊外で暮らしている。腕のいい便利屋だが、同時に不愛想で短気でトラブルばかり起こしている。どうやら、彼の心は壊れているようだ。いったい何があったのか。

まもなく、リーに故郷の病院から連絡が入る。兄ジョーが倒れたというのだ。そこでマンチェスター・バイ・ザ・シーの病院に駆け付けると、すでにジョーは死亡している。ショックを受けたリーは、葬儀などの準備もあり、しばらく故郷に滞在する。

そんな中、リーはジョーの遺言を預かった弁護士から、彼の息子でリーにとって甥にあたる16歳のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人に指名されていることを告げられる。リーは戸惑いつつ、パトリックに対してボストンで一緒に暮らすことを提案する。しかし、パトリックはこの町を離れたくないとリーの提案を拒否する。

それでもリーとパトリックはしばらく一緒に暮らす。こうして2人の交流が始まる。だが、それはかなりギクシャクしたものだ。パトリックは女の子にモテモテで、二股をかけていたりする。その一方で、やはり父の死とそれに伴う環境の変化にショックを受けている。表面的には平気なようだが時には取り乱したりもする。

一方、リーも問題を抱えている。彼はこの町にいる間、明らかに居心地が悪そうだ。周囲の人々の中にも、彼を快く思っていない人がいる。リーにはどうしてもこの町にいたくない事情があったのだ。

こうした現在進行形のドラマの合間に、絶妙のバランスで過去の出来事が挟み込まれる。そこで少しずつリーに起きた過去の悲劇が語られる。かつては、妻と3人の幼い子供とこの町で暮らしていたリー。しかし、ちょっとした過失から大きな悲劇が彼らを襲う。それがすべてを彼から奪い、今も心に深い傷をつけたままなのである。

この映画の素晴らしさは、まず脚本にある。傷ついた人間のドラマというと、パトリックなどとの交流を通して、リーが少しずつ心を開いて再生していく展開を予想する。しかし、このドラマは違う。安直な再生も癒しもない。人間が、そう簡単にトラウマを乗り越えられないことを観客にリアルに伝える。それはリーだけでなく、彼の元妻ランディやパトリックの実母も同様だ。

では、リーは何も変わらないのか。そうではない。パトリックとの交流は紆余曲折に満ちたものだが、それでも2人は少しずつ距離を縮めていく。そして、リーはまったくの孤独の世界から、多少なりとも外へ足を踏み出しかける。

だが、それでも乗り越えがたいものがあるのが人生だ。この映画の最大のヤマ場は、過去の悲劇以来、初めてリーと元妻ランディが本格的に言葉を交わす終盤のシーンだろう。お互いに言葉では言い表せない様々な思いを抱えて、どうしようもない2人。それがリーの最後の決断につながる。

それはありがちなハッピーエンドではない。しかし、それでも希望がないわけではない。ラストでリーは自宅のソファ・ベッドについて言及する。それは、ほんの微かな希望の灯火なのかもしれない。彼やパトリックの今後について、様々なことを考えさせられる余韻の残るエンディングである。

それにしてもケイシー・アフレックの圧巻の演技!! セリフ以外で様々な心情を物語る。ほとんど笑わないどころか、表情の変化自体が乏しいのだが、それでも目線やほんのわずかな顔の動きなどで多くのことを表現する。

悲劇的事件のあとで警察で事情を聞かれるシーン、兄の葬儀に参列した人々を複雑な表情で見つめるシーンなど、印象に残るシーンがたくさんある。そんな中で最も心にしみるのは、元妻ランディとの会話シーンだろう。ランディ役のミシェル・ウィリアムズの演技も素晴らしくて、やるせなくてたまらない。胸が張り裂けそうだ。このシーンだけでも絶対に観る価値がある。

要所で流れるクラシック音楽などの格調高いメロディーも、この映画に趣を与えている。

パトリックの女性関係など笑えるところもあるのだが、基本は物悲しさと重苦しさが続く映画である。それでも人間ドラマとしての深みは一級品であり、多くの観客の胸に響くはずだ。今年公開される洋画の上位にランクされるのは間違いない。

●今日の映画代、0円。YEBISU GARDEN CINEMAはユナイテッド・シネマ系列。ユナイテッド・シネマとしまえんで貯めた6ポイントで無料鑑賞。

「スプリット」

「スプリット」
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年5月15日(月)午前11時45分より鑑賞(スクリーン2/自由席)。

栄光などとは無縁のオレなので、栄光をつかんだ者の気持ちはわからない。だが、はた目には幸福に見えても、実際はそれほど穏やかな心持にはなれないのではないか。なぜならその栄光からあっさり転落することも珍しくはないのだから。

インド出身のM・ナイト・シャマラン監督といえば、1999年の「シックス・センス」が大ヒットし、ハリウッドで一気に栄冠をつかんだ男である。続く2000年の「アンブレイカブル 」も、なかなか面白い映画だった。だが、それ以降の作品は正直なところ駄作も目立った。栄光の座から転落して、完全な低迷期に入ったと見るのはオレだけではないだろう。

ところが、2015年の「ヴィジット」は原点に返ったような作品で、シャマラン復活を印象付けた。はたして、復活は本物なのだろうか。そんな中で登場した作品が、「スプリット」(SPLIT)(2017年 アメリカ)である。

冒頭のシーンは高校生の誕生パーティー。そこに出席していたケイシー(アニヤ・テイラー=ジョイ)、クレア(ヘイリー・ルー・リチャードソン)、マルシアジェシカ・スーラ)の女子高生たち。3人は車で帰り道に着こうとする。だが、発車直前に車に見知らぬ男が乗り込み、催眠スプレーで3人を眠らせて拉致監禁してしまう。

目を覚ますと3人は鍵の掛かった密室に閉じ込められている。そこにやってくるのが、潔癖症気味でいかにも冷酷非道そうな男。さっきの誘拐犯(ジェームズ・マカヴォイ)である。ところが、その後部屋には女装した誘拐犯が現われる。言葉も女言葉で別人のようだ。さらに、9歳の無邪気な少年なども登場。誘拐犯は、現われるたびに格好や性格が変っている。何じゃ? こりゃ。

実は、この男には23もの人格が宿っていたのだ。そして近いうちに“ビースト”と呼ばれる恐ろしい24番目の人格が現れるというではないか。はたして、ケイシーたちは脱出できるのか……。

最初に多重人格の映画と聞いた時には、それを最後のオチに持ってくるのかと思ったのだが、そうではなかった。誘拐犯が多重人格であることは、早いうちにわかってしまう。しかし、それがわかっても面白さは消えない。

描かれるのは3つのドラマだ。1つは監禁された女子高生たちが、何とか脱出しようともがくドラマ。それをケレン味たっぷりに描く。地下室をあちこち移動しながら、女子高生VS誘拐犯の対決が続く。得体の知れない相手に監禁された女子高生たちの恐怖がどんどん増幅する。必死で脱出を目指すものの失敗に終わり、彼女たちはますます窮地に追い詰められていく。

それと並行して描かれるのは、誘拐犯の男が女性の精神科医のところに行って、彼女と対話するドラマだ。その対話の中から、精神科医は男の異変に気付き、やがて行動を起こす。

3つめはケイシーの幼少時のドラマだ。彼女は常に反抗的で人を寄せ付けない。その原因は幼少時の出来事にある。その悲惨な事件を現在進行形のドラマに挿入する。彼女が今も抱える大きなトラウマが、誘拐犯の抱える心の傷ともシンクロして、ドラマに厚みを加えている。

映画の後半でケイシーは、誘拐犯の多重人格をうまく利用して脱出を試みる。このあたりの展開も面白いところだ。だが、そう簡単に脱出できはしない。最も恐ろしい24人目の人格の出現を前にして、3人の女子高生、誘拐犯、精神科医が交わり、恐怖と旋律は最高潮に達する。

それにしても誘拐犯の恐ろしさときたら半端ない。ただの多重人格ではなく、それによって外見も性格も変わってしまい、さらに肉体的にも変化するという設定が秀逸だ。冷静に考えれば、「そんなことあるのかな」と疑問にも思うのだが、話の運びがうまいので観ている間は気にならない。

その誘拐犯を演じるジェームズ・マカヴォイの怪演が素晴らしすぎる。若手演技派として知られているが、その才能をいかんなく発揮。人格ごとに表情やしぐさを使い分け、それぞれの違いを際立たる。内に秘めた底知れぬダークサイドは、背筋ゾクゾクものの恐ろしさである。

ケイシー役のアニヤ・テイラー=ジョイも、トラウマを抱える内省的な側面と、恐怖に身を震わせる絶叫クイーンの両面を演じて存在感を示す。

クライマックスでいよいよ登場する24番目の人格。いったん窮地を脱したかに見えるケイシーだが、恐怖は終わらない。その後もギリギリの場面が続き、ハラハラドキドキが途切れない。

ラスト近くでケイシーには、大きな転機が訪れる。警察官からある事実を告げられたケイシーの微妙な表情。彼女は、その後どんな選択をしたのか。観客の想像を促す余韻の残るシーンである。

そして、この映画の最後にはオマケがある。シャマラン監督の過去のある作品にまつわる「ミスター・ガラス」という言葉が飛び出す。しかも、そこにはあの人物がいるではないか!!

というわけで、本作が「シックス・センス」以来久々に全米3週連続1位に輝いたおかげで続編の製作が決定したとか。それは本作だけでなく、ラストに登場した過去のシャマラン作品の続編でもあります。シャマラン監督、復活できてよかったね。

ちなみに、自身の作品には必ず自ら出演するシャマラン監督。今回もバッチリ顔を出しているので、そこにもご注目を。

●今日の映画代、1400円。事前にムビチケ購入済み。

「いぬむこいり」

「いぬむこいり」
新宿Ks cinemaにて。2017年5月13日(土)午後12時30分より鑑賞(自由席・整理番号46)。

今までに何百本、いや確実に千を越える本数の映画を観てきたオレだが、あらためて「映画とは何だ?」と問われると困惑してしまう。ハリウッドのエンタメ映画も、前衛的なアート映画も、映画であることには変わりないだろう。だとすれば、映画とは「何でもあり」の世界なのだろうか。

映画「いぬむこいり」(2016年 日本)は、いろんな意味で凄い映画だ。まず凄いのが上映時間だ。何と4時間5分もある。過去に瀬々敬久監督による2010年公開の「ヘヴンズストーリー」(上映時間4時間38分)、濱口竜介監督による2015年公開の「ハッピーアワー」(上映時間6時間17分)など長尺映画は何本か観てきたが、これらは徹底してリアルさを追求していた。しかし、本作はそれとはかなり異質な映画だ。

物語は全4章で構成されている。主人公は東京の小学校教師・梓(有森也実)。彼女の家には先祖代々伝わる伝説がある。それは、お姫様と軍功をあげた家来の犬が結婚するという不思議な犬婿伝説だ。この伝説が物語の基軸になっている。

第1章。冒頭で梓は人形劇で生徒たちに伝説を語る。しかし、まもなく彼女は学校で問題を起こし、フィアンセに逃げられてしまう。そんな中、空からお告げの声が聞こえる。「イモレ島へ行け。そこには、おまえが本当に望んでいる宝物がある」と。梓は全てを捨てて、宝物を求めてイモレ島へと向かおうとする。

第2章。梓は飛行機でイモレ島への経由地の沖之大島に着く。ペテン師のアキラ(武藤昭平)にだまされた梓は、三線店の店主(柄本明)に救われる。その島では悪徳市長(ベンガル)が圧政を敷き、それに対して自称革命家(石橋蓮司)たちが反撃の機会を狙っている。そして、梓は彼らに推されて市長選挙に出馬することになる。

第3章。イモレ島に向かったものの難破して無人島に流れ着いた梓は、イモレ島のナマ族の国王の息子・翔太(山根和馬)と出会う。ところが、彼は犬神に噛まれたことが原因で犬男に変身してしまう。それでも翔太を愛する梓。しかし、そこに彼の婚約者がやってきたことから、梓は再びイモレ島を目指す。

第4章。ついにイモレ島に着いた梓。そこではナマ族とキョラ族が70年に渡って激しい戦争を繰り広げている。キョラ族の女王卑弥呼緑魔子)とナマ族の国王ナマゴン(PANTA)は、聖地マブイの丘をめぐって決戦に臨む。そんな中、はたして梓は本当に宝物を見つけることができるのか……。

あらすじを聞いても「なんじゃ、そりゃ?」と思うのではないだろうか。ジャンル分けは不能。主人公の成長物語、冒険ファンタジー、政治風刺劇、異形の者とのロマンス、戦争ドラマ、アングラ演劇などなど、いろんな要素がギッシリ詰まっている。まるで、おもちゃ箱をひっくり返したような大騒ぎなのである。

けっして難解な映画ではない。しかし、予想もしない展開が次々に続いてあっけに取られてしまう。それがどこに着地するのかも予測不可能だ。おかげで、ついついスクリーンに引きずり込まれてしまう。良い映画か悪い映画かなどという評価は、もはやどうでもよい。面白い。とにかく面白い。だから、4時間5分という長さを感じなかった。

悪ふざけ気味のユーモアも魅力だ。冒頭近くで梓が生徒からカンチョーされて失神したり、フィアンセを取られた相手がとんでもない女だったり、第2章で梓がキャピキャピの衣装で選挙運動を展開したり。あまりにもバカバカしくて、無条件に笑ってしまうのである。

そして、何といっても目を引くのが個性派俳優たちの演技だ。主演の有森也実は、ひょうきんな面からシリアスな面まで多彩な演技を披露。終始梓と関わりを持つペテン師役の武藤昭平もいい味を出している。革命家の石橋蓮司の規格外の演技は怪演としか言いようがないし、彼のかつてのバンド仲間(2人の若き日の写真が爆笑モノ)役の柄本明の味のある演技も見事。悪徳市長役のベンガル、武器商人役の江口のりこなども存在感たっぷりだ。みんな何かに憑かれたような演技である。

なかでも驚いたのは、4章に登場する緑魔子だ。70歳を超えているというのに、かつてのアングラ演劇を思い起こさせるブチ切れた演技で、キョラ族の女王を熱演している。これにはビックリである。彼女と敵対するナマ族国王を演じたPANTAも、底知れぬ恐ろしさを漂わせる演技だった。

ラストは神話的な世界に突入する。そして、梓の旅の落とし前がつけられる。とはいえ、ありがちな再生や成長をスクリーンに刻むわけではない。希望を感じさせはするものの、それでもかなりアクの強い結末だ。赤ん坊の顔がぁぁぁぁぁ~~~!!

うーむ、この映画を的確に表現することは困難である。パンク、カオス、アバンギャルド、奇想天外、荒唐無稽、縦横無尽……どんな言葉を使っても当たっているような、いないような。あえていえば、かつて本作の片嶋一貴監督がプロデューサーを務めた「ピストルオペラ」などの鈴木清順監督の作品や、若松孝二監督の作品などと共通するところがあるかもしれない。

いやいや、やっぱりそれとも違うな。唯一無二。こんな日本映画は過去に観た記憶がない。理屈を超えて、桁外れのパワーに圧倒されてしまった。何度も夢に出てきそうな映画である。よくもこんな映画を構想し、実際に作ってしまったものだ。これは快挙、いや怪挙か?

この映画を観て改めて思った。「やっぱり映画って自由なんだな」と。この先も、まだまだ想像もしない映画に出会えそうである。

●今日の映画代、先日のイベントでサイン入りパンフと合わせて2500円で購入。定価は鑑賞券2000円、パンフ1000円だからずいぶんお得。

*この日は公開初日ということで舞台挨拶あり。片嶋一貴監督、有森也実武藤昭平、山根和馬PANTAが出席。

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「PARKS パークス」

「PARKS パークス」
テアトル新宿にて。2017年5月10日(水)午後1時50分より鑑賞(D-19)。

井の頭恩賜公園(井の頭公園)は、東京都武蔵野市三鷹市にまたがる都立公園だ。園内は三代将軍徳川家光が命名したとされる井の頭池とその周辺、雑木林と自然文化園のある御殿山、そして運動施設のある西園と、西園の南東にある第二公園の4つの区域に分かれている。また、吉祥寺通りを挟んで井の頭自然文化園という動物園があり、日本で飼育されたゾウの長寿記録を持つ「はな子」がいたが、惜しくも2016年5月26日に69年に及ぶ生涯を閉じた。合掌。

などと偉そうに言っているが、ただの受け売りである。実のところオレはほとんど、この地に足を運んだことがない。別に避けていたわけではない。同じ東京でも生活圏が違うし、近隣に知り合いもいなかっただけだ。

そんな井の頭公園は、1917年(大正6年)5月1日が開園日。つまり、今年は開園100周年。それを記念して映画「PARKS パークス」が製作された。企画したのは、公園に近い吉祥寺で長らく営業していた(2014年6月閉館)映画館バウスシアターの元総支配人、本田拓夫氏だ。

この映画は、井の頭公園と吉祥寺の街を舞台に、50年前に恋人たちが作った曲と、現代に生きる3人の若者たちがつながっていく様子を描いた青春音楽ドラマである。

主人公は井の頭公園のそばにあるアパートに住む女子大生の純(橋本愛)。恋人にフラれ、大学からは留年通知が届き途方に暮れていた。そんな中、見知らぬ女子高生ハル(永野芽郁)が突然訪ねてくる。亡き父・晋平について小説を書くために、晋平の恋人・佐知子の消息を求めて、彼女の住んでいた住所にやって来たというのだ。

ゼミのレポートの題材になればと考え、純は佐知子探しを手伝うことにする。やがて2人は佐知子の孫トキオ(染谷将太)と出会い、佐和子が亡くなったことを知らされる。数日後、トキオは祖母の遺品の中からオープンリールテープを発見する。再生してみると若い頃の晋平と佐知子の歌声が入っていた。興奮した3人は、劣化して途中で切れているその曲を完成させようとするのだが……。

正直なところご都合主義が目につくドラマだ。純の住むアパートは、ハルの父・晋平の恋人・佐知子が50年前に住んでいたところ。それにしてはきれいすぎだろッ! リフォームしたのか? 建て替えたのか? おまけに、そこで出会ったばかりの純とハルがすぐに親しくなって、一緒に佐和子探しを開始しただけでなく、挙句は一緒に住むというのも都合よすぎでしょ。

とまあ、ツッコミどころは満載なのだが、前半はそれを上回る魅力がある。何よりも50年前の1本のテープに録音されたラブソングを、現代の若者たちがよみがえらせることで、過去と未来をつなぐ発想が秀逸だ。3人の若者は曲を仕上げるために、公園の音を録音したり、当時の出来事を調べたり、50年前の恋人たちの心情に思いをはせたりと奮闘する。

そんな彼らの姿を、「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」の瀬田なつき監督が軽快に、生き生きと、そしてユーモラスに描写する。3人のセリフはまるでアドリブのように自然だ。それもまた青春映画としての瑞々しさを際立たせている。

若者たちが完成を目指す曲をはじめ、劇中の楽曲も魅力的だ(音楽監修はトクマルシューゴ)。いかにも昔のフォークソング風な曲が、ラップも加わった現代風の曲によみがえったのには驚かされた。

もちろん開園100周年記念映画だけに、井の頭公園や吉祥寺の風景もふんだんに織り込まれている。特に井の頭公園の四季折々の豊かな表情が素晴らしく、この場所に縁遠い人オレも心を動かされてしまった。

さて、映画の後半では、吉祥寺で開催される音楽フェスに純たちが出演して、そこで例の曲を披露することになる。メンバーを集めて、バンドを組んで、着々と準備を進める。当然ながら、そこには困難もあるだろう。しかし、彼らはそれも乗り越えて、クライマックスのステージで大燃焼、という展開を期待したのだが……。

これから観る方もいると思うので詳しいことは伏せておくが、後半は青春映画としての魅力が失速してしまう。ステージ直前のメンパーの食中毒、曲に不満を持つハル、過去のトラウマに悩まされる純? 何だかいろんなものがごちゃごちゃと登場して、まとまりがないのだ。その後の純とハルの亀裂も不自然に思える。

昔の恋人と今の若者が会話をするような実験的映像もたくさんあるのだが、後半はそれがうわっ滑りしているような感じを受けた。ありきたりの青春映画にしたくないという意図はわかるのだが、何だかとっ散らかってグダグダになってしまった印象がぬぐえない。個人的には、そのあたりをもう少し練り上げて欲しかった気がする。

それでも例の曲に乗って、街の人たちが踊るMV風の映像などは盛り上がるし、井の頭公園や吉祥寺の街の魅力は十分に伝わってきた。作り手の熱い思いが感じられる。そういう意味ではあと味は悪くないし、一見の価値がある映画といえるかもしれない。3人の若者たちを演じた橋本愛永野芽郁染谷将太の生き生きとした演技も魅力である(染谷将太はラップを披露)。

ちなみに、「井の頭公園のボートにカップルで乗ると別れる」という噂があるのだが(劇中にもその話が登場)、本当だろうか。昔から一度試してみたいと思いつつ、そのチャンスがないまま今日まで来てしまったのが残念である。

●今日の映画代、1100円。毎週水曜のサービスデー料金。