映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「修道士は沈黙する」

修道士は沈黙する
Bunkamura ル・シネマにて。2018年3月20日(火)午後12時40分より鑑賞(ル・シネマ1/C-6)。

アルフレッド・ヒッチコック監督の「私は告白する」(1953年)は、強盗殺人の罪を告白された神父が、自ら罪を着せられながら聖職者として口を閉ざすという物語。この映画を多分に意識したと思われるのが、イタリアのロベルト・アントー監督の「修道士は沈黙する」(LE CONFESSIONI)(2016年 イタリア・フランス)である。劇中にも、「私は告白する」の話が登場する。

主人公はイタリア人修道士ロベルト・サルス(トニ・セルヴィッロ)。彼が、バルト海に面したドイツのリゾート地ハイリゲンダムの空港に降り立つところからドラマが始まる。まもなくサルスは迎えの車に乗って高級ホテルに向かう。そこでは、G8財務相会議が開催予定だった。

このサルスという修道士、最初から何だか怪しい雰囲気である。外見からしていかにもワケあり風で、ICレコーダーに「天国の天使が自らの務めを怠るとき 主は天使を永遠の暗い部屋に閉じ込める」なんてことをつぶやいて録音するのだ。実は、この言葉は本作のテーマと大きくかかわってくる。そしてこのICレコーダーも、ドラマで重要な役割を果たすことになる。

それにしてもG8財務相会議に、なぜ修道士が来ているのか。それは会議前夜の国際通貨基金IMF)のダニエル・ロシェ専務理事(ダニエル・オートゥイユ)の誕生祝いで明らかになる。そこには各国の財務大臣に加え、ロックスター、絵本作家、修道士という異色の3人のゲストが招かれていた。その修道士こそがサルスというわけだ。

しかも、サルスはただのゲストではない。ロシェが彼を招いた真の目的は、サルスに告解(キリスト教で聖職者に自らの罪を明かす行為)をしてもらうためだったのだ。だが、サルスがロシェから告解を受けた翌朝、ロシェは死体で発見される……。

というわけで、ロシェの死の真相をめぐるサスペンス・ミステリーが本作のドラマの核になる。はたしてロシェは自殺なのか、他殺なのか。各国の大臣やゲストたちはいずれも怪しい人ばかりだ。

その中でも、サルスは最後に会った人物として警察の捜査対象になる。しかし、サルスは戒律に従って沈黙を貫く。彼がロシェの告解を録音した可能性のあるICレコーダーはどこかに消えてしまう。監視カメラの映像や関係者からの聴取をもとに、警察は事件の真相を必死で探るが、なかなかたどり着けない。

……というあたりは、この手の定番パターンの展開とはいえ、なかなか観応えのある真相追及ドラマになっている。

そこで効いているのが、やっぱりサルスの意味深な言動だ。「戒律に従って沈黙を貫く」という設定もあって、セリフは必要最低限。それ以外の部分で様々な表情を見せる。例えば、告解の内容を問う大臣たちに対して、彼は鳥の絵を描いて示す。あるいは海辺で法衣を脱ぎ、突然泳ぎ出す。何とも大胆不敵で、謎めいた行動だ。そんなサルスを演じるトニ・セルヴィッロの含蓄ある演技が見ものである。

この映画はただのサスペンス・ミステリーでは終わらない。G8財務相会議では、ある取り決めが秘密裏に行われることになっていた。それは貧しい国にとって不利な取り決めであることが示唆される。それを通して、物質主義にまみれ、金が金を生み出すマネーゲームに没入する現在の権力者たちの姿が露わになる。そう。この映画は社会派映画でもあるのだ。

終盤では、それがさらに明確になる。大臣たちを前にしてサルスは、ロシェが彼に示したあるものを明らかにする。それが何かは伏せるが、冒頭近くで何気なく挟まれるシーンが伏線になっている。それに関してサルスの意外な前身も明かされる。

さらに、その後の葬儀シーンでサルスは自らの思いをストレートに語る。物質主義と世界的な格差の拡大に対して強く警鐘を鳴らすのである。その言葉はアンドー監督自身のメッセージと言ってもいいだろう。

ラストはややファンタジー風。サルスに従順に従う犬を通じて、もしかしたらサルスはこの世のものではなく、本物の神なのではないかとさえ思わせる。なかなかウィットに富んだエンディングだと思う。

あえて欠点を言えば、いろんな人物が激しく出入りするのと、終盤でドラマのポイントになるものが専門的でわかりにくいところだろうか。

とはいえ、監督の思いはよく伝わってくるし、今の世界の政治経済を巧みに反映させた社会派ミステリーとして、見応えがあるのは間違いない。

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◆「修道士は沈黙する」(LE CONFESSIONI)
(2016年 イタリア・フランス)(上映時間1時間48分)
監督:ロベルト・アンドー
出演:トニ・セルヴィッロ、ダニエル・オートゥイユコニー・ニールセン、ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ、マリ=ジョゼ・クローズ、モーリッツ・ブライブトロイ、ランベール・ウィルソン、リヒャルト・サメル、ヨハン・ヘルデンベルグ伊川東吾、アレクセイ・グシュコフ、ステファーヌ・フレス、ジュリアン・オヴェンデン、ジョン・キーオ、アンディ・デ・ラ・トゥアー、ジュリア・アンドー、エルネスト・ダルジェニオ
Bunkamura ル・シネマほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://shudoshi-chinmoku.jp/

「去年の冬、きみと別れ」

去年の冬、きみと別れ
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2018年3月18日(日)午前11時40分より鑑賞(スクリーン2/E-8)。

いや、本当は仕事的に映画など観ている場合ではないのだ。ヒジョーにヤバい状況になっているのだ。もしかしたら崖っぷちかもしれないのだ。だが、それでも足が向いてしまうのが映画貧乏の恐いところ。

それにしても何だか最近、猟奇殺人事件を扱った映画が多いような気がするのはオレだけ? まあ、現実におぞましい事件がけっこう起きていたりするわけだから、それが投影されているのかもしれないが。

去年の冬、きみと別れ」(2018年 日本)も、かなりエグイ事件をネタにしたサスペンス・ミステリーだ。原作は芥川賞作家・中村文則の小説。

最初に登場するのは、盲目の若い女性が点字で手紙を書くシーン。続いて壮絶な火災現場が映し出される。そこでは盲目の女性が焼死し、彼女を監禁・殺害した容疑でカメラマンの木原坂(斎藤工)が逮捕される。ところが、木原坂の姉・朱里(浅見れいな)が手配した弁護士の力もあり、木原坂が重罪に問われることはなかった……。

というドラマの発端となる事件を手際よく、コンパクトに提示した導入部が印象的。何しろ監督は、サスペンス・ミステリーの佳作「犯人に次ぐ」(2007年)の瀧本智行。全編に渡って、この手のドラマの壺を押さえた手際よい演出が光る。

そして始まる「第二章」。え? 何で第一章じゃないの? そのワケは最後まで観ると理解できます。いずれにしても、耶雲恭介(岩田剛典)というフリーライターが雑誌に企画を持ち込むところから話が始まる。その企画は冒頭に登場した不可解な焼死事件のスクープ記事。耶雲は木原坂には秘密があると確信し、事件の真相を探ろうというのだ。

前半は、耶雲が取材を重ねて真相に迫る様子が描かれる。木原坂本人に接近し、様々な角度から事件について問いただすと同時に、彼に関わりのあった人間からの証言を集める。そんな中から、不気味で謎めいた木原坂の素顔が浮かび上がる。そして、木原坂と姉の朱里の幼少時に起きた恐ろしい事件も浮上する。

実のところ、このあたりまでのストーリーに奇抜さはない。児童虐待に起因するある事件、それによってゆがんだ姉弟の性質と異常な関係性といったネタは、既視感たっぷりだ。木原坂が耶雲の婚約者の百合子(山本美月)に接近する展開も、十分に予想がついてしまう。

ただし、それでは割り切れない何かが感じられる。耶雲が企画を持ち込んだ雑誌のデスク小林(北村一輝)も、この一件に深くかかわっていることが判明し、さらに大きな事件の全体像を予感させる。

まもなく、再度の悲劇が起きる。そしてドラマは動き、すべての真相が明らかになる。なんだ、やっぱりそれだけのことだったのね。真相は意外に単純。デカい全体像を予感したオレがバカでした。だけど、この映画、まだ上映時間が40分以上も残ってるのにどうするんだ?

と思ったら、そこから先に待っていたのは驚愕の展開だった。ただ事件を追っていただけに見えた耶雲自身にも大きな秘密があり、それが彼を動かす原動力になっていたのだ。そのあまりにもおぞましい策略ときたら!!!

そうした真相を、耶雲が書いた本で種明かしする構図が効果的だ。第二章からドラマが始まる構成の理由が判明し、そこまでに張られた数々の伏線が見事に回収される。

このドラマの根底にあるのは純愛だ。それを示す情感あふれるシーンも挟み込まれる。とはいえ、数々の凄惨で恐ろしい出来事のせいで、素直に感動できるかどうかは微妙なところ。むしろオレ的には人間の悪魔性が強く印象に残る。

本作の原作は未読なのだが、中村文則の作品はもっと人間の内面をあぶりだしているのではないだろうか。人間の奥底にある闇や狂気、復讐心などについて深く掘り下げているのではないかという気がする。

しかし、映画ではそのあたりは薄味な感じだ。それよりも驚愕のストーリー展開や、サスペンスとしての面白さを追求することに注力している。

確かに猟奇殺人事件というネタだけでも重たいのに、そこに人間の本質に関わる重厚なテーマ性まで載せたら、そりゃあ観客が引いてしまうかもしれない。あえてそれを避けて、エンターティメントとしての道を突き進んだのかも。これはこれでアリだろう。何しろ面白いのは確かなのだから。

役者は全体的に抑制的な演技で、この映画に合っている。主演の岩田剛典は「EXILE」「三代目J Soul Brothers」のパフォーマーらしいが、アクのなさが逆に底知れなさを感じさせる印象的な演技だった。浅見れいなの怖さ&エロさ、盲目の女性役の土村芳のピュアな演技もなかなかのもの。

原作を読んだ人には物足りないかもしれないが、普通に面白い映画だと思う。まだ原作を読んでいない人は、映画を観てからにしたほうがよいのでは?

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◆「去年の冬、きみと別れ
(2018年 日本)(上映時間1時間59分)
監督:瀧本智行
出演:岩田剛典、山本美月斎藤工浅見れいな土村芳Mummy-D利重剛小林且弥山田明郷堀内正美林泰文永倉大輔、毎熊克哉、松田珠希、菊地麻衣、大山蓮斗、辻大樹、佐藤貢三、円城寺あや、でんでん、北村一輝
丸の内ピカデリーほかにて全国公開中
ホームページ http://wwws.warnerbros.co.jp/fuyu-kimi/

 

「時間回廊の殺人」

「時間回廊の殺人」
シネマート新宿にて。2018年3月17日(土)午後2時5分より鑑賞(スクリーン1/F-11)。

自慢ではないが、いわゆる韓流ブームが起きるずっと前から、韓国の映画やテレビドラマには注目していた。特に映画は1998年の「八月のクリスマス」で衝撃を受けて以来、話題作はできるだけ観るようにしてきた。印象深い作品はたくさんあるが、1999年の「シュリ」もその一本。南北分断を背景にしたラブ・サスペンスで、日本でもヒットしたから覚えている人も多いだろう。

その「シュリ」でヒロインを演じていたのがキム・ユンジン。彼女は、その後アメリカのテレビシリーズ「LOST」に出演して国際的に知られる存在になった。そのキム・ユンジンが「国際市場で逢いましょう」以来、3年ぶりに出演した韓国映画が「時間回廊の殺人」(HOUSE OF THE DISAPPEARED)(2017年 韓国)である。

舞台となるのはウィルン洞34番地にある古い家。そこに住むのはミヒ(キム・ユンジン)とその夫、そして2人の子供だ。1992年11月11日。ミヒは気を失って倒れている。意識が戻ると家の中が何やら普通でない。地下室に下りてみると、そこには夫の死体があった。そして長男はミヒが姿を目撃した次の瞬間に、どこかに消えてしまう。まもなく、ミヒは夫と息子を殺害した罪で逮捕され、無実を訴えるものの裁判で懲役30年が求刑される。

ドラマの大枠は殺人&失踪事件をめぐるサスペンス・ミステリー。同時にホラー的な要素もある。冒頭近くに早くも映る謎の影。さらに、死体と思った夫が一度は起き上がってくるおぞましい出来事。このあたりからホラー色がプンプンと匂ってくる。

事件から25年後、ミヒは仮釈放される。彼女は、行方不明の息子を捜す手がかりを求めて事件現場となった家に戻る。そんな彼女のもとを元受刑者のケアにあたるチェ神父(オク・テギョン)が訪ねてくる。

そこからは現在のドラマと、過去のドラマが交互に描かれる。過去のドラマで描かれるのは、25年前の殺人事件に至る経緯だ。実はミヒは前夫と死別し、警察官の夫と再婚していた。その夫は彼女の連れ子の長男に冷たく接し、実子の次男を溺愛する。

そんな中、ミヒたちが住む家に正体不明の侵入者が出現する。怖くなったミヒが地相鑑定士に家を見てもらうと「この家には問題がある!」と逃げ帰ってしまう。さらに今度は巫女を呼ぶと驚愕の出来事が起きる。

一方、現在のドラマでも、刑務所から戻ったミヒは何者かの気配を感じ取る。そんなミヒが頑なに心を閉ざすのを見たチェ神父は、25年前の事件がミヒの心を縛り付けていると感じ真相を調べ始める。その結果、その家にまつわる驚きの過去を突き止めるのだ。

というわけで、ドラマが進むにつれてどんどんホラー色が濃くなっていく。いわゆるお化け屋敷もののホラーだ。古い家で心霊現象や怪奇現象が起きて、住人を怖がらせる。地下室の謎の扉の存在をはじめ道具立てはバッチリ。不気味で妖しく、背筋をゾクゾクさせるような雰囲気の作り方も巧みだ。ホラー映画としての壺をキッチリ押さえて、観客の目をそらさせないのである。

だが、この映画の真骨頂はそこからだ。チェ神父が調べた「11月11日」にまつわる数々の出来事。それをふまえて、現在パートではついに今年の11月11日がやってくる。同時に過去パートでは25年前の11月11日に何が起きたかが描かれる。

途中からすでに先の読めない展開に突入していたドラマは、さらに予想もしない展開へと突き進む。それまでの現在と過去が入り乱れ、まったく違う世界が現出する。え? そうなの? まさかそんな……。

いったいどんな仕掛けが用意されているのか。ネタバレになるから詳細は伏せるが、そのヒントは「時間回廊の殺人」という邦題にある。ああいう仕掛けは全く予想外だった。完全に度肝を抜かれた。

あまりにも予想外だったので、どこかにきっと穴があるはずだ、と考えてみたのだが、にわかにはそれが見つからない。いや、むしろそれまでの数々の伏線をキッチリ回収しているから大したものだ(最後の最後で、チェ神父の意外な秘密を見せるあたりも見事)。この脚本、憎らしいほどよく考えられていると思う。

おまけにラストに提示されるのは、圧倒的な母の愛だ。「愛はすべてを超える」ではないが、それまでのすべてのドラマを母の愛で包み込んで、ラストで一気に爆発させる。サスペンス・ミステリー、ホラー、そしてSF的世界まで縦横無尽に行き来する大胆なドラマでありながら、ラストは王道の母の情愛を示して、観客を感動の境地に引きずり込んでしまうのである。

25年前のまだ若いヒロインと、現在の白髪のヒロインの両方を演じたキム・ユンジンの演技が素晴らしい。外見だけでなく、それぞれの内面をキッチリと演技に反映させている。おまけに怪奇現象に対するリアクションなど、ホラー映画にも意外に向いていることを再認識した。

そして、チェ神父役は人気グループ「2PM」のオク・テギョン。怖い映画にもかかわらず、女性の観客が多かったのはそのせいなのか?

いやぁ~、それにしても韓国映画はやっぱり面白い。これからも要チェックなのだ。

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◆「時間回廊の殺人」(HOUSE OF THE DISAPPEARED)
(2017年 韓国)(上映時間1時間40分)
監督:イム・デウン
出演:キム・ユンジン、オク・テギョン、チョ・ジェユン
*シネマート新宿ほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://jikankairou.com/

 

「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」

「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」
シネマカリテにて。2018年3月14日(水)午前10時15分より鑑賞(スクリーン2/A-5)。

けた外れに変わった映画をつくる監督がいる。いわゆる「怪作」というやつだ。ギリシャのヨルゴス・ランティモス監督も、そんな監督の一人。前作「ロブスター」(2015年)は、独身が罪とされる未来世界を舞台にした奇妙なSFラブストーリー。ブラックな笑いとシニカルな視点が満載で、「この監督、相当に底意地が悪いんじゃないの?」と思わせられるような作品だった。

そのランティモス監督の新作「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」(THE KILLING OF A SACRED DEER)(2017年 イギリス・アイルランド)は、タイトルも奇妙なら中身も奇妙。またしても怪作と呼べる作品である。

何しろ冒頭からビックリさせられる。荘厳なクラシック音楽が流れる中、映し出されるのはドクンドクンと脈打つ人間の心臓。どうやら心臓外科医である本作の主人公スティーブン(コリン・ファレル)による手術シーンらしいのだが、いきなりこんなキモイ映像を登場させるとは何というアクの強さ!

その後、スティーブンはマーティン(バリー・コーガン)という16歳の少年と会う。腕時計をプレゼントするなど、日頃から何かと気にかけている様子。ということは、彼の息子なのか?

いやいや、そうではないようだ。スティーブンは郊外の豪邸で美しい妻(ニコール・キッドマン)と2人の子どもと暮らしていた。幸せな暮らしのように見える。マーティンとは、家族に内緒で会っているらしい。それじゃマーティンは何者なのだ? もしかして隠し子? それとも年の離れた同性愛カップル?

まもなくマーティンの正体がわかる。スティーブンは手術中に患者を死なせた過去がある。その患者の息子がマーティンなのだ。

それにしても、なんとまあ不穏で、謎めいた世界なのだろう。様々にアングルを変えるカメラや変幻自在な音楽&効果音で、観客の心をささくれ立たせる。例えば、冒頭近くの家族の食卓シーン。ただ普通に食事をしているのだが、どこか奇妙な風を吹かせる。「コイツら本当はヤバイ家族なんじゃないの?」と感じさせてしまうのだ。

やがてスティーブンはマーティンを自宅に招いて、家族に紹介する。それをきっかけに、マーティンはストーカー的な行動をとるようになる。スティーブンの病院にアポなしでやってきたり、長女のキムに接近したり。とくれば、これはもうどう考えても復讐劇だろう。マーティンが父を死なせたスティーブンに復讐するのに違いない。

案の定、彼は復讐を開始する。だが、その構図は想像を超えるユニークさだ。マーティンはスティーブンに恐ろしいことを告げる。「父親を殺したのだから、自分の家族を1人選んで殺せ。でないと、スティーブン以外家族は全員死ぬ」。その言葉通りに、長男のボブは突然立てなくなる。食欲もなくなる。その後は目から血を流して死ぬことになる。マーティンはそう予告していた。

スティーブンはマーティンの予告を否定しようと必死になる。だが、今度は長女のキムが立てなくなってしまう。このまま家族全員が亡くなってしまうのか?

これはもはやオカルトの世界だ。いったいどうしてスティーブンの子どもたちがそんな状態になったのか。マーティンは超能力者なのか。そうしたことに関する説明は一切ナシ。強引な展開にも思えるが、それこそがランティモス監督の思う壺だろう。そうやって観客を混乱させるのは彼の常とう手段。あえて狙ってやっているはずだ。

そして、その常識外れの展開を通して描かれるのは、1人の少年の出現によってガラガラと崩壊していく家族のもろさである。スティーブンは家族の誰か1人を選んで殺さないと、全員を死なせてしまうというギリギリの状態に追い込まれる。そして誰を選択するかで大いに悩む。一方、家族は選択権を持つスティーブンにすり寄ったり反発する。その間に、強い絆で結ばれているように見えた家族が、どんどんバラバラになっていく。

そんな家族を見つめるランティス監督の視線は冷徹だ。誰にも寄り添うことなく、醒めた視点で見つめ続ける。それがまた不穏で、不快で、謎めいた世界を増幅させていくのである。

ジリジリするような緊迫感の中で、家族は追い詰められていく。はたして、スティーブンはどんな選択をするのか。その結末には賛否両論ありそうだが、いずれにしても後味の良いエンディングではない。もちろん安易なハッピーエンドなどはない。それでもラストのレストランでの全員集合シーンが、独特の空気感を醸し出し、あとあとまで心に残ってしまうのだ。

コリン・ファレルニコール・キッドマンバリー・コーガンがいずれも素晴らしい演技を見せている。平板なセリフが多く、それ以外のところで雰囲気を出さねばならないドラマだけに、なおさら彼らの演技が光っている。ヘタな俳優が演じていたら、B級ホラーで終わっていたかもしれない。

ジャンル分けすれば、オカルトチックなサイコサスペンス&ホラーという感じの映画だろう。だが、そんなジャンル分けはどうでもいい。観客の心に嫌な感じを刻み付けて、いつまでも忘れさせない怪作だ。安易に誰にでも勧めはしないが、怖いもの見たさでいっぺん鑑賞してみてはいかが?

「また、こんなん作ってしまいましたけど。どうでっしゃろ?」(何で大阪弁なのだ?)。ニヤリと笑うランティモス監督の顔が思い浮かぶ。やっぱりこの人、相当に性格の悪い監督なのかも……。

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◆「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」(THE KILLING OF A SACRED DEER)
(2017年 イギリス・アイルランド)(上映時間2時間1分)
監督:ヨルゴス・ランティモス
出演:コリン・ファレルニコール・キッドマンバリー・コーガン、ラフィー・キャシディ、サニー・スリッチ、アリシア・シルヴァーストーン、ビル・キャンプ
*シネマカリテほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://www.finefilms.co.jp/deer/

「ダウンサイズ」

「ダウンサイズ」
池袋シネマ・ロサにて。2018年3月10日(土)午後2時より鑑賞(劇場2/D-9)。

久々に行った池袋シネマ・ロサ。年季の入った老舗映画館で、設備的にはけっこう老朽化していてシネコンなどとは比べようもないが、何とも言えない味わいがある。ぜひ頑張って欲しいものだ。

この日鑑賞したのは「ダウンサイズ」(DOWNSIZING)(2017年 アメリカ)。少子化の日本だが、世界的に見れば人口増加による環境、食料問題の解決は大きな課題。それを背景にしたドラマである。監督は、「サイドウェイ」「ファミリー・ツリー」「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」などで知られるアレクサンダー・ペイン

冒頭に描かれるのは、ノルウェーの科学者が人間の身体を縮小する方法を発見する場面。その方法を使えば、身長180センチの人間が13センチにダウンサイズするのだ。まもなくその方法が公表され、実際にダウンサイズ化する人が現れ始める。

ダウンサイズ化のメリットは、食糧などすべてのものが少量で済み、環境に対する負荷が減ること。そして、本人にとっては、わずかなお金で生活できるので、今の生活に比べてはるかにお金持ちになれる。おまけに、小さくなることで誰でも豪邸に住むことができる。

そんな売り文句に惹かれたのが、アメリカのネブラスカ州オマハに住むポール・サフラネック(マット・デイモン)という平凡な男だ。作業療法士をしながら妻のオードリー(クリステン・ウィグ)と暮らすポールは、収入が少ないため、家を買おうと思ってもローンが組めない。そんな生活に嫌気がさして、夫婦でダウンサイズ化を決意するのだった。

前半はポールがダウンサイズ化を決意し、実際にその処置を受ける場面が面白おかしく描かれる。特に笑えるのが、何とも奇妙なダウンサイズ化の処置場面。全員が全身の毛をそられ、麻酔をかけられ、義歯類を抜かれ(そうしないと爆発するらしい)、ベッドの上で寝かされる。係員がレバーを押して少しすると一丁上がり。ポールをはじめとする人々が縮小している。その小さい人をスコップみたいなものですくって、回収していく様子が笑える。

その過程では、ダウンサイズ化した人と、そうでない人との確執のようなものも描かれる。ダウンサイズ化が普及し始めたといっても、まだ大半の人は今までのサイズのまま。そんな中、小さくなって裕福に暮らす人へのやっかみも強い。彼らは税金も少ししか払わないのに、選挙権も同じなのはけしからんというわけだ。このあたりには、何やら最近の排他的な世相も見て取れる。

さて、こうして小さくなったポールだが、衝撃的なことが起きる。女性病棟で同じくダウンサイズ化の処置を受けたはずの妻のオードリーが現れない。どうしたのかと思ったら電話がかかってくる。オードリーは「やっぱり嫌だ。小さくなりたくない!」と逃げ出したことを泣きながら告白するのである。

妻と幸せなダウンサイズ生活を送る計画は台無しになり、ポールは一人ぼっちで孤独な毎日を送ることになる。そんな彼が心の傷を癒して、本当の幸せを見つけるまでを描くのが後半のドラマだ。

そのきっかけになるのが風変わりな人々との出会い。夜ごと派手なパーティーをする金持ちの隣人ドゥシャン(クリストフ・ヴァルツ)、その友人の船長コンラッドウド・キア)、そして極めつけがベトナム人女性のノク・ラン・トラン(ホン・チャウ)だ。

彼女は、ベトナムで反体制デモを行い、当局に刑務所に入れられてダウンサイズ化されてしまった。そして逃亡の過程で片足を失ったのだ。ドゥシャンの家に掃除に来た彼女の歩き方を見たポールは、義足の具合が悪いと察知し(もともと作業療法士なので)、それがきっかけで2人の交流が始まる。

そのトランのキャラクターが秀逸だ。英語がやや拙いこともあり、完全なタメ口で、ポールをどんどん巻き込んでいく。そこにまたまた笑いが生まれる。彼女は貧しい人々が暮らすスラムのようなところに住み、周囲の困っている人々に優しく手を差し伸べている。ポールは、彼女を通して天国のように思われているダウンサイズ世界にも、そうではない部分があることを知る。そして自身も彼女のサポートをして、困った人々のサポートをするようになる。

それを通して2人はどんどん接近していく。ハジケたトランの言動に引きずられていくポール。その関係性が面白いから、2人のロマンスにも不自然さはなく、微笑ましく受け止められるのである。

終盤はまた新たな展開が待っている。ポールとトラン、ドゥシャン、コンラッドは、船でノルウェーに行く。そこにはダウンサイズの方法を発見した研究者がいて、初期のダウンサイズ人間たちのコロニーもある。

そこで研究者は驚くべき事実を語り、ある計画を打ち明ける。それは聖書の中のあるエピソードを想起させる計画だ。それを前にしてポールは自らの進路の決断を迫られる。迷った末に彼はどんな進路を選んだのか……。

ラストは、何気ないが実に温かなシーンだ。様々な迷走の末に、ポールがようやく幸せを見つけたことが伝わってきて、心地よい気持ちになれた。

というわけで、物語の基本構造はSFなのだが、展開されるのはヒューマン・コメディー。しかも、そこには社会風刺や皮肉がたっぷりと込められている。ペイン監督の過去作には、中年の危機、自分探し、ロードムービー、シニカルな笑いなどの要素が散りばめられていたが、そのエッセンスは本作のあちらこちらにも反映されている。

役者では、マット・デイモンの「いいやつだけど情けない」感が、今回も見事にハマっている。だが、それ以上に印象深いのが、ベトナム人女性を演じたホン・チャウ。彼女の存在なしに、この映画がここまで面白くなることはなかっただろう。彼女の演技だけで元を取った気分になれた。

いわゆるSF的なケレンはない。むしろ地味な映画といえるかもしれない。だが、ペイン監督らしい味わいに満ちている。いったいどこに転がるのか、予測不能の展開も魅力だ。ペイン監督の過去作が好きな人には絶対におススメできる映画だと思う。

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◆「ダウンサイズ」(DOWNSIZING)
(2017年 アメリカ)(上映時間2時間15分)
監督:アレクサンダー・ペイン
出演:マット・デイモンクリストフ・ヴァルツ、ホン・チャウ、ジェイソン・サダイキスウド・キアニール・パトリック・ハリスローラ・ダーンクリステン・ウィグ
*TOHOシネマズ日本橋ほかにて全国公開中
ホームページ http://downsize.jp/

「ハッピーエンド」

「ハッピーエンド」
角川シネマ有楽町にて。2018年3月4日(日)午後3時10分より鑑賞(F-7)。

3月4日はオレの誕生日だった。昔バンドをやっていた時から「年齢非公表」を貫いてきたので、いくつになったかは絶対に言わない(笑)。そんなめでたい日に何の映画を観るべきか。迷いに迷った末に観たのは、ミヒャエル・ハネケ監督の「ハッピーエンド」(HAPPY END)(2017年 フランス・ドイツ・オーストリア)である。よりによってハネケの映画かよ!!!

ハネケ監督の映画を知らない人にはわからないと思うが、およそめでたい日にふさわしい映画ではない。何しろ過去作はどれも人間の暗部を描き出し、観客を居心地悪くさせる作品ばかりなのだ。「ファニーゲーム」「ピアニスト」「白いリボン」……。“老い”と“死”をテーマにした前作の「愛、アムール」は、他者への思いやりも感じさせる作品だったが、今回はまたもや居心地の悪い作品だ。

冒頭に登場するのはスマホ画面の映像。13歳になるエヴ(ファンティーヌ・アルデュアン)という娘が、母親の洗面風景を撮影している。画面にはそれを実況する文字が次々に打ち込まれる。そこから彼女が口うるさい母親を毛嫌いしていることがわかる。

続いてスマホがとらえるのはエヴのペットのハムスター。なんと彼女はそのハムスターに精神安定剤を飲ませるのだ。しかも、その様子を確認した上で、今度は母親にまで秘かにそれを飲ませてしまうのだ。もうすでにここから、ハネケ監督の居心地の悪い世界が展開されるのである。

こうして母親が入院することになったため、エヴはフランス北部の港町カレーの大邸宅にやってくる。そこにはロラン一家が3世帯で暮らしている。家長のジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は高齢のため引退し、娘のアンヌ(イザベル・ユペール)が家業の建設業を継ぎ、アンヌの息子ピエール(フランツ・ロゴフスキ)は専務を任されていた。一方、アンヌの弟トマ(マチュー・カソヴィッツ)は医師として働き、若い妻と再婚していた。そのトマと前妻との間に生まれたのがエヴである。

この一家が最初に映る食事風景からして、何やら不穏な感じがする。どう考えてもみんな何やらどす黒いものを抱えている。家族らしい心の通い合いなど皆無だ。それがただ食事をしているだけで伝わってくる。

よくあるヒューマンドラマなら、エヴの来訪をきっかけにバラバラだった一家が再生し、明るい兆しが見えるような展開が期待できそうな設定だ。だが、当然ながらハネケ監督の映画には、そんな希望も明るさもありはしない。

まもなく各自が抱えた秘密や問題が見えてくる。アンヌはやり手の経営者だが、あまりにも頼りない専務の息子ピエールに手を焼いている。建設現場で起きた事故をきっかけに、両者の確執が表面化する。何とかピエールを後継者にしようと、異様なまでに過干渉するアンヌ。それに反発し、アルコールに溺れるピエール。

家長のジョルジュは認知症気味で、エヴのこともすぐに忘れる。そして、ある晩、勝手に車を運転して出かけ、事故を起こしてしまう。それをきっかけに強い自殺願望を抱くようになる。

そしてエヴの父親のトマは一見有能な医師だが、実は彼にも人には言えない大きなどす黒い秘密がある。それをふとしたことから知ってしまうのがエヴである。

こうしてロラン家の人々の闇を見つめるエヴ自身も、心に闇を抱えている。母親に精神安定剤を盛っただけではない。いろいろな闇が幾重にも重なりあい、それが思わぬ事態を招き、ますます心の暗黒を広げていく。

ハネケ監督の視点は、相変わらず冷徹だ。被写体と距離を置いて、彼らの心の暗部をスクリーンに刻み付ける。ピエールが事故の被害者の家族にボコられるシーンでは、それをはるか遠方から映す。終盤でエヴが起こす大事件も、そのものズバリの現場は見せずに、その後の彼女の姿を映して描く。細かな状況説明などは一切ない。

ホンマに底意地の悪い監督だなぁ~。と思わないでもないのだが、それで終わるわけではない。こうした人々の暗部を通して、観客それぞれが様々なことに思いを馳せられる映画なのだ。家族とは、愛情とは、老いることとは、そして人生とは……。観客を居心地悪くさせ、心をざわつかせて思考を促すのである。

今回は、エヴのスマホ画面やトマが頻繁に利用するSNSなどを通して、現在のデジタル社会の闇まで照射しているように感じられる。

そして、この映画で最も心をざわつかせられるのは、ラストシーンかもしれない。そこに至るまでに、祖父のジョルジュと孫娘のエヴが対話するシーンがある。家族の誰もが無関心な中で、ジョルジュだけは孤独で暗闇を抱えた孫娘の心情を見抜いている。そして、彼は自身の妻に関わるある重大な告白をする。

普通だったら、それをきっかけに「孫娘よ! やっぱり生きていくのだ。人生は素晴らしいのだ」と諭すはずだ。だが、当然ながらハネケ監督はそんなことはしない。

アンヌの結婚パーティーでのいざこざを経て、ジョルジュとエヴは死の共振を見せるのだ。このシーンを見れば、誰もが心がざわついてしまうのではないか。タイトルの「ハッピーエンド」があまりにも皮肉に感じられるだろう。そして、静かな海と地平線がますます居心地を悪くさせる。

ハネケ映画ではおなじみのイザベル・ユペールジャン=ルイ・トランティニャンマチュー・カソヴィッツはじめ実力派キャストの演技はさすがだが、エヴを演じたファンティーヌ・アルデュアンの演技も堂々たるものである。

楽しい映画だけが映画なのではない。こういうある種不快にさせるような映画も映画なのだ。だからこそ、映画は面白いのである。とはいえ、誕生日にそんな映画を観てしまうオレはやっぱりヒネクレ者か?

◆「ハッピーエンド」(HAPPY END)
(2017年 フランス・ドイツ・オーストリア)(上映時間1時間47分)
監督・脚本:ミヒャエル・ハネケ
出演:イザベル・ユペールジャン=ルイ・トランティニャンマチュー・カソヴィッツ、ファンティーヌ・アルデュアン、フランツ・ロゴフスキ、ローラ・ファーリンデン、オレリア・プティ、トビー・ジョーンズ、ヒレ・ペルル、ハッサム・ガンシー、ナビア・アッカリ、フィリップ・デュ・ジャネラン
角川シネマ有楽町ほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://longride.jp/happyend/

「シェイプ・オブ・ウォーター」

シェイプ・オブ・ウォーター
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2018年3月2日(金)午後12時より鑑賞(スクリーン5/G-15)。

本日、第90回アカデミー賞の発表があった。作品賞の有力候補は、「スリー・ビルボード」と「シェイプ・オブ・ウォーター」だったわけだが、結局のところ「シェイプ・オブ・ウォーター」が受賞した。個人的には、心にズシリとくる「スリー・ビルボード」に軍配を上げたかったのだが……。でも、まあ、「シェイプ・オブ・ウォーター」も間違いなく良い映画だと思う。

ちなみに、「シェイプ・オブ・ウォーター」は作品賞のほかに監督賞、美術賞、作曲賞を受賞。一方、「スリー・ビルボード」は、フランシス・マクドーマンドが主演女優賞サム・ロックウェル助演男優賞を受賞した。

というわけで、数日前に観たばかりの「シェイプ・オブ・ウォーター」(THE SHAPE OF WATER)(2017年 アメリカ)の感想を。

謎の水中生物と人間の女性との異種愛を描いたファンタジー・ラブストーリーだ。と聞いて、恋愛の機微を繊細にすくい取った映画なのかと思ったら、けっこうエンタメ性にあふれた起伏ある映画だった。しかも、際どい描写まである。監督が「パンズ・ラビリンス」「パシフィック・リム」のギレルモ・デル・トロ監督なので、そうなるのも当然かもしれない。

1962年のアメリカが舞台。主人公は不幸な生い立ちで、口の利けない女性イライザ(サリー・ホーキンス)。彼女は、政府の極秘研究所で清掃員として働いていた。ある日、その研究所に不思議な生き物が運び込まれ、水槽に閉じ込められる。その生き物は、アマゾンの奥地で原住民に神と崇められていたという。イライザはその生き物に心を奪われ、人目を忍んで“彼”に会いに行くようになる。

異種愛を描いた映画というと「美女と野獣」が思い浮かぶが、本作は若い美女ではなく、孤独な中年女性という設定。それが独特の味わいを生み出している。

イライザが住むのは1階に名画座のある建物(そのため、昔の映画があちらこちらで登場する)。同じ建物に住む初老の絵描きの男性ジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)と、職場の同僚ゼルダオクタヴィア・スペンサー)が、彼女にとって数少ない心を許せる人物だ。

ただし、ジャイルズは同性愛者だしゼルダは女性。恋人らしき存在は影も形もない。そんなイライザが入浴中に自慰行為をするというショッキングなシーンから、この映画はスタートする。そう。意外に癖のある映画なのだ。それによって、彼女が寂しい心と体を抱えていることを浮き彫りにする。

一方、彼女が惹かれる謎の水中生物の“彼”だが、その造型がよく考えられている。二足歩行という人間と共通する部分はあるものの、全身は半魚人的な不気味さ。それでいて、目の感じは魚ではなくやはり人間っぽい。性格も野生そのものの残忍さと、優しさをあわせ持っている。

イライザと“彼”が、交流する場面はそれほど多くない。しかし、イライザが職場に持参したゆで卵をあげたり、音楽を聞かせたり、手話を教えるなど印象的な場面を構築し、2人の接近ぶりを自然に見せている。まさに「愛に言葉は要らない」を地でゆく交流である。

そんな中、このドラマの敵役になるのが、研究を主導する軍人のストリックランド(マイケル・シャノン)だ。彼は最初から謎の生き物を敵視し、電流の流れる棒を使って虐待する。さらに、彼はその生き物を生体解剖しようとする。当時は米ソ冷戦時代であり、ソ連との宇宙開発競争がその背景にあるのだが、それにしてもストリックランドの残虐さが際立つ。

それをきっかけにドラマは大きく動く。“彼”を何とか救出しようとするイライザ。それに協力するジャイルズとゼルダ。そして、研究所のスタッフでありながら、実はソ連のスパイであるホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)もそれに関わってくる。よくある救出劇だが、ツボを押さえて盛り上げてくれるので、なかなかハラハラさせられる。

さて、はたしてイライザは“彼”を救うことができたのか。詳細は伏せるが、後半もけっこう癖のある展開が飛び出す。何しろイライザは“彼”とセックスしてしまうのだ(直接的にその場面は出てこないが)。けっして2人はプラトニックな関係ではないのである(そこでは冒頭の自慰行為がある種の伏線になっているともいえる)。

そして、その後にユニークなシーンが用意されている。浴槽のある部屋を密閉して水で満たし、“彼”と愛の行為にふけるイライザ。だが、水が階下に漏れ出して、名画座に降り注ぐ。何ともケレンのある美しいシーンだ。

デル・トロ監督の作風はあくまでも自由だ。何と後半にはミュージカルシーンまで飛び出す。イライザがその切ない思いを歌にするのである。

歌といえば、この映画にはノスタルジックでロマンチックな音楽がたくさん登場し、イライザたちのロマンスに独特の情趣を漂わせている。また、研究所内の様子やイライザの家、街の風景などのビジュアルも印象深い。

終盤はストリックランドの執拗な追及が、“彼”とイライザに迫り、ギリギリの場面に突入する。はたして、その先にあるのは喜劇か悲劇か。いずれにしても余韻を残したラストが待っている。そしてそのラストに映る水中でのシーンが実に美しく幻想的だ。これだけでも観る価値のある映画といえるかもしれない。

口がきけないだけに、行動や表情だけですべてを表現する主演のサリー・ホーキンスの演技が見事だ。謎の生き物を演じたダグ・ジョーンズの演技も素晴らしい。そしてそして、敵役のマイケル・シャノンの憎々しさも見逃せない。狂気を帯びたその演技が、イライザと“彼”のロマンスをより切ないものにしていると思う。

美しく、切ない大人のファンタジー・ロマンスである。アカデミー作品賞にしては、あまりにも「良い話」すぎるきらいもあるが、見応えある作品なのは間違いない。すべてがこだわり抜かれており、ギレルモ・デル・トロ監督の集大成といってもいいだろう。

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◆「シェイプ・オブ・ウォーター」(THE SHAPE OF WATER)
(2017年 アメリカ)(上映時間2時間4分)
監督:ギレルモ・デル・トロ
出演:サリー・ホーキンスマイケル・シャノンリチャード・ジェンキンスダグ・ジョーンズマイケル・スタールバーグオクタヴィア・スペンサー
*TOHOシネマズシャンテほかにて全国公開中
ホームページ http://www.foxmovies-jp.com/shapeofwater/