映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「新聞記者」

「新聞記者」
池袋HUMAXシネマズにて。2019年6月28日(金)午後1時30分より鑑賞(シネマ4/G-10)。

~日本映画を変えるか? 実際の事件を取り込みつつ日本の民主主義を問う緊迫のサスペンス

アメリカには実際の政治をネタにした映画が多い。しかも、ちゃんとエンタメとして成立させている。ここ2~3年に日本で公開になった作品では、「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」「スポットライト 世紀のスクープ」「記者たち 衝撃と畏怖の真実」などが挙げられるだろう。

かつては日本でもそうした映画があった。だが、最近はほぼ皆無だ。その筋からの圧力が怖いのか、面倒くさいことはやりたくないのか、政治ネタでは客が入らないと思っているのか。何にしても寂しい限りである。

そんな中、突如として登場したのだ。「新聞記者」(2019年 日本)という映画が……。フィクションではあるものの、現実に起きた事件を想起させるネタをいくつも盛り込んで、政治や社会に真正面から挑んだチャレンジングな作品だ。

主人公は、東都新聞社会部の若手記者・吉岡エリカ(シム・ウンギョン)。ある日、社会部に大学新設計画に関する極秘情報の匿名FAXが届き、吉岡は上司から調査を任される。一方、外務省から内閣情報調査室に出向しているエリートの杉原拓海(松坂桃李)は、現政権に不都合なニュースをコントロールする任務に就いていた。

そんな中、杉原はかつての上司・神崎と再会するが、神崎はその数日後に自殺してしまう。神崎の死に疑問を抱いた吉岡は真実に迫ろうとする。杉原もまた、神崎の死の背後にある闇に気づく。

ここまでのあらすじを聞いただけでも、異例の映画であることがわかるだろう。「大学新設計画」とくれば、誰もが例の「加計問題」を想像するはずだ。それ以外にも、文科省の元高官のスキャンダル、ジャーナリストが起こしたレイプ犯罪のもみ消し工作など、最近起こった事件を踏まえたと思われるネタが登場する。

映画の序盤に挟まれるテレビの座談会には、この映画の原案となったベストセラー『新聞記者』の著者である東京新聞の望月衣塑子記者が登場する。そう。あの菅官房長官の記者会見で、官邸側の敵意丸出しの態度に遭いつつも、執拗に食い下がる女性記者である。さらに、実際にスキャンダルに巻き込まれた元文部官僚の前川喜平氏も登場する。本作は、間違いなく今の政治問題や社会状況に依拠した作品なのである。

だが、けっして小難しい理屈を述べ立てた映画ではない。基本に据えられたのは緊迫感満点のサスペンス。つまり、エンタメとしての魅力を充分に備えた映画なのだ。

吉岡と杉原を交互に映し出す冒頭の映像から破格の緊迫感が漂う。随所に暗めの映像を配し、手持ちカメラを使ったり、カメラアングルに工夫を凝らすなどして、息苦しいほどの緊迫感を作り出す。それは終始変わらない。

いわゆる「悪」の描写も怠りがない。先ほど挙げた座談会では、ジャーナリズムのあり方などとともに、現在の内閣府が強大な権限を持ち、内閣情報調査室(内調)が様々な情報コントロールをしていることが語られる。まさに、その内調が実行する数々の汚い手口が描かれる。

政府に不利になる情報を握りつぶし、デタラメを捏造し、情報操作を繰り広げる。一般人に対しても容赦がない。そうした悪の親玉として、杉原の上司である多田智也(田中哲司)という人物を登場させ、その憎々しさを強調する。特に彼の冷徹な目には、背筋が凍らされるほどだった。

その内調の描写に比べて、「新聞記者」というタイトルにもかかわらず新聞社の内幕が十分に描き切れていないきらいはあるのだが、それはまあ置いておこう。

人間ドラマもある。若手記者の吉岡は、日本人の父と韓国人の母のもとアメリカで育った。父も新聞記者だったが、誤報事件をきっかけに謎の死を遂げた過去を持つ。それが彼女の新聞記者としての行動に大きな影響を与える。

一方、杉原は妻が出産間近だ。幸せな家庭を築きつつ、政府のためとはいえ汚い仕事をやらされる生活に彼の心は乱れている。その葛藤は後半に進むにつれてますます大きくなる。

神崎の死の背景には何があるのか。匿名FAXに描かれた羊の絵が効果的に使われた吉岡の追求劇が描かれる。同時に杉原も真実に迫ろうとする。そして、やがて吉岡と杉原は交錯する。

終盤に明らかになる真実は、エンタメ作品らしい壮大なものだ。しかし、昨今の政治や社会の姿を見ていると、けっして絵空事とも思えない。今この時も、安倍政権は本当にああした工作をしているのかもしれない。そんな思いさえ浮かんでしまう。そういう点でも、現実とフィクションをしっかりと結び付けた映画といえるだろう。

最後に究極の選択を迫られる杉原。その苦悩に満ちた表情が忘れ難い。それを交差点のこちら側から見つめる吉岡の複雑な表情もまた、頭にこびりついて離れない。様々な余韻を残してドラマは幕を閉じる。

吉岡を演じたのは、「サニー 永遠の仲間たち」「怪しい彼女」などで活躍してきた韓国のシム・ウンギョン。日本語がたどたどしいという設定だが、それでもなかなか達者な日本語だった。そして、何よりもその表情が様々な苦悩や葛藤を雄弁に伝えてくれる演技だった。

杉原を演じた松坂桃李も相変わらず見事な演技だ。こちらも杉原の苦悩や葛藤をセリフだけでなく、その表情や佇まいからキッチリ見せてくれた。

もう一度繰り返して言うが、政治や社会の文脈から離れても、エンターティメントとして十分に観応えある映画だと思う。だが、それでもやはり現実の政治や社会について思いを馳せてしまう。

終幕近くで、多田は「民主主義は形だけでいいんだ」と語る。これこそが、作り手たちの最大の問題提起かもしれない。今の日本の政治は本当に民主主義なのか。形だけになっているのではないか。観終わってそんな疑問が渦巻いた。

ただの偶然なのか意図したのかはわからないが、この映画が参議院選挙の前に公開されたことには大きな意味があるだろう。投票に行くつもりのある人もそうでない人も、政権を支持している人もそうでない人も、ぜひ観て欲しいものである。

何にしてもチャレンジングな作品だ。いや、これをただのチャレンジ終わらせてはいけない。日本の映画界よ、これに続け~!!

 

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◆「新聞記者」
(2019年 日本)(上映時間1時間53分)
監督:藤井道人
出演:シム・ウンギョン、松坂桃李、本田翼、岡山天音郭智博長田成哉、宮野陽名、高橋努西田尚美高橋和也北村有起哉田中哲司
新宿ピカデリーイオンシネマほかにて全国公開中
ホームページ http://shimbunkisha.jp/

 

「アマンダと僕」

「アマンダと僕」
YEBISU GARDEN CINEMAにて。2019年6月23日(日)午後1時より鑑賞(スクリーン1/E-7)。

~最愛の家族を失った青年と幼い姪の悲しみと強い絆

ここ数年、縁あって東京国際映画祭に足しげく通わせてもらっている。会期中はできるだけ仕事を減らし、上映作品を鑑賞する。特にコンペティション部門の作品は極力観るようにしている。とはいえ、さすがに全作品を観るのはなかなか難しい。

昨年の第31回東京国際映画祭でも、何本かのコンペ作品を見落としてしまった。「アマンダと僕」(AMANDA)(2018年 フランス)はその中の1本。しかも、なんと最高賞の東京グランプリと最優秀脚本賞をダブル受賞したのだ。それを知って見逃したことがなおさら悔しく思えた。

その「アマンダと僕」が一般公開された。そこで早速劇場に足を運んだのだ。ちなみに、グランプリ作品といえども一般公開されないケースもあるから、こうしてスクリーンで観られるのは幸運なことかもしれない。

テロで家族を亡くした青年と幼い姪の絆のドラマである。前半は、彼らのキラキラした日常が描かれる。

パリに住む24歳の青年ダヴィッド(ヴァンサン・ラコスト)は、アパートの管理人や庭の手入れなどバイトを掛け持ちしている。そんな中、パリにやって来たレナ(ステイシー・マーティン)という美しい女性と恋に落ちる。

一方、彼の姉のサンドリーヌ(オフェリア・コルプ)はシングルマザー。英語の教師をしながら、7歳の娘アマンダ(イゾール・ミュルトリエ)を育てている。

このダヴィッド、サンドリーヌ、アマンダの関係性の描き方が実に良い。サンドリーヌとアマンダがプレスリーの曲で、ノリノリで楽しく踊るシーン。2人がいかに仲の良い母娘であるかが即座にわかるシーンだ。

ダヴィッドとサンドリーヌの姉弟の仲の良さも際立つ。アマンダのお迎えを頼まれながら仕事で遅れたダヴィッドをサンドリーヌは叱責する。だが、それは心から非難するふうでもない。「しょうがないわね。ちゃんとしてよ!」と愛情をベースに諭すのだ。

そして、ダヴィッドとアマンダの叔父と姪の関係についても、2人が一緒に過ごすシーンを観ただけで、とても良好で温かな関係であることが伝わってくるのである。

こうした前半の描写があらからこそ、その後の悲しみがより深いものとなって迫ってくる。

やがてテロが起きる。イスラム過激派による銃乱射であることが示唆されるが、事件そのものについては詳細には描かれない。犯行の様子も映さない。穏やかな日常の中に突如として、犠牲者たちが公園の芝生に横たわるシーンが挿入されるだけなのだ。ここからもわかるように、これはテロの恐怖や社会的背景を描いた映画ではなく、残された家族の心に寄り添った映画なのである。

このテロによってサンドリーヌは亡くなる。レナも重傷を負ってしまう。ダヴィッドは姉を失くした悲しみを抱え、アマンダの面倒を見ることになる。だが、それは容易いことではない。これまで叔父と姪として仲良く過ごしてきたといっても、それとはまったく違うことなのだ。

「アマンダの後見人になるのか?」と聞かれてもダヴィッドは答えられない。自分の叔母モードの家とサンドリーヌの家で交互にアマンダの世話をしつつ、心は揺れて戸惑うばかりだ。アマンダを施設に預けることも考えるが、踏ん切りがつかない。一方、アマンダも母親の死を受け入れることができずにいる。

この映画で最も素晴らしいところは、ダヴィッドとアマンダの悲しみや戸惑いの描写にある。劇的に悲しみを煽り立てるようなことはしない。だが、それでもダヴィッドの深い悲しみが伝わってくる。特に彼の泣き方が絶品だ。号泣ではなく控えめに涙を流す。何の脈絡もなく突如として泣き出す場面もある。それはあまりにもリアルで、まるで自分もダヴィッドになったかのような気持ちになってしまうのだ。

一方のアマンダは、表面的にはほとんど泣くこともなく過ごす。だが、ある夜、突如として息苦しくなる場面がある。また、2つの家を行き来する生活に不満を漏らす。そして、ダヴィッドがサンドリーヌの歯ブラシを捨てたことに対して、猛然と抗議をする。モードが飼うウサギを無邪気にかわいがる半面、そうしたハッとする場面を見せることで、彼女の心の傷の深さを示す。こちらもリアルな描写である。

もしかしたら、ミカエル・アース監督はこうした被害者たちの心情を綿密に取材したのかもしれない。それぐらいリアルで自然な描写だった。

だが、アース監督は2人を悲しみの底に置いたままにはしない。悲しみと苦しみを抱えながらも、ダヴィッドとアマンダの微笑ましく温かな交流と支え合いを描き出す。アマンダの世話をするダヴィッドだが、アマンダを支えるだけでなく、自分もアマンダに支えられていることがクッキリと印象付けられる。だからこそ、その後のダヴィッドの決断が自然に受け入れられるのである。

終盤はロンドンに舞台を移す。そこでダヴィッドは早くに別れた実母と再会する。ここもまた劇的さを排して、2人のぎこちない再会をリアルに映し出す。

そしてハイライトはサンドリーヌとともに観戦するはずだったウィンブルドンのテニスの試合だ。その試合の行方とアマンダの心情に、冒頭に登場したプレスリー絡みの「ある言葉」を巧みに絡ませて、そこはかとない感動を呼ぶ。

こうして、2人の未来に微かな希望を灯してドラマは終わる。もちろん時間はかかるだろうし、困難もあるだろう。それでもダヴィッドとアマンダの未来に、希望を感じずにはいられなかった。同時にテロを乗り越えるものは憎しみや排除ではなく、愛であることも強く感じられるエンディングだった。

ダヴィッドを演じた若手のヴァンサン・ラコストの演技が光る。実に自然で繊細な演技だった。コメディーへの出演が多いそうだが、今後は活躍の場が広がりそうだ。そして、アマンダ役のイゾール・ミュルトリエも見事だ。とびっきりの可愛らしさと同時に、時に大人びた表情をチラリと見せる。初めての演技とはとても思えない出来だった。

脚本、演出、演技、すべてにおいて完成度が高い作品だ。東京国際映画祭の東京グランプリと最優秀脚本賞も頷ける。そして何よりも人生の悲しみと喜びを自然に伝えてくれる映画なのである。

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◆「アマンダと僕」(AMANDA)
(2018年 フランス)(上映時間1時間47分)
監督:ミカエル・アース
出演:ヴァンサン・ラコスト、イゾール・ミュルトリエ、ステイシー・マーティン、オフェリア・コルプ、マリアンヌ・バスレール、ジョナタン・コエン、グレタ・スカッキ
シネスイッチ銀座、YEBISU GARDEN CINEMAほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ http://www.bitters.co.jp/amanda/

「誰もがそれを知っている」

「誰もがそれを知っている」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2019年6月19日(水)午後7時10分より鑑賞(シアター2/A-5)。

~イランを離れてスターカップルを主演に迎えたファルハディ監督の新境地

イランのアスガー・ファルハディ監督といえば、「別離」「セールスマン」でアカデミー外国語映画賞を2度も受賞している監督だ。過去の作品は、サスペンスミステリーの形を取りながら、犯人探しや謎解き以上に、イランの社会状況を的確にあぶりだして高い評価を受けてきた。

そんなファルハディ監督が、イランを離れて、スペインの田舎町を舞台に全編スペイン語で撮り上げたのが「誰もがそれを知っている」(TODOS LO SABEN)(2018年 スペイン・フランス・イタリア)である。

今回も全体の構図はサスペンスミステリーだ。アルゼンチンで夫と2人の子どもと暮らすラウラ(ペネロペ・クルス)。妹の結婚式に出席するために、子どもたちを連れて故郷のスペインに帰省する。本当は夫も同行するはずだったのだが、仕事の都合で来られなくなる。

ラウラは、実家の家族やワイン農園を経営する幼なじみのパコ(ハビエル・バルデム)と久々の再会を喜び合う。だが、結婚式のパーティーの喧騒の中、娘のイレーネが姿を消してしまう。

やがて何者かから巨額の身代金を要求するメッセージが届く。警察に通報するなという犯人の言葉に従い、ラウラは警察に通報せずパコに協力を仰ぐ。ラウラの夫もアルゼンチンから駆けつける。

イランからスペインに舞台を移しても、ファルハディ監督らしさは健在だ。いつもなら事件を通して、男女差別をはじめとしたイランの社会状況をあぶりだすのだが、今回は当然それとは違うものをあぶりだす。それは、家族や近隣の人々の様々な過去だ。

例えば、かつて大地主だったラウラの老いた父は、事件をきっかけに土地を売った人々に対して、「ここは俺の土地だ!」「安く売り過ぎた!」と難癖をつけ始める。また、みんなが金持ちだと思っていたラウラの夫が、実は2年も前から失業中であることが明らかになる。そんなふうに事件の真相を巡って人々が疑心暗鬼に陥る中で、様々な過去の秘密や確執が見えてくるのである。

考えてみればファルハディ監督は、過去の作品でも別にイラン社会だけを描き出していたわけではない。そこでは当然、登場人物たちの様々な人間模様や秘密も描き出されていた。今回は、そうした部分に焦点を絞って描いたことで、より普遍的な人間ドラマになったともいえるだろう。

そんな中でも、最大の秘密はラウラとパコの関係に絡むものだ。実は、2人はかつて恋人同士だったのである。娘の安否を巡って憔悴していくラウラを前に、パコは元刑事の男の助言に従い、身代金を用意するフリをして時間稼ぎをする。だが、やがてそれはただのフリでは済まなくなってくる。そして、誘拐された娘に関して大きな秘密が明らかになるのだ。「誰もがそれを知っている」という邦題は、まさにその秘密のことを指しているのだろう。

ファルハディ監督の作品は謎解きや犯人探しが主眼の映画ではないが、それでもそうした要素も毎回きちんと押さえられている。特に今回はいつも以上に巧みな仕掛けが施されている。例えば冒頭に登場する、過去の誘拐事件の新聞記事を切り抜く謎の手。あるいはイレーネと男の子が遊ぶ鳩だらけの時計台。それらがサスペンスミステリーとしての魅力をアップさせる。そこにはヒチコック的なタッチも見て取れる。

時間の経過とともに、ラウラ、パコ、パコの妻ベア、ラウラの夫アレハンドロなど様々な人物たちの関係がどんどんもつれ合い、それぞれの苦悩がスクリーンを色濃く覆うようになる。

やがて、ついに真相が明らかになるが、けっして大団円とはならない。それを巡って、また新たな家族の苦悩が始まることを示唆して、ドラマは終焉を迎える。このあたりの余韻の残し方も、いかにもファルハディ監督らしいところだと思う。

この映画には大きな話題がある。ラウラ役はペネロペ・クルス、パコ役はハビエル・バルデム。そう。実生活の夫婦が主演を務め、元恋人同士を演じているのだ。はたして、やりにくくはないのだろうか? などというのは余計なお世話。さすがに2人とも抜群の演技を披露している。特に苦悩する2人の演技が胸に迫ってくる。

これまでは、どうしてもイランという国と切り離して考えられなかったファルハディ監督だが、イランと関係のないスペインを舞台に、しかもスターカップルを主演に迎えてこれだけ面白い映画を撮ったことで、あらためてその力量を思い知らされた。良い意味で、普通に凄い映画監督なのである。

 

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◆「誰もがそれを知っている」(TODOS LO SABEN)
(2018年 スペイン・フランス・イタリア)(上映時間2時間13分)
監督・脚本:アスガー・ファルハディ
出演:ハビエル・バルデムペネロペ・クルス、リカルド・ダリン、エドゥアルド・フェルナンデス、バルバラ・レニー、インマ・クエスタ、エルビラ・ミンゲス、ラモン・バレア、カルラ・カンプラ、サラ・サラモ
Bunkamuraル・シネマ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにて公開中。全国順次公開予定
ホームページ https://longride.jp/everybodyknows/

「ウィーアーリトルゾンビーズ」

「ウィーアーリトルゾンビーズ
池袋シネマ・ロサにて。2019年6月16日(日)午後1時25分より鑑賞(シネマロサ2/D-7)。

~ぶっ飛んだ映像で描く“感情を失くした”子供たちのバンド冒険譚

タイトルだけで、ほぼ一発で映画の内容がわかってしまう作品もあれば、そうでない作品もある。「ウィーアーリトルゾンビーズ」(2019年 日本)(上映時間2時間)は、間違いなく後者だろう。どう考えてもタイトルを見ればゾンビ映画だ。だが、実際はそうではない。自分たちをゾンビみたいだと思っている子供たちの冒険譚なのである。

その子供たちとはヒカリ(二宮慶多)、イシ(水野哲志)、タケムラ(奥村門土)、イクコ(中島セナ)の4人。いずれも13歳だ。映画は火葬場から幕を開ける。ヒカリは両親を亡くす。そんな中、ヒカリは、火葬場で同じ境遇のイシ、タケムラ、イクコと出会う。

この映画は実にユニークな作風の作品だ。全体の構成はRPGゲームのスタイルを取っている。いくつものSTAGEがあったり、アイテムをゲットしたりする。ただし、最新のゲームというよりは少し前のゲームの感じだ。

そして、それ以上に驚くのが映像である。全ての映像がポップでぶっ飛びまくっている。例えば、人物が冷蔵庫を覗くシーンでは冷蔵庫の中から人物の顔を映す。あるいはヒカリが飼う観賞魚を巨大にして画面に登場させたりする。そんなふうに現実をデフォルメしたり、非現実の世界を現出させたり、登場人物の空想や妄想を映像化したりとアートのような映像が飛び出すのだ。色彩も鮮やかなのを通り越して凄まじいほどだ。まるで全編がトンガッたCMかMVのようである。

この映画の長久允監督はもともとCMを手がけていたという。その後、「そうして私たちはプールに金魚を、」で第33回サンダンス映画祭ショートフィルム部門グランプリを受賞し、本作が長編デビュー作となる。

そんな経歴から連想したのは「下妻物語」「嫌われ松子の一生」「来る」などの中島哲也監督だ。中島監督もCM出身で、ぶっ飛びまくった映像で衝撃を与えた。とはいえ、長久監督の映像はそれを上回る鮮烈さかもしれない。

さらに、今どきの子供らしさはあるもののなぜか棒読み調のセリフや、無表情の役者の演技なども、他にはあまり見られない本作のユニークな特徴である。

さて、4人の子供たちが知り合ったのち、今度はそれぞれの家を巡りつつ彼らの事情が明かされる。ヒカリの両親はバス事故で亡くなっていた。イシの親はガス爆発で焼死。タケムラの親は借金苦で自殺。イクコの親は他殺だった。それにもかかわらず、彼らは悲しいはずなのに全く泣けない。そして、自分たちを感情を失ったゾンビのようだと思うのである。

まもなく彼らは、ゴミ捨て場で「LITTLE ZOMBIES」というバンドを結成する。そこで撮影した映像は社会的に大きな話題を呼ぶ。ゴミ捨て場で知り合った望月(池松壮亮)という男がマネージャーになり、彼らはライブ、テレビ出演、アルバム発売と活躍を続けていく。

4人が集いバンドを始めた原点には、大人社会への違和感や反抗心があるように思われる。突然両親を亡くし、自分の思惑とは裏腹に進むべき道を強制されたことから、それを嫌って自分たちだけで冒険に出たわけだ。

同時にその冒険は、自分たちの心を取り戻すための冒険でもある。彼らの感情を失わせたものも、家族をはじめとする大人社会に違いない。ならば、その手から離れて自由になれば、心も取り戻せるのではないか。そう考えたのかもしれない。

そして、この点に関して面白いことがある。無表情で棒読みのセリフを話す4人の子供たちは一見、本当に感情を失くしているようだ。だが、よくよく見ているとその表情や言動の端々からは、確かな感情の存在が感じられる。つまり、彼らは感情を失くしているのではなく、その表現の仕方がわからないだけではないのか。観ていて、そんなふうに感じられた。

それに対して、周囲の大人たちは見事に自分の役割を演じている。葬式の場面では、当然ながら悲しみに暮れた態度を示す。ヒカリたちとは正反対だ。だが、彼らはどこまで本当に悲しんでいるのか。そうした様々な大人たちの言動に対して、ヒカリたちが違和感を抱くのは当然かもしれない。

大ブレイクした「LITTLE ZOMBIES」だが、やがてその活動は突然終焉を迎える。それもまた大人社会の事情によるものだ。しかも、そこには現代社会を象徴するように、ヒカリの両親の事故をめぐるSNSでの騒動が絡んでくる。

やたらに映像が目につく映画ではあるが、そうした子供たちの反抗と挫折、成長の軌跡が、社会の現状も織り込みつつ描かれているのである。

とはいえ、さすがに終盤はやや疲れてしまった。全編ああいう映像が続くと厳しいものがある。個人的には、もう少しメリハリをつけた方がよかったと思う。そのほうが、子供たちの心理ももっと深く掘り下げられたのではないか。

それでもラストはなかなか印象深い。社会との距離を少しだけ縮め、生まれてきたことの喜びや日常の大切さを見つめ直す4人。そう。4人はわずかながら確実に成長したのだ。それを美しい緑の風景を使ってキッチリと見せる後味の良い結末だった。長久監督は間違いなく、彼らに対して温かな視線を送っている。

4人の子供たちの演技に加え、超豪華脇役陣の顔ぶれもこの映画の魅力。下記にあるように、大量にクレジットされたバラエティーに富んだ出演者の中には、チラリとしか登場しない人も多い。誰がどこに出ているのか探すのも一興だろう。

この映画は、第69回ベルリン国際映画祭ジェネレーション(14plus)部門でスペシャル・メンション賞(準グランプリ)、第35回サンダンス映画祭ワールドシネマ・ドラマティック・コンペティション部門で審査員特別賞オリジナリティ賞を受賞したとのこと。確かに才能のある監督だと思う。今後さらに素晴らしい作品が生まれることを期待したい。

 

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◆「ウィーアーリトルゾンビーズ
(2019年 日本)(上映時間2時間)
監督・脚本:長久允
出演:二宮慶多、水野哲志、奥村門土、中島セナ佐々木蔵之介工藤夕貴池松壮亮初音映莉子村上淳西田尚美佐野史郎菊地凛子永瀬正敏康本雅子、夏木ゆたか、澤本嘉光利重剛、シシヤマザキ五月女ケイ子山中崇、並木愛枝、佐藤緋美、水澤紳吾、黒田大輔忍成修吾、るうこ、長塚圭史池谷のぶえ戌井昭人虹の黄昏赤堀雅秋清塚信也山田真歩、湯川ひな、松浦祐也、渋川清彦、かっぴー、いとうせいこうCHAI菊地成孔、今田哲史、森田哲矢、柳憂怜、ぼく脳、三浦誠己、前原瑞樹、吉木りさ(声の出演)
*TOHOシネマズ シャンテほかにて公開中
ホームページ https://littlezombies.jp/

「旅のおわり世界のはじまり」

「旅のおわり世界のはじまり」
シネ・リーブル池袋にて。2019年6月15日(土)午後3時55分より鑑賞(スクリーン1/H-9)。

黒沢清監督+前田敦子で描く異国の地で惑う女性の心模様

前田敦子は不思議な女優だ。いわゆる強烈なオーラを放つタイプではない。かつてAKB時代に仕事の関係で間近で見たことがあるのだが、見た目はどこにでもいそうな普通の女の子だ。

ところが、これが数々の有能な監督に指名されて、彼らの作品に出演すると、その言動や佇まいが抜群の存在感を発揮する。演技の巧拙などは関係がない。それを越えてしまっているのだ。「苦役列車」「もらとりあむタマ子」「Seventh Code セブンス・コード」「さよなら歌舞伎町」「散歩する侵略者」など印象深い映画を挙げればきりがない。

そんな前田敦子を主演に迎えて、黒沢清監督が日本とウズベキスタンの合作で製作した作品が「旅のおわり世界のはじまり」(2019年 日本・ウズベキスタン)である。前田敦子は黒沢作品では上記の「Seventh Code セブンス・コード」で主演を務め、「散歩する侵略者」にも出演している。

冒頭、テレビ番組のレポーターの葉子(前田敦子)が湖に入り、「みなさんこんにちは、今、私はユーラシア大陸のど真ん中、ウズベキスタン共和国に来ています!」と明るく視聴者に呼び掛ける。彼女は、巨大な湖に棲むという“幻の怪魚”を探す番組でウズベキスタンを訪れていたのだ。

ロケ隊の他のメンバーは、撮れ高ばかり気にして内容は二の次のディレクターの吉岡(染谷将太)、淡々と仕事をこなすベテランのカメラマン岩尾(加瀬亮)、気のいいADの佐々木(柄本時生)、そして現地のコーディネーターのテムル(アディズ・ラジャボフ)。

だが、ロケは思うようにいかない。肝心の幻の魚は現れず、現地の漁師は「女を船に乗せるからだ」などと言い出す始末。食堂でグルメレポートをしようとすれば、「薪が足りない」と生焼けの料理を出される。それ以外にもトラブルが続出だ。ロケ隊の面々はだんだん苛立っていく。

そんな中でも、葉子はレポーターの仕事をきちんとこなす。遊園地では乗り物で気持ちが悪くなりながら、それでも最後まで仕事を続ける。とはいえ、見知らぬ異郷の地で彼女の心の中は波立っている。ホテルに戻って、日本にいる恋人とスマホでやりとりする時間だけが彼女の安らぎだった。

そんな葉子の心の内を黒沢監督は巧みに描いていく。それを象徴するのが彼女が一人でバザールに行くシーンだ。全く言葉も通じず、周囲の何もかもが怪しく危険に思えて、葉子は次第に焦っていく。それを見ているこちらも、まるで自分が葉子であるかのように心がざわついてくる。

ちなみに、この映画では現地の言葉に一切字幕がつかない。せいぜいコーディネーターのテムルが通訳する程度だ。それもまた葉子の心の中を、より不安定に見せる効果を発揮している。

黒沢清監督の過去の作品はホラー的だったり、サスペンス的だったりする作品が多い。そのものズバリのホラーやサスペンスでなくても、どこかにそうしたテイストが感じられる作品がほとんどである。そして、本作にもそれが見て取れる。簡単に言えば、葉子の自分探しのドラマなのにもかかわらず、全編が予測不能で、不穏な空気が流れているのである。

葉子の心を揺らす大きな原因は、彼女が歌手を夢見ているという事実だ。帰国後にはミュージカルのオーディションを受ける予定もあるという。だから、今の仕事との落差に悩み、「自分は何をやっているのか?」と暗澹たる気持ちになるのだ。

中盤では、そんな彼女の心がもたらしたであろう不可思議な場面が登場する。葉子は歌声に誘われてある美しい劇場へ足を踏み入れる。そして、そこでオーケストラをバックに「愛の讃歌」を歌う自分自身を客席から見つめるのだ。

黒沢作品では、生者と死者、現実と非現実が入り混じる構成がよく登場する。今回もまた現実とも非現実ともつかない場面が現出し、独特の世界を生み出している。そして、葉子の心の奥底にあるものを象徴的に示すのだ。

混迷のウズベキスタンロケ。その混迷は終盤になっても続く。幻の魚が見つからないまま、今度は葉子自身がハンディカメラを手にバザールを巡る。だが、そこで予想もしないことが起こる。これまたホラー的で、サスペンス的な展開だ。さらに、その後に唐突ともいえる事件が起きて、葉子は完全な錯乱状態となる。ここもまた、彼女の心理が手に取るように伝わってきて、何とも不安な気持ちにさせられた。

この映画ではウズベキスタンの美しい自然があちらこちらに織り込まれている。それが最大限に効果を発揮しているのがエンディンクだ。そこで中盤で伏線として登場したヤギが再び姿を現し、葉子が「愛の讃歌」を熱唱する。それはまさに圧巻の映像と歌声で、彼女の新たな「世界のはじまり」を明確にスクリーンに刻み付ける。この素晴らしいエンディングだけでも、観る価値のある映画といえるかもしれない。

それにしても、今回も前田敦子の魅力が健在である。そこに黒沢節ともいえる独特の世界観が加わり、さらにウズベキスタンという異国の要素が加わることによって、単なる自分探しのドラマを超えた魅力が生まれている。黒沢監督にとって新境地ともいえる作品だが、過去の黒沢作品を観たことがある人にとっても納得の映画ではないだろうか。

 

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◆「旅のおわり世界のはじまり」
(2019年 日本・ウズベキスタン)(上映時間2時間)
監督・脚本:黒沢清
出演:前田敦子加瀬亮染谷将太柄本時生、アディズ・ラジャボフ
テアトル新宿ほかにて公開中
ホームページ https://tabisekamovie.com/

伊藤蘭ファースト・ソロ・コンサート

6月11日(火)にTOKYO DOME CITY HALLで開催された伊藤蘭ファースト・ソロ・コンサート」に行ってきた。そう、あのキャンディーズ伊藤蘭である。

若い人にとっては伊藤蘭といえば、女優というイメージしかないかもしれないが(あるいは水谷豊の奥さん、趣里の母親)、その伊藤蘭は1970年代に超人気だった女性アイドルグループキャンディーズのメンバーだったのである。

キャンディーズのメンバーは、伊藤蘭(ランちゃん)、田中好子(スーちゃん)、藤村美樹(ミキちゃん)の3人。人気絶頂期の1977年、「普通の女の子に戻りたい」と突如解散を発表。翌年4月4日、後楽園球場でお別れコンサートを行い解散したのである。

その後、ミキちゃんは芸能界を引退(ただし1983年にソロ歌手として期間限定で復帰)。ランちゃんとスーちゃんは女優として復帰したが、スーちゃんは2011年に乳がんのため55歳で死去した。

などと書くと、まるでオレのことを熱狂的なファンのように思うかもしれないが、そんなことは全然ない。あれだけの人気グループゆえに、その存在もヒット曲も当然知ってはいたのだが、特別な思い入れがあるわけではなかった。

そんな中、伊藤蘭が41年ぶりに歌手活動再開」というニュースが飛び込んできた。41年ぶり? なんだか凄いぞ。というので、とりあえず「My Bouquet」というアルバムを聴いてみたら、これが素晴らしかったのである。全11曲の楽曲はどれもレベルが高いし、伊藤蘭の声も心に染み通ってくる。そして、聴いているうちに、近いうちにコンサートもあるという話を思い出し、思わずネットでチケットを買ってしまったのだ。

当日、会場に行くと早くも長蛇の列、当然ながら平均年齢は高そうだが、二千数百人が入る会場がほぼ埋まっているのだから立派なものである。きっと熱狂的なファンはこの日を待ちに待っていたのだろうなぁ。

そんな人々とはやや距離のあるオレではあるが、まもなくコンサートが始まるとすっかり入り込んでしまった。さすがに「ランちゃーん!」と掛け声をかけたりはしなかったが、手拍子をしながら最後まで楽しんでしまったのだ。

それはそうでしょう。バックを固めるバンドはキーボードの佐藤準をはじめ腕達者ばかり。ダンサーも登場するなど曲ごとに様々な演出が施され、大いに盛り上げてくれる。そして、生で聴いた伊藤蘭の歌声もなかなかのものであった。最初こそ緊張が伝わってきたが、ステージが進むにつれて、のびやかでしなやかな歌声が全開。

自分的にはやはり「My Bouquet」の曲たちが良かったのだが、会場が最高潮に達したのは終盤のキャンディーズ時代の曲。春一番」「その気にさせないで」「年下の男の子」「ハートのエースが出てこない」。ええ、もちろん全部知っていますとも。インタビュー等で歌うことをにおわせてはいたが、ここまでとは……。

全17曲、2時間弱のステージ。実のところ、チケット代はそれなりにしたのだが、無理してでも「行ってよかった!」とつくづく思う次第。それぐらい見応えがありました。どうやら、今後も音楽活動を続けるようなので、今後も注目したいところ。

それにしても伊藤蘭、64歳。若い! 少しは見習わなくては。

 

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「エリカ38」

「エリカ38」
池袋シネマ・ロサにて。2019年6月9日(日)午後1時35分の回(シネマ・ロサ2/G-11)。

浅田美代子の好演が光る底知れぬ顔を持つ女の壮絶な人生

浅田美代子といえば、テレビの「時間ですよ」のお手伝い役でデビューして以来、明るく可愛い女の子というイメージが定着した。その後も映画「釣りバカ日誌」の浜ちゃんの奥さん役やバラエティー番組でのトークなどで、明るくひょうきんなイメージは、年をとっても変わらない。そんな中、イメージを覆す悪女役に挑んだのが映画「エリカ38」(2019年 日本)である。

実はこの映画、2018年9月に他界した樹木希林が生前、プライベートでも親交が深かった浅田美代子のためにと、自ら企画を手がけた作品だ。樹木はかねてから、ワイドショーなどで取り上げられる悪女を見て、「こういう役をやればいいのよ」と浅田に勧めていたという。おそらく、浅田の持つ役者としての奥の深さを評価して、それを発揮する場を作ってあげたいと感じたのではなかろうか。

実年齢を20歳以上も詐称し、巨額の投資詐欺に手を染め、最後は異国で逮捕された女の半生を描いた、実話をもとにしたドラマである。タイトルにある「エリカ」とは主人公の聡子が自称した名前。そして「38」は自称した年齢だ。

水商売をしながらネットワークビジネスを手がける渡部聡子(浅田美代子)は、喫茶店で偶然知り合った女性・伊藤(木内みどり)の紹介で、平澤(平岳大)という男と出会う。平澤は国境を超えたビジネスを展開しているという。そして、途上国への支援事業の名目でたくさんの人を集めて、投資話で大金を集めていた。

この平澤の話が面白い。いかにももっともらしい理想を語り、人々の投資の後押しをする。冷静になって考えれば、中身は空っぽで実体のない話なのだが、その場で聞いている者たちはつい引き込まれてしまう。なるほど、実際の詐欺もこうして行われるのだろう。

聡子もそれに引き込まれて、平澤を手伝うようになる。彼と親密な関係にもなる。だが、やがて平澤が複数の女と付き合い、自分を裏切っていることを知ったエリカは、平澤との連絡を絶つ。そして、今度は自ら支援事業の名目で金を集め始める。さらに、金持ちの老人をたらし込んで豪邸を手に入れ、老人ホームに入っていた母(樹木希林)を呼び寄せるのだ。

日比遊一監督の作品は初めて観たが、映像&演出に関して、様々な細かな仕掛けが施されている。何よりも特徴的なのが、ちょっと古びた感じの映像だ。本作のモデルとなった事件の時代性を意識したのかどうかは知らないが、それによってこのドラマの出来事がリアルな出来事というよりも、ある種の非現実的でファンタジー的な要素を持つ出来事に思えてくる。そして、それは主人公・聡子の人物像をより複雑で屈折したものに見せる効果も発揮しているのである。

終盤に用意された仕掛けも面白い。架空の投資話が行き詰まり、被害者たちから糾弾されながら、聡子がのらりくらりとそれをかわそうとする場面。そこを長回しの舞台劇のような構成で見せる。聡子の人生の破たんの前兆にふさわしい緊迫感に満ちた場面である。聡子の多面性もさらに際立つ。

本作の全体の構成は、ジャーナリストの男(窪塚俊介)による事件の関係者へのインタビューが随所に挟み込まれる形を取っている。それを通して、聡子の得体の知れなさを印象付ける狙いがあるのだろう。できれば「羅生門」のように、それらの証言が食い違っていたりすればなお効果的だったのだろうが、そこまで徹底されてはいない。

とはいえ、聡子の得体の知れなさはハンパではない。彼女は本当の悪女なのか、それとも憐れな女なのか。少女時代の彼女の家庭のエピソードなども盛り込みつつ、その人物像に迫るのだが、わかりやすい結論にたどり着くことはない。最後まで彼女の内面は複雑で底が知れない。

そんな人物を演じたのが浅田美代子である。これがまあ凄い演技なのだ。タイで愛人としてかこった若い男の前では本当に38歳のような若さと可愛らしさを見せる。一方、最後に逮捕されて接見室に現れたその顔は、老婆といってもよいほど老け込んでいる。そんなふうに場面場面で全く違う表情、たたずまいを見せるのだ。とても同一人物とは思えないほどの多様な姿を、きっちりと演じ切っている。

失礼ながら、浅田美代子がここまで演技力のある俳優だとは気づかなかった。ゴメンナサイ。その演技力にあらためて脱帽である。今頃、天国の樹木希林が言っているかもしれない。「ほーらね。美代ちゃんって本当はみんなが思っているよりもずっと凄い女優なのよ」と。

ついでに言えば、脇役たちもなかなか味のある使い方がされている。特に詐欺師たちを演じた平岳大木内みどりが怪しすぎる!

エンドロールでは、事件の実際の被害者の証言が流れる。そこでは聡子は加害者でありながら、被害者でもあったことが語られる。結局のところ、どちらの側面も持っていたのだろう。いずれにしても、聡子をはじめ加害者も被害者も、金に踊らされ、人生を狂わされてしまったわけだ。いつの時代も、金というものは恐ろしき存在である。

とにもかくにも、浅田美代子の演技が必見の映画だ。彼女の演技を通して、樹木希林の役者としての生き方、考え方も伝わってくる。

 

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◆「エリカ38」
(2019年 日本)(上映時間1時間43分)
監督・脚本:日比遊一
主演:浅田美代子樹木希林平岳大窪塚俊介山崎一山崎静代小籔千豊、WORAPHOP KLAISANG、菜葉菜、鈴木美羽、佐伯日菜子真瀬樹里中村有志黒田アーサー岡本富士太小松政夫古谷一行木内みどり
*TOHOシネマズシャンテ、シネマ・ロサほかにて全国公開中
ホームページhttp://erica38.official-movie.com/