映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

夏風邪と映画館マナー

映画の上映前には、必ず映画館マナーを呼びかけるCMが流れる。携帯電話の電源OFF、前の座席を蹴らない、おしゃべりをしない、大きな音で飲食しない等々だ。最近は、公開前の映画の内容とリンクさせた、マナーの呼び掛けと映画のPRを兼ねた映像などもあって、なかなか面白いものである。

それにしても、これだけ呼びかけても、マナーを守らないヤツがいるから困ったものだ、基本中の基本の携帯電話の電源OFFでさえ、平気で無視したりする。数か月前など、上映中に堂々と携帯でメールチェックしやがるヤツがいて、「最近の若いヤツは!」と思ってよく見たら、けっこうな年のオッサンだったのでビックリしたものだ。ええ、もちろん睨みつけてやめさせてやりましたとも。

ところで、上映中に咳ばかりしているというのはマナー的にどうなのだろう。実際、何度かそういう観客に遭遇したことがある。まあ、たいていはマスクをしているのだが、それでも個人的には大いに気になってしまう。咳の音も気になるし、こっちにも風邪が移るのではないかと気になって映画どころではなくなってしまうのだ。

だいたい体調の悪い時に映画館に来たところで、ますます悪化するのが関の山で、回復が早まることなどないと思うのだが……。

などと思っていたら、ついにオレ自身が夏風邪をひいてしまった。喉痛と熱発で、いや苦しい、苦しい。夜なんて、この暑いのに寒気がしてぶるぶる震える始末だもの。しかも症状がひどくなったのが土日なもので、病院にも行けない。休み明けにようやく耳鼻科の医院に行って処方薬をもらってきて、だいぶ良くなってきたのではあるが、まだ咳が続いている。ずっと咳をしているわけではないが、いったん始まるとなかなか収まらない。

これで映画館に行ったら、他の観客に迷惑がかかるだろう。オレ自身も映画に集中できない可能性が高い。映画を愛する者として、そんな無謀な行為は断じてできないのであるッ!!!

などと大げさに語ってしまったが、要するに、ここのところずっと映画館に行けてません。なので映画レビューも書けません。咳が収まるまで、もうしばらくお待ちください。という言い訳のブログなのであった。

まあ、何にしても映画館でのマナーはちゃんと守りましょうね。

「ヒトラーへの285枚の葉書」

ヒトラーへの285枚の葉書
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年7月20日(木)午後6時35分より鑑賞(スクリーン1/D-12)。

暑くてたまらない。油断すると熱中症になりそうだ。おまけに風邪まで引いてしまったらしい。

こんな時には爽やかな映画を……と思わないでもなかったのだが、諸般の事情により、ナチスものの映画を鑑賞してしまった。

ヒトラーへの285枚の葉書』(ALONE IN BERLIN)(2016年 ドイツ・フランス・イギリス)。

今までもたくさん作られてきたナチスをテーマにした映画。「もうネタ切れでは?」と思うかもしれないが、そんなことはない。この映画もなかなかユニークな映画だ。

1947年に出版されたドイツ人作家ハンス・ファラダの小説「ベルリンに一人死す」を俳優としても活躍するヴァンサン・ペレーズ監督が映画化した。とはいえ、まったくのフィクションではない。その小説は、ナチス時代のベルリンで実際に起きた事件の記録をもとに書かれたものだからである。

映画の冒頭では、1人の兵士が森の中で射殺されてしまう。何ともあっけない死だ。

続いて、舞台は戦勝気分に湧き立つナチス政権下のベルリンに移る。工場の職工長のオットーブレンダン・グリーソン)とアンナ(エマ・トンプソン)のもとに、出征したひとり息子ハンスが戦死したという報せが届く。そう、冒頭であっさり殺されたあの兵士だ。

夫婦は悲嘆にくれる。特にアンナの落胆ぶりは痛々しいほどだ。それに対して、オットーはアンナほど感情を表に出さない。しかし、実は彼の心の中は、悲しみと怒りが渦巻いていたのだ。

その思いをぶつけるように、彼は葉書にヒトラーへの批判を綴る。「息子はヒトラーに殺された」と。そして、その葉書を公共の場所にそっと置いてこようとする。オットーはそれを一人で実行するつもりだったが、アンナも協力を申し出る。こうして夫婦は危険な行為を続けていくのである。その数なんと285枚!

単に葉書を書いて置いてくるだけのシンプルな展開だが、これが意外に面白い。何しろ世間はナチス一色だ。もしも見つかったら大変だ。死刑は免れない。それでも夫婦は人の目を盗んで何とか葉書を置き続ける。まさにハラハラドキドキのサスペンスフルな展開が続くのだ。

そして、もう一つスリルを高めるのが、ゲシュタポのエッシャリヒ警部による捜査である。地図に旗を立てて葉書が置かれた場所を示し、犯人像をあぶりだし、真相に迫ろうとする。その経緯が緊迫感を煽る。

というわけで、スリリングで面白い展開ではあるのだが、これだけではナチスを描いた映画としては物足りない。やはり、そこには深い人間ドラマが欲しい。それがなければ、ナチスへの批判もうわっ滑りになってしまうだろう。

そんな思いを満たしてくれるのが、オットー役のブレンダン・グリーソン(「ハリー・ポッター」シリーズ、「未来を花束にして」など)とアンナ役のエマ・トンプソン(「ハワーズ・エンド」「いつか晴れた日」など)の演技だ。2人ともセリフはそんなに多くないのだが、それ以外の目の演技、手の動かし方などで多くのことを表現する。亡き息子への思い、ナチスへの怒り、夫婦愛などなど。抑制的でありながら味わいに満ち、極めて雄弁な2人の演技が、この作品を奥深いものにしているのである。

ちなみに、ナチスの映画であるにもかかわらず、この映画の言語は英語。最初は、やや違和感を持ったのだが、この2人の演技が、それを消し去ってしまっている。

それにしても恐ろしく哀しい話だ。権力者の批判をしただけで、罪に問われてしまうわけだから。その理不尽さが、スクリーン全体を支配している。前半では、ひっそり隠れて暮らすユダヤ人の老女が、死に追いやられるエピソードが描かれる。そこでは彼女を救おうとする判事なども登場するのだが、彼らにしても自分を曲げなければ生きていけない。

自分を曲げなければいけないのは、エッシャリヒ警部も同じだ。彼は有能な捜査官たらんとして捜査を続けるのだが、親衛隊の幹部はそんなことにお構いなく、理不尽で屈辱的な態度を示す。それによって、彼はある人物を死に追いやることになる。エッシャリヒ警部を演じたダニエル・ブリュール(「グッバイ、レーニン!」「僕とカミンスキーの旅」など)の存在感も見逃せない。

はたして、オットーとアンナにどんな運命が待っているのか。詳しいことは伏せるが、お気楽な救いなどはない。用意されるのは苦く、重たい結末だ。しかし、最後の最後には意外な展開が……。

自分の心に従って、愚直に小さな抵抗を続けたオットーとアンナの思いは、エッシャリヒ警部の心も打ち鳴らし、そして市民にも波及し始めたのかもしれない。そう信じたいラストシーンである。

二度とあの息苦しい時代に戻ってはならないという、作り手の強い思いが感じられる作品だった。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカードの会員料金にて。

「ハートストーン」

「ハートストーン」
YEBISU GARDEN CINEMAにて。2017年7月17日(月)午後1時30分より鑑賞(F-6)。

青春というとキラキラ輝くまばゆい日々というイメージがあるが、実際は影の部分だってたくさんある。感受性豊かな時期であるがゆえに、思わぬ方向に人生が転がってしまうことだってあるだろう。それによって傷つく人も現れるはずだ。青春には残酷な側面も存在するのである。

「ハートストーン」(HJARTASTEINN)(2016年 アイスランドデンマーク)という映画は、そんな青春の光と影の両面を切り取った作品だ。アイスランドの漁村を舞台にした思春期を迎えた少年少女たちのドラマである。

アイスランドの小さな漁村に暮らすソール(バルドゥル・エイナルソン)とクリスティアン(ブラーイル・ヒンリクソン)。幼なじみの彼らは、いつも一緒に行動する大親友だった。そして今、彼らは思春期を迎えている。

映画の冒頭では、彼らを中心に数人の子供たちが魚の群れを発見して、魚を捕まえる。だが、ソールがその魚を家に持って帰ると、母親は「どうせ盗んだんでしょ」と相手にしない。このシーンを観ただけで、かなり屈折した青春ドラマであることがわかるはずだ。思春期の子供たちの無邪気さと、思うにまかせない現実がそこに見える。

ソールとクリスティアンは、特別な子供ではない。捨てられた廃車を壊し、ワルぶってツバをはきまくり、そこにあったエロ写真ではしゃいだりする。あの年頃の子供にはよくある行動だ。そして、いかにも思春期らしく、自分の体の変化に戸惑ったり、性的な興味が高まったりもする。

この映画では、彼らと家族との関係も描かれる。ソールの父は家を出てしまい、母親はいろいろな男たちとつきあうものの、うまくいかないようだ。また、ソールは自由奔放なラケルと芸術家肌のハフディスという対照的な2人の姉妹に囲まれて暮らしていて、彼女たちとの関係も一筋縄ではいかない。

一方、クリスティアン父親は暴力的な男で、妻や息子を殴ることも珍しくない。しかも、彼はゲイを毛嫌いしているようだ。このことも、クリスティアンの行動に大きな影響を与える。

そして、このドラマの大きな転機になるのがソールの恋だ。ソールは大人びた美少女ベータ(ディルヤゥ・ヴァルスドッティル)に恋をするが、なかなか告白できない。それを親友であるクリスティアンが後押しして、何とかうまくいかせようとする。クリスティアン自身も、ベータの女友だちのハンスから好意を持たれ、4人は行動を共にするようになる。

こうして4人の少年少女の青春の日々が瑞々しく描かれる。そこで目を引くのが、繊細な心理描写である。何気ない日常のちょっとした表情やしぐさから、思春期の彼らの揺れ動く心情を余すところなく描き出す。例えば、ただのゲームでキスをする時の表情の変化で、心の内にあるものを映し出したり……。

監督は本作が長編デビューとなるアイスランドのグズムンドゥル・アルナル・グズムンドソン。自身の少年時代にインスピレーションを得たそうだが、それにしても才気あふれる演出だと思う。

そんな繊細な心理描写を通して、観客はある事実に気づくことだろう。クリスティアンにはソールに対するある秘めた思いがあったのだ。それをチラリと見せるカメラワークが心憎い。それがあるから、後半に用意された急展開が不自然に感じられない。

雄大な自然、どんよりした空など、アイスランド独特の気候や風土も、このドラマに味わいを加えている。

同時に、どこかに死の匂いがつきまとうのも、この映画の特徴かもしれない。映画の冒頭の魚を捕るシーンでは、子供たちがカサゴを「醜い」と罵倒してグチャグチャにする。その後も、野犬に襲われた羊など、ところどころに死と密接に結びついたシーンが登場する。

やがて、死の匂いはソールにもふりかかる。クリスティアン父親によって、半ば強制的に急な崖を下らされて、そこで死の恐怖を身近に感じる。

そうやって不穏な空気が積み重なる中で、終盤には事件が起きる。ソールの姉たちが開いたホームパーティーで、姉ハフディスがソールとクリスティアンをモデルに描いた絵が見つかり、そこに居合わせた友人たちが騒然となる。そして……。何とも重たく、切ない展開である。

ソール役のバルドゥル・エイナルソンとクリスティアン役のブラーイル・ヒンリクソンのキャストが素晴らしい。小柄で黒髪でリヴァー・フェニックスを思わせるエイナルソンと、金髪の北欧系美少年のヒンリクソンのコンビが、この映画をさらに輝かせている。

映画のラストには、カサゴが海に放たれて泳ぎだすシーンが用意されている。それは、心のままに生きることができなかったクリスティアンを投影したものなのだろうか。もしかしたら彼だけでなく、息苦しさを抱えながら生きるすべての思春期の子供たちを象徴しているのかもしれない。

青春の輝きと残酷さが繊細な心理描写で綴られた、心を揺らす一作である。


●今日の映画代、0円。ユナイテッド・シネマの貯まった6ポイントで無料鑑賞。

「逆光の頃」

「逆光の頃」
新宿シネマカリテにて。2017年7月12日(水)午後12時より鑑賞(スクリーン1/A-9)。

暑い夏はなるべく上映時間の長い映画が観たい。だって、その分、涼しい映画館に長くいられるのだから。

などと思いつつ観に行ったのは、なんと上映時間が66分しかない映画なのだった……・

「逆光の頃」(2017年 日本)は、上映時間66分、つまり1時間6分。どうしてそんな映画を観に行ったのかというと、脚本と撮影も兼ねる小林啓一監督に惹かれたからである。

小林監督は「ももいろそらを」(2012)、「ぼんとリンちゃん」(2014)と、魅力的な青春ストーリーを紡いできた。女子高生たちのちょっとした冒険を全編モノクロ映像で描いた「ももいろそらを」は心にしみる作品で、オレのその年のベスト映画の一つになった。また、腐女子の女子大生と幼なじみのアニオタ浪人生を描いた「ボンとリンちゃん」も、なかなか面白い映画だった。いわば青春映画の名手なのである。

で、今回の「逆光の頃」はどうなのか。これまた、まがいもない青春ストーリーである。京都で生まれ育った男子高校生が、幼なじみとの恋、同級生たちとの友情やケンカなどを経験しながら、成長していく姿を描いている。

原作は漫画家のタナカカツキの初期のコミック。ちなみに、タナカカツキはフィギュアの「コップのフチ子さん」の原案者でもあるそうだ。

主人公の赤田孝豊(高杉真宙)は、京都に住むどこにでもいそうな高校2年生。まじめでよい子だが、ちょっと抜けたところがある。そして、当然ながら人並みに悩みもあったりする。

冒頭は彼の独白とともに、目にしたものの残像に関する話が飛び出す。何やら難しいドラマなのだろうか……と思ったら、遅刻しそうになって慌てて家を飛び出す孝豊。そう、やっぱり彼は普通の高校生なのだ。

そんな彼の日常が、いくつかのエピソードを積み重ねる形で描かれるこの映画。ただし、とりたてて大きなことは起きない。

前半で描かれるのは、彼にとって憧れと羨望の的であるらしい同級生の公平(清水尋也)とのエピソード。バンド活動をする彼は模擬試験を受けずに、ライブハウスに出演する。それを観客席から見つめる孝豊。そして、その後、河原で無邪気に水遊びする2人。まさにキラキラ輝く青春だ。しかし、まもなくライブハウスは閉店が決まり、マスターの勧めもあって公平は学校をやめて上京してしまう。

中盤では、孝豊と幼なじみの、みこと(葵わかな)の恋が描かれる。夏休みにわざわざ学校に行き、毎日英単語を覚えることにした孝豊。しかし、夜になっても家に帰ってこない。そのことを孝豊の姉(佐津川愛美)から聞いて心配したみことが、学校に行ってみると、孝豊はつい居眠りしてしまっていたのだ。

警備員に見つかるとまずいからと、2人は隠れる。その間の交流が描かれる。それは実に初々しい恋だ。宇宙人がいるかどうかという他愛もない話をしたり、2人で並んで美しい満月を眺めたり。同時に、そこで、ほんのちょっとした奇跡を起こして見せる。この映画の中で最も心にしみるシーンだ。青春のきらめきが、これ以上ないほど生き生きと活写されているのである。

後半では、今までケンカなどしたこともない孝豊が、自分とみことのことをからかう不良の小島(金子大地)に対して、初めてのケンカを挑む。そこには「あんな奴一発殴ればいいのに」というみことの言葉や、孝豊の父親(田中壮太郎)の昔のエピソードなどが絡んでくる。激しい雨の中、素手同士のゴツゴツした殴り合いが続く。これもまた青春なのだ。

その後、孝豊は父親から仕事である伝統工芸の手ほどきを受ける。彼の成長を物語る出来事だ。

こうしてほのかな恋愛、親子関係、友人関係など、青春時代の様々な側面を瑞々しく切り取る小林啓一監督。さすがである。何よりも映像が魅力的だ。アニメなども織り込みつつ、美しく鮮度の高い映像を生み出している。

今回は京都が舞台ということもあって、その風景も印象的に使われている。孝豊とみことが学校から帰る河原のシーンは、この世のものとは思えないほど幻想的だ(鴨川の納涼床?)。五山の送り火や満月の映像も素晴らしい。観ているうちに、すっかり京都に行きたくなってしまった。

青春ど真ん中の映画でありながら、ノスタルジーの香りも漂わせている。すでに青春がはるか遠くになってしまったオレのような観客も、孝豊たちを見ているうちに、「そういえば、自分にもあんなことがあったっけ」と共感するはずだ。

いや、実際は、あんなにかわいい子とつきあうことなどなかったし、そもそもあんなイケ面高校生ではなかったわけだが、そういうことを忘れさせるマジックが、この映画には存在しているのだ。

孝豊役の高杉真宙、みこと役の葵わかな矢口史靖監督の『サバイバルファミリー』に出演していて、NHKの朝ドラのヒロインに選ばれたとか)の初々しさも特筆もの。どちらもピッタリの配役だった。

しかし、66分はいくらなんでも短すぎでしょう。もう一つか二つエピソードを重ねて、あと20分ぐらい長くしても良かったと思うのだが……。

とはいえ、キラキラ輝く瑞々しい青春映画で、このクソ暑い夏を心地よく爽やかにさせてくれたのだった。青春真っ只中の人も、すでに過ぎ去った人も、どちらの胸にも響きそうな良作である。

●今日の映画代、1000円。シネマカリテの毎週水曜のサービスデー料金。

「ライフ」

「ライフ」
新宿ピカデリーにて。2017年7月10日(月)午前11時30分より鑑賞(シアター6/E-10)。

連日暑くてたまらない。こう暑いと、できるだけ涼しい場所に避難したくなる。そういうわけで、ますます映画館に行く回数が増えて、ますます貧乏になるオレなのだった。

そして、これだけ暑いと観たくなるのが、背筋ゾクゾクもののスリラー映画だ。そこで観に行ったのがSFスリラー映画「ライフ」(LIFE)(2017年 アメリカ)である。監督は「デンジャラス・ラン」「チャイルド44 森に消えた子供たち」のダニエル・エスピノーサ

冒頭に描かれるのは宇宙空間の映像だ。星々がひしめくその姿は美しいというよりも、何やら不気味だ。まもなく、そこに飛んでくる飛行物体。しかし、何かの物体と衝突する。

続いて登場するのは国際宇宙ステーション(ISS)である。そこでは、世界各国から集められた6人の宇宙飛行士が活動している。

宇宙に473日間も滞在しているアメリカ人医師デビッド・ジョーダン(ジェイク・ギレンホール)、疾病対策センターから派遣された検疫官のミランダ・ノース(レベッカ・ファーガソン)、エンジニアのローリー・アダムス(ライアン・レイノルズ)、ロシア人女性司令官のエカテリーナ・“キャット”・ゴロフキナ(オルガ・ディホヴィチナヤ)、日本人システム・エンジニアのショウ・ムラカミ(真田広之)、宇宙生物学者のヒュー・デリー(アリヨン・バカレ)。

ある日、彼らは火星から帰還した無人探査機を回収するミッションに挑む。そう。それが冒頭に登場した飛行物体だ。しかし、冒頭で描かれたように、その探査機は衝突により軌道が変わってしまう。そのため、デビッドが船外に出て、ロボットアームを操作してキャッチしなければいけない。それはかなり危険な任務だ。はたしてデビッドは無事に帰還することができるのか???

ハラハラドキドキ感あふれる展開である。しかし、これはまだ序の口だ。続いて、その無人探査機が採取した火星の土壌の分析が始まる。そして、そこに生命体が存在していることが判明する。とはいえ、いわゆる宇宙人のようなものではない。肉眼では見えない細胞だ。

その細胞は全く動かない。死んでいるのか? 担当のヒュー・デリーは温度を変えたりして、何とか動かそうとする。はたして生命体は動くのか???

こうしてまたまたハラハラドキドキの展開になるわけだ。それは映画の最初から最後まで続く。このハラハラドキドキ感の波状攻撃こそが、本作の最大の魅力なのである。

「火星で生命体発見!」のニュースは、地球で大反響を巻き起こす。宇宙飛行士たちは中継でテレビにも出演する。彼らは勇んで研究に着手する。ところが、まもなく、またしてもハラハラドキドキの展開が訪れる。しかも、今度はけた外れだ。

最初はただの単細胞と思われた生命体。しかし、もっと複雑であることがわかる。その生命体は宇宙飛行士たちの予想を遥かに超えるスピードで成長し、高い知性も見せ始める。そんな中、生命体はひょんなことからまた動かなくなってしまう。それを動かそうとして、乗組員が電気ショックを加えたところ……。ギャー!!!

そこから始まる恐怖のドラマ。生命体はどんどん成長し、凶暴化して、ISSの船内はもちろん、船外でも宇宙飛行士たちを襲い始める。それに対して様々な方法を駆使して、必死に逃げようとする宇宙飛行士たち。

何といっても生命体のビジュアルが強烈だ。最初はミクロの細胞だったのが、クリオネのような小動物になり、やがてヒトデかタコのような怪異な外見へ変貌を遂げていく。どんな攻撃をしても彼らは死なない。まさに不死身の怪物だ。その魔手から逃れようと、密閉されたISS内をあの手この手で逃げ回る乗組員たち。しかし、あまりにも無敵で何をやっても死なない生命体によって、1人、また1人と殺されていく。

正直、この映画を観る前は、それほど期待はしていなかった。何しろ襲いくる謎の宇宙生命体VS人類のバトルというネタは、「遊星からの物体X」(1982年)や「エイリアン」(1979年)といった過去のSF映画と同じようなもので、既視感は否めない。

それでも最新のビジュアルを使いつつ、あの手この手でノンストップの緊張感と恐怖を生み出している。その手際が実に鮮やかだ。そして密閉されたISS内のドラマということで、「ゼロ・グラビティ」(2013年)と共通するヒリヒリするような緊張感にも満ちているのである。

その一方で、深い人間ドラマこそないものの、軍人としてシリアに赴いた経験を持つデビッド、子供が誕生したばかりのムラカミ、難病で下半身マヒのデリーなど、宇宙飛行士たちが背負ったものを少しだけ見せて、彼らのその後の言動に説得力を持たせるあたりも、なかなか抜かりのない演出だと思う。

観終わってあとあとまで残るような作品ではないし、よく考えればツッコミどころもありそうだ。だが、それでも観ている間は余計なことを考えさせずに、スクリーンにずっと釘付けにしてくれるのだから、見応えは十分だろう。少なくとも入場料分ぐらいは元が取れる映画だと思う。

この映画で最も怖いのは、エンディングかもしれない。なにが起きるかは伏せるが、「おいおい勘弁してくれよ!」と言いたくなるような結末だ。最近、人類の注目が火星に集まり、移住計画まで進行しているらしい。だが、はっきり言おう。火星に移住するのはやめた方がいい。そこには絶対に何か恐ろしいものがいる!……な~んてことを思ってしまう映画なのだった。

●今日の映画代、1400円。事前にムビチケ購入済み。

「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

「夜空はいつでも最高密度の青色だ」
テアトル新宿にて。2017年7月8日(土)午後1時45分より鑑賞(D-11)。

小説を映画化した作品は腐るほどあるが、詩集を映画化した作品というのはあまり目にすることがない。小説に比べて詩集は余白の多い世界であり、読み手の想像力に負うところが大きいだけに、映画にする場合にも作り手の工夫の余地がありそうだ。逆にそれがやりにくさにつながるのだろうか。

映画「夜空はいつでも最高密度の青色だ」(2017年 日本)は、最近人気らしい最果タヒいう詩人の詩集をもとにした映画だ。監督・脚本の石井裕也は、「川の底からこんにちは」「君と歩こう」「あぜ道のダンディ」「ハラがコレなんで」「舟を編む」「ぼくたちの家族」など、様々なタイプの映画を監督してきた。その中でも、今回は異色作といえるかもしれない。詩集が原作という特徴を良い方向に導いて、かつてないほどに自由で大胆、そしてなおかつ繊細な作品に仕上げているのである。

この映画の骨格になるのは、美香(石橋静河)と慎二(池松壮亮)という男女の恋愛ドラマだ。2人は偶然出会い、その後も何度か再会し、少しずつ距離を縮めていく。ただし、この映画、ただの恋愛映画を越えた作品になっている。

美香は看護師をしながら、夜はガールズバーでバイトしている。慎二は建設現場で日雇いとして働いている。ある日、美香はガールズバーで、客としてやってきた慎二と出会う。2人は美香のバイトが終わった後に、渋谷の雑踏の中で再会する。さらに、まもなく建築現場で慎二の同僚が倒れ、そのまま亡くなってしまう。美香と慎二は、その葬儀の場で再び顔を合わせる。

この映画が、ありがちな恋愛ドラマにとどまらないのは、2人が心に抱えたものと大きく関係している。美香は空虚さと孤独にさいなまれている。その根底に彼女の個人的な事情があるのは間違いない。

ただし、それだけではない。彼女の空虚さや孤独には、「今の時代」「都会生活」という大きな要素が影を落としている。この映画で印象的なのは、都会=東京の風景の描写だ。喧騒と狂騒に包まれる中、そこに広がる虚無感や無機質さ。例えば、街の中で人々が集団でスマホに目をやっているシーンには、思わず胸の奥がザワザワしてしまう。そうした映像が、美香の心の奥底とダイレクトにつながってくる。

一方、慎二も不安と孤独を抱えている。彼は時々速射砲のようにしゃべるのだが、それは不安の裏返しに違いない。彼の周辺では、いわゆる社会の底辺の人々が過酷な生活を送っている。現場で急死した同僚の智之(松田龍平)、腰を痛めつつ何とか働き続ける中年男・岩下(田中哲司)、多額の借金をして実習生という名目でフィリピンから渡ってきた青年・アンドレス(ポール・マグサリン)・・・。慎二の周りには、いつも死の影がつきまとっている。彼の口癖は、「何か悪い予感がする」というものなのである。

死の影がちらつくのは美香も同じだ。彼女は勤務する病院で日常的に人の死を目にしている。また、どうやら彼女の母親は自殺したらしい。

そしてもう一つ、美香と慎二に共通するところがある。2人は、今の世の中の流れや世間の常識に押し流されそうになりながらも、それに何とか抗おうとしているのだ。例えば、慎二はアパートの隣人の独居老人と交流を持つが、それは彼が本質的に持つ他人思いの性格によるものであると同時に、隣人との交流などほぼ消えかけた現代社会に対する抵抗のようにも思える。

また、美香が恋愛に不信感を持つのも、元カレに捨てられた過去によるものであるのと同時に、安直にくっついたり別れたりを繰り返す、同世代に対する違和感の表明のようにも思えるのだ。

こうして様々な共通点を持つ美香と慎二は、ぎこちないながらも、少しずつ心を変化させて近づいていく。その様子を石井監督が繊細に描き出している。2人の悩み、苦しみ、かすかな喜び、絶えず変化する距離感などが手に取るように伝わってくるのである。

また、この映画では映像的にも様々な工夫がなされている。突然アニメが登場したり、慎二がつぶやく単語をそのまま文字にしたり……。それもまた、2人の心理をリアルに伝えるのに効果を発揮している。

終盤には、美香とヨリを戻そうとする元カレが登場したり、慎二の高校時代の同級生の女性が現れたりして、2人の心を揺さぶる。しかし、それを経て、慎二のまっすぐな思いが少しずつ美香の心をほぐしていく。

映画の最後で、慎二の悪い予感は、「きっととても良いことが起きる」というポジティブな予感へと変化して、ドラマは終幕を迎える。そこはかとない温かさと、清々しさを漂わせるエンディングである。

美香を演じる石橋静河は、石橋凌原田美枝子の次女。ほとんど笑わないその表情が、彼女が心の内を雄弁に物語っている。一方、慎二を演じるのは池松壮亮。個人的には、それほど好きな役者ではなかったのだが、今回の役はハマリ役だった。複雑な慎二の心理を巧みに表現している。

美香と慎二の恋愛の背景には、貧困、格差社会、独居老人、そして震災など、昨今の社会状況も見え隠れする。あくまでも不器用で、屈折した男女の恋愛を通して、今の時代と、都会という厄介な存在をあぶりだしてみせた石井裕也監督。この作品は、彼にとっての新境地といえるかもしれない。観る前に想像していたよりも、はるかに奥が深く素晴らしい映画だった。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカードの会員料金で鑑賞。

「コンビニ・ウォーズ バイトJK VS ミニナチ軍団」

「コンビニ・ウォーズ バイトJK VS ミニナチ軍団」
新宿シネマカリテにて。2017年7月5日(水)午後12時より鑑賞(スクリーン1/A-9)。

何せ金銭的な問題があるので、無制限に映画を観まくるわけにはいかない。たくさん公開される映画の中から、「これぞ!」という作品をセレクトして観ることになる。その際には各方面からの評価が高い、いわゆる良作や秀作、佳作などといわれる作品を鑑賞することが多くなってしまう。

だが、その反動だろうか。時々とんでもないオバカ映画やB級映画が観たくてたまらなくなることがある。ちょうど昨日もそんな気分だったのだ。

そんなわけで、観てしまいました。「コンビニ・ウォーズ バイトJK VS ミニナチ軍団」(YOGA HOSERS)(2016年 アメリカ)。

ケヴィン・スミス監督の映画はカルトな作品が多い。特に前作の「Mr.タスク」は、人間をセイウチに改造することに執念を燃やす老人に捕まった男を描いたホラー映画で、セイウチ人間の強烈なビジュアルが刺激的すぎる作品だった。

その「Mr.タスク」には、ジョニー・デップヴァネッサ・パラディの娘のリリー=ローズ・デップ、そしてスミス監督の娘のハーリー・クィン・スミスが、女子高生コンビの役でチラリと登場していい味を出していた。

その名コンビぶりを見たスミス監督が、「これで1本作れんじゃね?」と作ってしまったのがこの映画だ。何という安直さ! そのため「Mr.タスク」のセイウチ話が飛び出したり、セイウチ人間にさせられたジャスティン・ロングが出演したりしているわけだが、まあ別に「Mr.タスク」を観ていなくても楽しめるだろう。

コリーン・コレット(リリー=ローズ・メロディ・デップ)と、コリーン・マッケンジー(ハーレイ・クイン・スミス)という2人のコリーン(Wコリーン)が主人公だ。2人はコンビニで一緒にバイトしている仲良し女子高生だが、バイトも授業もやる気なし。

冒頭はそのWコリーンが、コンビニのバックヤードで35歳のドラマーとバンド練習をしているところ。そこからすでにおバカな香りがプンプンと漂っている。何しろコンビニの入り口には「ぼうこう炎のため10分閉店」の貼り紙が……。

店に来るのは変な客ばかり。それに対するWコリーンの接客はいい加減。しかし、イケメンの上級生が来たら態度が一変。パーティーに誘われて大喜びする2人なのだ。

家に帰れば、コンビニのオーナーであるコリーン・コレット父親が、店長の女といちゃつく始末。それを邪魔しようとスティクスの「Babe」を歌うWコリーン。それは父親との思い出の曲なのだった。

そして、2人が大好きなのがヨガ。それもかなりヘンなヨガで、怪しい先生(ジャスティン・ロング)の指導を受けている。

というわけで、ヘンなヤツらが次々に登場して、ヘンな行動をする前半。そんな登場人物をゲームキャラ風にテンポよく紹介する仕掛けが、なかなか斬新で面白い。

まもなくWコリーンは、学校で地元カナダにもかつてヒトラー崇拝者がいた歴史を知らされる。その過去の歴史をモノクロ映像で、いかにも正統派の歴史ドラマ風に紹介するのだが、そこで演説するのは「シックス・センス」の元天才子役ハーレイ・ジョエル・オスメント。その小太りのチョビヒゲ姿を観ているだけで、クスクス笑ってしまうのだ。

さて、このナチスの話が伏線になって、後半はますますおバカ度も笑える度も加速していく。コリーン・コレット父親のわがままで、パーティーに参加できずにコンビニでバイトすることになったWコリーン。それならばと、コンビニに男子を呼んでパーティーを行おうとする。

ところが、その男子たちは悪魔崇拝者で、Wコリーンを殺害しようとする(何じゃ? そりゃ)。しかし、その時、誤って地下に眠っていた邪悪なミニナチ軍団を呼び起こしてしまい、彼らは殺害されてしまうのだった。

そこからは、いよいよWコリーンとミニナチ軍団のバトルが勃発する。そのミニナチ軍団ときたら、ソーセージやザワークラウトでできたクローンで、顔つきはヒトラーそっくり。それがWコリーンに電子レンジでチンされたり、ぐちゃりと潰されたりするものだから、あまりにもしょーもなくて、ただ笑うしかないのである。

その後、殺人犯の濡れ衣を着せられたWコリーン。彼女たちを救うのは「Mr.タスク」にも登場したアブナすぎる探偵。演じるのはジョニー・デップ。そうである。リリー=ローズ・メロディ・デップの父ちゃん登場だ。父娘共演だけあって、父ちゃんノリノリ。その怪演ぶりは「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパロウにも引けを取らない。

ちなみに、父ちゃんだけでなく母ちゃんのヴァネッサ・パラディもご登場だ。別れても、娘のために参集した元カップル。親の愛は偉大!なのか?

そんな探偵とWコリーン、さらにミニナチの親玉の科学者(なぜかスタローンやアル・パチーノなどスターの声色で説明をする)などが絡んで、ますます混沌かつおバカになる終盤。クライマックスはミニナチ軍団が解き放った巨大な怪物との対決。そのビジュアルも何だかヘンで笑ってしまう。

いやぁ~、それにしても、これだけおバカな映画を観たのは久しぶりである。くだらないB級映画なのは確かだが、それを承知でオバカを貫いている潔さが心地がよい。最初から最後まで笑いっぱなしだった。

エンドロールに流れるのはWコリーンによるカナダを賛美する歌。そして、その後にはスミス監督たちが、ヨガにはまる人たちを揶揄するバカ話を披露。まさにオバカ街道まっしぐら。ここまでやってくれたら文句なしである。

というわけで、たまにはこんなオバカ映画どうでしょう?

●今日の映画代、1000円。シネマカリては毎週水曜がサービスデー。