映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「ありがとう、トニ・エルドマン」

「ありがとう、トニ・エルドマン」
シネスイッチ銀座にて。2017年6月25日(日)午後12時15分より鑑賞(スクリーン1/D-8)。

ジャック・ニコルソンといえば、アカデミー主演男優賞を受賞した「カッコーの巣の上で」をはじめ、数多くの映画に出演した名優だ。しかし、その彼も79歳。「どうやら引退したらしい」というニュースが耳に入ってきた。

それを聞いて「まあ、年も年だし仕方ないか」と思ったのだが、しばらくしたら、また別のニュースが聞こえてきた。あるヨーロッパ映画を気に入って、そのリメイク権を獲得し、引退を撤回して自ら演じるというのだ。いったいどんな映画なんだ?

その映画とは、「ありがとう、トニ・エルドマン」(TONI ERDMANN)(2016年 ドイツ・オーストリア)である。ドイツ人の父ヴィンフリート(ペーター・ジモニシェック)と娘イネス(ザンドラ・ヒュラー)によるドラマだ。

ただし、このヴィンフリート、かなりの変わり者だ。映画の冒頭を見れば、それがよくわかる。家に来た宅配便のスタッフに対して、ヴィンフリートは自分と架空の弟の一人二役を演じ、「この荷物は爆弾だ」などと物騒なことを言うのだ。

そうである。ヴィンフリートは悪ふざけが大好きなのだ。本人は面白い冗談のつもりなのだが、周囲はそうは受け取らない。まるで悪ガキそのものだ。

その一方で、ヴィンフリートは近所に住む年老いた母を気遣い、目の見えなくなった老犬をこまめに世話する。困った人ではあるものの、けっして悪人ではない。このあたりの絶妙なキャラクター設定が、このドラマを魅力的にしている。

それに対して娘のイネスは、コンサルタント会社に勤め、仕事一筋の人生を送るバリバリのキャリアウーマンだ。いつも額にしわを寄せて、ほとんど笑顔を見せない。そして頻繁に携帯電話で仕事の話をする。

まもなくヴィンフリートは愛犬を亡くす。その直後に、彼はルーマニアブカレストに赴任しているイネスのもとを訪れる。

しかし、これは予告なしの突然の訪問だった。しかも、イネスは難しい案件を抱えて、連日その対応に追われている。夜は取引先の取締役を接待し、休みの日もその妻の買い物に付き合う。今どき、日本の猛烈サラリーマン(は死語か?)でも、こんなことはしないだろう。

イネスは行きがかり上、接待の場にも父を連れていくはめになる。だが、変わり者のヴィンフリートだけに、おかしな行動で相手を困らせる。それがまたイネスの機嫌を悪くさせる。というわけで、父と娘はぎくしゃくした関係のまま数日を過ごすのである。

それでもようやくヴィンフリートはドイツへ帰国する。ほっとするイネス……。しかし、それからまもなく、イネスの周辺に奇妙な人物が現れる。変なカツラをかぶって、「自分はコーチングの仕事をしているトニ・エルドマンだ」などと名乗る。

そうである。実はヴィンフリートは帰国していなかったのだ。こうして、変装して娘の周りをうろうろし始めたヴィンフリート。その奇妙な格好と言動には、無条件に笑わされる。言うまでもないが、この映画はコメディー映画である。

とはいえ、荒唐無稽な映画ではない。例えば、ヴィンフリートとイネスの関係はけっして良くないが、絶縁するほどの不仲でもない。よくある微妙な関係というやつだ。だからこそ、観客は彼らの存在を身近なものとして感じられるはずだ。

そして、この映画の最もユニークなところが映像である。この手のコメディーには異例なことだが、なんと全編手持ちカメラで、長回しを多用したドキュメンタリータッチの映像で描くのだ。もちろん音楽もない。一瞬、「午後8時の訪問者」ダルデンヌ兄弟の映画かと錯覚してしまいそうだ。

しかも、コメディーとしては異例の2時間42分という長さ。その分、父と娘の細かな行動を余すところなく積み重ねることで、圧倒的なリアリティーを持たせているのである。

映画が進むうちに、ヴィンフリートがトニ・エルドマンとして振る舞うのは、ひとえにイネスに笑顔になってもらいたいからだとがわかってくる。つまり、彼なりの愛情表現なのだ。

イネスも父の思いを少しずつ感じ取り始める。その転機になるのが、父のピアノで(実はヴィンフリートは音楽教師!)、イネスが無理やりホイットニー・ヒューストンの曲を歌わされる場面だ。半ばやけ気味に歌うイネスの姿からは、「自分も変わりたい」という思いがそこはかとなく伝わってくる。

そして、その後に登場するのは驚きの展開だ。うーむ。ここはネタバレになるかもしれないので、読みたくない人は以下の数行は飛ばしてください。

イネスが自宅に上司や同僚を招いたパーティーで、ドレスを着るのに手こずり「今日は裸のパーティー」と全裸で登場してしまうのである!!! ここは、コメディーとして爆笑のシーンであるのと同時に、イネスの変身願望を象徴するシーンでもある。おまけに、そのパーティーにあの人も登場。しかも、とんでもない格好で!!!
 
こうして変わり者の父によって、イネスは変化を遂げる。ただし、それをよくある感動ストーリー風にまとめないのが、この映画らしいところ。「ありがとう、トニ・エルドマン」などとわかりやすいセリフを吐かせることもなく、公園でのハグ、ラストのイネスの表情などで彼女の変化を、さりげなくスクリーンに刻むのだ。

笑えるコメディーでありながら、父と娘の関係に胸を熱くさせられる。さらに、人生や働くことの意味まで考えさせられる。こんな映画を作ってしまった脚本・監督のマーレン・アデの手腕に感服するばかりだ。

これなら、ジャック・ニコルソンが引退を撤回するのもわかる。はたして、どんなハリウッド・リメイク版ができるのか。期待と不安が相半ばするのである。

●今日の映画代、1500円。事前に鑑賞券を購入。