映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「ザ・ウォール」

ザ・ウォール
新宿バルト9にて。2017年9月3日(日)午後1時より鑑賞(シアター3/E-9)。

伝説のスナイパーを描いた映画といえば、クリント・イーストウッド監督の「アメリカン・スナイパー」が思い浮かぶ。あちらはイラク戦争におけるアメリカ軍のスナイパーだったわけだが、今度はイラク人スナイパーをモチーフにした映画が登場した。「ザ・ウォール」(THE WALL)(2017年 アメリカ)である。

そのモチーフとは、イラク戦争で30人以上ものアメリカ兵を殺害したと言われる実在の凄腕スナイパー、ジューバだ。となれば、その憎き敵にアメリカ兵が勇敢に挑む威勢の良い映画かと思えばさにあらず。ジューバに狙われたアメリカ兵の過酷なサバイバルを描いたドラマである。

舞台となるのは2007年のイラクの荒廃した村。冒頭に映るのは双眼鏡越しの映像だ。そこに見えるのは、瓦礫の中に残る大きな石の壁と周辺に転がる数体の死体。双眼鏡を覗くのはアメリカ兵のアイザックアーロン・テイラー=ジョンソン)とマシューズ(ジョン・シナ)だ。その場所はパイプラインの建設現場だが、要員からの連絡が途絶えたために2人が派遣されたのである。

どうやら死体はほぼ全員が頭を撃ち抜かれているらしい。いったい誰が、どこから狙撃したのか。正体は不明だが、よほどの腕前のスナイパーに違いない。2人はまだ周囲にスナイパーが潜んでいると考えて、慎重に偵察を続けていた。しかし、すでに5時間近く何の動きもない。しびれを切らしたマシューズは、「もう敵はいない」と判断し、壁に近づいていく。

その瞬間、彼は想定外の場所から銃撃され倒れてしまう。それを見てすぐに援護に向かったアイザックも脚を撃たれてしまい、崩れかけた壁の背後に辛うじて逃げ込む。まだ意識のあるマシューズは、倒れたままで「無線で助けを呼べ」と言う。そこでアイザックは近くで死んでいた男の通信機を使って、本部への連絡を試みる。だが、アンテナが壊れていたため通信はできず、助けを呼ぶことはできなかった。

応急手当で足を止血し、ナイフで銃弾を取り出したものの、まもなくアイザックは気を失ってしまう。

ここまで観ただけでも、この映画の尋常ではない緊張感が際立つ。手持ちカメラ、表情のアップ、長回しなどを多用した映像によって、アイザックの心理をリアルに切り取っている。目に見えない敵に狙われる緊迫感と恐怖、孤立無援の絶望感。それを体感するうちに、観客は自分も現場に放り込まれたような気分になってしまうのである。

やがてアイザックは意識を取り戻す。気づくと無線から声が聞こえる。近くにいる仲間だという。すぐに助けるというのだが、何かがおかしい。アイザックはその声にかすかな訛りがあると気づいて、男の正体を確認しようとする。やがて男は、自分がイラク人であることを明かす。アイザックは、それがアメリカから死に神と恐れられるスナイパー、ジューバだと確信する。

そこからはアイザックとジューバとの無線越しの会話が展開する。その間に、アイザックはジューバがどこに潜んでいるのか突き止めようとする。そこで大きな効果を発揮するのが、崩壊しかけた壁という舞台装置だ。アイザックが身を隠すには十分だが、ヘタに身動きすればまた撃たれて今度は死んでしまうかもしれない。それがハラハラドキドキ感を高める。

視点は米軍一辺倒ではない。時々、ジューバが見ているらしい双眼鏡越しの映像が登場し、無線機越しではない生の彼の声が聞こえてくる。それがさらなる緊迫感を高めるだけでなく、彼の心理までもリアルに伝える。

どうやらジューバは米軍で訓練を受けた経験を持つものの、ある出来事をきっかけにやむにやまれぬ思いから、アメリカを敵に回すことにしたらしい。イラクでアメリカがやったことの愚かさを突きつける告白だ。

一方、ジューバに促されて自らを語るアイザックも、誰にも言えなかった秘密を明かす。それもまた戦争に翻弄された男の悲劇をあぶりだす告白である。

終盤には意外な展開が起きる。必死で生き延びようとするアイザックだが、その精神と肉体は急激に消耗していく。そして、ジューバが企てている復讐劇の底知れる恐ろしさを知ることになる。

その果てに訪れる結末については、賛否両論ありそうだ。せっかく構築したジリジリするようなサバイバル劇の結末としては、もうひとひねりが足りないという意見も理解できる。ただし、戦争の愚かさや悲劇性を強調するという点では、ああいう終わり方もアリかもしれない。

前半からほぼ一人芝居を展開した「キック・アス」のアーロン・テイラー=ジョンソンの演技は、予想をはるかに超える水準だった。ライト・ナクリが演じているジューバの声も存在感十分だ。

ワンシチュエーションで展開されるスリリングなサバイバル劇。反戦映画というわけではないが、戦争の実像も伝わってくる。「ボーン・アイデンティティー」や「オール・ユー・ニード・イズ・キル」のダグ・リーマン監督が、こういう映画を撮るというのは意外だった。

この映画で描かれたイラク戦争にしても、アフガン戦争にしても、戦争は修復困難な傷跡を残す。北朝鮮問題でいろいろと物騒な世界情勢の中、改めてそのことを痛感させられた作品である。

●今日の映画代、1400円。事前にムビチケ購入済み。

「新感染 ファイナル・エクスプレス」

「新感染 ファイナル・エクスプレス」
新宿ピカデリーにて。2017年9月1日(金)午前11時20分より鑑賞(シアター1/K-17)。

「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド ゾンビの誕生」(1968年)、「ゾンビ」(1978年)、「死霊のえじき」(1985年)などで知られ、ゾンビ映画の始祖ともいわれるジョージ・A・ロメロ監督が先日死去した。だが、ゾンビ映画が消えることはない。特に最近のゾンビ映画は本当に面白い。新次元に突入したといっても、過言ではないかもしれない。

「新感染 ファイナル・エクスプレス」(TRAIN TO BUSAN)(2016年 韓国)も観応え満点のゾンビ映画だ。

事の起こりは感染。どうやらバイオ施設から漏れ出したウイルスが、人々に感染し始めたらしいことが示唆される。そして、トラックがはねた鹿がムクッと起き上がって復活するシーンが登場する。もしかして、コイツ、ウイルス感染鹿なのか? とにかく不気味な幕開けである。

続いて登場するのは韓国・ソウルでファンドマネージャーとして働くソグ(コン・ユ)。妻と別居中で、幼いひとり娘のスアン(キム・スアン)と暮らしている。しかし、仕事が忙しいソグだけに、娘との間に微妙な隙間風が吹いている。子供の日にゲーム機を贈ったのを忘れて誕生プレゼントに同じものを買ってきたり、学芸会に顔を出さなかったためにソグが途中で歌うのをやめたり……。ちなみに、その時の歌「アロハ・オエ」は、この映画のラストで重要な役割を果たす。

そんな中、スアンは誕生日にプサンにいる母親に会いにいくと言い出す。仕方なくソグは半日だけ仕事を休んで娘を送り届けることにする。こうしてソウル発プサン行きの高速鉄道KTXに乗り込む父と娘。ところが、出発直前に謎の感染者の女が列車に転がり込む。そして出発と同時に女は暴れ出し、車内はパニックになる。

その女は何者かに足を噛まれ、人間を凶暴化させるウイルスに感染した模様。女は女性乗務員を襲撃し、噛みつかれた乗務員もたちまちウイルス感染して人間を襲う。こうして、次々に乗客や乗務員が凶暴化していく。佃煮のように増殖していく感染者たち。不気味でトリッキーなその姿かたちや行動は、まさにゾンビそのものである。

それに対して、ソグとスアンの父娘をはじめ乗客たちは、列車の車両を移動しながら感染者と死闘を繰り広げ、何とか身を守ろうとする。ゾンビの襲撃というだけで怖いのに、走る列車内という密閉空間だけになおさら緊張感が高まる仕掛けだ。

冷静に考えれば噓くさいところも多い映画だ。というか、そもそもゾンビの存在そのものが嘘くさいわけだが、それを感じさせない怒涛の展開が光る。あれやこれやの小ネタを繰り出して、観客の目をスクリーンに釘付けにする。例えば、大量のゾンビがドア越しに迫ってきた瞬間に、彼らが目視で捉えた人間を反射的に攻撃する習性を察知し、新聞紙をガラスに貼り付けて鎮まらせる。そんな意表を突いたネタが続出する。

ユニークな乗客たちも、この映画の面白さを倍加する。ソグとスアンの父娘以外にも、ワイルドな中年男サンファと妊娠中の妻ソンギョン、高校の野球部員ヨングクたちと彼のガールフレンドのジニ、いかにも身勝手な会社の重役ヨンソク、仲の良い老姉妹などなど個性的な乗客が登場する。スリリングな死闘&逃走劇だけでなく、彼らの人間ドラマを展開することで、ますます観客はスクリーンから目が離せなくなる。

その中でも中心的に描かれるのは、ソグとスアン父娘の絆のドラマだ。最初のうち、仕事一筋で娘を顧みず、自己中心的な鼻持ちならないエリートだったソグが、ゾンビとの戦いを通して少しずつ変化していくのである。

この映画には、いくつものヤマ場がある。中盤で列車はテジョンという駅に停車する。そこには軍が派遣され、列車を封鎖して乗客を助けてくれるというのだ。しかし、ソグが知り合いの軍人に電話してみると、どうも様子がおかしい。そこで彼は、「自分と娘だけは助けてくれ」と軍人に頼む。

まもなく乗客が駅舎を出ようとすると、駅に配備された治安部隊の兵士たちが襲いかかってくる。彼らもまたウイルス感染していたのだ。慌ててUターンする乗客たち。ソグも逃げだす。感染者たちの襲来を押しとどめ、再び走り出した列車に辛うじて飛び乗る。

こうして再びゾンビ列車に乗ったソグとサンファ。しかし、混乱の中で彼らはスアン、ソンギョンと離れ離れになってしまう。そこでヨングクを加えた3人で彼女たちを救出し、大勢の乗客がいる車両を目指すことにする。

そこでの死闘も迫力満点だ。そして生き残りをかけたアイデアが続々と披露される。感染者が暗闇に弱いことを知り、ソグたちはトンネルをうまく利用する。おまけにスマホを使って彼らの注意をそらすなど、あわやの場面にさしかかるたびに、危機を脱する新たなアイデアが飛び出す。

やがて大勢の観客のいる車両にたどり着くソグたち。ところが、彼らはドアが開かないように細工するではないか。「お前らは感染しているかもしれないから入れない」と言うのだ。そのあたりは、何やら人種差別やヘイトクライムを想起させる場面である。1人の声高な主張が他の多くの乗客に伝播し、ソグたちの排斥に走る。

そういえば、この映画のヨン・サンホ監督は、もともとアニメ、それも社会派のアニメで名を上げた監督らしい。だとすると、この場面は最近の社会状況を反映させたものなのかもしれない。

そんな過激な行動に走った乗客たちが、思わぬことで痛い目に遭ってしまうのも面白いところ。彼らもまた追い詰められた末の行動であることは理解するが、ちょっとしたカタルシスが味わえるのも事実である。

最後のヤマ場は、線路上に障害物があり走行困難となったことから訪れる。そこではいかにも列車アクション映画らしい転覆シーンなどもある。たくさんのゾンビが数珠つなぎになって、列車をストップさせようとするユニークなシーンも見られる。

その果てに訪れるのは悲しい別れだ。それまでも愛する者同士の別れが、何度も描かれるドラマだが、ここはその中でも特に涙モノの場面だろう。

しかし、ラストにはさらなる感涙の場面が待っている。そこで効果的に使われるのが例の「アロハ・オエ」の曲だ。まさかゾンビ映画で泣けるとは思わなかった。スアン役の子役キム・スアンの演技も見事である。

ゾンビ、パンデミック、列車アクションなど様々なエンタメ映画の要素を取り込んで、ノンストップのスリリングなサバイバル劇を展開。そこにほど良くブレンドされた人間ドラマを加えて感動までもたらす。良い意味で3時間ぐらいの映画を観たような充実感を感じてしまった。やっぱり韓国映画恐るべし!!

●今日の映画代、1100円。毎月1日のサービスデーで割引料金。

「ベイビー・ドライバー」

ベイビー・ドライバー
新宿バトル9にて。2017年8月29日(火)午後7時20分より鑑賞(シアター8/I-16)。

運転免許を持っていない。「必要になったら取ればいいや」と思っていたら、必要になる場面が一度もないままに来てしまった。おまけに、ここ数年は目のトラブルで視力が急激に落ちたので、もはや免許を取ろうにも取れない状態である。

とはいえ、車に乗るのは嫌いではない。運転はできないが、助手席や後部座席から窓の外の風景を眺めるのはなかなか良いものだ。そこにお気に入りの音楽でも流れてくれば、言うことはない。

ただし、それも運転手次第だ。実のところ大昔に、プロレーサーを気取るドリフト女の車に乗ってしまい、あまりの乱暴な運転に生きた心地がしなかった思い出がある。なんたって、山道を左右に車を振りながらタイヤをキーキーいわせるのだから。

映画「ベイビー・ドライバー」(BABY DRIVER)(2017年 アメリカ)の主人公のドライバーも、かなり乱暴な運転をする。何しろ彼は犯罪者の逃走を手助けする「逃がし屋」なのだ。

犯罪者の逃走を請け負うドライバーの話は、これまでも何度か映画に登場している。最近では、ライアン・ゴズリング主演、ニコラス・ウィンディング・レフン監督による「ドライヴ」があった。

そんな中、この映画のユニークなところは、主人公のベイビー(アンセル・エルゴート)という青年が常に音楽を聞いているところだろう。幼い頃の事故で両親を亡くし、自身もその後遺症で耳鳴りに悩まされているものの、音楽を聞くことで耳鳴りは消える。そのためiPodが手放せず、常にお気に入りのプレイリストを聴き続けているのだ。

というわけで、冒頭の銀行強盗の場面からノリノリの音楽が全開だ。ベイビーは強盗が犯行を行っている間、音楽に合わせて全身でリズムを取り、体を動かす。それがまるでミュージカルのような雰囲気を漂わせる。

そして犯行を終えた犯人たちが車に乗り込んでくると、音楽を聞きながら天才的なドライビング・テクニックを駆使して、警察などの追手をかいくぐって逃走する。そこでは当然ながら、スリリングで迫力満点のカーアクションが展開される。これがこの映画の最大の魅力である。

ドラマ的に感心するのは、このベイビーのキャラを最初のほうで簡潔に見せているところだ。両親の事故のトラウマなどもあり、犯罪の片棒を担ぎつつも、彼が根っからのワルでないことが何度も示される。人の命など何とも思わない強盗犯とは違い、できるだけ犠牲者を出さない努力もする。

では、なぜ彼はこんな仕事をしているのか。実はもっと若い頃に自動車泥棒をして、間違って積んであったギャングの麻薬を盗んでしまったのだ。そのため、ギャングのボスのドク(ケヴィン・スペイシー)に借金を背負わされ、その返済のために無理やり働かされているのである。

両親亡き後に面倒を見てくれた耳が不自由な里親は、そんなベイビーのことを心配しているが、ドクから「あと1回手伝えば借金完済」と言われているベイビーは、それを最後に足を洗おうとしている。

そして、そんなベイビーの決意を後押しする運命の出会いが訪れる。ある日、ベイビーはダイナーのウェイトレスのデボラ(リリー・ジェームズ)と偶然出会い、恋に落ちる。それまで無口でドクや強盗仲間たちとは、会話らしい会話をしなかったベイビーが、デボラの前では一転して饒舌になるのが印象的だ。そしてベイビーは彼女のために、この世界から足を洗うことをますます強く決意するのだが……。

ちなみに全編に流れる音楽は、少し古めの音楽が中心だ。ベイビーがデボラにTレックスの「デボラ」という曲を聞かせるシーンがあるのだが、デボラという名前はそこからとったものではないのだろうか。

なにせエドガー・ライト監督は映画や音楽のオタク。「ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!」「ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!」などの過去作でも、オタクぶりをいかんなく発揮してきた監督である。

さてさて、ついに最後の仕事を終えたベイビー。これで晴れて足を洗えると思ったのだが、そうは問屋が卸さなかった。ドクは脅迫まがいの言葉でさらなる犯罪への加担を強要する。

そこから先はすさまじい展開だ。カーアクションに加え、ガンアクション、爆破シーンなどいろんなものがテンコ盛り。二転三転する展開で観客を飽きさせない。いったん死んだと思った男が何度も登場するなど、ある意味何でもアリの世界だ。

まあ、このへんは個人的にはやりすぎにも思える。過去の作品でもライト監督は、ありとあらゆるものを詰め込んでいたが、今回はさらにギュウギュウ詰めの感がぬぐえない。このあたりは、人によって好みが分かれそうだ。

とはいえ、ラストのオチはなかなかのもの。もしかしてボニー&クライドみたいになるのか? あるいはハリウッドの王道らしくお気楽なハッピーエンドに持ち込むのか? と思ったのだが、ちゃんとベイビーに落とし前をつけさせて、その上で温かな余韻を残してくれる。

そしてエンドタイトルで流れるサイモン&ガーファンクルの「ベイビー・ドライバー」。やっぱりオタクだよなぁ。ライト監督。最後にこの曲を持ってくるなんて。ていうか、もしかして「ベイビー・ドライバー」ってタイトルも、ここから取ったんじゃないのか?

主演のアンセル・エルゴートは初めて見たのだが、この役にはぴったりだった。デボラ役のリリー・ジェームズも魅力的。さらにケヴィン・スペイシーエイザ・ゴンザレスジョン・ハムジェイミー・フォックスなどの悪役のくせ者ぶりも見事である。

ひと言でいえば、実によくできたエンタメ映画。難しいことを考えずに観れば、テンポの良いアクションとほど良いドラマが堪能できるはず。特にカーアクションが好きな人には絶対におススメです。

●今日の映画代、1300円。新宿バルト9には、「夕方割」というのがあって、平日17:30~19:55の間に開始される通常作品が割引になります。

「幼な子われらに生まれ」

「幼な子われらに生まれ」
テアトル新宿にて。2017年8月27日(日)午後4時より鑑賞(スクリーン1/C-11)。

一度も結婚というものをしたことがないので、よくはわからないのだが、夫婦という関係性は何かと厄介そうだ。まして、それが再婚同士で、以前の結婚で子供がいたりすればなおさらだろう。

重松清の同名小説を映画化した「幼な子われらに生まれ」(2017年 日本)に登場する田中家も、まさにそうした家族である。

夫・田中信(浅野忠信)と妻・奈苗(田中麗奈)は再婚同士。信には前妻・友佳との間に娘がいる。冒頭は、信がその娘と面会して、遊園地で楽しく遊ぶシーン。実に仲の良い親子でほほえましくなるが、そこには娘が今は妻のもとにいて、たまにしか会えないという事情が色濃く反映している。

そんな信が自宅に帰ると、妻の奈苗が前夫・沢田(宮藤官九郎)との間にもうけた2人の娘がいる。次女は再婚時にまだ小さかったから、信を本当の父親だと思っているが、長女はそうではないことを知っている。

そんな中、奈苗の妊娠が発覚。それを機に、長女は「やっぱりこの家、嫌だ。本当のパパに会わせてよ」と言い出す。それに対して、奈苗は沢田がDV男で娘にも暴力をふるったことから、会うことに反対する。そのあたりから家族崩壊の兆しが見え始める……。

というわけで、この田中家を中心に、家族に様々な問題を抱えて葛藤する人々を描いたドラマである。

何といっても秀逸なのが、「ヴァイブレータ」「共喰い」などで知られるベテラン脚本家(監督作品もある)の荒井晴彦による脚本だ。原作の小説はかなりのボリュームのようだが、消化不良感はまったくない。それどころか、主要な人物の揺れ動く心理を繊細にすくい取っている。

主人公の信はどう見ても良き家庭人だが、ところどころに違和感や戸惑いが見え隠れする。たとえば、妻の連れ子である長女に接する時の態度は、実の娘と接する時とは明らかに違う。そんな心の亀裂が、妻の妊娠発覚とそれによる長女の傷心によって、一気に表面化する。

一方、妻の奈苗の態度は一見、能天気にも見えるが、その裏では前の結婚がいまだに手ひどい痛手となっていることが、少しずつ見えてくる。彼女が必死で妻と母の地位にしがみつこうとするのも、そのためだろう。

そして、信の元妻・友佳(寺島しのぶ)は、再婚相手が末期ガンで余命わずかとなり心が乱れる。久々に会った信に対して、心の内をぶちまけるシーンが胸にグサリとくる。「あなたはいつも理由は聞くけど、私の気持ちは聞かなかった」と。そして後悔だらけの人生を嘆くのである。

三島有紀子監督による演出もなかなかのものだ。特に映像。かつて信と友佳が破局を迎えたシーンや、奈苗と長女が前夫からDVを受けるシーンは手持ちカメラを使ってリアルに描くなど、場面場面に適した映像を使ってドラマに深みを加えている。信たちが住む団地周辺の無機質な空気感なども印象的だ。三島監督の過去作には「しあわせのパン」「繕い裁つ人」などがあるが、本作がベストではないだろうか。

ドラマが進むにつれて、信はにっちもさっちもいかなくなる。もがけばもがくほど長女の心は頑なになり、仕事もリストラされてしまう。そして、ついに彼は「この結婚は間違いだったのではないか?」と思い詰める。

だが、やがて転機が訪れる。信は実の娘から、血のつながらない義父の死を前にしても悲しめないと打ち明けられてしまう。そして、まもなく義父危篤の報せを受けた彼女を病院に送り届けることになる。そこで彼が友佳の再婚相手に感謝の言葉を述べるシーンが心にしみる。

その後、ついに信は長女を奈苗の前夫・沢田(つまり長女の実父)に会わせる決意をする。そこでは沢田の心理が巧みに描かれる。それまでは典型的なダメ人間で、「奥さんや子供なんて煩わしい」と言い放ち、長女との面会も金銭を条件にした彼が、遊園地の屋上で信に対して、それとは違う心根をチラリチラリと見せるのである。

この映画には安易な結末は用意されていない。それでも、かすかな光らしきものは見えている。もがき苦しみ、自分をさらけ出して、互いにぶつかり合った家族たち。それがけっして無駄ではなかったことを示唆しながら、映画は幕を閉じる。

家族とは最初から家族なのではなく、努力してつくり上げるものなのだろう。田中家は、きっと、これからも様々な問題に直面しながらも、少しずつ家族になっていくのではないか。そう思わせられるのである。

揺れ動く心理を巧みに表現した浅野忠信をはじめ、田中麗奈宮藤官九郎寺島しのぶの絶品の演技もこの映画の魅力だ。信の実娘と連れ子の長女を演じた子役も、存在感のある演技を披露している。

血のつながらない父と娘の親子関係を中心に据えているとはいえ、それに限らず様々な家族に共通するテーマを持つ映画だと思う。家族という存在の厄介さと同時に、そこにある希望も感じられる映画である。今年の日本映画の上位にランクされる1本なのは間違いないだろう。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカードの割引料金で。

「パターソン」

「パターソン」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年8月26日(土)午後2時10分より鑑賞(スクリーン1/D-12)。

ユニクロで買った「ダウン・バイ・ロー」のTシャツをしばらくの間愛用していた。単にデザインがカッコよかったからだ。実のところジム・ジャームッシュ監督の「ダウン・バイ・ロー」を観たのは、1986年の日本初公開から30年近く経った数年前のことなのだ。恥ずかしながら。

そんなわけで、けっしてジャームッシュ監督の熱心なファンではないオレだが、それでも数えてみたら7~8本の作品は鑑賞していた。そして、そのどれもが独特の世界観を持つ、捨てがたい味わいの作品ばかりだった。

新作「パターソン」(PATERSON)(2016年 アメリカ)も同様だ。実は、この映画には起伏のあるドラマはまったくない。にもかかわらず、スクリーン全体から独特の味わいがジワジワとにじみ出るのである。

舞台となるのは、アメリカ・ニュージャージー州のパターソンという街だ。そして主人公の男の名前もパターソンという。この設定も、いかにもジャームッシュ監督らしい。

パターソン(アダム・ドライヴァー)は、路線バスのバス運転手をしている。毎朝同じ時間に妻ローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)の隣で起きてキスをする。そして同じメニューの朝食をとり、仕事に向かう。夜は愛犬マーヴィンの散歩をして、途中でバーに立ち寄り1杯だけビールを飲む。そんな彼の一週間を描いたのがこの映画だ。

はた目には単調な日々ではあるものの、そこには微妙な違いもある。例えばバスの窓から見える街の風景。あるいは乗客たちの会話。気に入った女の子の話から、昔この町に住んでいたというアナーキストの話まで、様々な乗客たちの話を聞いてパターソンは少しだけ表情を変える。また、行きつけのバーでは、マスターや常連客と日々違った会話をする。

そして、何よりも日々の生活を彩るのが奥さんのローラだ。アートに興味があるのか、部屋のカーテンをはじめインテリアに斬新なデザインを施し、市場でカップケーキを焼いて販売し、うまくいったらビジネスにしたいと目論む。さらに、突然ギターを購入して、いずれはカントリー歌手になりたいと言い出す。かなりかっ飛んだ奥さんである。

そんな日々の中から、パターソンは詩を創作し、それをノートに書き留めている。ローラは「発表しろ」と勧めるが、本人にはその気がないらしい。

この映画のユニークなところは、パターソンが作った詩をスクリーンに映し、彼自身が朗読するところだ。それは、妻への愛をはじめ日々感じたことをモチーフにした日常の中から紡ぎ出される詩だ。パターソンの日常と詩の世界がリンクして、何ともほほえましく穏やかな気持ちになってくる。

それ以外にも、コインランドリーで自作のラップを練習する男、詩を作る少女など、詩は様々な形でこの映画に登場する。

ユーモアもタップリだ。いつも「最低だ」と身の回りの出来事をぼやくバス会社の社員、変わった料理を作ってパターソンを困らせるローラ、そして何よりもブルドックのアーヴィンの人を食ったような行動が笑いを誘う(郵便ポストの一件は特に爆笑モノ)。

冒頭でのローラの「双子の子供ができた夢を見た」という発言を受けて、それ以降、何度も双子が登場するというのも、ユーモラスであるのと同時に独特の世界観を感じさせる。パターソンが気に入っているマッチ箱、毎日持参するサンドイッチと妻の写真入りのランチボックスなど小物へのこだわりも特徴的だ。

映画の後半では、パターソンとローラが、2人でアボットコステロの昔の映画を観に行く。かつての人気お笑いコンビアボットコステロの片方は、この街の出身なのだ。ノスタルジックで温かな気持ちにさせてくれるシーンである。

ところが、その後にはこの映画で最大の波乱が起きる。それまでも、バスが故障してストップしたり、バーで男が玩具の拳銃を出してパターソンが勇敢に制止するエピソードなどはあるのだが、パターソン自身にとってはこの出来事が最もショッキングだったろう。

その証拠に虚ろな表情で、滝に面した公園のベンチに座るパターソン。そこで登場するのが永瀬正敏演じる日本から来た詩人だ。彼の存在がパターソンを救い、最後は再び穏やかでほのぼのした空気感のままエンディングを迎える。

パターソンを演じたアダム・ドライヴァーの演技も味わいがある。「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」や「沈黙 -サイレンス-」とは違い、市井の人の微妙な感情の動きを繊細に表現している。

また妻ローラ役は、アスガー・ファルハディ監督のイラン映画彼女が消えた浜辺」で注目されたゴルシフテ・ファラハニ。キュートな奥さんを魅力的に演じている。

市井の詩人の日常を淡々と切り取った作品だ。これほど何も起きないのに、これほど温かな心持にさせられる映画はめったにないだろう。ジム・ジャームッシュ監督ならではの映画といえそうだ。


●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカードの割引料金で。

「エル ELLE」

エル ELLE
TOHOシネマズシャンテにて。2017年8月26日(土)午前10時15分より鑑賞(スクリーン1/E-7)

若い頃に主役を張っていた俳優も、年をとると脇役に回ることが多くなる。特に女優では活躍の場すらなくなる場合も見られる。そんな中で、異例ともいえる活躍ぶりを見せているのが、フランスの名女優イザベル・ユペールだ。

若い頃からゴダール作品などで主演を演じてきた彼女は、1953年生まれ。ということは、今年64歳になるはずだが、とてもそうは見えない。しかも、ここ数年は「アスファルト」「母の残像」「未来よ こんにちは」などの作品にハイペースで出演。そのほとんどが主役か主役級の役どころだ。

そんなユペールは、他の女優が尻込みしそうな役も積極的に演じてきた。たとえば、変わった性的嗜好を持つ中年女性を演じたミヒャエル・ハネケ監督の「ピアニスト」は、その典型的な例だろう。

そして、今回のポール・ヴァーホーヴェン監督作品「エル ELLE」(ELLE)(2016年 フランス)も、ハリウッド女優が出演を断ったという噂もある、いわくつきの役どころである。

「ベティ・ブルー 愛と激情の日々」で知られるフィリップ・ディジャン原作の映画化だ。映画の冒頭では、主人公のゲーム会社の社長ミシェルがいきなり自宅でレイプされる。ただし、それを音と、犯行を見つめる猫の姿だけで描く。バイオレントな描写で知られるヴァーホーヴェン監督だが、年をとって丸くなったのか?

と思ったら、その後は、このレイプシーンそのものが何度も描かれる。それは、ミシェルにとってのトラウマだったり、様々な願望と結びついたものとして登場するのである。

ミシェルは事件を警察に届けない。何事もなかったかのように今まで通りの生活を送ろうとする。だが、それでも事件の記憶は消えない。おまけに、女性が襲われる自社のゲーム映像にミシェルの顔写真を貼り付けた動画が、社内中のパソコン上に流れるなど、黒覆面のレイプ犯はどうやら身近にいるらしい。それを感じたミシェルは、その正体を突き止めようとするのだが……。

なにせヴァーホーヴェン監督といえば、「氷の微笑」をはじめ世間の常識を嘲笑うような映画を撮って、物議をかもしてきた監督だ。今年79歳になったとはいえ、本作もエッジが効きまくった映画だ。

ドラマの骨格はミシェルの犯人捜しのサスペンスである。だが、その過程を丹念に追うようなことはしない。ヴァーホーヴェン監督が注力するのは、ミシェルと周辺の人々の驚くべき人物像を暴露することだ。

ミシェルの元夫は売れない小説家で、若い女とつきあっている。定職に就かない息子は、ちょっと危ない感じの彼女と同居しようとしている。年老いた母親は整形して若い男と関係を持っている。

そして極め付きは、ミシェルの父親だ。39年前におぞましい犯罪を犯し、終身刑で収監されている。ミシェルが警察を嫌うのは、その時のことがトラウマになっているらしい。

そんな中、ミシェル自身は健気に生きている……かといえばそうでもない。彼女もまた会社の同僚の夫と不倫をしている。一方、向かいの家の夫にも気があるらしい。クリスマスパーティーでは、その男にテーブルの下でちょっかいを出す。思わず「氷の微笑」を想起させるエロくてヤバいシーンだ。それどころか、双眼鏡でその男を見ながら、自慰行為までするのだから、いやはや何とも。

要するに、みんながみんな、規格外の困った人たちだらけなのである。ただし、それをユーモアも込めつつ描いているのが面白いところ。ミシェルが気に入らない元夫の車のバンパーをめちゃくちゃにするシーン、息子に子供が生まれたと聞いて駆けつけたらその赤ん坊の肌が黒かったというシーンなどなど、突き抜けたユーモアがあちこちにあって、自然に笑ってしまうのだ。露悪的なシーンが多い映画なのにシリアスになりすぎないのは、そのせいだろう。

映画の後半、ついに意外なレイプ犯が明らかになる。しかし、ミシェルは何とその男と奇妙な関係性を築く。これもまた、ある意味、世間の常識を外れた規格外の行動である。

だが、ドラマはそれでは終わらない。終盤の新作ゲームの完成パーティーがスゴイ。そこに集合するのは、ミシェルの元夫、元不倫相手、そしてレイプ犯。まさに魑魅魍魎の大集合だ。

そして、その後に衝撃的な出来事が起きる。その時のミシェルの表情が、いつまでも頭に残る。うーむ、あまりの恐ろしさに背筋がざわついてしまった。いやいや、もっと恐ろしいのは、レイプ犯の妻かもしれない。彼女が最後に吐いた言葉。そして、それを聞いたミシェルの表情。これまた、恐ろしくてゾッとさせられるのである。

というわけで、ミシェルをはじめ複雑で屈折しまくった人々を通して、人間という生き物の不可思議さが伝わってくる映画である。「規格外」の人々と表現したが、それはおそらく誰にも共通する資質に違いないのだから。

同時に、心のままに毅然と行動するミシェルにただただ圧倒される映画でもある。世間の常識や価値観にとらわれず、自分の感情や思考に忠実に、どこまでも前に進んでいこうとするミシェルの姿には、もはや「スゴイ!」と感嘆するしかないのだった。

いろんな意味でスゴイ映画である。こういう映画は一歩間違えばただの怪映画になったり、観客の反感や嫌悪感を買う危険性があるわけだが、そうなっていないのは、やはり主演のユペールの演技によるものだろう。こんな悪女は見たことがない。フランス映画なのにアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたのもうなずける。

まあ、とにかく強烈な映画だ。いろんな意味で衝撃を受けまくった。そして文句なしに面白かった。

●今日の映画代、1500円。だいぶ前にムビチケを購入済。

「草原に黄色い花を見つける」

「草原に黄色い花を見つける」
新宿武蔵野館にて。2017年8月20日(日)午後4時45分より鑑賞(スクリーン2/C-4)。

弟が一人いるのだが、さすがにこの年になるとふだんはほとんど交流がない。とはいえ、子供の頃はもちろん、それなりに兄弟らしく仲良くしていたこともあったんだっけ……。

などという当たり前のことを思い出させてくれたのが、ベトナム映画「草原に黄色い花を見つける」(YELLOW FLOWERS ON THE GREEN GRASS)(2015年 ベトナム)である。ベトナムでベストセラーになった小説を、アメリカ生まれでハリウッドで映画を学んだ後に祖国ベトナムに戻ったという新鋭ヴィクター・ヴー監督が映画化した。ベトナムで大ヒットを記録し、アカデミー外国語映画賞ベトナム代表作品にも選ばれた作品である。

舞台になるのは、1980年代のベトナム中南部の貧しい農村。そこで暮らす兄弟と一人の少女による初恋物語だ。

冒頭近くに登場する農村の田園風景が印象的だ。美しく、のどかで、詩情あふれる風景。それが緩やかな音楽とも相まって、映画全体のトーンを支配している。時代が1980年代ということもあって、ノスタルジックな雰囲気が漂う。

そんな農村に暮らすティエウ(ティン・ヴィン)とトゥオン(チョン・カン)は、いつも一緒に遊ぶ仲の良い兄弟だ。悪ふざけをしてティエウがトゥオンにケガをさせたりもするが、基本的にティエウは弟に何かと気を遣い、トゥオンも兄を慕っている。

そんな2人にダンおじさんは、お姫様と白い虎にまつわる悲しい話を聞かせる。この話は兄弟の心に深く残り、その後のドラマに様々な影響を与える。また、トゥオンが気に入っているヒキガエルとお姫様のファンタジックなおとぎ話も、この映画の後半で大きな役割を果たす。

というわけで、仲の良い兄弟ではあるのだが、そこには年齢の違いがある。あくまでも純真で明るい弟トゥオンに対して、12才の兄ティエウは思春期を迎えて、様々な揺れ動く感情を抱えている。それが、このドラマに波乱をもたらすのである。

まもなく、兄ティエウは近所に住む少女ムーン(タイン・ミー)に恋心を抱くようになる。しかし、そこはやはり初恋。うまく相手に想いを伝えることができない。

そんな時、ダンおじさんが好きな女性に贈った「恋わずらい」の詩のことを、2人の連絡役になっていたトゥオンから聞いたティエウは、その詩を書いてムーンに贈る。しかし、それが先生に見つかってしまうなど、なかなか恋は進展しない。

それでもトゥオンは、兄のことを一生懸命に応援する。兄の恋に横槍を入れて暴力をふるったいじめっ子に対して、彼は敢然と復讐を果たす。そこで、あるものをあたかも凶器の如く使うトゥオンのアイデアが秀逸だ。

そんな中、ムーンの家が火事になる。そして、彼女の母親は父親を捜しに町へ行ってしまう。ムーンは一人ぼっちになってしまい、ティエウは母親から「一晩泊ってあげなさい」と言われる。

こうしてムーンの家で一夜を過ごすことになったティエウ。そこでの2人の交流が何とも初々しい(もちろんヘンなことなんて起きません)。あまりの初々しさに、観ているこちらも思わず微笑んでしまうのだった。

とまあ、ここまでは瑞々しい初恋物語なのだが、やがて波乱が起きる。火事の後、ムーンは母親が迎えに来るまで兄弟の家で過ごすことになる。そうなると、ティエウはますますムーンのことが気になって仕方なくなる。

ところが、ムーンはトゥオンと気が合ったのか、彼と仲良く遊ぶようになる。それを見たティエウは心が乱れる。抑えようのない嫉妬心が頭をもたげ、それが行動に現れてしまう。トゥオンがかわいがっていたヒキガエルが持ち去られても、ティエウはただ黙って見送るのだった。

いやいや、それだけならまだしも、その後、さらに彼は取り返しのつかないことを起こしてしまうのである。

そこから先の詳しい展開は伏せるが、兄弟の感情のすれ違いによって、トゥオンは過酷な運命にさらされる。そして、ティエウは大きな罪悪感を抱えてしまう。

このように、この映画はティエウの初々しい恋心を瑞々しく描くだけでなく、嫉妬心、罪悪感など思春期に誰もが抱えがちな千々に乱れる心理を、繊細に表現しきっているのである。ここが、本作の最大の魅力だと思う。

終盤には予想外の展開が訪れる。おとぎ話を効果的に使った語り口で、トゥオンの苦境からの脱出が綴られる。そこでは、おとぎ話のお姫様を実際に現出させるファンタジックな展開がドラマに起伏を与える。しかも、それにまつわるある父と娘の悲劇も語られるのである。

ただし、その先には希望が待っている。傷ついた父と娘にも、ティエウとトゥオンの兄弟にも、明るい光が差し込む。最後の最後に、ティエウはトゥオンからムーンの真意を知らされる。何とも温かで、観客をホッとさせてくれる、あと味の良いエンディングである。

兄ティエウを演じたティン・ヴィンは、撮影時14歳だったそうだが、揺れ動く心情を見事に表現していた。一方、トゥオンを演じたチョン・カンは、ハリウッド映画にも出演しているとか。快活で純真な演技が印象的だった。

しかし、まあ、この映画で一番目立つのは、やっぱりムーン役のタイン・ミーだろう。何ですか? この可愛さは。まるでお人形さんじゃないですか。そりゃあ、ティエウならずともみんな好きになってしまうはずだ。撮影時は9歳とのことだが、絶対に売れるな。この子。

青春映画の肝は、瑞々しさやキラキラ感にある。もちろんこの映画にはそれがある。同時にほろ苦さや痛み、苦しみ、残酷さなども描き込まれている。それらをひっくるめて、観客は自分の「あの頃」を思い出して、切ない気持ちになるのではないだろうか。かくいうオレも、何やら切なくノスタルジックな気分にさせられてしまった。いつまでも心の中で大切にしておきたいような一作である。

●今日の映画代、1300円。なかなか鑑賞券が見つからなくて一時はあきらめたのだが、新宿東口のアクセスチケットでついに発見。ここはけっこう掘り出し物があります。