映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「人生タクシー」

「人生タクシー」
新宿武蔵野館にて。2017年4月19日(水)午前10時10分より鑑賞(スクリーン1/C-8)。

東京・新宿にある新宿武蔵野館は老舗の映画館だ。1920年に設立され、様々な変転を経て、現在は新宿三丁目の武蔵野ビル3階にある3スクリーンのミニシアターとなっている。シネコン全盛の昨今だが、近くにある系列のシネマカリテともども、土日はもちろん、平日もけっこうな観客でにぎわっている元気な映画館だ。オレもこれまでに何度も足を運んできた。

さて、その新宿武蔵野館だが、ビルの耐震工事のためしばらくの間休館していた。再オープンしたのは昨年11月。さっそく足を運ばねばと思ったものの、なかなかその機会が訪れなかった。そして、ようやく本日参上した次第。

館内に一歩足を踏み入れると何だかシックで趣のある内装。以前に比べてオシャレな雰囲気がする。3つあるスクリーンのうち、今日鑑賞したのは一番大きいスクリーン1。段差が大きくなり、椅子も新しくなって、見やすくなったと感じる。

そんな記念すべきリニューアル後の初鑑賞作品となったのは、「人生タクシー」(TAXI)(2015年 イラン)という映画だ。この映画のジャファル・パナヒ監督は、2010年にイラン政府から20年間、映画製作を禁止されてしまった。外国に亡命して作品を発表する方法もあるわけだが(実際にそうしている監督もいる)、あえて国内にとどまりゲリラ的に映画を作り続けている。

ベルリン映画祭で最高賞の金熊賞を受賞したこの映画も、異色の作品である。パナヒ監督自らが運転手に扮したタクシーがテヘランの街を走る。そこに乗り込んでくる様々な人々の様子を、車のダッシュボードに備え付けられたカメラで撮影している。

最初に乗り込んだのは「泥棒は見せしめのために死刑にしてしまえ」と訴える男だ。それに対して乗り合わせた女(イラクのタクシーは乗り合いが普通らしい)が「イランは中国に次いで死刑執行が多い国だ」と言って反論し、激しい論争になる。

ところが、男がタクシーを降りる際に語った自分の職業を聞いて爆笑してしまった。これから観る人のために詳細は伏せるが、「お前が言うか!」という感じである。そんなふうにユーモアがたっぷり詰まった映画なのである。

その後もユニークな人たちが乗車する。海賊版DVD(イラン国内で公開禁止の外国映画など)を扱うレンタル業者は、運転手がパナヒ監督だと知って「これは映画の撮影なんだろう?」と尋ねる。はたしてこの映画はドキュメンタリーなのか、劇映画なのか。

金魚鉢を持った2人の婦人も乗り込む。「正午までに泉に行ってくれ」と言う。なぜ彼女たちはそんな行動をとるのか。その理由が笑える。厚い信仰心? ただの迷信? 何にしてもタクシーの中は大騒ぎだ。

交通事故に遭った夫とその妻も乗り込んでくる。夫は血だらけで「もう死ぬ」と弱音を吐く、そして妻への遺言をパナヒ監督のスマホで動画撮影してもらうのだ。どうやら、イランではそうしないと面倒なことになるらしい。

彼らを病院に運んだあとで、パナヒ監督には何度も電話がかかってくる。さっきの妻からの「あの動画を早くくれ」という催促の電話だ。これもまたユーモラスなエピソードである。

そんなテヘランの庶民の悲喜こもごもを、ユーモアたっぷりに描いたのがこの映画だ。とはいえ、それだけではない。冒頭の死刑をめぐる男女の論争は、現在のイランの死刑制度への問題提起につながる。

また、後半にはパナヒ監督の小学生の姪っ子が登場する。実はコイツときたら生意気な女の子で、「レディーにはこうやって接するものよ」みたいな大人びた口をきくのだ。それがまた笑いを誘うのだが、同時に彼女は学校の授業で「上映可能な映画」を撮影しようとしている。そこから、曖昧な基準のまま言論統制が行われるイラクの現状が見えてくる。

終盤では、パナヒ監督自身にも弾圧を受けた心のキズらしきものがチラリと見える。また、その後に乗り込んだ人権派の女性弁護士の口から語られるのは、理不尽な扱いを受けながらも抵抗するイラクの人々の姿だ。彼女自身も弁護士資格停止の危機にあるらしい。

しかし、それを語る彼女の表情は実ににこやかだ。パナヒ監督の表情も穏やかなものだ。大上段に政府批判をしようという気持ちなど、少しもうかがえない。そんな温かさがこの映画全体を包み込んでいる。

ちなみに、この映画、やっぱりドキュメンタリーではなく劇映画だろう。演出意図に沿った都合の良い出来事が続くし、登場人物の言動も演技としか思えない。しかし、そんなことはどうでもよい。厳しい制約の中で、しなやかに、したたかに、庶民の日常風景をユーモラスに描き、そこにさりげない社会批判を盛り込む。そんなパナヒ監督の反骨精神がアッパレな映画である。

●今日の映画代、1000円。新宿武蔵野館の毎週水曜は映画ファンサービスデー(男女共)。:

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「LION ライオン 25年目のただいま」

「LION ライオン 25年目のただいま」
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年4月15日(土)午前11時30分より鑑賞(スクリーン1/D-8)。

「もしかしてボクって、よその家からもらわれてきたの?」
感受性豊かな、というか思い込みの激しい幼少期には、誰でも一度や二度はそんなことを考えたことがあるのではないか。だが、目の前の親を見れば、しょーもないところが自分と似ていたりして、「あー、やっぱ、この親の実の子だわ」と安堵すると同時に落胆したりするわけだ。たいていは。

しかし、本当によその家からもらわれてきた子、つまり養子になった子供には、心理的に大変な苦労があるはずだ。だからこそ、養子制度では、そうした点についてもきちんとしたサポートが必要なのだろう。

映画「LION ライオン 25年目のただいま」(LION)(2016年 オーストラリア)の主人公は養子だ。子供の頃にインドで迷子になり、5歳でオーストラリア人夫婦の養子になった青年が、25年後にGoogle Earthを使って故郷を探し出したという実話をもとにした作品である。

ただし、自分のルーツ探し(=謎解き)の醍醐味は期待しないほうがよい。謎解きの面白さを追求するなら、最初は青年時代の主人公を登場させて、そこから過去をさかのぼらせるはず。しかし、この映画はまず主人公の子供時代からスタートする。

舞台は1986年のインド。スラム街で貧しいながらも母や兄などと一緒に暮らしていた5歳のサルー(サニー・パワール)。だが、兄とはぐれて停車中の回送電車で眠り込み、はるか遠くの都市コルカタまで来てしまう。

そこは同じインドでも言葉が通じず、サルーは浮浪児狩りにあったり、人身売買を企てるカップルに捕まったりと苦難の連続だ。その挙句に彼は孤児院に入れられる。その孤児院ときたらあまりにも劣悪な場所だった(インド人がこの映画を観たら、不快な思いをするかもしれない。そのぐらい容赦ない描き方をしている)。

これが長編デビューとなるオーストラリアのガース・デイヴィス監督が力を注いだのは、ストーリー展開の面白さよりも、そうしたサルーの受難を通して観客の感情移入を促すことだ。そのために徹底してサルーの心情に寄り添い、ローアングルの子供目線の映像などで、彼の不安、混乱、孤独をあぶりだしていく。幼少時代のサルーを演じるサニー・パワールの健気さも相まって、観客の涙腺を強く刺激する。

さて、孤児となったサルーだが、やがてオーストラリア人夫婦に養子として引き取られる。彼がそれに応じた背景には、新聞広告を何度も出しても、親が名乗り出なかったという事実がある。それもまた観客の涙を誘う。

中盤に描かれるのは、オーストラリアに渡ったサルーと、彼を迎えた養父母の姿。そこも彼らの心情をリアルに描くことに注力する。お互いに最初はぎこちない態度をとりつつも、少しずつ距離を縮めていく。その微妙な心の揺れ動きが繊細に描写される。また、サルーと同様に養子として迎えられた弟も登場する。彼がサルーとは対照的に問題を抱えた子供であることによって、単純な美談に留まらない厚みをドラマに加えている。

後半はそれから25年後のドラマ。優しい養母(ニコール・キッドマン)と養父に育てられ大人になったサルー(デヴ・パテル)が描かれる。頭もよく優しい性格の彼は、順調な人生を歩んでいる。まもなく恋人(ルーニー・マーラ)もできる。そのあたりでは、多民族国家オーストラリアの社会事情もさりげなく盛り込み、サルーが自然にそこに溶け込んでいることを印象付ける。

しかし、サルーは子供の頃に好きだった揚げ菓子を見たのをきっかけに、忘れていた記憶がよみがえり、インドの実母に会いたいという思いが募る。そして、知人が「Google Earthで探せば見つかるかも」とアドバイスしたことから、故郷探しを始める。

冒頭にも言ったが、ルーツ探しの経緯をていねいに描いて、謎解きの面白さを見せることはしない。ここでもサルーの心の動きが中心に描かれる。それは「故郷を探すことは養父母に対する裏切りではないか」という葛藤である。

彼らがいなかったら、今の自分はあり得ない。それでも、自分が何者なのかを知りたい思いは消し難い。その狭間で揺れに揺れて、ついに引きこもりになってしまう。記憶の中の実母の姿や幼少時の思い出なども使いつつ、そんなサルーの心情をダイレクトに伝え、観客の切ない思いを刺激する。

クライマックスは予想通りの展開ではあるものの、誰もが感動できそうだ。その後には「ライオン」というタイトルの意外な理由が明かされ、さらに実際の映像を使いつつ、サルーと実母だけでなく養母との絆を再確認させる心憎い仕掛けが用意される。おかげで観客は温かな思いに誘われる。

社会問題への配慮も怠らない。劇中では、養母がなぜサルーを養子に迎えたのか、彼女の強い思いが語られる(ニコール・キッドマンがさすがの演技)。養子制度の原点ともいうべきテーマへとつながるシーンだ。

ラストではインドにおける迷子の多さを訴え、それをサポートするユニセフへのリンクまで張る。まさに万全の配慮である。

前半に比べて、後半はやや失速した感はあるものの、徹底して主人公と周囲の人々の心理描写にこだわり、観客をきっちりと感動させるのだから、大したものだと思う。感動したい人にはオススメの映画である。

ちなみに、この映画は今年のアカデミー作品賞、助演男優賞(デヴ・パテル)、助演女優賞ニコール・キッドマン)、脚色賞、撮影賞、作曲賞の6部門にノミネートされた(1個も受賞できなかったのはちと悲しいですが)。

●今日の映画代、1400円。事前にムビチケ購入。

「ジャッキー ファーストレディ 最後の使命」

「ジャッキー ファーストレディ 最後の使命」
TOHOシネマズシャンテにて。2017年4月14日(金)午前11時40分より鑑賞(スクリーン2/E-11)。

どう考えてもマトモとは思えないアメリカ大統領が登場したことによって、過去の偉大な大統領の話が語られる頻度が増えた気がする。そんな時によく名前が上がるのが、第35代大統領のジョン・F・ケネディだ。

だが、彼については「実はそんなに大したことはやっていないんじゃないの?」「実績を上げる前に暗殺されてしまったのでは?」という声もよく聞く。あまりにも過大評価されているというわけだ。

だとすれば、どうしてそうなったのか。映画「ジャッキー ファーストレディ 最後の使命」(JACKIE)(2016年 アメリカ・チリ・フランス)は、その一つの回答といえるかもしれない。

この映画は、ジョン・F・ケネディ元アメリカ大統領の妻ジャッキーことジャクリーン・ケネディの伝記映画だ。伝記映画といっても、焦点が当てられるのは大統領暗殺から葬儀までの4日間。その間に起きた出来事を描く。

1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ大統領が、テキサス州ダラスでのパレード中に何者かに射撃され命を落とす。目の前で夫を殺害された妻ジャクリーン(ナタリー・ポートマン)は悲しむ間もなく、葬儀の準備や代わりに大統領に就任するジョンソン副大統領への引き継ぎ、ホワイトハウスからの退去など様々な対応に追われる。そんな中、夫が「過去の人」として扱われることが我慢できない彼女は、夫を後々まで語り継がれる存在にしようと決意するのだが……。

映画全体の構図は、ジャッキーがジャーナリストのインタビューを受けるというもの。ただし、このインタビューはジャッキーが主導して実現したものだ。それまでの夫の記事に満足できない彼女は、自分が意図した記事を書かせようとしてジャーナリストを招いた。客観的な事実ではなく、そのジャーナリストが言うところの「あなたから見た事実」である。その中で語られる4日間の出来事が再現される。

では、そこでどんなことが語られたのか。夫の暗殺直後、その亡骸とともにワシントンに帰る飛行機の中で、代わりに大統領に就任するジョンソン副大統領の宣誓式が行われる。それを見たジャッキーは、「なんでこんなとこで宣誓式なんかするのよ!」と怒りに震える(もちろん口には出さないのだが)。そして、「このままじゃ夫が忘れられちゃうじゃないのよ!」と危機感を覚える。

夫を絶対に忘れられない存在にしなければならない。そう決意したジャッキーは、しばらくの間夫の暗殺時に着用していた血染めのスーツを着続ける。また、周囲に逆らって、夫をケネディ家の墓ではなくアーリントン墓地に埋葬しようとする。さらに、葬儀はリンカーン大統領の葬儀をお手本にして、棺とともに行進する盛大なものにしようとする。

とはいえ、ジャッキーの心は千々に乱れる。何しろ彼女がやるべきことは葬儀や埋葬の準備だけではない。ジョンソン副大統領への引き継ぎ、ホワイトハウスから退去する準備、そして最も難しい幼い子供たちへの説明など、様々なことをしなければいけない。そうした中で、夫を失った悲しみにさいなまれ、スタッフや義弟のロバート・F・ケネディと対立するなど、混乱のるつぼに叩き込まれていく。

肝心の葬儀にしても、暗殺犯とされたオズワルドが射殺されたというニュースを聞き、当初予定していた盛大な行進をいったんは中止しようとする。まあ、とにかく彼女の気持ちはあっちに行ったり、こっちに行ったりと乱れまくるのだ。

それをいくつものエピソードを積み重ねつつ描く展開だ。しかも、その間にはかつてジャッキーが案内役になって、ホワイトハウスの内部を紹介したテレビ番組の映像が流される。また、このインタビュー後に彼女が司祭と交わす会話も挿入される。そこでは、彼女の死への願望まで語られる。

こうしていろんな要素を詰め込んだことによって、地味なドラマが観応えあるものになったのは事実。その一方で、全体にまとまりがなく散漫になった印象がどうしてもぬぐえない。そのため、観客がジャッキーに感情移入するのは相当にハードルが高いかもしれない。

ただし、そこで光るのがジャッキーを演じたナタリー・ポートマンの演技である。まるで一人芝居のようなシーンもあるのだが、それも含めて様々に変化し、上下左右に揺れ動きまくるジャッキーの心理を見事に表現している。今回製作を手がけたダーレン・アロノフスキーが監督した「ブラック・スワン」に劣らない圧巻の演技だ。本作でアカデミー主演女優賞候補になったのも当然だろう。

アカデミー外国語映画賞候補作「NO」のチリ人監督パブロ・ララインも、そんなナタリーの演技を生かすべく、彼女のアップを多用する。これはまさしくナタリー・ポートマンのための映画である。そこに注目せずしてこの映画を観る価値はないだろう。

この映画の描くところによれば、ジャッキーはケネディの名声を高めた立役者であり、名プロデューサーといえそうだ。彼女がいなければ、ケネディが現在まで語り継がれることはなかったかもしれない。そういう意味でも興味深い映画である。

●今日の映画代、1100円。毎月14日はTOHOシネマズデイ。誰でも安く観られます。

 

長尺の魔力

今日はいつもの最新映画の感想ではなく、ちょっとコラム的なものを。

長尺の映画というものがある。文字通り尺の長い、つまり上映時間の長い映画だ。たいていの映画は長くても2時間前後だが、世の中にはそれをはるかに超える映画がある。例えば、最近公開された映画では、マーティン・スコセッシ監督の「沈黙」が上映時間2時間42分。富田克也監督の「バンコクナイツ」が3時間2分。なかなかの長さである。

だが、上には上がある。昨年「64(ロクヨン)」前後編がヒットした瀬々敬久監督による2010年公開の映画「ヘヴンズストーリー」は、実に上映時間4時間38分! 家族を殺された娘、妻子を殺された夫、殺人犯の青年などが織りなす人間模様を全9章で描いた圧巻の映画だった。

この映画で最も印象的だったのは、登場人物の心理描写である。例えば柄本明が涙するシーン。感情の揺れ動きを余すところなく映す。通常の映画ならもっとコンパクトにするシーンを時間をかけて描くことによって、人物の心理が手に取るように伝わってきたのだ。

ちなみに、その瀬々敬久監督による自主企画映画「菊とギロチン」が2018年公開予定だ。なにせ自主企画だけに資金確保が大変らしく、6月末まで出資&協賛金(カンパ)を募集しているらしい。さすがに出資は無理でも、1口1万円の協賛金なら・・・ということで興味のある方はぜひホームページをチェックしてください。

さて、ここ数年に公開された長尺の映画として、もう1本忘れてはいけない作品がある。濱口竜介監督による2015年の「ハッピーアワー」だ。上映時間317分。つまり6時間17分!! 3部構成で間に休憩があるとはいうものの、破格の長さである。

この映画、30代後半の4人の女性たちの人生の岐路を描いた作品で、その4人をほぼ素人の女性が演じている(彼女たちはロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞)。そして、こちらも人物の心理描写が素晴らしい。通常の上映時間の映画ならカットされるような機微を、余すところなく吸い取っているから、女性たちが抱えた悩みや苦しみがあまりにもリアルに伝わってくる。おかげで、6時間超の上映時間が、まったく長く感じられなかった。

ちなみに、この映画は東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムにて、4月22日~5月12日まで凱旋上映されるそうなので、お時間のある方はぜひ。

最後に、近日上映予定の長尺の映画を紹介しよう。5月13日(土)より新宿Ks cinemaにて公開予定の片嶋一貴監督作品「いぬむこいり」だ。上映時間は4時間5分。ダメダメなアラフォー小学校教師が、神のお告げによって訪れた島で様々な経験を重ねる物語。民間伝承をモチーフにファンタジーや風刺、エロスなどの要素もあるらしい。出演者も主演の有森也実をはじめ、武藤昭平、緑魔子PANTA石橋蓮司柄本明など超個性派ばかりなので、大いに注目しているところだ。

というわけで、映画館が最も居心地がよい場所で、できれば映画館に住みたいと思うオレのような映画ジャンキーにとって、4時間以上も映画館にいられる長尺の映画は夢のような映画なのである。まあ、ただ長きゃいいってものでもないわけだが。

 

「T2 トレインスポッティング」

「T2 トレインスポッティング
新宿ピカデリーにて。2017年4月10日(月)午前11時20分より鑑賞(スクリーン2/F-15)。

アンダーワールドのヒット曲「ボーン・スリッピー」が流れてくると、必ず思い浮かべる映画がある。1996年製作のイギリス映画「トレインスポッティング」だ。日本でも単館系映画ながら大ヒットし、特に若者たちの間でカルト的な人気を獲得した。

それから20年。まさかの続編登場だ。しかも、ダニー・ボイル監督、脚本のジョン・ホッジ、主演のユアン・マクレガーなど主要スタッフ、キャストが再結集した奇跡のような映画である。これを見逃す手はない。さあ、映画館にGO!

というところで大変なことに気づいてしまった。よくよく考えたらオレ、前作を観てないじゃん。なにせ周囲であれだけ話題になっていたので、すっかり観た気になっていたのだ。やれやれ面目ない。

そこでさっそく近所のレンタル店でDVDを借りようと思ったら貸し出し中。そりゃそうだよね。しょうがない。動画サイトで観るか。と検索してみたら、なんとGyaO!で無料視聴できるではないか! まあ、有料より画質は落ちるし、途中で何度かCMが入るが、なんたってタダですからね。贅沢は言えません。

こうして20年越しで鑑賞コンプリート。いやぁ~、これは人気になるはずだ。閉塞感漂う社会を背景にドラッグと犯罪に走る若者たちを、ぶっ飛んだ映像と音楽で描いた青春ドラマ。まさに最低のやつらを描いた最高の映画なのだ。20年越しでファンになってしまったオレなのである。今さらかよッ!

そんなこんなで、ようやく観に行った「T2 トレインスポッティング」(T2 TRAINSPOTTING)(2017年 イギリス)。前作のラストで仲間たちを裏切り、麻薬取引で得た大金を持ち逃げしたマーク・レントンユアン・マクレガー)。オランダにいた彼が20年ぶりに故郷のスコットランジ・エディンバラに帰ってきたところからドラマが動き出す。実家では母はすでに亡くなり、年老いた父親が一人暮らし。

一方、かつての仲間たちはどうなっているかといえば……。ジャンキーだったスパッド(ユエン・ブレムナー)は妻子に愛想を尽かされ、自殺まで考えている。シック・ボーイ(ジョニー・リー・ミラー)はパブを経営しながら売春や恐喝(ほぼ美人局)で稼いでいた。そして、一番血の気の多かったベグビー(ロバート・カーライル)は刑務所に服役中。マーク自身も最初は幸福そのものだと自慢していたものの、実はそうでないことがわかる。こうして相変わらずな悲惨な人生を送る4人だったが……。

映画全体のタッチは前作と同じだ。ぶっ飛んだ映像、前作でも効果的に使われたイギー・ポップアンダーワールド、ブロンディーをはじめ新旧様々なアーティストによる音楽(今回もサントラは絶対に買い!)など、アバンギャルドな世界観が健在だ。

毒に満ちた笑いも満載。マークとシック・ボーイが盗みに入ったパーティー会場で、歌を歌わせられるはめになる(しかもカトリックプロテスタントの対立をネタにした歌)シーンでは、思わず爆笑してしまった。20年前と変わらないダニー・ボイルの若々しい演出は驚異的でさえある。

とはいえ、さすがに年をとったかつての若者たち。冴えない日々なのは昔と同じでも、昔のような輝きや未来への可能性はない。そこには中年の悲哀や焦りがジワジワとにじみ出す。シック・ボーイの彼女だという東欧から来た女が、マークにこう言うシーンがある。「あなたたちは過去に生きている」と。

昔の輝きを取り戻そうとばかりに、マークはシック・ボーイと組んでひと儲けしようとする。それにスパッドも協力する。しかし、なかなかうまくいかない。そのダメダメさとポップなタッチのコントラストが、絶妙の味を生んでいる。

味といえば、役者たちもいい味を出している。主要キャストは当時はまだ駆け出し。しかし、いまやスターとなったユアン・マクレガーをはじめ、ユエン・ブレムナージョニー・リー・ミラーロバート・カーライルのいずれもが、個性的な役者に成長している。そのキャリアの積み重ねが演技に奥行きを与えている。

例えば、劇中でユアン・マクレガーがSNSの普及など現在の社会への皮肉をまくしたてるシーンがあるのだが、それが結局自分自身の惨めな現在につながってしまう。そのあたりで漂う哀愁がたまらないのである。

そんな中、刑務所を脱走したベグビーは、大金を持ち逃げした宿敵マークの帰郷を知り激怒する。終盤はついにマークとベグビーの対決だ。それにスパッドが書いた小説が絡み、脇役だと思っていたシック・ボーイの彼女が重要な役割を果たす。何ともケレン味にあふれた展開が心を躍らせる。

その後、前半でマークが一度かけてすぐにやめたレコードに、ラストでもう一度針を落とすシーンが心憎い。あの名曲が鳴り響き、ポップな映像が流れた瞬間、思わず拍手しそうになってしまった。これぞ快作!!

前作は正直なところドラマ的には、それほどの深みはなかった。アバンギャルドなタッチが破格の魅力を醸成し、観客をすっかり酔わせていた。まるでドラッグのように。

今作は、そんな前作の良さをきっちり押さえつつも、さらにドラマ性が高まってパワーアップしている。前作のファンは、続編ができると聞いて期待するのと同時に、「大丈夫なのか?」という危惧もあっただろうが、これなら安心、というか大満足だろう。

ちなみに、この映画には前作を踏まえたシーンや展開がたくさんある。そこに関しては、前作の映像をそのまま使うなどして配慮しているので、前作を観ていなくても楽しめるだろう。それでも前作を観ておけば、なおさら楽しめるのは間違いない。

なんて、直前にようやく観たオレが偉そうに言える筋合いじゃないんですが……。

●今日の映画代、1400円。事前にムビチケ購入済み。

「午後8時の訪問者」

「午後8時の訪問者」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年4月8日(土)午後2時より鑑賞(スクリーン1/D-12)。

弟がいる。だが、一緒の家で暮らしていた幼少時はともかく、成人してからはほとんど会わなくなった。せいぜいお盆や年末年始に実家で顔を合わせるぐらいだ。別に仲が悪いわけではなくて、自然とそうなっただけなのだが。

カンヌ国際映画祭の常連で、2度パルムドール(最高賞)を獲得しているジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟は、ずっと兄弟で監督・脚本を務め、「ある子供」「息子のまなざし」「サンドラの週末」などのすぐれた作品を送り出してきた。はたして兄弟で協力して同じ仕事をするというのは、どんなものなのだろうか。全く想像しがたい世界である。

そんなダルデンヌ兄弟の映画は、少年犯罪、失業、貧困など社会問題を扱ったものが多い。そして今回の新作「午後8時の訪問者」(LA FILLE INCONNUE)(2016年 ベルギー・フランス)にも、そうした社会派の側面がある。若い女医を主人公にしたドラマで、医療問題や移民問題などが素材となっている。だが、直接的なメッセージが発せられるわけではない。むしろ人間の本質にグイグイ迫った作品といえるだろう。

主人公は若い女医のジェニー(アデル・エネル)。小さな診療所に勤務している。ただし、近いうちに大きな病院に移ることが決まっていた。ある日、診療所のベルが鳴り、研修医のジュリアンがドアを開けようとするが、ジェニーは診療時間を過ぎていたため制止する。翌日、身元不明の少女の遺体が見つかる。診療所の昨夜の監視カメラの映像にはその少女が助けを求める姿が映っていた。きちんと応対していれば少女は死ななかったと自分を責めるジェニーは、少女の身元を突き止めようと聞き込みを始めるのだが……。

映画の冒頭では、ジェニーがてきぱきと診療をこなす。そんな中、けいれんで運ばれてきた少年を見て、研修医のジュリアンがショックで固まってしまう。それを見たジェニーは、「患者に寄り添いすぎるな!」と厳しく指導する。

その後、診療所のベルが鳴り、ジュリアンが応対しようとするのだが、ジェニーは「もう診療時間を1時間も過ぎているから出なくていい!」と制止する。

そして彼女は、まもなく勤務する予定の大きな病院に向かい、そこのスタッフの大歓迎を受けて満面の笑みを浮かべる。

とくれば、ジェニーは医師として優秀でも、人間味のない典型的なエリート女に思えるかもしれない。しかし、その直後、彼女は今まで担当していた子供の患者から感謝されて、思わず涙ぐんでしまうのだ。こいつ、ホントはいいヤツじゃん!

そうなのだ。ジェニーは根はいいヤツなのだ。だが、同時に医師として出世のステップに足を乗せているだけに、それを隠して「あるべき自分」を演じようとしている。その微妙なバランス設定が、その後のドラマをより深いものにしている。

翌日、診療所の近所で死体が見つかり、それが昨夜、診療所のベルを鳴らした少女であることがわかる。「もしもあの時、ちゃんと応対していたら、少女は死ななくて済んだのでは?」。そう思ったジェニーは、自責の念から、その少女の身元を探ろうとする。

ミステリー仕立てでのドラマである。そのためギャングもどきにジェニーが脅迫されたり、謎が謎を呼ぶ展開が用意されている。ただし、ダルデンヌ兄弟が中心的に描くのは、謎解きではない。登場人物の心理描写だ。

ダルデンヌ兄弟お得意の、手持ちカメラを駆使したドキュメンタリータッチの映像で、ジェニーをはじめ様々な人物の心理をリアルに切り取っていく。特にジェニーについては、傷の手当てをしたり、脈を測ったりする日常の診療もていねいに描き、彼女の心の内を繊細に描き出していく。

事件の真相の鍵を握るのはある一家だ。秘密を抱えた父や息子の苦悩など、迷走を重ねる彼らの屈折した心理が巧みに描き出される。同時に研修医を断念した(ジェニーは自分の言動が原因だと思い込んでいる)ジュリアンが抱えた秘密も、ドラマに大きな影を落とす。そこから人間の奥底にある様々な本質が見えてくる。

このドラマを引っ張る原動力のひとつは、「なんでジェニーはそんなに必死で真相を追うのか?」という疑問だ。いくら罪悪感があるといっても、あそこまでやるのは普通ではない。

それについて明確な答えが提示されるわけではない(ハリウッド映画なら、実は彼女は過去に何かがあって……となりそうだが)。スクリーンに映る彼女を見て、観客が想像力をめぐらすしかない。

オレが思うに、やはりそれは彼女の迷いの表れではないだろうか。実は、ジェニーはわりと早いうちに、決まっていた病院への就職を断ってしまう。そして、今の診療所の後継者になると告げる。だが、そう決断してはいても、実際の心はグラグラ揺れ動いていたのではないか。「本当にこれでいいのか?」と。それを吹っ切るために猪突猛進で突き進んだように思える。

ラストシーンが印象深い。そこでジェニーは患者の老女を優しくサポートする。彼女がたどり着いたのは、そういう場所だったということだろう。不確実ながらも未来への希望が見えるラストシーンである。

いかにもダルデンヌ兄弟らしい映画だと思う。人物に寄り添い、人間の良心を信じる姿勢は不変だ。感情を刺激するような音楽もまったくなく、エンドロールも街の雑踏の音が流れるのみ。そこも彼ららしい。派手さはないが、味わい深さは一級品の作品である。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズカード料金。ちなみに、この回は、心療内科医でエッセイストの海原純子さんのトークイベント付きでした。余計に得した気分。

 

「ムーンライト」

「ムーンライト」
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年4月4日(火)午後3時50分より鑑賞(スクリーン2/E-11)。

アカデミー賞がどれほどのものだ? ただのアメリカの映画賞だろう……。と言う人がけっこういる。まあ、そう言いたくなる気持ちもわからんではないが、何しろあれだけ歴史のある映画賞なんだし、頭から否定することもあるまい。実際、毎回の受賞&ノミネート作品を観れば、それなりに面白かったりするわけだし。

というわけで、「ムーンライト」(MOONLIGHT)(2016年 アメリカ)を鑑賞してきた。話題の「ラ・ラ・ランド」などを押しのけて、今年の第89回アカデミー作品賞を受賞した作品だ(脚色賞、助演男優賞も受賞)。

シャロンという黒人少年の成長を3部構成で描いた映画である。1部は主人公の少年時代。シャロンはマイアミの貧困地域で母ポーラ(ナオミ・ハリス)と暮らしている。だが、ポーラは麻薬に溺れ、男出入りが激しく、シャロンには居場所がない。しかも、彼は体が小さいため、学校でリトルとあだ名されて、いじめられている。そんな中、シャロンを救ったのは近所の麻薬の売人フアン(マハーシャラ・アリ)だった。彼とその恋人テレサ(ジャネール・モネイ)は、シャロンと親しく交流する。

シャロンにとって2人は父親と母親のような存在だ。特にフアンは「自分の道は自分で決めろ」と諭し、シャロンに大きな影響を与える。フアンは1部にしか登場しないのだが、その影響力はその後もスクリーンに反映される。それを演じたアカデミー助演男優賞を受賞したマハーシャラ・アリの存在感が抜群である。

一方、シャロンには唯一心を許せるケヴィンという幼なじみがいる。彼との関係が、その後のシャロンの人生に大きな影を落とす。

そして2部。シャロンは高校生になっている。母ポーラの麻薬中毒はますますひどくなり、売春までしている。フアンはすでに亡くなったものの、テレサが彼をサポートする。その一方で、シャロンは学校で以前よりも手ひどいいじめを受けている。同時にケヴィンとの友情は、それ以上の思いへと変わりつつある。しかし、その信頼していたケヴィンもイジメに巻き込まれ、最後は大きな出来事に発展する。ラストの衝撃の展開。ああいう行動しかとれなかったシャロンの屈折した心情が、何ともやるせない。

最後の3部は成人したシャロンを描く。施設に入った母親のために転居した彼は、そこで麻薬の売人となって羽振りをきかせている。そんな中、思わぬ電話がかかってくる……。

3部構成ながらぶつ切りの感じはまったくない。各パートのセリフや行動がうまくつながり、1本のドラマとしてきちんと成立している。シャロンを演じる役者もパートごとに違うのだが(少年時代はアレックス・ヒバート、高校生時代はジャハール・ジェローム、成人後はトレヴァンテ・ローズ)、不自然さは感じられない。見た目は違っても、内面はきちんと連続している。

そして、この映画の最大の特徴となっているのが映像である。カメラをぶんぶん回したり、極端なアップにしたり、わざとピントをぼかすなどの大胆な手法を使いつつ、登場人物の心理を繊細に切り取る。主人公のシャロンが徹頭徹尾無口だということもあって、セリフは必要最低限。それでも多くのことが映像から伝わってくる。シャロンの悩み苦しみはもちろん、ポーラやフアン、ケヴィンなどの心理が手に取るようにわかる。

タイトルにある「月の光」を効果的に使うなどした、美しい映像も印象的だ。特に海や浜辺でのシーンは、幻想的な美しさである。

同時に音楽の使い方も抜群に巧い。クラシック風な音楽から、ヒップホップ、ソウル、ジャズ、はてはカエターノ・ヴェローゾの名曲「ククルクク・パロマ」まで、多彩な音楽を映像に乗せて、場面ごとにふさわしい世界を構築していく。

この映画には、ほぼ黒人しか登場しない。また、同性愛という要素もある。しかし、それらは要素の一つにしか過ぎない。全体を通せば、困難を背負いつつも自立し、傷つきながらも前に進む少年の、普遍的な成長物語になっている。同時に普遍的なラブストーリーとして観ることもできる。

3部の最後、つまりオーラスの場面。あっけないぐらいに短いシーンで、一瞬「これで終わりか?」と思ったりもしたのだが、あとで考えるとやはりあれしかなかったのだろう。それは、逆境をはねのけるため、精いっぱい見栄を張り、肩ひじを張って成り上がったシャロンが、ようやく自分に素直になれた瞬間なのかもしれない。何にしても余韻の残る美しいシーンである。

ラ・ラ・ランド」のような派手さも楽しさもここにはない。しかし、人間を描き切ったという意味では、見事としか言いようのない作品だと思う。これが長編2作目という新鋭バリー・ジェンキンズ監督、スゴイ仕事をしたものだ。小品ではあるものの心にしみる映画である。

こういう作品を受賞作に選ぶのだから、アカデミー賞にはやはり要注意だぜ!

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