映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「おとなの恋の測り方」

「おとなの恋の測り方」
ヒューマントラストシネマ有楽町にて。2017年6月17日(土)午後2時30分より鑑賞(スクリーン1/E-12)。

昔から「ノミの夫婦」という言葉がございまして。小柄な夫と大柄な妻の夫婦を指す言葉でございます。何でも、虫の蚤はメスのほうがオスよりも一回りほど大きいことから、こう言うようになったらしいですな。まあ、最近は女性もけっこう背が高かったりしますから、昔ほどノミの夫婦も珍しくないかもしれません。

とはいえビックリなカップルがおりまして。なんたって、あなた、彼氏の身長が136㎝しかないってんですから。これだけ男性の“身長”が低けりゃ、女性の側はどうしても恋に“慎重”になります……。お後がよろしいようで。

と、落語調の書き出しにしたのは、ただの気まぐれである。特に意味はない。

何にしても、そんな逆身長差カップルが登場するのが、「おとなの恋の測り方」(UN HOMME A LA HAUTEUR)(2016年 フランス)という映画なのである。

簡単にいえば、フランス製のラブコメだ。主人公は3年前に離婚した元夫と、今も共同で仕事をしている弁護士のディアーヌ(ヴィルジニー・エフィラ)という女性。ただし、最近はその元夫と仕事でもめている模様。そんなある日、彼女はレストランに携帯電話を忘れてしまう。まもなく、それを拾ったアレクサンドル(ジャン・デュジャルダン)という男性から電話がかかってくる。

その電話ときたら、実にユーモラスでウィットにとんでいる。それに好感を持ったディアーヌは、翌日会うことを承諾する。もちろん、彼女の頭の中にあるのは長身でイケメンの白馬の王子様だ。ところが、目の前に現れたアレクサンドルは、何と身長が136㎝しかなかったのだ!!!

ただし、アレクサンドルを演じるのは「アーティスト」でオスカーに輝いたジャン・デュジャルダン。背は低いものの、なかなかのイケメンのオヤジである。おまけに有能な建築家でお金も持っている設定。そして、何事にも積極的で自信家のアレクサンドルは、すぐにディアーヌを強引に誘い、ドキドキのスカイダイビング初体験をさせてしまうのだ。

とくれば、そりゃあディアーヌでなくても好きになっちゃうでしょ。身長以外は完璧なんだから。どうせなら、顔もブ男にして美女と野獣みたいにすればよかったのに……と思うのは、ただのオレのやっかみである。

この映画、ラブコメだから当然笑いの要素がある。その中心はアレクサンドルの身長ネタだ。背の低いアレクサンドルが、大きな愛犬になつかれて大変な目に遭うシーンなど、無条件に笑えるシーンがあちこちにある。

あれ? でも、ジャン・デュジャルダンって、そんなに背が低かったっけ? と思ったら、実際の彼は身長180㎝を越えているらしい。なので、ディアーヌと一緒に映るシーンなどではVFXによって身長を低く見せているようだ。その反面、顔のアップなどはそのまま映している。その微妙なアンバランスさも、笑いを増幅させている。

ただし、個人的には期待したほど笑えなかった。ハリウッドのラブコメなら、もう少し突き抜けた笑いがありそうだが、フランス映画はやはり異質なのかもしれない。

ともあれ、ドラマの柱はディアーヌとアレクサンドルのロマンスの行方だ。そこには紆余曲折がある。アレクサンドルに惹かれてどんどん距離を縮めるディアーヌだが、やがて自分たちカップルを見る周囲の好奇の目に耐えられなくなってしまう。

中盤以降のディアーヌの葛藤や苦悩は、演じるヴィルジニー・エフィラのキャラもあってやや薄味に感じられるが、ドラマ全体はそつなくまとめられている。

この映画でオレが一番気になったのは、アレクサンドルが10年前に離婚した妻との間にもうけた息子の存在だ。いい年して定職も持たず、父親のすねをかじって生きている青年だけに、ドラマに大きな展開をもたらしそうな予感がしたのだが、結局、アレクサンドルの素晴らしい父親ぶりを示すだけに終わってしまった。父親とディアーヌの恋愛に絡むこともない。できれば、彼の存在をもう少し効果的に使ってほしかった。

ついでに言えば、ディアーヌの元夫とアレクサンドルのバトルが、チラリとしか描かれないのも物足りない。どうせなら、宣言通りの卓球対決を実現させれば面白かったのに。

しかし、まあ、そのあたりのさじ加減も、この映画の持ち味なのかもしれない。「なんかスゲェー」という突き抜けた部分はない代わりに、適度に笑えて、感動して、最後には心をホッコリさせられる。実にバランスの良い映画といえるだろう。

低身長のアレクサンドルに加えて、ディアーヌの継父に耳が不自由な障がい者を配するなどして、「人間は外見じゃない」「差別してはいけない」というさりげないメッセージも綴られている。そのあたりもそつがない。

オレのようにひねくれた見方をしないで、素直に観れば安心して楽しめそうな映画である。ラブコメ好きにはおススメです。

●今日の映画代、1300円。TCGメンバーズの会員料金で。

「残像」

「残像」
岩波ホールにて。2017年6月16日(金)午前11時より鑑賞(自由席/整理番号53)。

キネマ旬報社twitterで国会を批判した書き込みがあり、それに対して賛否両論があったそうだ。色々な意見があって当然だが、オレが気になったのは「キネマ旬報社は映画のことだけ語ってください」という主旨の意見があったことだ。オレは思う。映画と政治は無縁ではない。時には、映画メディアが政治を語ることがあってもいい。何しろ映画は政治をはじめ、社会の様々な様相を投影するものなのだから。

そんな折も折、ポーランドアンジェイ・ワイダ監督の「残像」(POWIDOKI)(2016年 ポーランド)を鑑賞した。「世代」「地下水道」「灰とダイヤモンド」の“抵抗三部作”で知られるワイダ監督は、2016年10月に90歳で他界した。そのため、本作が遺作となってしまった。

この映画は実在の画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキの晩年の4年間を描いた伝記映画だ。第二次大戦後のポーランド。前衛画家のストゥシェミンスキ(ボグスワフ・リンダ)はカンディンスキーシャガールらと交流を持ちながら、創作活動と美術教育に情熱を注いでいた。

映画の冒頭は、そのストゥシェミンスキと、彼が教授を務める美術大学の教え子たちが高原に来ている。そこに新しい女子学生が来る。ストゥシェミンスキは遠くの丘の上にいる。実は彼は戦争で負傷して片足を失い、松葉杖をついている。そこからどうやって、この場所に下りてくるのか。

なんとストゥシェミンスキは、ゴロゴロと丘を転がって下りてくるではないか。それを見た学生たちも同じように、ゴロゴロと丘を転がる。もちろんみんな笑顔だ。ストゥシェミンスキが自由な魂の持ち主で、しかも学生たちからどれほど慕われているかを端的に示したシーンである。

ところが、そんなキラキラした日々と対照的な暗い日々が訪れる。ストゥシェミンスキが自分の部屋にいると、突然部屋が真っ赤に染まる。当時のポーランドソ連の強い影響下にあり、全体主義化が進行しようとしていた。それを象徴するようなスターリンを描いた巨大な赤い旗が、ストゥシェミンスキが住む建物に掲げられたのだ。

ストゥシェミンスキは怒って、その旗を破る。それによって当局に連行された彼は、様々な迫害を受けることになる。

国は社会主義のPRのために、芸術を利用しようとする。すでに著名な画家となっていたストゥシェミンスキだが、そんなことはおかまいなしだ。いや、だからこそ当局はストゥシェミンスキを屈服させようとする。

権力側が求める芸術は社会主義リアリズム。社会主義を称賛するわかりやすい芸術だ。それに対して、ストゥシェミンスキは前衛的な作風の画家。そこには衝突が起きる。ストゥシェミンスキは権力に抵抗する。ただし、けっして体制転覆などを意図しているわけではない。彼は、ただ自分の心のままに芸術活動を行いたいだけなのだ。その信念を曲げるのは彼にとって自己否定に等しい。

それでも権力側は容赦しない。ストゥシェミンスキは大学をクビになり、画家の協会も除名される。生活のために描いたカフェの作品も破壊される。美術館に展示されていた作品も撤去される。それどころか、彼の教え子たちが開いた学生の作品展も当局によって滅茶苦茶に破壊されてしまう。

これでもかという権力側の弾圧ぶりを見ていると、どんどん暗い気持ちになってくる。息苦しささえ感じてしまう。それでもスクリーンから目をそらさないのは、ストゥシェミンスキの不屈の精神がそこに満ち溢れているからだ。

そして、彼を偉人としてではなく、一人の人間として描くワイダ監督の視点も魅力的である。ストゥシェミンスキは奥さんと別れている。その理由は明確に示されないが、病気の奥さんが「死んでも知らせるな」と言ったところから考えて、相当なことがあったに違いない。

そして彼女との間にできた娘との関係も、何やらギクシャクしている。母が死んだ娘は父であるストゥシェミンスキと一緒に暮らすが、すぐに反発して出ていってしまう。そこには、ストゥシェミンスキに思いを寄せる若い女子学生の存在もある。

というわけで、人間的には欠点だらけのストゥシェミンスキだが、芸術家としての信念は揺るがず、自らの芸術理論(「残像」という邦題にも関係する)を書き残すことに執念を燃やす。

しかし、満足な仕事に就くこともできず、貧困にあえぎ、さらには重い病にもかかってしまう。そして……。

自らも全体主義の圧政に苦しんだ経験を持つワイダ監督だけに、訴えかける迫力が違うのである。圧政への怒りが静かに燃え盛り、観客の心を熱くする。同時に映像には若々しさが感じられる。全体的に暗い色調の中で、スターリンの旗や娘のコートなどの赤色を鮮烈に見せる映像は、とても90歳の監督の作品には思えない。

遺作にふさわしい作品だという気持ちと同時に、「まだまだ良い作品が作れたのでは?」という残念な思いもオレの胸に去来した。

この映画で描かれるのは今から70年近い時代だ。しかし、ワイダ監督が訴えかけるメッセージは、今の時代にも十分に通用するはずだ。国民を監視し統制しようとするのは、権力の常。それは日本にも無縁ではないだろう(そういえば共謀罪ってものが成立したっけ)。だからこそ、なおさら観ておくべき映画だと思うのである。

●今日の映画代、1500円。事前に鑑賞券を購入済。

「セールスマン」

「セールスマン」
新宿シネマカリテにて。2017年6月12日(月)午前9時45分より鑑賞(スクリーン2/A-6)。

ミステリー映画やサスペンス映画は、物語の筋立て以上に雰囲気が重要だ。スクリーンから立ちのぼる謎めいた空気感や破格の緊迫感が、作品の魅力を一気に高めてくれる。

イランのアスガー・ファルハディ監督は、その雰囲気の作り方が抜群に巧い。過去作の「彼女が消えた浜辺」(2009)、「別離」(2011)、「ある過去の行方」(2013)もそうだったが、今回の「セールスマン」(FORUSHANDE)(2016年 イラン・フランス)も、冒頭から謎に満ちた緊迫感あふれる世界を現出させる。

最初に登場するのは、芝居のセットを次々に映したカットだ。続いてあるアパートが倒壊の危機に瀕して、住人が慌てて避難する場面が描かれる。そこから早くも、観客を有無を言わせずスクリーンに引きずり込んでしまう。

主人公はイランで暮らす夫婦。夫エマッド(シャハブ・ホセイニ)は、学校の教師をしながら小さな劇団に所属している。妻のラナ(タラネ・アリドゥスティ)も、同じ劇団に所属している。2人はもうすぐ上演するアーサー・ミラー原作の芝居「セールスマンの死」に出演予定で稽古の真っ最中だ。

そんな中、突然、自宅アパートに倒壊の危険が生じて2人は立ち退きを余儀なくされる。まもなく、劇団仲間に紹介してもらった部屋に引っ越すが、そこには前に住んでいた女の荷物が残されていた。そして「セールスマンの死」の初日を迎えた夜に事件が起こる。エマッドより、ひと足早く劇場から帰宅したラナが何者かに襲われて、負傷してしまったのだ。

ファルハディ監督は事件発生の瞬間は描かない。その代わりに、事件によって揺れ動く人々の心理をスリリングに描き出すことで、観客の目をスクリーンに釘付けにする。もちろん中心的に描かれるのは、エマッドとラナの心理である。

ラナは事件によって精神的に深く傷つき、1人になることを極度に怖がるようになる。一方、エマッドは真犯人を突き止めるべく、警察に通報しようとする。だが、ラナは事件が表ざたになることを嫌がり、エマッドの説得に耳を貸さない。それによってエマッドはやり場のない怒りをどんどん募らせていく。こうして、2人の気持ちは少しずつすれ違い始める。

物語の背景には、イランの社会状況が織り込まれている。ラナが事件を表ざたにしたくないのは、女性が性的な被害を受けた場合に、女性の側が罰せられたり、白い目で見られたりする保守的なイラン社会の状況がある。

ただし、それはイランに限った話ではないだろう。日本でもその種の事件があると、SNS上などで女性を非難する言説がしばしば見られる。だからこそ、ラナの心情は観客にとっても他人事ではないはずだ。

その他にも急速な都市化や検閲制度など、現在のイランが抱える様々な問題を、さりげなくドラマの中に映しこんでいる。これもまたファルハディ監督の持ち味である。

中盤以降、いら立ちを募らせたエマッドは、犯人が残したトラックを手掛かりに、自ら真犯人を探そうとする。その心の奥では復讐の炎がメラメラと燃えている。彼は教師であり、劇団でアメリカの作家による芝居を演じることからもわかるように、本来は進歩的な人間だ。それが復讐の思いにとりつかれていくというのが、何とも皮肉な展開である。

エマッドとラナが演じる芝居「セールスマンの死」の場面もあちこちに挿入される。時代に取り残された初老のセールスマンと家族の悲劇を描いた名作戯曲だ。それがエマッドとラナ夫妻に起きた悲劇と重なって、なおさらスリリングでリアルな空気感を生み出している。

終盤、エマッドはついに真犯人を突き止める。しかし、その人物もまた様々な事情を抱えている(ここでも「家族」という問題が大きく関係してくる)。はたして、そんな人物に対してエマッドは復讐の刃を振り下ろせるのか?

そこからの展開はやや迷走する。ハリウッドのサスペンスのような単純な復讐劇に突き進むことはない。その分、エマッドとラナ、真犯人の心の揺れ動きがじっくりと描かれて見応えがある。それを通して、家族、夫婦、人間の罪、復讐、許しなど様々なテーマについて観客の思考を促すのである。

エンディングでは、虚ろな顔で芝居の出番を待つエマッドとラナの表情が、何とも言えない苦い余韻を残す。社会や人間を冷徹に見つめるファルハディ監督の鋭い視線は、今回もまったく揺らがない。

ちなみに、本作は、2016年の第69回カンヌ国際映画祭で男優賞と脚本賞を受賞。そして第89回アカデミー賞外国語映画賞を受賞している。その際に、ファルハディ監督と主演女優のタラネ・アリドゥスティが、トランプ政権のイスラム諸国からの入国停止措置に反発して授賞式への出席を拒否したのは有名な話だ。

ミステリーやサスペンスというと、謎解きの面白さを追求しがちだが、ファルハディ監督の映画はそれよりも、人間の心理描写に常に重点を置く。それだからこそ、なおさら面白くて深みが感じられるのである。もはや世界的に注目される存在となったファルハディ監督の映画からは、今後も目が離せそうにない。

●今日の映画代、1500円。事前に鑑賞券を購入。

「20センチュリー・ウーマン」

「20センチュリー・ウーマン」
新宿ピカデリーにて。2017年6月10日(土)午後1時25分より鑑賞(シアター7/D—-9)。

作家が自分や家族をモデルに書いた私小説があるように、監督が自身や家族をモデルに描いた自伝的、あるいは半自伝的映画もたくさんある。それが単なる私的なドラマで終わらずに、より普遍的で広がりのあるドラマになることによって魅力が生まれる。

「20センチュリー・ウーマン」(20TH CENTURY WOMEN)(2016年 アメリカ)は、前作「人生はビギナーズ」で自身のゲイの父親のことを描いたマイク・ミルズ監督が、今回は母親をモデルに描いた半自伝的作品だ。

描かれるのは1979年のカリフォルニア州サンタバーバラでのひと夏の出来事。主人公はドロシア(アネット・ベニング)という女性。夫と離婚して、40歳の時に生んだ15歳の息子ジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)を育てているシングルマザーだ。

彼女の家には、写真家のアビー(グレタ・ガーウィグ)という女性と便利屋のウィリアム(ビリー・クラダップ)という男性が間借りしている。そんな中、思春期を迎えたジェイミーのことが理解できなくなったドロシアは、ある出来事をきっかけに「自分だけでジェイミーを育てるのは難しい。他人のサポートが必要ではないか」と考えて、アビーに加え、ジェイミーの幼なじみジュリー(エル・ファニング)に、その役目を依頼する。

映画の冒頭では、突然、ドロシアの別れた夫が残していった車が炎上する。幸い彼女とジェイミーは無事だったのだが、ドロシアは消火にあたった消防士たちを自宅のパーティーに招待する。何ともユーモラスな光景だ。というわけで、全編にユーモアが散りばめられている映画である。

同時に瑞々しい描写が光る映画でもある。ドラマの中心を貫くのはジェイミーの成長物語。父親がいないこともあって母親ベッタリだった彼が(毎朝、母親と株価の確認をするシーンが象徴的)、思春期を迎えて、教育係となった風変わりな2人の女性と交流する中で、少しずつ成長していく。

だが、それだけでは終わらない。この映画の素晴らしいさは、世代の違う3人の女性たちそれぞれの人生を描いているところにある。

その1人は、ジェイミーの母ドロシア。彼女はかつてパイロットを目指し、その後はキャリアウーマンとして働いてきた先進的な女性だ。しかし、夫と別れ、年をとる中で、孤独や焦燥感を抱えている。それが息子や間借り人たちとの交流を通して露わになってくる。

一方、写真家のアビーは、子宮頸がんの疑いがあり、その原因を作ったらしい母親との確執を抱えて悩んでいる。それでもなんとか乗り越えようと、アクティブに活動を続けている。

また、ジェイミーの幼なじみのジュリーも、家族との確執を抱えて心のバランスを崩し(母親がセラピストというのが皮肉)、奔放な生活を送っている。彼女は夜な夜なジェイミーの部屋にやってきて一緒のベッドで眠っていくものの、それ以上の関係は断固として拒む。

世代の異なるドロシア、アビー、ジュリーだが、悩みや苦しみを抱えつつも、何とか前を向いていこうとする姿勢は同じだ。彼女たちは、それぞれの形でジェイミーに影響を与えていく(後半で、アビーがフェミニズム関係の本をジェイミーに与えて、彼がそれをそのまま受け売りして性的な話ばかりするところが笑える)。

つまり、この映画は少年の成長物語であるのと同時に、個性的な3人の女性たちのドラマでもあるわけだ。

さらに、ドロシア、アビー、ジェイミーの生きた時代が見えてくるのも、この映画の大きな特徴だ。例えば、スタンダードな音楽が好きなドロシアに対して、アビーはパンクやニューウェーブに入れ込み、それがジェイミーにも影響を与える。その他にも、戦争、女性解放運動、政治の動きなど、20世紀の様々時代の様々な社会状況が見えてくる。

その中でも特に印象的なのが、後半に登場するカーター大統領の演説だ。それはアメリカが大きな転換点を迎えていることを訴えるもの。1982年のドキュメンタリー映画コヤニスカッティ」も流れて、よけいに当時の時代性を感じさせる。

ちなみに、女性中心の映画ではあるが、もう一人の間借り人の男性ウィリアムの人生もチラリと描かれる。恋人を追ってヒッピーのコミューンで暮らしてものの挫折し、それ以来本当の愛を見つけられない彼の人生もまた、当時の時代を象徴している。

映画の最後にジェイミーが語るのは、3人の女性たちとウィリアムのその後の人生だ。人生の奥深さを実感するとともに、温かな気持ちにさせられるエンディングである。

ミルズ監督は、3人の女性たちを実に魅力的、かつ肯定的に描き出している。それがこの映画の白眉だろう。演じるアネット・ベニンググレタ・ガーウィグエル・ファニングがいずれも見事な演技を見せている。

「20センチュリー・ウーマン」というタイトルを聞いて、最初は「大げさだな」と思ったのだが、確かにこれは20世紀の女性と彼女たちの生きた時代のドラマである。監督自身の半自伝的映画でありながら、それぐらい広がりのある魅力的な作品になっている。

●今日の映画代、1400円。新宿ピカデリー近くの金券ショップにてムビチケ購入。

「海辺のリア」

「海辺のリア」
テアトル新宿にて。2017年6月8日(木)午前11時30分より鑑賞(E-11)。

映画を追いかけるので精いっぱいで(それでも追いかけきれていないし)、演劇のほうまではとても手が回らない。知り合いが関係している舞台をたまに観る程度だ。それでも映画の中の役者の演技を観て、「この人の舞台を観てみたいなぁ~」と思うことはたびたびある。

今日鑑賞した「海辺のリア」(2016年 日本)での仲代達矢の演技は、まさにそう思わせるものだった。日本を代表する名優の1人、仲代達矢小林政広監督と組むのは、「春との旅」「日本の悲劇」に続いてこれが3度目となる。

シルクのパジャマにコートをはおり、スーツケースを引きずって歩く老人が最初に登場する。何やら悪態をついている様子だ。誰なんだ? こいつは。

続いて、住宅から夫婦らしき人物が喧嘩しながら出てきて車に乗り込む。どうやら老人の家族のようだ。

その後、海辺に現れた老人は若い女と出会う。何やらこの女もワケありふうだ。

というわけで、謎めいた滑り出しの映画だが、サスペンスやミステリーではない。まもなく、その老人は桑畑兆吉(仲代達矢)という元スター役者であることがわかる。役者として半世紀以上のキャリアを積み、かつては映画や舞台で活躍した兆吉。しかし、今は認知症になり、長女・由紀子(原田美枝子)とその夫・行男(阿部寛)に裏切られ、遺書を書かされた挙句に、老人ホームに入れられてしまう。

そんなある日、兆吉は施設から脱走し、パジャマにコートをはおり、スーツケースをひきずり、あてもなく海辺をさまよう。まもなく彼は、妻とは別の女に産ませた娘の伸子(黒木華)と突然の再会を果たす。

つまり、先ほどの夫婦らしき人物は、兆吉の娘の由紀子とその夫の行男。そして、兆吉が海辺で出会った女は、妻とは別の女に産ませた娘で、由紀子の腹違いの妹である伸子だったのである。

彼らの関係は複雑だ。兆吉は由紀子と行男に裏切られたといったが、その首謀者は実の娘である由紀子らしい。行男は彼女にコントロールされる一方、経営を任された会社は借金まみれで苦境に陥っている。しかも、由紀子は謎の運転手と不倫関係にある。

一方、伸子はかつては兆吉たちと一緒に住んでいたが、彼女が私生児を生んだのをきっかけに、兆吉と由紀子は伸子を家から追い出してしまったのだ。さぁ、こんなドロドロの愛憎関係にある人々が、いったいどんな出来事を起こすのだろうか。ワクワク。

などと期待してはいけない。とりたてて何も起きないのだ。あちこちさまよう兆吉。そのそばで恨みつらみを吐き出す伸子。兆吉を探す行男。ドラマの基本はそれだけだ。ただし、彼らの会話や独り言の中から、それぞれの屈折した胸の内がジワジワとにじみ出てくるのである。

実はこの映画、観始めてすぐに違和感が湧いてきた。例えば、大仰なセリフや説明ゼリフが多いところ、場面転換がほとんどなく同じシーンが長く続くところなど、映画というよりは舞台を観ているような気がしたのだ。

だが、これは作り手の意図通りなのかもしれない。いや、きっとそうだ。仲代達矢といえば、映画はもちろん舞台でも名優としての実績を持つ俳優だ。そんな舞台俳優としての魅力を、この映画の中でいかんなく発揮させようとしたのではないだろうか。

そうやって観ると、さすがに素晴らしい演技である。認知症という役柄でありながら、そこには一面的ではない様々な表情がある。時には重厚に、時には軽妙に、元スター俳優の心情を十二分に表現している。

そのハイライトは、やはり終盤の海辺での一人芝居だろう。「海辺のリア」というタイトルにあるように、シェークスピアの「リア王」を演じながら、伸子にリア王の娘であるコーディーリアの幻影を見る。そのシーンが圧巻だ。そして、そこから兆吉自身の人生に思いをはせていく。この場面だけでも観る価値がある映画だと思う。

同時に、彼を取り巻く伸子役の黒木華(こういう蓮っ葉な役は初めて見ました)、行男役の阿部寛ともに、舞台の実績があるだけに、こちらも素晴らしい演技である。伸子の海辺での独白、行男の車の中での長い一人芝居など、印象的な演劇風のシーンが用意されている。

彼らの様々な感情がぶつかり合い、揺れ動き、抑えきれない心情が爆発する様子を見ているうちに、大仰だったり説明的だったりするセリフも、それほど気にならなくなり、むしろこの映画にふさわしいものに思えてくるから不思議なものだ。

ラスト近くの車の中のシーンで、娘の由紀子の隣で兆吉は自分の人生を振り返る。それはまるで、仲代達矢自身の役者人生を語っているかのような錯覚さえ起こさせる。そういえば仲代達矢無名塾で多くの俳優を育ててきたが、兆吉も俳優養成所を主宰していたという設定になっている。そのあたりも、意識して両者の役者人生をリンクさせたのかもしれない。

それにしても、蛍の光とともに観客への感謝まで述べてしまう仲代、いや兆吉。まさか、これって仲代の引退作のつもり? などとあらぬことまで考えてしまったのだが、現在84歳ながら今後も演技し続けるようなので一安心。

これはやはり、そんな仲代達矢を観に行く映画といっていいだろう。そのぐらい見事な演技である。ラストの海の中の兆吉と伸子の姿が、いつまでも心に残る。

ところで、この映画の出演者は5人のみ。仲代達矢黒木華原田美枝子阿部寛に加えて、謎の運転手役の小林薫だ。その小林薫はセリフがほとんどないのだが、最後に原田美枝子演じる由紀子に向かってたったひと言だけ言い放つ。「悪党!」と。その絶妙なセリフに思わず笑ってしまったのである。

●今日の映画代、1000円。先日、TCGメンバーズ会員に入会した時にもらった割引券を使用。

痩せゆく男

少し前に、ロバート・デ・ニーロマシュー・マコノヒーのように、体型まで変えて役になりきる役者のことをチラリと書いて、それに引っ掛けて自分自身もダイエットに挑んでいることを報告したが、その後の経過はどうなったのか……。

今のところ約6キロの減量に成功している。それはそうだ。なんせ週に4~5日は一万歩以上のウォーキングをしているし、カロリー摂取量は以前の3分の2から半分程度だ。これで痩せないはずがない。

よく「食べなくても太るんですぅ~」などと訴える女子がいるが、ありゃあ絶対ウソですね。きっと知らず知らずのうちに、どこかで余分なカロリーを摂取しているのだろう。オレのようにガチにカロリーを減らして運動すれば、間違いなく痩せるはずである!!

などと偉そうに言っているが、いわゆる「勝てば官軍」的な図に乗った発言なので、どうぞお許しくださいませ。

振り返ってみると、減量成功のポイントは最初の数日にあったと思う。そこで一度極端に食事量を減らして胃を小さくしてしまったのだ。だから、今ではすぐに満腹になる。今日の昼なんて、マクドナルドのフィレオフィッシュ1個とアイスコーヒーでお腹いっぱいですから。これで合計357キロカロリー也。

だが、困ったことにダイエットというやつは引き際が難しい。始める前は「ベスト体重から6キロ多いから6キロ減らそう」などと気軽に言っていたが、そもそもそのベスト体重というのはどこから算出したのか。単に太る前の体重がそうだったというだけで、本当のベスト体重はもっと少ないのかもしれない。

などと考えると、「もう少し痩せたほうがよくねぇ?」という気がしてきて、この減量作戦を終了する踏ん切りがつかないのだ。だいぶお腹まわりがすっきりして、ズボンもユルユルになったものの、まだ少し贅肉が付着しているのも事実なわけで。さて、どうする?

というわけで、現在思案中ではあるのだが、とりあえずあと1か月ぐらい作戦を続行させてみようかとも思っているところである。さすがに「ダラス・バイヤーズクラブ」のマシュー・マコノヒーみたいに21キロも痩せませんけどね。

ちなみに今回のタイトルの「痩せゆく男」は、1996年のアメリカ映画「スティーヴン・キング/痩せゆく男」(Thinner)。スティーヴン・キングの同名小説を原作にしたホラー映画で、ジプシーの老女を轢き殺してしまった肥満体の弁護士が、事件を揉み消してもらったものの、あるジプシーの老人から「痩せてゆく」と言われて、その通りにどんどん痩せていくというお話。その後は、おぞましい展開が待っております。DVDが出ているので興味のある方はぜひ。

 

「武曲 MUKOKU」

「武曲 MUKOKU」
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2017年6月3日(土)午後1時40分より鑑賞(スクリーン2/E-06)。

剣道とは無縁である。高校の時に体育の授業で、柔道か剣道を選択しなければならないというワケのわからんシステムが存在し、何だか面倒くさそうなので剣道を避けて柔道を選んだのだが、結局、当時は持病があったため授業には参加しなかった。柔道着を着て同級生の柔道の授業をずーっと見学してするハメになり、悔し涙を流したオレなのだった。

というのは真っ赤なウソで、本当は柔道なんて全く興味がないし、投げられて痛い思いをするのは嫌なので、「超ラッキー!」と思っていたのだ。どうもスイマセン。

まあ、そんなわけで柔道のことさえよく知らいなオレが、剣道のことなんか知るはずもない。それでも、剣道や剣術を扱った映画の面白さなら理解できる。

「武曲 MUKOKU」(2017年 日本)は、芥川賞作家・藤沢周の小説「武曲」を「海炭市叙景」「私の男」の熊切和嘉監督が映画化した作品だ。

主人公は矢田部研吾(綾野剛)という青年。彼は子供の頃から、剣道の達人の父(小林薫)によるスパルタ教育を受けてきた。時には真剣まで持ち出す恐ろしい指導だ。一歩間違えば児童虐待である。そのぐらい厳しい指導だった。

そんな子供時代の厳しい稽古シーンから映画はスタートする。続いて成長した研吾と父との対決シーンへと転換するのだが、その転換の仕方が実にユニークだ。いかにも映像にこだわる熊切監督らしいシーンで、一見の価値がある。

その後は現在の研吾が描かれる。彼は、父をめぐるある事件がきっかけで剣を捨て、酒に溺れ、自堕落な生活を送っているのだった。いったい何が起きたのか?

て、最初のシーンでミエミエじゃないかぁ~。というわけで、ほとんどのメディアではそこを伏せているようだが、あえて言ってしまおう。だって、そうじゃないとこの映画の芯の部分が語れないのだから。

簡単にいえば、研吾は木刀で父と渡り合い、父を傷つけてしまったのである。そこにはお互いにいろいろな背景があるようなのだが、とにかくそれがトラウマとなって、研吾は生きる目的を失っているわけだ。

そんな研吾を心配しているのが師匠で禅僧の光邑(柄本明)。指導する高校の剣道部でたまたま見かけた羽田融(村上虹郎)に、天性の剣の才能があると見抜いた光邑は、研吾を立ち直らせるきっかけになるかもしれないと思い、彼のもとに融を送り込むのだった。

つまり、現代の鎌倉を舞台に、生きる気力を失った凄腕剣士と、天性の剣の才能を持つ少年との対決がメインとなる映画なのである。

とはいえ、オレは対決のはるか手前で引いてしまった。それというのも、研吾の自堕落ぶりがいかにもステレオタイプでつまらないのだ。髪ボサボサ、ひげ面というスタイルはともかく、酒浸りで暴れるシーンなど乱行ぶりがあまりにも陳腐すぎる。

もちろん、父に対する複雑な思いを抱え、様々な感情が行きつ戻りつしながら、ダメな生活から抜け出せないというのはよくわかるのだが、ならばこそ、もう少し工夫があっても良かったのではないか。「よし、元気になったぞ!」と思った後で、すぐにまた逆戻りするような、そんな厚みのある描き方をしてほしかった。

それでも熊切監督らしさはそれなりに発揮されている。過去の作品でも見られたように、現実ではない出来事を描いたり(主人公の幻想など)、ファンタジックなシーンやイメージショットを繰り出すなどして、映像の力で研吾の心の内を描き出していく。

同時に、彼と対決する融の屈折した心理も描かれる。彼はラップ好きの現代風の高校生でありながら、かつて台風の洪水で死にかけたことがあり、その時に味わった感覚が忘れられずにいる。ある意味、死の影に取りつかれたような少年なのだ。

やがて、そんな2人による対決が訪れる。それは嵐の中で行われる壮絶な果し合いだ。ここがこの映画の最大の見どころである。何しろ映像の迫力がハンパでない(ここでも鮮烈なイメージショットが登場する)。独特の音の使い方も緊張感を高めている。

そして、相当に訓練したであろう綾野剛村上虹郎の殺陣が見事である。彼らが全身から醸し出す不気味な殺気が、この映画を一気に盛り上げる。まさに魂と魂のぶつかり合いなのだ。このシーンだけでも観る価値はあるだろう。

その嵐の中の対決と対照的なのが、ラストの対決だ。それはあくまでも剣道の枠の中での静かな対決。2人がそれぞれトラウマを克服したことを体現した、印象的なシーンである。

ただし、小説の映画化ということもあってか、十分に描けていないところも目につく。研吾の終盤の変身はやや唐突。融の母親の立ち位置も曖昧でよくわからない。あちこちに出てくる禅の話も中途半端だ。

そんな中でも最大の謎は、前田敦子演じる研吾の恋人だろう。いったい彼女は何のために登場させたのか。このドラマに本当に必要だったのか。うーむ、とてもそうは思えないのだが。個人的に前田敦子は好きな部類の女優なので、なおさらもったいない気がする。

なんだかんだで、けっこうケチをつけてしまったわけだが、決闘シーンなど観応え十分のところもたくさんある映画だ。リアルな人間ドラマというよりは、マンガ的な要素も含んだ現代版剣術ドラマとして観るべき映画だろう。

●今日の映画代、1500円。ユナイテッド・シネマの会員料金。