映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「あなたの顔の前に」

「あなたの顔の前に」
2022年7月7日(木)新宿シネマカリテにて。午後1時50分より鑑賞(スクリーン2/A-5)

ホン・サンスらしさの中で見えたイ・ヘヨンの圧倒的な演技

ホン・サンス監督は、カンヌ国際映画祭ベルリン国際映画祭などで数々の賞を獲得している韓国の名匠。そしてかなりユニークな作風の監督である。1シーン1カットの長回しの映像、ズーム・イン、ズーム・アウトを多用するカメラワーク、登場人物の会話が中心の構成、背景で流れる流麗なクラシック音楽……。自分で撮影や編集なども担当して、かなりのペースで作品を送り出し続けている。

そんなホン・サンス監督が2021年に製作した映画が「あなたの顔の前に」だ。主人公は韓国の元女優サンオク(イ・ヘヨン)。長い間アメリカで暮らしていたが、突然韓国に帰国し、妹ジョンオク(チョ・ユニ)のもとを訪れる。だが、彼女は帰国の理由を語らず、様々な場所を訪れる。そして、出演オファーを申し出る映画監督と会うのだが……。

中年の元女優サンオクの1日の出来事を綴った映画だ。序盤は妹ジョンオクとの会話が中心。朝、妹の家で何気ない会話をしたのち、風光明媚なコーヒーショップでパンを食べながら、またしても何気ない会話をする。だが、その中で姉妹が母を亡くして以来疎遠になっており、お互いのことをよく知らずに困惑する姿が描かれる。

その後、2人は公園を訪れる。そこでサンオクは、写真撮影を依頼した通りがかりの人から「テレビで見たことがある。女優さんでしょう?」と言われる。映画が中心でテレビにはほとんど出たことがないサンオク。それなのによくわかったと感心しつつ、ジョンオクは「また復帰すれば?」と持ちかける。サンオクも満更でもなさそうだ。

続いて、2人はサンオクの甥っ子(つまりジョンオクの息子)が開いたトッポッギ店に立ち寄る。あいにく甥っ子は不在だったが、帰りしなに追いかけてきた彼から、サンオクはプレゼントをもらう。

その間、サンオクは自らが帰国した理由を明かさない。

サンオクはジョンオクと別れ、一人でタクシーに乗る。彼女に出演オファーを申し出た映画監督と会う約束があったのだ。だが、予定は変更となり、時間が空いてしまう。そこでサンオクは昔住んでいた家に行く。今は店になっており、懐かしそうにその家を散策し、店主の幼い娘としばしの交流をする。

そして、いよいよ予定していた映画監督との面会だ。ホン・サンスの映画には、酒を飲みながら会話をするシーンがしばしば出てくるが、この映画でもサンオクと映画監督のソン・ジェウォンが風変わりな居酒屋(店名は“小説”)で酒を飲みながら会話をする。

ソン監督はかつてサンオクが出演した作品を絶賛し、自作への出演を熱烈にオファーする。だが、ギターをつま弾きながらサンオクはある告白をする。この映画のタイトルが「あなたの顔の前に」である理由も、そこで明らかになる。

本作でも、1シーン1カットの長回し、ズーム・イン、ズーム・アウトの印象的な使い方など変わらずのホン・サンス節が炸裂している。会話中心の構成もいつも通り。それを通して、繊細にサンオクの心理を解き明かしていく。

まあ、彼女が抱えた秘密については、序盤の彼女の振る舞いから予想がついてしまうのだが、ミステリー的な魅力を持つ映画ではないので、あまり気にする必要はないだろう。

秘密を抱えたサンオクの内面には葛藤が渦巻き、ジョンオクとの会話の端々にもそれが影響する。一見、穏やかで平凡な会話の中に、さざ波が立つ。その後、彼女は思い出の地を巡り、過去と向き合い、映画監督との出会いでついにその真情を吐露するのだ。

このシーンのイ・ヘヨンの演技が素晴らしい。悲嘆の果てについに運命を受け入れ、それでも前を向こうとするサンオクの心理を余すころとなく伝えたその演技には、完全に心を奪われた。そして、その後、妹の家に戻った彼女が上げた笑い声には哀切が漂い、それを聞いているだけでたまらなくなってしまったのである。

イ・ヘヨンは韓国のベテラン女優。数々の有名監督の作品に出演してきた。ホン・サンス作品には初めての出演となるが、まさに圧巻の演技!

彼女の妹役のチョ・ユニ、映画監督役のクォン・ヘヒョ(ホン作品の常連)の存在感も見逃せない。ちなみに2人は実生活では夫婦らしい。

一人の女性の心の軌跡を見事に描き切っている。ホン・サンスらしさはあるものの、新境地と言ってもいい作品だろう。それを成立させているのは言うまでもなくイ・ヘヨンの演技。その点で、本作は紛いもなくイ・ヘヨンの映画なのだ。

◆「あなたの顔の前に」(IN FRONT OF YOUR FACE)
(2021年 韓国)(上映時間1時間25分)
監督・製作・脚本・撮影・編集・音楽:ホン・サンス
出演:イ・ヘヨン、チョ・ユニ、クォン・ヘヒョ、キム・セビョク、シン・ソクホ、ハ・ソングク、ソ・ヨンファ
*新宿シネマカリテほかにて公開中
ホームページ http://mimosafilms.com/hongsangsoo/


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