映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

PANTAよ、永遠に

6月4日渋谷ラ・ママ「P-FES3」の集合写真

ロックミュージシャンのPANTA頭脳警察)が7月7日の七夕の日に亡くなった。ここ数年の闘病生活、そして肺がんという発表があり、覚悟はしていたもののやっぱり残念というか、悲しいというか、どうにも言い表せない気持だ。せめて、現在製作中の頭脳警察のニューアルバムと、鈴木慶一とのユニットPKOのアルバムの完成を見届けてから旅立って欲しかった。

私とPANTAの音楽との出会いは20代に遡る。当時私はバンドがやりたくて、音楽雑誌のメンバー募集に応募しまくっていた。その中の一人に、錦糸町かどこかのキャバレーの照明係をやっているという男がいた。名前も忘れてしまったのでA君としておこう。A君はドラマーでPANTAのカバーをやりたいと語った。私はそれまでPANTAという名前は知っていたが、実際にどんな音楽をやっているのかよくわからなかった。

A君はPANTAの曲が入ったテープを渡してくれた。そこに入っていたのはアルバム「唇にスパーク」の収録曲だった。「すっげぇ、カッコいいポップロックじゃん!」。私はすっかりそのアルバムが気にいって、聞き狂ってしまった。「唇にスパーク」は「KISS」とともにスウィート路線と呼ばれるアルバムで、従来からのPANTAファンから総スカンを食ったというのは後になって知った話である。

A君は、あくまでもPANTAのソロの曲をやりたいということで、PANTA&HALのアルバムなども聴かせてくれた。その過程で、元々PANTA頭脳警察というバンドをやっていたことを知った。それからは頭脳警察の曲も聴くようになった。それは今まで私が聞いていた音楽とは明らかに異質なものだった。洋楽のロックとも違う。何より若造の私の心を湧きたたせ、背中を押してくれる力強い曲だったのだ。

A君とは確か1~2度セッションした記憶があるが、一緒にバンドをやることなく交流も途絶えてしまった。だが、PANTAの音楽は確実に私の中に残った。私のPANTA偏愛歴は、「唇にスパーク」から入り、ソロの楽曲を経て頭脳警察に至るという変則的なものだったわけだが、そこからはズブズブと沼にはまった。アルバムも出ればすぐに買ったし、コンサートにも足繁く通った。最初に行ったのは、当時渋谷にあったLIVE INだっただろうか。

その後20年近くバンド活動をしていた私にとってのお手本も、いつもPANTAだった。近年PANTAがよくライブを行っていた渋谷ラ・ママで、弾き語りで「夜明けまで離さない」を歌ったこともある。今思えば若気の至りで恥ずかしい限りだが。

90年の再結成頭脳警察も朝霞のキャンプドレイクから渋谷公会堂の最後のライブ、悪たれ小僧と題されたシークレットライブまで、行ける範囲のライブはすべて行った。あの頃、頭脳警察が激しく燃え盛っていたように、私も燃え盛っていた。転職を繰り返した挙句、理不尽な組織の論理に従えずフリーになったのもその頃だったと思う。

その後、再びソロに転身したPANTAも追いかけ続けた。何かのイベントのサイン会では(山田かまちか?)、サインをしてもらいとても感激したことを覚えている。「いつも応援してます!」という私の声に、「ありがとう」とにこやかに答えてくれた笑顔と、握手した時の手の温もりが今でも忘れられない。

というわけで、私にとってのPANTAはロックのスーパースターであり、少し離れたところから憧れをもって見つめる存在だったわけだが、一度だけ身近なところに立ったことがある。PANTAのコンサートに通い詰めるうちに、当時のファンクラブの編集長を務めていたS氏と知り合いになった私に、彼からある話が持ち込まれた。「頭脳警察のインタビュー本を書くから協力してくれないか?」というのだ。私は二つ返事で引き受けた。

斯くしてPANTAにまつわる様々な関係者へのインタビューが行われた。私はその内容を文字起こしし、それをもとにS氏が原稿を書くわけだ。そして、その中にはPANTAとTOSHIへのインタビューも含まれていた。

TOSHIへのインタビューは酒を飲みながら行われた。彼の気さくで優しい人柄がにじみ出るようなインタビューだった。PANTAへの信頼の強さも伺われた。

一方、PANTAのインタビューは、当時の事務所近くの蕎麦屋で行われた。強面のイメージがあるPANTAだが、実はとても優しいらしいという噂は、すでにその頃私の耳にも届いていた。だから、恐れる必要などなかったのだが、そこは私にとってのスーパースター。ひたすら緊張したのを覚えている。PANTAは丁寧に受け答えして、ひと通り話を終えると愛車の待つ表参道の街に消えていった。文句なしにカッコよかった!

河出書房新社から発刊されたその本に、協力者として私の名前が載っているのを見つけた時の喜びといったら、この上もないものだった。約20年前の出来事だ。

その後、PANTAのマネージメントは何度か変わり、ライブの主戦場も初台ドアーズ、渋谷ラ・ママなどへと変わり、ライブ形態もバンド、デュオ、ソロ、そして頭脳警察と変幻自在に変化していった。その間もずっと私はライブ会場に通った。個人的には江古田マーキー、代官山晴れたら空に豆まいてなど、PANTAのライブがなければ行かなかったであろう会場に足を運んだことが、とても良い思い出になっている。

そして、迎えた頭脳警察50周年。私は新たに製作されるドキュメンタリー映画クラウドファンディングに協力し、水族館劇場をはじめとするライブ会場にも通った。トークショー等のイベントにも足を運んだ。私の人生にとってPANTAはかけがいのない存在であり、PANTAの音楽が背中を押してくれなかったら、私はここにこうしていないだろう。それを実感する毎日だった。

50周年の一連のライブでは、ライブ後にはアフターパーティーが何度か開かれた。その席で映画好きの私はPANTAに、PANTAが音楽を担当した井上淳一監督の「誰がために憲法はある」が好調な動員である話をした。するとPANTAは「そうなんだよ。今まで売れない監督って言ってたけど取り消さなくちゃな」と笑顔で答えてくれた。本当に気さくな人だった。

2021年秋にPANTAが長期療養に入ると聞いた頃と前後して、私は慢性心不全となり心臓の手術が必要だと診断された。「ちょうどいいや。PANTAの療養が終わって、ライブ活動を再開した頃には自分も回復しているだろう」。そう前向きに捉えて手術に臨むことにした。PANTAはライブこそ遠ざかったものの、新年のあいさつ動画などで元気な姿を見せてくれていた。

私は翌年2月に手術をして、しばらくはリハビリの日々を送った。ようやくライブに足を運べるようになったのは、秋頃である。手術後、初めて行ったのは伊藤蘭のライブハウスツアー(なぜかキャンディーズ解散後41年ぶり!に歌手活動を再開した伊藤蘭に入れ込み、毎回ツアーにも通っているのだ)。

一方、PANTAは延期になっていた小日向由衣とのジョイントライブを行うなど、徐々に活動を再開していた。その小日向とのライブは残念ながら配信でしか見ることができなかったが、生のステージを目撃するのも間近に思えた。

そして、ついにその日はやってきた。昨年12月の「UNTI X’mas」である。そこでPANTAは久々に力強い歌声を聞かせてくれた。孫のコハルちゃんのドラムと共演するというサプライズもあった。2023年に向かって明るい希望が見えた気がした。

だが、その後PANTAduo MUSIC EXCHANGEでのライブを前に倒れ、2度に渡って危篤状態になった。それでも復帰への執念はすさまじく6月4日の「P-FES」に登場し、病気の前と変わらない、いや以前にも増して説得力のある歌声を聞かせてくれた。

続く6月14日の「夕刊フジ・ロック」では、さらにパワーアップし、「あばよ東京」ほかを力強く歌い上げてくれた。たとえ5年先、10年先は見通せなくても、少なくとも2~3年はこのまま健在ぶりを示してくれるのではないか。そう思った矢先の訃報だった。

私にとって永遠のスーパースターがこの世を去ってしまった。ここ数年両親を亡くすなど身近な人の死を体験した私は、死というものをどう捉えていいのか戸惑っている。もちろん人はみな死ぬ。だからこそ、今をしっかり生きなければならない。それは理屈ではわかるのだが、どうにも心が追い付いて行かない。

PANTAの死にあたっても、私は混乱し、彼のいない世の中がどういうものか想像できずにいる。だが、それでもPANTAの音楽は残る。それはきっと、これからも私の背中を押してくれるだろう。それを頼りに前を向きたい。

PANTAよ、ありがとう。
どうぞ安らかに。
そしてこれからもよろしく!
PANTAは永遠の存在なのだから。