映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「ファーザー」

「ファーザー」
2021年5月20日(木)Bunkamuraル・シネマにて。午前11時より鑑賞(ル・シネマ1/C-5)

認知症追体験させるアンソニー・ホプキンスの凄み

今年のアカデミー賞はほぼ順当な結果だったが、その中でも意外だったのが主演男優賞。故チャドウィック・ボーズマンが有力視されていたが、受賞したのはアンソニー・ホプキンス。「羊たちの沈黙」で受賞した第64回以来、実に29年ぶり2度目の栄冠となった。

その主演作「ファーザー」を鑑賞してきた。Bunkamuraル・シネマは席数半減、しかも他に上映予定だったTOHOシネマズシャンテが休館中とあって連日満席の状況だ。

日本を含め世界30カ国以上で上演された舞台劇「Le Pere 父」の映画化である(ちなみに日本版の主役は橋爪功)。舞台版を手掛け、これが映画監督デビューとなるフロリアン・ゼレールが監督を務めている。脚本は「危険な関係」の脚本家クリストファー・ハンプトンとゼレール監督が共同脚本を手がけ、アカデミー脚色賞を受賞した。

年老いた父と娘の物語である。ロンドンで一人暮らしをしている81歳のアンソニーアンソニー・ホプキンス)。ある日、娘のアン(オリヴィア・コールマン)が手配した介護人とトラブルを起こし、アンが駆けつける。そんな中、アンが恋人とパリに行くと聞いて落胆するアンソニー。しかし、次の瞬間、アンソニーの自宅にはアンと結婚して10年以上になるという見知らぬ男が現れる。そして、アンソニーの住む家は、彼のものではなくアンの家だというのだ。

むむ? 何じゃ、こりゃ。ワケがわからんぞ。

その後も変なことが続く。買い物から帰ってきたアンは、それまでとは違う見知らぬ女になっている。夫だという人物もいつの間にか消えてしまう。アンは新しいヘルパーを連れてくる。新しいヘルパーのローラ(イモージェン・プーツ)がやってくると、アンソニーは愛想良く振る舞ったり、急に不機嫌になったりと不安定な態度をとる。彼女はアンソニーのもう1人の娘ルーシーそっくりだという。だが、そのルーシーは姿を現さない。

何が何やらさっぱりである。これはミステリーなのか? スリラーなのか?

実はこれ、アンソニーの見た風景なのだ。アンソニー認知症が進行中。時間と記憶が混濁し、入り乱れ、錯覚する彼の世界をそのまま映像化しているのである。観客はわけのわからないままに、認知症の彼の世界を追体験させられる。これと似たようなアイデアは他の映画でもあったと思うが、ここまで徹底したのは初めてではないだろうか。

何せ演じているのがアンソニー・ホプキンスだ。役名もアンソニー。いや、凄い演技である。認知症に直面し戸惑う心中を余すところなく表現する。目の動きや細かな表情からそれがひしひしと伝わってくる。おまけに、アンソニーは感情の起伏が激しい。「自分はタップダンサーだ」などといってタップを披露するかと思えば、相手のちょっとしたしぐさが気にいらず、人が変わったように不機嫌で攻撃的になる。

混乱、悲しみ、恐怖、ユーモア、軽妙さ、悔恨などあらゆる感情を自在に行き来するその演技を観たら、誰でもオスカーをあげたくなるだろう。たとえ過去に受賞歴があるにしても。

娘役のオリヴィア・コールマンの深みのある演技も印象深い。父に対する愛情はもちろん、同時に憎しみも伝わってくる。控えめながら、こちらも名演である。その他の人物もこのドラマのミステリアスさを高めている。

もとは舞台劇だが映像的な妙味もある。たとえば、アンソニーとアンの一連の会話の中で、部屋の様子が少しずつ変化しているところ。あるいは、同じ場面が微妙に異なって繰り返されるところ。家の中をとらえた短いカットを随所に挿入するなど、様々な細かな映像テクニックを駆使している。映画は初めてというゼレール監督だが、とてもそうは思えない。

舞台になるのはほとんどが室内。アンがアンソニー精神科医のところに連れて行くのが、唯一の外出シーンだが、少しも飽きずに見入ってしまった。

アンソニーの趣味であるクラシック音楽も効果的に使われている。

いったい何が真実で、何が虚構なのか。最後にそれが明らかになる。だが、その場面でアンソニーの心は、すでにここではないどこかへ消え去っているのだ。

老いは誰にでもやって来る。誰しもアンソニーのように認知症になる可能性がある。その体験を細やかに描き出した本作は、静謐で美しいが、同時に観る者の心に重たいものを残すのである。

 

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◆「ファーザー」(THE FATHER)
(2020年 イギリス・フランス)(上映時間1時間37分)
監督:フロリアン・ゼレール
出演:アンソニー・ホプキンスオリヴィア・コールマン、マーク・ゲイティス、ルーファス・シーウェルイモージェン・プーツオリヴィア・ウィリアムズ
Bunkamuraル・シネマほかにて全国公開中
ホームページ https://thefather.jp/