映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「君の名前で僕を呼んで」

君の名前で僕を呼んで
新宿武蔵野館にて。2018年5月23日(水)午後7時40分より鑑賞(スクリーン1/B-8)。

新宿武蔵野館の客席に足を踏み入れたら、そこは女の園だった……。

というのは大げさでもなんでもなく、そのぐらい女性が多くてほぼ9割が女性客。上映された映画は「君の名前で僕を呼んで」(CALL ME BY YOUR NAME)(2017年 イタリア・フランス・ブラジル・アメリカ)。タイプの違う2人のイケメン君が恋愛を繰り広げるドラマなのだ。そりゃあ、女性比率が多くなるはずである。

舞台は1983年の夏の北イタリア。両親とともに避暑地にやって来た17歳のエリオ(ティモシー・シャラメ)は、大学教授である父(マイケル・スタールバーグ)がインターンとして招いた24歳のアメリカ人大学院生オリヴァー(アーミー・ハマー)と出会う。自信にあふれ、自由奔放に振る舞うオリヴァーに最初は反発するエリオだが、次第に特別な思いを抱くようになっていく。

少年から大人になりつつある若者と、年上の青年の同性愛を描いてはいるが、それをことさらに強調するようなことはしない。今から30年以上も前の話だけに、周囲の偏見などもありそうだが、そうしたものとの戦いなども登場しない。あくまでも、ごく普通の恋愛ドラマとして描いているのが、この映画の特徴だ。

初めて会った相手のふるまいに苛立ち反発するものの、交流を重ねるうちに次第に惹かれていくというのも、よくある恋愛のパターン。接近しつつ、戸惑い、それでもやっぱり・・・といった恋の心理の揺れ動きが繊細に描かれている。

その媒介として、キラキラと輝く夏の陽光の中、一緒に泳いだり、自転車で街を散策したり、本を読んだり、音楽を楽しんだりといった要素を巧みに織り込んでいる。エリオの父が考古学者だという設定から、古代の彫刻なども2人の恋愛を盛り上げる小道具として効果的に使われる。

一度はオリヴァーへの思いを断ち切るかのように、友達の女の子と親密になるエリオ。だが、やがてオリヴァーと結ばれる。タイトルの「君の名前で僕を呼んで」とは、その時にオリヴァーがエリオに言う言葉。2人が一つになったことを如実に物語る言葉だが、これはやはり同性愛ならでは。だって、男の子と女の子がお互いの名前で呼び合ったら、それはほとんどギャグの世界である。

さて、出会いがあれば別れもあるということで、やがてオリヴァーがアメリカに帰る日が来る。その時に父がエリオに話すシーンは感動的だ。けっして同性愛を否定したりせず、自らの経験も込めて優しく受け止める。結局のところ、マイケル・スタールバーグ演じる父ちゃんが、この映画で一番の儲け役かもしれない。

ラストの後日談も印象深い。しばらくのちに、エリオはオリヴァーからある事実を告げられる。映画はエンドロールとともに、それを聞いたエリオの表情を延々と映し出す。胸に去来する様々な思いを、その表情だけで示すエリオ役のティモシー・シャラメが素晴らしい。間違いなく、今後の活躍が期待される新星だ。

オリヴァー役のアーミー・ハマーの安定した演技も見もの。年齢もタイプも違うこの2人のイケメン君が観られるのだから、女性ファンにとって目の保養になること請け合い。

際どい性的描写も多い映画だが、けっして下品にならないのは、「日の名残り」「眺めのいい部屋」の名匠ジェームズ・アイヴォリー監督が脚本を執筆したせいだろう(原作はアンドレ・アシマンの小説)。アイヴォリー監督は、この作品で第90回アカデミー脚色賞を受賞した。

いずれにしても、同性愛という要素に関係なく、とてもていねいに作られた恋愛映画である。瑞々しくて切なさにあふれている。女性に限らず、恋愛映画が好きな方はぜひどうぞ。

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◆「君の名前で僕を呼んで」(CALL ME BY YOUR NAME)
(2017年 イタリア・フランス・ブラジル・アメリカ)(上映時間2時間12分)
監督:ルカ・グァダニーノ
出演:アーミー・ハマーティモシー・シャラメマイケル・スタールバーグ、アミラ・カサール、エステール・ガレル、ヴィクトワール・デュボワ
新宿武蔵野館ほかにて公開中
ホームページ http://cmbyn-movie.jp/

「モリのいる場所」

モリのいる場所
シネ・リーブル池袋にて。2018年5月20日(日)午後2時10分より鑑賞(スクリーン1/G-6)。

絵画にはかなり疎い。まあ、ピカソとか、ゴッホとか、モネとか、世界の名だたる巨匠の画家ぐらいは知っているが、せいぜいその程度である。というわけで、日本の熊谷守一という画家についてもまったく知らなかった。1977年に97歳で死去し、2017年に没後40年を迎え、再び注目を集める伝説の画家だそうだ。

その熊谷守一(モリ)とその妻・秀子を描いたドラマが「モリのいる場所」(2017年 日本)だ。といってもよくある伝記映画ではない。モリの晩年のある一日に焦点を当て、それを通してモリの人となりと秀子との夫婦愛を綴ったドラマである。

昭和49年の東京・池袋が舞台。主人公は94歳になる画家のモリ(山崎努)と、結婚生活52年の妻・秀子(樹木希林)。親戚で家事を手伝う秀子(池谷のぶえ)とともに、彼らは穏やかな毎日を送っている。

この映画の監督・脚本の沖田修一といえば、「南極料理人」「横道世之介」などが代表作にあげられる。だが、個人的には2014年の「滝を見にいく」もはずせない作品だ。オーディションで選ばれた演技経験のない7人の女性を主演に据えたこの作品は、タイトル通りに彼女たちが幻の滝を見にいくドラマ。全体にオフビートの笑いが満載で、遭難という劇的な展開さえ、拍子抜けするようなゆるい笑いで包んでいる。

本作もオフビートな笑いが満載だ。その原因は主人公のモリのユニークな言動にある。毎朝の朝食では、なぜかおかずをハサミで切って食べようとする。朝食後は庭に出て植物や小さな虫などをつぶさに観察する。それも普通の観察ではない。地べたに寝転がってアリの行動を至近距離から観察したりするのだ。それらはモリの絵のモチーフになる。そうやって、モリは30年間自宅から出ることなく過ごしているのである。

映画の序盤、モリのところに旅館の看板を書いてもらいたいという主人が信州から来る。新幹線の存在もよく理解していないらしいモリは、「わざわざ信州から大変でしょう」と同情して依頼を引き受ける。だが、彼が書いたのは看板の文字ではなく、自分の好きな「無一物」という字だったのだ。

こんなふうにモリは自由奔放な人間だ。金にも名誉にも何にもとらわれない。映画の冒頭でモリの絵を見た天皇が、「これは何歳の子どもの絵ですか?」と尋ねるシーンがある。まさに言い得て妙だ。本当に子どものように、思いのままに自由に行動しているのである。そうした彼の言動から、自然にゆるい笑いが生まれてくるのだ。

そんなモリと絶妙のコンビを見せるのが妻の秀子である。モリが何を言おうと、どう行動しようと、飄々と受け止めていく。モリの自由奔放さを陰で支えつつ、すべてを好き勝手にさせることはない。そんな2人のやり取りが実に微笑ましくて楽しい。2人で行う五目並べがいい味を出している。

そんな2人に吸い寄せられるように、家には毎日のようにたくさんの来客が訪れる。モリを連日のように撮影する写真家と助手、図々しい画商、隣に暮らす佐伯さん夫婦、近所の人々などなど。なかには得体の知れない男まで集う。モリと秀子とそれらの来訪者たちが、様々な化学変化を起こして、そこに独特の世界が生まれているのである。

そもそもモリのような生き方を見れば、誰しも「自分にはあんなことはできない」と思いつつも、心のどこかで「あんなふうに自由に生きられたらなぁ~」という憧れがあるのではないだろうか。それが、なおさら来訪者たちを惹きつけるのに違いない。

そこはまるで小宇宙のような世界だ。ある種の理想郷といってもいいかもしれない。草花や虫などの自然の風景、家の中の歴史を感じさせる様々なアイテム、光と影を効果的に使った映像などが、それを見事に表現している。

その魅力的な世界の中で、沖田監督は自由かつ大胆な試みをしている。あまりバラすとつまらないので一つだけ紹介するが、家に集った人々がザ・ドリフターズの話題で盛り上がった後で、天井から突然「あるもの」が降ってくる場面がある。不条理極まりない場面だが、かつてのドリフのネタを知っているものなら大爆笑するに違いない。

さて、そんなモリたちの家にも危機が訪れる。向かいに建設中のマンションによって庭の日当たりが奪われてしまうのだ。はたして、モリと秀子はどうするのか。

よくあるドラマなら、そこから自然破壊の問題や経済優先の時代の風潮に言及したりするはずだ。だが、この映画ではその方向性は取らない。マンション工事の作業員とモリの意外な交流を描き、さらにモリのある決意を示す。そこでは、以前に家にいた得体の知れない男に、ファンタジックな役割を与えるという離れ業までやってのける。

そのはてに示されるのは、モリと秀子の愛の再確認である。結婚生活52年の2人には、かなりの年の差がある。そして、どうやら2人は子供を早いうちに亡くしているらしい。そうした過去の歴史などはチラリと断片的に伝えるだけで、それ以上の追求はしない。それでも、2人の間に流れる空気によって、そこに強い絆が見えてくるのだ。このあたりの描き方も、いかにも理想郷の中での出来事にふさわしい展開といえるかもしれない。

こうしてちょっとファンタジックな魅力的な世界を構築した沖田監督だが、それを可能にしているのが山崎努樹木希林の演技である。意外にも初共演という2人だが、その掛け合いはまさに熟練の技だ。自由奔放かつ大胆にモリを演じる山崎努、それを懐の深い演技で受け止める樹木希林。この2人がいるだけで、映画は破格の魅力を漂わせるのである。

何かと気ぜわしい毎日。モリと秀子たちが構築する、思わず脱力してしまうような独特の世界に浸ってみるのも悪くはない。映画館を出る頃には、多くの観客が穏やかで優しい心持ちになっているのではないだろうか。

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◆「モリのいる場所
(2017年 日本)(上映時間1時間39分)
監督・脚本:沖田修一
出演:山崎努樹木希林加瀬亮吉村界人光石研青木崇高吹越満池谷のぶえ、きたろう、林与一三上博史
シネスイッチ銀座ほかにて全国公開中
ホームページ http://mori-movie.com/

 

「菊とギロチン」のこと・・・

本日は映画の感想ではなく、PRをほんの少しだけ…。

一昨年の秋に公開された、こうの史代原作、片渕須直監督・脚本の「この世界の片隅に」で悔しかったのは、ラストに登場するおびただしい数の人名を見た時だ。クラウドファンディングで、この映画の製作費を資金提供した人たちの名前である。こんなに素晴らしい映画に協力できるのなら、貧乏なオレでも多少の金はなんとかひねり出したのに・・・。そんなことを思ったのだが、もはや後の祭りである。

「今度こういう機会があれば、ぜひ参加したい」と思っていた時に知ったのが、瀬々敬久監督の映画「菊とギロチン」が製作資金を募集しているという話だ。瀬々監督は、4時間を越える大作「ヘヴンズ ストーリー」、一昨年に話題になった「64-ロクヨン」など、素晴らしい作品がたくさんある監督だ。しかも、オレは過去に、あるつながりで何度かお話をさせてもらったことがあるのだ(ていうか、一緒に酒を飲ませてもらったのだが)。

その瀬々監督が30年以上前から構想していた映画が、ついに実現に向けて動き出したという。これはぜひとも協力せねば、と思ったものの、さすがにウン百万も、ウン十万もポンと出すような経済的余裕はオレにはまったくない。それでも何とか貧乏人の悪あがきで、数万円だけひねり出して提供させてもらった。その後、無事に作品は完成。オレの数万円が多少は役に立ったかと思えば、実に感慨深いものである。

しか~し! 「7月7日テアトル新宿ほかで公開。全国順次公開」という予定こそ決まったが、今度は宣伝費が足りないらしい。というわけで、制作者たちは現在クラウトファンディングで宣伝費を募集中だ。300万円の目標に対して、本日現在230万円弱というところであと一歩のようなので、興味のある方はぜひチェックを! 本作がどんな作品なのか、製作の経緯なども詳しく書いてあるので読み物としても面白いので。

 

motion-gallery.net

 

 

「孤狼の血」

孤狼の血
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2018年5月15日(火)午前10時55分より鑑賞(スクリーン2/E-9)。

深作欣二監督の「仁義なき戦い」をはじめとする東映ヤクザ映画は、日本映画界に一時代を画した作品群だが、実のところオレはあんまり接点がない。時代が微妙にズレていることもあるが、そもそもヤクザが嫌いだからだ。たいていのヤクザは偉そうにしている。偉そうにする奴は、政治家だろうが、ヤクザだろうが、ラーメン屋のオッサンだろうが大嫌いなのだ。

とはいえ、多少は観た作品もあるし、何となくその雰囲気は理解しているつもりだ。だから、「孤狼の血」(2017年 日本)の予告編を観た時には、「これって、東映ヤクザ映画そのまんまだろッ!」と思わずツッコミを入れてしまったのである。

「凶悪」「日本で一番悪い奴ら」の白石和彌監督が、柚月裕子の小説を映画化した作品だ。どうやら原作自体が「仁義なき戦い」を意識して書かれたらしいので、東映ヤクザ映画の匂いがプンプンするのも当然だろう。

時代は暴力団対策法成立直前の昭和63年。広島・呉原(架空の街です)では、地場の暴力団「尾谷組」と、広島の巨大組織「五十子会」をバックに進出してきた新興組織「加古村組」の抗争の火種がくすぶり始めていた。そんな中、加古村組関連の金融会社社員が失踪する。呉原東署に赴任してきた新人刑事の日岡秀一(松坂桃李)は、暴力団との癒着を噂されるベテラン刑事・大上章吾(役所広司)とともに事件の捜査にあたるのだが……。

この映画、暴力シーンが満載だ。白石監督の作品には、過激なバイオレンス描写が多いのだが、今回の冒頭の養豚場のリンチのシーンは、その中でも過激さではピカイチかもしれない。口にするのもおぞましいほどの暴力に満ちている。もしかしたら、正視できない観客もいるかもしれない。

それ以降も、何度も暴力シーンが登場する。あまりに激しい暴力で笑ってしまうところもあるのだが(北野武監督の「アウトレイジ」シリーズもそうだったが)、かなりのエグさである。

そして、東映ヤクザ映画との共通性を予感したオレの見立ては間違っていなかった。始まってすぐにそれがわかる。時代がかったナレーションといい、ちょっと古さを感じさせる色味の映像といい、ひと目見ただけでは、かつての東映ヤクザ映画と区別がつかないかもしれない。あきらかに東映ヤクザ映画にオマージュを捧げた作品だろう。

ただし、ヤクザ映画につきもののヤクザ同士の抗争は、あくまでもドラマの背景でしかない。ドラマの柱に据えられているのは警察ドラマだ。正義感に燃える若手刑事・日岡とベテラン悪徳刑事・大上がコンビを組み、数々の修羅場をくぐるうちに日岡が変化していく。ハリウッド映画などでも、しばしば登場する定番ストーリーである。さらに、そこに警察内部の腐敗も絡んでくる。

この映画の最大の魅力はキャストだろう。大上は外見も行動も、ヤクザ以上にヤクザのようだ。「警察じゃけ、何をしてもええんじゃ」が口癖で、不法なことも平気でする。一歩間違えば噓くさい存在になるのだが、それを役所広司が演じているから説得力がある。ただのワルではなく、心の奥底に何かがあることが伝わってくる演技だ。

一方、彼に翻弄される日岡を演じる松坂桃李も、戸惑いや怒り、苦悩などを繊細に表現する演技だった。おかげで、彼の変化が自然に受け止められる。

それ以外にも、音尾琢真滝藤賢一田口トモロヲ中村獅童竹野内豊ピエール瀧石橋蓮司江口洋介らがキャラの立った演技を見せる。真木よう子阿部純子MEGUMIらの女優陣も存在感たっぷりだ。

誤解を恐れずに言えば、今回出演した俳優たちは、嬉々として「仁義なき戦い」ごっこを楽しんでいたのではないか。そのぐらい全員がノリノリの演技を見せている。

このドラマのストーリーのミソは、なぜ広島大出身のエリートのはずの日岡が、大上のような暴力団との癒着を噂されるような刑事とコンビを組んだかにある。実は、その裏にはある特別な任務が存在していたのだ。そこからこの映画のサスペンスとしてのスリルが生まれてくる。

ドラマの転機は大上の失踪によって訪れる。大上は自らも語っていたように、微妙な綱渡りをする曲芸師のような日々を送っていた。そのバランスが崩れた時に、事態は大きく動くのだ。

終盤になって、大上の意外な素顔が浮かび上がる。そこから見えてくるのは、警察組織の論理と個人の思いのぶつかり合いだ。それは日岡にも大きな影響を与える。このあたりからは、ややお涙頂戴的なセンチメンタルな世界が展開するのだが、それも含めてきっちりと観客を楽しませる工夫が見られる。

大上の思いを受けた日岡は、ラストで彼なりのやり方で落とし前をつけようとする。それは観客の感情を揺さぶるが、同時に危うさも感じさせる行動だ。はたして日岡はどうなるのか。彼の今後につい思いを馳せてしまうのである。

東映ヤクザ映画的な外観にとらわれていると、この映画の本質を見失うかもしれない。警察ドラマとしても、若者の成長のドラマとしても、シンプルに面白い映画だと思う。白石監督の映画の中でも、エンタメとしての完成度が高いように思えた。

最近の日本映画には珍しく濃厚でスリルに満ちた作品なのは間違いない。「東映ヤクザ映画」というイメージにとらわれずに、一度観てみる価値はあるかもしれない。ただし、バイオレンス描写が苦手な人は注意してネ。

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◆「孤狼の血
(2017年 日本)(上映時間2時間6分)
監督:白石和彌
出演:役所広司松坂桃李真木よう子音尾琢真阿部純子滝藤賢一矢島健一田口トモロヲ嶋田久作町田マリー伊吹吾郎MEGUMI中村獅童竹野内豊ピエール瀧石橋蓮司江口洋介
*丸の内TOEIほかにて全国公開中
ホームページ http://www.korou.jp/

「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」

「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」
ヒューマントラストシネマ渋谷にて。2018年5月12日(土)午前11時50分より鑑賞(スクリーン2/G-9)。

貧富の格差は、いまや日本も含めて世界的な社会問題になっている。それを象徴するような場所が、アメリカのフロリダにあるディズニー・ワールド周辺だ。言わずと知れた世界的な娯楽施設ディズニー・ワールドには、多くの観光客が押し寄せてくる。だが、その外側には、ホームレスすれすれの低所得者層の人々が暮らす安モーテルが立ち並んでいる。

そんな場所を舞台に、貧困層の日常を描いた作品が「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」(THE FLORIDA PROJECT)(2017年 アメリカ)だ。ショーン・ベイカー監督は、全編iPhoneで撮影した前作「タンジェリン」が高く評価されたとのこと(スイマセン。未見です)。

貧困層の人々の日常を描いたというと、何やら悲惨な話に思えるかもしれない。だが、実際はまったく違う。むしろそれはキラキラと輝く日常だ。どうしてそうなるかといえば、6歳の少女を中心とした子どもたちの目線で描いているからだ。彼らの日常は、大人たちの苦悩とは無縁の生命力に満ちたものなのである。

フロリダ・ディズニーワールドのすぐ側にある安モーテルで、その日暮らしの生活を送るシングルマザーのヘイリー(ブリア・ヴィネイト)と6歳の娘ムーニー(ブルックリン・キンバリー・プリンス)。ヘイリーは家賃の支払いに汲々としているが、ムーニーは同じモーテルに暮らす子どもたちと一緒に、冒険に満ちた日々を送っている。

映画の冒頭から、ムーニーと子どもたちが躍動する。彼らは車に唾を飛ばして持ち主を怒らせる。いたずら好きの悪ガキなのだ。だが、そんなイタズラや罰としてやらされる車の掃除さえ、彼らにとってはワクワクの冒険だ。そのワクワク感が観客にも伝染する。

もちろんムーニーたちの生活は苦しい。食料はボランティア団体による配給に頼ったり、レストランの残り物を分けてもらう。はては道行く人から小銭をめぐんでもらい、それでアイスを買ったりする。だが、そんなことさえ、彼らにとっては輝く毎日の楽しいひと時なのだ。

そうやって、日常の些細なことから楽しみを見つけていく子供たちの姿を、手持ちカメラを多用しながらドキュメンタリータッチで生き生きと映し出すベイカー監督。いかにもフロリダらしいパステルカラーを多用した映像も、彼らの日常をますます輝かせる効果を発揮している。ムーニーたちが暮らすモーテルの外装も紫色。おまけに、その名が「マジック・キャッスル」だというのが、何とも皮肉である。

それにしても、ムーニーを演じるブルックリン・キンバリー・プリンスの演技ときたら。どこまで意識して演技しているのかはわからないが、反則級のカワイらしさ、健気さ、そしてたくましさである。その他の子どもたちも含めて、最近の子役の中では出色の存在感だろう。

そんな子どもたちを見守るモーテルの管理人ボビー(ウィレム・デフォー)の存在感も見逃せない。子どもたちのやんちゃぶりに手を焼きながらも、時には厳しく、時には優しく彼らを見守る。人情味にあふれた管理人だ。

特に印象的なのが、変質者らしき男が子供たちに近づいた時の彼の態度。この映画で唯一といっていいほどの恐い態度で、その男を脅し、懲らしめる。いかに彼が、子どもたちを愛しているかが自然に伝わってくるシーンだ。

ボビーを演じるウィレム・デフォーの包容力ある演技が素晴らしい。ムーニーの母親役を演じるブリア・ヴィネイトは、ベイカー監督がインスタで発掘したという新人。彼女とブルックリン・キンバリー・プリンスの初々しく一生懸命な演技と、デフォーのいぶし銀の演技が絶妙にブレンドされて芳醇な香りを漂わせている。

ドラマが進むにつれて、子供たちのキラキラした日常の隙間から、格差問題を象徴するような場面が、チラリチラリと顔を出してくる。安モーテルと対照的な豪華なリゾート施設、ひっきりなしに飛んでくる観光用のヘリコプター、ド派手な装飾の土産物店、廃虚となった空き家(そこで、ある事件が起きるのだが)、動物たちがいる草原……。

終盤は、ムーニーたちの生活に大きな影が差し込んでくる。失業中のヘイリーは贋物のブランド品をお金持ちに売りつけ、さらに自らの体も売っていたのだが、その生活もついに行き詰まる。

こうした貧困層の転落ぶりは、けっして珍しい展開ではない。しかし、厳しい現実を突きつけられ、もはや無邪気なだけではいられないことを悟ったムーニーの思いが、観客の心を直撃する。初めて感情をあらわにした彼女の痛切な表情がたまらない。その少し前のホテルのバイキングでの幸せそうな表情が伏線になって、余計に胸が締め付けられるのだ。

いったいムーニーは、どこへ向かうのだろうか。ラストにはあっと驚く仕掛けが用意されている(それが何かは伏せるがヒントは「魔法の国」)。明確なハッピーエンドではないし、観客の想像力に委ねた余白のあるラストだ。

最初にこのシーンを観た時には、ファンタジーの世界への現実逃避にも思えたのだが、そのうちにそうではない気がしてきた。あれはムーニーにとっての一種の通過儀礼であり、その先には無限の可能性が広がっているのではないか。あの場所から出た時に、彼女は大人への階段を確実に一歩昇っているに違いない。個人的には、ムーニーの成長と未来の可能性を感じさせる味わい深いラストだった。

子どもたちのキラキラした日常を生き生きと描き、その背景にある格差問題をあぶりだし、さらに彼らのたくましさと可能性もしっかりと刻み付けた佳作だと思う。ブルックリン・キンバリー・プリンスをはじめ子役たちの熱演だけでも、十分に元の取れる映画だ。

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◆「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」(THE FLORIDA PROJECT)
(2017年 アメリカ)(上映時間1時間52分)
監督・脚本・編集:ショーン・ベイカー
出演:ウィレム・デフォー、ブルックリン・キンバリー・プリンス、ブリア・ヴィネイト、ヴァレリア・コット、クリストファー・リヴェラ、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ
*新宿バルト9ほかにて全国公開中
ホームページ http://floridaproject.net/

「モリーズ・ゲーム」

モリーズ・ゲーム
ユナイテッド・シネマとしまえんにて。2018年5月11日(金)午後2時40分より鑑賞(スクリーン7/F-8)。

「よ! 男前」
女性でも、そう声をかけたくなるようなカッコいい人がいるものだ。最近の映画では、「女神の見えざる手」でジェシカ・チャステインが演じた剛腕ロビイストなどは、まさにそうした女性だった。

そのジェシカ・チャステインが、再びカッコいい女を演じたのが「モリーズ・ゲーム」(MOLLY’S GAME)(2017年 アメリカ)である。「ソーシャル・ネットワーク」「スティーブ・ジョブズ」などの脚本家アーロン・ソーキンが初めて監督を務めた映画(もちろん脚本も)。実話をもとに、ある一人の女性の波乱の半生を描いている。

最初に登場するのはスキーの大会。モーグルのトップ選手として活躍していたモリー・ブルーム(ジェシカ・チャステイン)が、五輪の国内予選に出場するのだ。厳しい指導で彼女を鍛えた父(ケヴィン・コスナー)の見守る中、スタートするモリー。幼い頃に背骨の手術をしながら奇跡の復帰を果たした彼女の視線の先には、もちろん五輪のメダルがある。だが、ちょっとしたアクシデントでモリーは転倒し、重傷を負ってしまう。

続いて場面は12年後に移る。なんとモリーFBIによって逮捕されてしまうのだ。いったい何があったのか。そこに至るまでの過去の出来事がモリーの独白によって描かれる。同時に、逮捕から裁判に至るまでのリアルタイムのドラマが、彼女と弁護士(イドリス・エルバ)との関係を中心に描かれる。

例の事故によって選手生命を絶たれたモリーは、学業も優秀だったことから、ロースクールへ進学して法律家を目指すことを考える。その前に1年間の休暇をとろうとロサンゼルスにやってきたことが、彼女の人生を大きく変える。

現地のお金持ちたちが湯水のごとく金を使う現場を目撃するモリー。そんな中、ひょんなことからハリウッドスターやビジネス界の大物が高額を賭けて遊ぶ闇ポーカー・ゲームで、彼女はアシスタントを経験するようになる。その経験をもとに、やがてモリーは自ら高額闇ポーカーの経営者となる。

こうして闇ポーカーで成り上がるモリーの姿がテンポよく描かれる回想パート。そこで特徴的なのが、まるで洪水のように飛び交う大量のセリフだ。普通、これだけセリフが多いと観ている方は消化不良を起こしがちなのだが、リズミカルで気のきいたセリフばかりなのでほとんど違和感を感じない。むしろ、心地よささえ感じてしまうから不思議なものだ。

特に面白かったのが、モリーがあの手この手で闇ポーカーを繁盛させるところ。そのあまりにも巧妙な手口は、やり手のビジネスマンを連想させる。観ているうちに、「オレも闇ポーカーが運営できんじゃね?」と思ってしまいそうなほど説得力満点だ(もちろんそんなことしませんけど)。

同時に、そこに出入りする様々な人々の人間模様も浮かび上がる。ハリウッドスター、ロックスター、映画監督、ラッパー、ボクサー……。ポーカーがヘタなくせに熱くなるヤツや、連戦連勝だったものの一度負けたのをきっかけに転落する男など、それぞれの勝負と人生が怪しくクロスして様々な陰影を生み出していくのである。

何しろポーカーは騙し合いのゲームだから、そこに人間心理の微妙なアヤが見え隠れするのも当然かもしれない。そんなポーカーの魅力と危険性が自然に伝わってくるのも、この映画の面白いところだ。

それにしても、モリーを演じるジェシカ・チャステインのカッコよさよ! 「女神の見えざる手」同様に、猪突猛進型の強い女性を巧みに演じている。自分を安く売ることなく、しなやかにしたたかに成功を勝ち取っていくモリー。その凛々しさが観客の心を躍らせる。

だが、そんなモリーにもピンチが訪れる。ロスで仕事ができなくなった彼女は、今度はニューヨークに移って、闇ポーカーを始める。そこでもあの手この手で成り上がっていくのだが、次第に運命の歯車が狂いだす。薬に手を出し、ポーカーで手数料を取るようになり(そうすると違法になるらしい)、ロシアンマフィアが客になるに至って彼女の転落が決定的になる。

だが、FBIに逮捕された後も彼女はひるまない。当局は、罪を軽くする代わりに顧客の情報を提供するように要求するのだが、モリーはそれを拒否する。彼女にとって闇ポーカーは、たまたま足を踏み入れた世界であり、夢や思い入れとは無縁の世界だろう。おまけに後半ではそれによって危険な目にまであってしまう。それでも自分の手で他人の人生を翻弄するようなことは、絶対にしたくなかったに違いない。自分にとって譲れない一線を守るその潔い姿勢が、またしても彼女をカッコよく見せるのである。

その一件を通して、当初はお互いにギクシャクしていたモリーと弁護士との間に、心の通い合いのようなものも見えてくる。2人の掛け合いの中で、アーサー・ミラーの戯曲「るつぼ」を効果的に使うあたりも、なかなか凝った脚本だ。弁護士を演じるイドリス・エルバの懐の深い演技も印象深い。

その一方で、モリーと父親との葛藤が十分に描き切れていないように思えたのだが、それに関してはラスト近くに大きなヤマ場が用意されていた。2人の再会を通して、モリーの父親に対するわだかまりの原因が明らかにされ、彼女の行動の源泉が見えてくる。強い女性に見えたモリーにも弱さは存在していたのだ。それが浮き彫りになることで、ますます彼女が魅力的に見えてくる。

ラストの裁判の結末については、ちょっと出来過ぎの感がある(いくら実話がベースとはいえ)。それでも、そのことをきっかけに彼女の新たな人生を示唆したラストが心地よい。モリーの人生は、スキー場で事故に遭ったあの時に戻り、そこから再スタートを切るのである。今度こそは、行きがかりではなく、主体的に選択した進路に足を踏み出すべく。

マーク・ザッカーバーグスティーブ・ジョブズなど超個性的な人物を描いてきただけに、アーロン・ソーキンの脚本が素晴らしい。が、それ以上に目を引くのがやっぱりジェシカ・チャステイン。「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」の動物園長の妻のような今回とは違った役どころも演じるだけに、今後の活躍がますます楽しみになった。

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◆「モリーズ・ゲーム」(MOLLY’S GAME)
(2017年 アメリカ)(上映時間2時間20分)
監督:アーロン・ソーキン
出演:ジェシカ・チャステインイドリス・エルバケヴィン・コスナーマイケル・セラ、ジェレミー・ストロング、クリス・オダウド、ビル・キャンプ
*TOHOシネマズ日比谷ほかにて全国公開中
ホームページ http://mollysgame.jp/

 

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「サバービコン 仮面を被った街」

「サバービコン 仮面を被った街」
TOHOシネマズ新宿にて。2018年5月9日(水)午前9時50分より鑑賞(スクリーン11/D-8)。

理想と現実は別物だ。あまりにも理想的すぎる物には裏があるに決まっている。と思うのは、オレがひねくれているせいばかりではないだろう。そんな理想の裏にある闇を描いた映画が「サバービコン 仮面を被った街」(SUBURBICON)(2017年 アメリカ)である。

映画監督としても活躍する俳優ジョージ・クルーニーの監督最新作。脚本は「ノーカントリー」「ファーゴ」など数々の監督作でおなじみのジョエル&イーサン・コーエン兄弟が担当。ジョージ・クルーニーらも共同脚本として加わっている。

舞台は1950年代のアメリカのサバービコン。この街がいかに理想的な街であるかが、冒頭に軽快かつ朗らかに紹介される。最初に登場する郵便屋の満面の笑顔が、この街の素晴らしさを体現しているようだ。

だが、その直後、彼の笑顔は凍りつく。郵便を届けた先の住人は黒人だったのだ。この街は完全な白人だけのコミュニティー。そこに初めて黒人が移住してきたのである。その日から、周囲はにわかに騒然となっていく。黒人を排斥しようとする住民たちが、一家の家の周りに塀を建て、さらに連日押しかけて抗議行動を展開する。

どうやら、この一件は1950年代に実際に起きた人種差別暴動をモチーフにしたものらしい。それならば、いきなり住民が黒人一家に牙をむくのではなく、少しずつ悪意が露見する展開のほうがよかったのではないか。最初は「ウェルカム!」と大歓迎しつつも、少しずつその裏のどす黒い闇が見えてくる……といったように。

だが、それは無理な注文のようだ。この映画にはそんな余裕はないのである。なぜなら、この人種差別ネタに加えて、もう一つの事件が描かれるからだ。それは、引っ越してきた黒人一家の隣に住むロッジ家をめぐるあれこれだ。

ロッジ家の家族は、仕事一筋の父ガードナー(マット・デイモン)、車いす生活を送る母ローズ(ジュリアン・ムーア)、幼い息子のニッキー(ノア・ジュープ)。そして、ローズには双子の姉マーガレット(ジュリアン・ムーア=二役)がいる。

ある日、そのロッジ家に強盗が入る。強盗は、家族を縛ってクロロホルムをかがせ意識を失わせる。だが、クロロホルムの量が多かったことから、ローズが亡くなってしまう。やがてマーガレットが、ニッキーの母親代わりとなって面倒を見るようになる。

人種差別暴動と強盗事件。どちらも、理想的に見えた街と住人が抱える悪意が露見するきっかけではあるものの、2つの話がかみ合っていない気がするのはオレだけか? もう少し両者をうまく絡ませる仕掛けが欲しかった気がするのだが。

それでも強盗事件をめぐるあれこれは、なかなか面白く描かれている。実はこの強盗話、最初から怪しさが満点だ。間違いなく、そこには何かが隠されている。ガードナーを演じるマット・デイモンの無表情さ、マーガレットを演じるジュリアン・ムーアのハジケた演技からも、それが伝わってくる。

いや。おそらく多くの観客にとって、事件の真相は最初からほぼ見え見えだろう。事件後、まもなく警察が容疑者の面通しを行うのだが、そこでのガードナーとマーガレットの態度から、事件の真の黒幕は誰かがわかってしまうはずだ。

とはいえ、それがわかってからも興味が失われることはなかった。事件後に起きる出来事と、そこでうごめく人間模様が面白くて、飽きずに最後まで観てしまったのだ。犯人が最初からバレバレのサスペンスといえば、個人的にはテレビドラマ「刑事コロンボ」を思い出すのだが、ちょっとそれに似た雰囲気も感じてしまった。

無能を装いつつ事件の真相に迫っていく警察官。死んだローズにかけられていた保険金をめぐって暗躍するクセモノの保険調査員(「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」のオスカー・アイザックがいい味出してます)。こわもてだがオマヌケな実行犯の二人組。事件によって追いつめられるニッキーを守ろうとする叔父。そして、ガードナーとマーガレット。

そういうバラエティーに富んだ人々を、ブラックユーモアも交えつつ、シニカルな視線で描いていく。そのあたりは、いかにもコーエン兄弟が関わった脚本らしい。1950年代らしい街並みや音楽の使い方なども見どころだ。

ニッキーと隣家の黒人一家の息子との交流を描き、子供目線の描写をたくさん取り入れているのもこの映画の特徴だ。それが大人たちの上っ面だけの理想や嘘、欲望、本音などをより際立たせる。

終盤は怒涛の展開。人種差別暴動が最高潮に達する中で、強盗事件をめぐるあれこれも急展開を見せる。そのあたりの畳みかけ方は、スリリングでかなりの恐さだ。特に、ベッドの下に隠れたニッキーの目線で惨劇を描くシーンのハラハラドキドキ感は、かなりのものである。

同時に、終盤はほとんどホラー映画のようなエグい世界が展開する。この映画の製作には、ホラー映画専門製作会社のダーク・キャッスル・エンターテインメントが加わっているが、それにふさわしい展開といえよう。とはいえ、それでも目を離せないのは、やっぱりコーエン兄弟らしいシニカルさと、ブラックユーモアのせいだろう。

ラストは少年たちのキャッチボール。暴動と惨劇の果ての彼らの姿に、少しだけ救われた気がしたのである。

◆「サバービコン 仮面を被った街」(SUBURBICON)

(2017年 アメリカ)(上映時間1時間45分)
監督:ジョージ・クルーニー
出演:マット・デイモンジュリアン・ムーア、ノア・ジュープ、オスカー・アイザック、グレン・フレシュラー、アレックス・ハッセル、ゲイリー・バサラバ、ジャック・コンレイ、カリマー・ウェストブルック、トニー・エスピノサ、リース・バーク
*TOHOシネマズ日比谷ほかにて全国公開中
ホームページ http://suburbicon.jp/