映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「瞳をとじて」

瞳をとじて
2024年2月21日(水)ユナイテッド・シネマとしまえんにて。午後1時10分より鑑賞(スクリーン6/D-10)

~エリセ監督、31年ぶりの長編映画は記憶と映画をめぐる物語

ミツバチのささやき」(1973年)という映画をどこで観たのだろう? だいたいのあらすじは知っているし、印象的なシーンも何となく覚えている。とはいえ、時代的に映画館で観たとは思えない。後年になってテレビで観たのだろうか。いや、それとも観ていないのか?

何にしても私が知っているぐらいだから、大ヒット作なのは間違いない。その「ミツバチのささやき」のビクトル・エリセ監督が、1992年の「マルメロの陽光」以来、実に31年ぶり(!)に撮った長編映画が「瞳をとじて」だ。

時代は1947年。ある屋敷に住む老人が一人の男を呼び寄せる。老人は過去に中国人女性と交際し、女の子が誕生した。だが、やがて女性は娘を連れて家を出てしまった。その娘チャオ・シューを探し出して欲しいというのだ。

ん? あれ? この映画って、そんなに昔のことを描いたドラマだっけ?

と思ったら、実はこれ、劇中劇だったのね。つまり、こういうこと。冒頭に登場するのは、映画「別れのまなざし」の1シーン。ところが、その映画で探偵役を演じる主演俳優のフリオ・アレナス(ホセ・コロナド)が突然、失踪してしまい、映画は未完成のままに終わる。

それから22年後、「別れのまなざし」の監督だったミゲル(マノロ・ソロ)のもとに、人気俳優失踪事件の謎を追うテレビ番組から出演依頼が舞い込む。依頼に応じて番組に出演し、インタビューに答えるミゲル。それをきっかけに彼は、フリオにゆかりのある人を訪ねて話を聞き、過去を振り返ることになる。

ドラマは失踪した俳優の謎を追うミステリー仕立てで展開される。それを通してミゲルは「別れのまなざし」のスタッフやフリオの娘、フリオのかつての恋人(ミゲルとも交際していた)などと会い、当時の記憶を取り戻していく。

ミゲルは映画監督をやめて作家となった。初めのうちは賞を取るなど、それなりに活躍したものの、その後は短編小説を発表する程度。今は海辺の一角で暮らしていた。また、彼はかつて子供を事故で失うという経験もしていた。

そうした過去が蘇る。もちろん楽しい過去もあれば、苦い過去もある。スペインのフランコ独裁政権時代の話も、何度かセリフの中に出てくる。確実なのは、過ぎ去った日々は二度と戻らないということだ。

フリオとの思い出もある。二人は早くから友情をはぐくむが、同時に微妙な関係にもあった。フリオはかなりハチャメチャな生活を送っていたらしい。俳優として高く評価しつつも、複雑な思いを抱えているミゲル。

ミゲルは再会したかつての恋人に、フリオが失踪した日の情景を語る。それは彼の映画が未完となり、彼が映画から離れるきっかけとなった日だ。そこに万感の思いが宿る。

後半、番組出演を終え、海辺の自宅に帰るミゲル。トレーラーハウスに住み、貧しいながらも隣人たちと楽しいコミュニティ生活を送る。しかし、この土地もやがて立ち退きの憂き目にあうことが語られる。

フリオを探すテレビ番組は放送されたが、ミゲルは途中で見るのをやめる。もうこれ以上、フリオを探す伝手もないし、その気も失せたのだろう。

だが、急転直下、フリオが見つかったという連絡が入る。ミゲルは急いでその場所に向かうのだが……。

というわけで、その先の展開は伏せるが、ここでも記憶をめぐるドラマが繰り広げられる。そして、そこで重要な位置を占めるのが映画だ。ミゲルが元映画監督で、フリオが「別れのまなざし」撮影中に失踪したこともあり、本作では映画の話が様々な形で出てくる。ホークス、マカロニウエスタンリュミエール兄弟、ドライヤー。そんな映画に関する言葉もセリフの中に登場する。

エンディングはそのハイライトと言える。ある目的をもって、ミゲルはつぶれた映画館で「別れのまなざし」を上映する。それはデジタル化などで大きく環境が変わった中でも、依然として映画の持つ力が大きいことを示しているように見える。時代とともに変容しつつあるが、映画の神髄はいつまでも不変だ。エリセ監督はそう言いたかったのかもしれない。余韻に満ちた終幕である。

本作は過去を見つめた映画だ。だが、けっしてノスタルジーに終わってはいない。「ミツバチのささやき」の少女アナを演じたアナ・トレントをフリオの娘アナとして出演させ、「私はアナ」と言わせているのも、単なるノスタルジーではなく過去と現在、そして未来を結び付ける試みだと思う。

作品が未完に終わった元映画監督と失踪した俳優には、多少なりともエリセ監督自身が投影されているに違いない。80歳を超えたエリセ監督にとって、まさに作るべくして作った映画と言えるだろう。その思いが胸に迫ってくる映画だった。

◆「瞳をとじて」(CERRAR LOS OJOS)
(2023年 スペイン)(上映時間2時間49分)
監督・脚本・原案:ビクトル・エリセ
出演:マノロ・ソロ、ホセ・コロナド、アナ・トレント、ペトラ・マルティネス、マリア・レオン、マリオ・パルド、エレナ・ミケル、アントニオ・デチェント、ベネシア・フランコ、ホセ・マリア・ポウ、ソレダ・ビジャミル、フアン・マルガージョ
*TOHOシネマズ シャンテほかにて公開中
ホームページ https://gaga.ne.jp/close-your-eyes/

 


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「風よ あらしよ 劇場版」

「風よ あらしよ 劇場版」
2024年2月18日(日)新宿ピカデリーにて。午後1時50分より鑑賞(スクリーン7/E-11)

~自由を求める強い意志。女性解放運動家・伊藤野枝の生涯

書店で、村山由佳の「風よ あらしよ」という上下2巻の分厚い文庫本を最初に見かけたのは、ずいぶんの前のことだ。何度も買おうかと迷ったのだが、結局いまだに買っていない。

そんな中、大正時代に活躍した女性解放運動家・伊藤野枝の生涯を綴ったこの小説を、NHKがドラマ化し2022年にBS4K・8Kで放送したらしい。その劇場版が「風よ あらしよ 劇場版」である。

福岡の片田舎で育った伊藤野枝吉高由里子)は、貧しい家を支えるため結婚させられそうになるが、これを拒否して上京する。男尊女卑の風潮が色濃い社会に異議を唱え、「元始、女性は太陽だった」と宣言した青鞜社平塚らいてう松下奈緒)の言葉に感銘を受けた野枝は、手紙を送り青鞜社に参加する。同時に彼女の相談に乗っていた恩師の辻潤稲垣吾郎)と結婚する。青鞜社はもともと女流文学者集団だったが、やがて野枝が中心になり婦人解放を唱える集団になっていく。それとともに野枝は辻と別れ、無政府主義者大杉栄永山瑛太)と暮らすようになる……。

何しろ原作は分厚い本だ。その一部分に焦点を当てるというよりは、主人公の伊藤野枝の全生涯を詰め込んだ映画だ。そのため野枝の葛藤や苦悩などは十分に描き切れていない。人間ドラマは薄味だ。

とはいえ、間違いなく観応えはある。伊藤野枝という女性がどういう人間で、何を考えていたかがわかりやすく描かれている。

彼女は何があっても前に突き進む。まさにタイトルの「風よ あらしよ」が示すように、激しい風や嵐に翻弄されようとも節を曲げない。

時代は男尊女卑の風潮が広くはびこる大正時代。映画の冒頭には「女は、家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫が死んだあとは子に従う」という言葉が掲げられる。これこそが当時の美徳だった。それをおかしいと思った野枝は、その美徳を打破すべく奮闘する。

彼女の考えは今となっては当たり前のことだが、当時としては先鋭的な思想だった。青鞜社の仲間たちにもついていけない者が出てくる。世の中と妥協すべきだというのだ。雑誌「青踏」も野枝の思想を反映したものになるにつれて、世間からは敬遠される。

それでも野枝はめげない。彼女の根底にあるものは何なのか。劇中で足尾銅山鉱毒の話を聞いた野枝は、その被害者の身を案じ涙する。それを夫の辻はセンチメンタリズムだと言って批判する。だが、彼女は動じない。弱きものに寄り添い、それを救おうとするヒューマニズムこそが彼女の思想の原点なのだ。

その野枝の強さ、力強さとは対照的に、男たちはだらしない。最初の夫の辻は、当初こそ野枝に理解を示し、彼女の才能の先導者となるが、次第に怠惰な生活を送るようになる。教師を辞めて仕事もせず、尺八を吹いて、このまま放浪したいなどと言い出す始末。

一方、二度目の夫となる大杉は、妻(山田真歩)がいるにもかかわらず、野枝と交際し、さらに野枝の元同僚の神近市子(美波)とも関係を持っていた。大杉は「自由恋愛の実験だ」などと宣うが、妻は「ただ助平なだけでしょ」とピシャリ。野枝にも説教される。実に情けないのだ。

まあ、その後大杉は神近に刺され、それをきっかけに野枝を妻とするようになるわけだが……。

その後の大杉と野枝は子供ももうけ家庭生活は平穏だが、社会は次第に息苦しい時代になる。関東大震災が起きると、朝鮮人に関する流言蜚語が流れ、それに関連して2人は連行される……という経緯はおなじみだろう。

このあたりの混乱した世の中とそれに乗じた権力の横暴は瀬々敬久監督の「菊とギロチン」や森達也監督の「福田村事件」などでも描かれている。大杉と野枝に直接蛮行を振るったのは甘粕大尉だが、その背後には軍や憲兵隊がいたと推察される。

その点でこの映画は、伊藤野枝の生涯を描くことを通じて、権力の横暴を指弾した作品であることは間違いない。

花子とアン」「返還交渉人 いつか、沖縄を取り戻す」などを手がけた演出の(もともとドラマなので「監督」ではなく「演出」となっているのだろう)柳川強は、「資本主義が行き詰まりを見せ、99:1の格差があらわになり『権力の横暴が剥き出しになってきた今だからこそ、野枝を描くべき必然が生れたのだ』と強く感じます」と述べている。

もちろん、そこには「女性であるというだけで我慢を強いられ搾取される」という野枝の主張に見られるフェミニズムに対する思いも、強く込められている。その主張は今の時代にも通じるものだ。

ともすれば一緒に虐殺された大杉栄に注目が行き、その添え物的な立場で見られがちな伊藤野枝。その生き様と思想が十二分に伝わると同時に、現代にも通じるテーマ性を持った作品である。

吉高由里子は、一途に自身の理想に向かって突き進む女性を巧みに演じて見せた。辻役の稲垣吾郎、大杉役の永山瑛太はいずれも「いかにも」のハマリ役。

何かと不自由な時代に、ひたすら「自由」を渇望した野枝。その力強さに驚嘆した。これはいよいよ原作本を買わねばなるまい。

◆「風よ あらしよ 劇場版」
(2023年 日本)(上映時間2時間7分)
演出:柳川強
出演:吉高由里子永山瑛太松下奈緒、美波、玉置玲央、山田真歩朝加真由美山下容莉枝、渡辺哲、栗田桃子、高畑こと美金井勇太、芹澤興人、前原滉、池津祥子音尾琢真石橋蓮司稲垣吾郎
新宿ピカデリーほかにて公開中
ホームページ https://www.kazearashi.jp/

 


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「一月の声に歓びを刻め」

「一月の声に歓びを刻め」
2024年2月11日(日)テアトル新宿にて。午後1時40分より鑑賞(B-10)

~“罪”をめぐる3つの物語。三島監督の覚悟と俳優たちの壮絶な演技

繕い裁つ人」「幼な子われらに生まれ」「ビブリア古書堂の事件手帖」「Red」など様々な作品を撮ってきた三島有紀子監督。今度の新作「一月の声に歓びを刻め」は、過去作とは明らかに異質な作品だ。三島監督自身の幼い頃の性暴力の体験をもとにした映画だという。

物語は四章立てで描かれる。一章は北海道・洞爺湖が舞台。そこに1人で住むマキ(カルーセル麻紀)が一生懸命におせちを作っている。間もなく、娘の美砂子(片岡礼子)一家3人が正月を過ごすためにやって来る。彼らは食卓を囲むが……。

一章に登場する4人は表面的には幸せそうだ。だが、一皮むけば危うい関係にある。美沙はマキを「お父さん」と呼ぶ。実はマキは性適合手術を受けて女性になっていたのだ。それなのに今でも「お父さんと」呼ぶのは、マキに対して屈折した思いを持っているからに違いない。

美佐子の夫は外で電話をしている。どうやら彼は不倫をしているらしい。近くにマキがいるのに気づいた夫は、さも仕事の電話のように口調を変える。

そして、彼らが抱えた最大の問題は、47年前に死んだ次女れいこのことだった。彼女は性暴力の被害にあって死んだ。その事実が今もマキを苦しめる。美佐子との仲がギクシャクしているのも、それが関係しているようだ。

一章の終盤は美佐子一家が帰り、一人になったマキが心情をぶちまけるシーン。悔恨の念に身もだえし、どこにも持って行き場のない思いに苦悩するマキ。それを演じるカルーセル麻紀の壮絶な一人芝居が胸を打つ。一世一代の渾身の演技かもしれない。

続いて二章は八丈島が舞台。牛を飼う誠(哀川翔)のもとに、娘の海(松本妃代)が5年ぶりに帰省する。誠は交通事故で妻を亡くし、男手ひとつで海を育てた。本人は否定するが、海はどうやら妊娠しているらしい。相手は誰なのか。そこに、ある男から離婚届が送られてくる。

誠は心の傷を負っていた。過去に妻が交通事故にあった際に植物状態で病院に入っていたところ、延命治療を中止して妻を旅立たせたのだ。それは幼い海が進言していたことだった。誠は今もその判断が正しかったのか自問自答し、過去の傷に苦しんでいた。それは海も同じだった。

二章でも、役者の演技が際立つ。特に哀川翔の演技が素晴らしい。全編で効果的に使われる八丈太鼓の音色も、何やら心のざわつきをかき立てる。「人間はみな罪びとだ」という言葉が重く響く。

三章は大阪・堂島が舞台。モノクロで描かれる。れいこ(前田敦子)が元恋人の葬儀に参列するために帰ってくる。彼女は6歳の時に性暴力の被害に遭って以来、誰にも触れることができなかった。好きな人とも一線を越えられず破局していた。そんな中、偶然レンタル彼氏をしているトトと名乗る男(坂東龍汰)から声をかけられ、自分を変えるべく、その男と一晩を過ごす決意をする。

この章ではイタリア映画の話や、れいことトトが踊るスローモーションのポップな映像なども飛び出すが、最大のヤマ場は、れいこがトトと一夜を過ごした後、かつて自分が被害に遭った場所を訪れる場面だ。何度も逡巡しながらその道すがら、彼女はそのとき何があったのかをぶちまける。そして、半狂乱になって現場の花をむしり取る。それはずっと彼女を苦しめてきた事件の象徴の花だ。

ここでの前田敦子の演技が凄まじい。まさに鬼気迫る演技だ。観ていて、本当に彼女は性暴力の被害に遭ったのではないかと錯覚してしまうほどの迫真の演技だった。昔から彼女の演技を観ているが、ここまで演じる人物と一体化した演技はそうはないだろう。

すべての章において、細部までこだわって作られているのがわかる。特に映像のこだわりは半端ない。一章は雪に覆われた洞爺湖で白が目立つ。マキの冷たい家族関係を象徴しているようだ。二章は八丈島で緑が印象的。シビアな話だが、どこかおおらかさも感じさせる。三章はモノクロで、それがれいこの心の傷をよりクッキリと浮かび上がらせる。

3人の心の傷となった過去の出来事を、回想として描かない点も特徴的だ。それをセリフなどで表現するのだが、説明的で過剰なセリフは一切ない。魂の叫びともいえるセリフを聞くうちに、彼らの心の痛みが伝わってきて身動きできなかった。

ここに描かれた3つの物語に直接的な関係性はないが、れいこという名が重なっていたり、水辺と島が舞台になっていたり、船が重要な要素を占めていたりと共通する部分も多い。3つの物語は自然に共鳴し合う。

何よりも2人のれいこは性暴力の被害に遭い、誠と海は死の影によって微妙な距離にある。そして主人公3人はすべて、過去の出来事によって心に傷を負い、喪失感や悔恨の情、自責の念、怒りなどの感情によって、今も苦しめられているのである。

そこに救いはないのだろうか。いや、そうではない。最終章で、れいこは街の中を歩きながら奇妙礼太郎の「きになる」を口ずさむ。その歌声は次第に大きく力強くなる。そこに、わずかな明日への希望を感じたのは私だけだろうか。

すでに述べたがカルーセル麻紀哀川翔前田敦子の演技が出色だ。彼らの心の痛みが胸に響いてきた。三島監督の思いが俳優陣に乗り移ったと言っても過言ではない。坂東龍汰片岡礼子宇野祥平原田龍二とよた真帆らの脇役陣の演技も見逃せない。

三章でれいこが、「被害者の私がどうして罪の意識を抱えなければいけないのか?」といった主旨のセリフを吐く。それこそが三島監督が47年間苦しんできたことだったのだろう。今もその呪縛に苦しんでいる性被害者は多いに違いない。

この映画は私的な物語が出発点になっているものの、社会的な広がりを持つ物語である。三島監督にとって避けて通れない、いつか作らねばならない映画だったのだと思う。その覚悟と思いの強さに終始圧倒された。

◆「一月の声に歓びを刻め」
(2024年 日本)(上映時間1時間58分)
監督・脚本:三島有紀子
出演:前田敦子カルーセル麻紀哀川翔坂東龍汰片岡礼子宇野祥平原田龍二、松本妃代、長田詩音、とよた真帆
テアトル新宿ほかにて公開中
ホームページ https://ichikoe.com/

 


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「夜明けのすべて」

「夜明けのすべて」

2024年2月9日(金)ユナイテッド・シネマとしまえんにて。午後1時20分より鑑賞(スクリーン6/B-9)
~弱い人たちへの共感と支え合いを絶妙の距離感で描く

上白石萌音上白石萌歌の区別がつかない。いや、双子ではないから実際に見たらどっちがどっちかわかると思うのだが、名前を言われてもすぐに顔が思い浮かばない。そもそも私は人の顔を覚えるのが苦手なのだ。

そんなことはどうでもよい。姉の上白石萌音のほうが出演している映画が「夜明けのすべて」だ。瀬尾まいこの同名小説を三宅唱監督が映画化した。原作は未読だが、かなりアレンジされているらしい。

三宅監督の過去作「きみの鳥はうたえる」「ケイコ 目を澄ませて」はどちらも素晴らしい映画だった。今回は公開規模も拡大してメジャー感が増したが、はたしてどんな映画なのか?

月に一度、PMS月経前症候群)のせいでイライラが抑えられなくなってしまう藤沢さん(上白石萌音)。それが原因で働いていた会社を辞めることになってしまう。新たに就職した会社はアットホームな雰囲気の小さな会社。ある日、藤沢さんは転職してきたばかりの山添くん(松村北斗)のやる気のなさを見かねて怒りを爆発させてしまう……。

冒頭は、雨の中、藤沢さんがバス停のベンチで倒れ込んでしまうシーン。彼女は警察に保護され、母親が迎えに来ることになる。それとともに藤沢さんのモノローグで、PMS月経前症候群)でイライラが抑えられなくなってしまうことが語られる。

あれ? いきなりこんなに長いモノローグが入るの? 何だか三宅監督らしくないなぁ。小説の原作モノだから仕方ないのかなぁ。

その後、藤沢さんは会社でもPMSが原因でミスをして、いたたまれなくなって辞表を出す。そこでもモノローグで事の顛末が語られる。うーん、この調子でずっと行くのだろうか。私、モノローグだらけの映画って嫌いなんですけど。

と思ったら、その後藤沢さんのモノローグは消えて、ラストに山添くんのモノローグがチラッと入るだけ。ああ、良かった~。そして、その後は三宅監督の持ち味が十二分に発揮された展開が続くのだった。

そのキーワードは絶妙な距離感だ。ベッタリと登場人物に張り付くのではなく、絶妙な距離感を保って描かれる。「ケイコ 目を澄ませて」もそうだったが、ありきたりのお涙頂戴の感動物語にはしない。それでいて登場人物を突き放すのでもない。適度な距離で向かい合う。それが実に穏やかで、温かく、心地よい空気感を作り出す。

5年後、藤沢さんは科学教育教材を扱う栗田科学に転職していた。普段はみんなにお菓子を買うなど気配りができて、心優しい藤沢さんだが、今でもPMSに苦しんでいた。発作が出ると自分を抑えられず周囲に当たり散らす。

そんな藤沢さんが怒りを爆発させたのが、同じく転職してきた山添くん。まるでやる気を見せず、会社になじもうとしない態度にブチ切れた。ところが、実は山添くんもパニック障害を抱えて苦しんでいたのだった。前職の上司の計らいでこの会社に転職してきた山添くんだが、一刻も早く元の会社に戻りたいと思っている。

ドラマチックな展開はほとんどない映画だ。登場人物たちの日常をそのまま映し出している。そこにも絶妙な距離感がある。藤沢さん、山添くんと接する栗田科学の社長や同僚たちが2人に接する距離感が絶妙なのだ。邪険に扱うのでもなく、お客様扱いするのでもない。程よい関係を築くのである。

そんな環境に包まれて、初めのうちはお互いにギクシャクしていた藤沢さんと山添さんだが、交流を重ねるうちに次第に特別な感情を抱くようになる。というと、恋愛関係を思い浮かべるかもしれない。だが、それは友達でもなく、恋人でもない関係だ。ここでもまた絶妙な距離感というキーワードが浮上してくる。

ユーモアもそこかしこにある。藤沢さんが山添くんの髪を切ってやるシーンなど、思わずニヤリとしてしまうシーンが満載だ。

2人が抱えるPMSも、パニック障害も、その本当の苦しみはリアルに伝わってこない。いや、そもそも伝えようとしていないように思える。だって、どんなにリアルに再現しても、それは当事者でなければわからないものだから。それでもその苦しさを受け止めて共感し、助け合うことはできるのではないか。

考えてみれば、誰もがみんな弱さを抱えている。このドラマでも、藤沢さんや山添くんだけでなく、山添くんの元上司、栗田科学の社長、藤沢さんの母親などが、心や体に痛手を負い今もその過去を引きずっていることが綴られる。そうやって弱さを抱えた者同士が、肩を寄せ合い助け合って生きていければ……。それがこの映画が伝えるメッセージではないだろうか。

終盤、栗田科学では移動プラネタリウムを始める。そこで山添くんが書いた原稿に基づいて、藤沢さんがナビゲーションをする。そこにはタイトルの「夜明けのすべて」に関連する言葉が散りばめられている。宇宙の神秘を語りながら未来への希望の火を灯すのだ。「いつかは変わるかもしれない」という……。

映像の美しさも特筆ものだ。特に夜景と夜明け前の景色の美しさが印象に残る。同時にそれは穏やかで温かい。この映画全体の空気感を体現した映像だ。

細かなところでは、中学生が栗田科学のドキュメンタリーを製作するといった設定も、随所で効果を発揮している。

キャストは主役の松村北斗上白石萌音がどちらも見事な演技。松村は自然体の演技、上白石は陰影ある演技が良かった。

それに加えて、山添の元上司の渋川清彦、主治医役の内田慈、栗田科学の社長役の光石研、藤沢さんの母親役のりょう、友人役の藤間爽子など、脇役がいずれも抜群の存在感を発揮しているのもこの映画の特徴。

善人ばかりの現実離れした映画というなかれ。ここには弱者である私たちが生きていくヒントがある。三宅監督らしさが発揮されたとても心地よい映画だった。観終わって時間が経てば経つほど胸の奥に深くしみ込んできた。

◆「夜明けのすべて」
(2023年 日本)(上映時間1時間59分)
監督:三宅唱
出演:松村北斗上白石萌音、渋川清彦、芋生悠、藤間爽子、久保田磨希、足立智充、宮川一朗太、内田慈、丘みつ子、山野海、斉藤陽一郎、りょう、光石研
*TOHOシネマズ 日比谷ほかにて全国公開中
ホームページ https://yoakenosubete-movie.asmik-ace.co.jp/

 


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「コット、はじまりの夏」

「コット、はじまりの夏」
2024年2月7日(水)新宿シネマカリテにて。午後1時45分より鑑賞(スクリーン1/A-10)

~生きる喜びを初めて知る少女。アイルランドから届いた珠玉の一作

仕事は終わらないし、日程を間違えていた仕事も新たに入ってきた。困った。忙しくて映画館に行く暇がない。いや、待て。どうにかなる。きっと、どうにかなる。数時間サボったところでどうということはない。この際、映画館へ行ってしまえ! 

とヤケクソ気味でやってきたのは新宿シネマカリテ。鑑賞するのは、第95回アカデミー賞で国際長編映画賞にノミネートされたアイルランド映画「コット、夏のはじまり」。さて、どんな映画なのでしょう?

1980年代初頭のアイルランドの田舎町が舞台。大家族の中で過ごす内気な9歳の少女コット(キャサリン・クリンチ)は、夏休みに赤ちゃんが生まれるまでの間、遠い親戚のキンセラ夫婦に預けられる。初めのうちは慣れない生活に戸惑うコットだったが、妻のアイリン(キャリー・クロウリー)と井戸の水をくみに行ったり、夫のショーン(アンドリュー・ベネット)の牛の世話を手伝ったりするうちに、次第に生きる喜びを実感するようになる……。

映画の冒頭は草が生い茂る平原が映る。その片隅に身を潜ませている少女コット。遠くから彼女を呼ぶ声がする。仕方なくのろのろと出て行くコット。

このシーンを見ただけで、彼女は家に居場所がないことがわかる。コットの家は両親とたくさんの子供たちがいる大家族。おまけに父親はバクチばかりして、牧場の仕事もまともにしていないらしい。母親はコットに愛情がないわけではないが、彼女の世話まで手が回らない。コットはいつも同じ汚れた服を着て、身だしなみも整っていなかった。学校でも勉強ができず、姉の同級生からからかわれ、彼女の居場所はここにもなかった。

そんなコットが夏休み中、母親が出産するまでの間、親戚のキンセラ夫婦に預けられる。そこで少しずつ彼女の内面が変化していく。

繊細な心理描写が印象的な映画だ。父親の車で遠方のキンセラ夫婦のもとに行く道すがら、コットは不安そうな表情を浮かべる。そこにはどんな恐ろしい運命が待っているのか。暗い彼女の過去から考えて、そう予想するのも当然だろう。彼女の不安が手に取るように伝わってくる。

だが、到着した彼女を迎えたキンセラ夫婦は、予想とは違いとても温かな人たちだった。特に妻のアイリンはまるで我が子のように(実はここにある事情が存在する)、甲斐甲斐しくコットの面倒を見る。

一方、夫のショーンは寡黙で、表面的にはコットに無関心を装うが(ここにもある事情が存在する)、それでも少しずつ彼女に愛情を注いでいく。

特に大きな出来事は起きないものの、キンセラ夫妻とコットの何気ない日常を繊細かつ丁寧に描いた演出が秀逸だ。それを通してコットの内面が変化していく様子が、瑞々しく鮮やかに映し出される。最初はほぼ無表情だった彼女の表情が明るくなり、口数も多くなっていく。夫妻の愛を受けて、ようやく彼女は子供らしさを取り戻すのだ。

面白い場面がある。ショーンはコットに郵便箱まで郵便を取りに行くように命じる。タイムを計るから走って取りに行けというのだ。最初は怪訝そうに走るコット。だが、しばらく経った後の疾走は、まるで解放された彼女の内面を映し出すように明るく躍動感にあふれている。生きる喜びを全身で表現している。この演出も素晴らしい!

終盤、ある事情が明らかになった後に、ショーンがコットを連れだす場面もいい。外で並んで座っているだけなのだが、ショーンの優しさとコットへのそこはかとない愛が伝わってくる。

映像の美しさも出色だ。スタンダードサイズの中で、木々の緑や陽光を効果的に使った詩情あふれる映像が綴られる。バケツを持って井戸の水をくみに来たアイリンとコットが逆さまに映る水面。コットが座るテーブルにショーンが黙って置くビスケット。そうした映像もコットの変化をより生き生きと見せる。

さて、夏休みの間だけ預けられたコット。いわば期間限定のキンセラ夫妻の愛情。ということは夏休みが終われば大家族の元に戻らねばならない。そのラストシーンが堪らない。詳細は伏せるが、この場面は感涙必至。私も思わずウルウル来てしまった。余韻の残るラストシーンだ。コット行く末が幸せでありますように。スクリーンに向かってそう祈った。

それにしてもコット役のキャサリン・クリンチが見事。セリフの少ない役だけに、表情やしぐさで表現する部分が多いわけだが、それでも圧倒的な存在感を発揮していた。オーディションで選ばれた新人だというのが信じられない。

監督はこれが長編劇映画デビューとなるコルム・バレード。これまではドキュメンタリーなどを撮っていたらしいが、こちらも素晴らしい演出力だった。

温かくて、心が洗われるような作品だ。殺伐とした現在、誰もがキンセラ夫妻のようだったらと思わずにいられない。アイルランドから届いたこれぞ珠玉の一作!

◆「コット、はじまりの夏」(AN CAILIN CIUIN)
(2022年 アイルランド)(上映時間1時間35分)
監督・脚本:コルム・バレード
出演:キャサリン・クリンチ、キャリー・クロウリー、アンドリュー・ベネット、マイケル・パトリック
新宿武蔵野館ほかにて公開中
ホームページ https://www.flag-pictures.co.jp/caitmovie/

 


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おわび?

「哀れなるものたち」の後は映画館に行っていない。なので、ブログもアップできない。

仕事が忙しいのは事実。1万5000字のインタビュー原稿を書かねばなならない。これがなかなか骨が折れるのだ。ほぼ連日パソコンに向かっているのだが、なかなか終わらないのよ~。この後も別件のインタビュー原稿と、ある単行本の校正作業を依頼されている。たまらんぞなもし。

おまけに先日からカーリング沼にはまってしまった。来年のオリンピックにつながる日本選手権が開催されていて、NHK BSやYouTubeでの観戦で忙しいのだ。カーリングは面白いゾ~。仕事があってもつい見てしまう。あ! だから仕事が終わらないのか。残念ながら、私が応援する女子のフォルティウスが二次予選で敗退してしまったので、こちらは沼から脱出しつつあるのだが。

病院通いも相変わらず続く。腸の調子がおかしいので、バリウム検査をしたら結果は異状なしと言われた。その前は、胃の調子が悪くて胃カメラ検査をしても異状なし。その他にも不調な箇所を検査すると異状なし。どうなっているのだ?まあ、腸に関しては来月大腸内視鏡検査を受けるのだが。

そんな感じで、映画館に行けない日々が続いていますが(配信でも観ていない)、たぶん2~3日中にはちょっぴり時間ができて行けると思うので、その時はまたブログをアップします。

そういえば、少し前の話だが、ビリー・ジョエルの1日限りの東京ドーム公演に行ってきたのだ。最初は行く気はなかったのに諸事情から行くことになったのだが、これが素晴らしかった!変わったのは体型と髪の毛だけ。2時間20分、おなじみの曲を昔のまま歌声で聞かせてくれた。これで74歳とは信じられない(さすがに連続公演は難しいので一夜限りとなったようだが)。バックのバンドも見事だった。というわけで、大感激した一夜だったのだ。

 

 

 

「哀れなるものたち」

「哀れなるものたち」
2024年1月28日(日)ユナイテッドシネマ・としまえんにて。午後1時35分より鑑賞(スクリーン2/D-6)

~現代に通じるテーマを持った強烈な刺激のフランケンシュタイン的世界

ヨルゴス・ランティモス監督の「ロブスター」は、独身者がパートナーを見つけなければ動物に変えられるというお話。ストーリーもぶっ飛んでいたが、その内容もかなりぶっ飛んでいた。刺激的で、毒々しく、ある意味、露悪的な映画だった。

「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」「女王陛下のお気に入り」に続くランティモス監督の新作「哀れなるものたち」を観て、その「ロブスター」を思い出した。何しろランティモス節が全開の映画なのだ。

スコットランドの作家アラスター・グレイの小説の映画化だ。脚本は「女王陛下のお気に入り」「クルエラ」のトニー・マクナマラが担当している。

オープニングタイトルからしてランティモスの美意識が全開(エンドタイトルも)。それに続いて描かれるのは、ゴシックホラー調のフランケンシュタイン的世界だ。

ビクトリア朝時代のロンドン。天才外科医バクスターウィレム・デフォー)は、自殺を試みた女性に、彼女の胎児の脳を移植して蘇生させる。ベラ(エマ・ストーン)と名付けられたその女性は、バクスターの屋敷に隔絶されたままだったが、やがて「世界を自分の目で見たい」という強い欲望にかられ、放蕩者の弁護士ダンカン(マーク・ラファロ)に誘われて大陸横断の旅に出る……。

冒頭はピアノを弾くベラ。だが、それは赤ん坊のようなデタラメな弾き方。続いて食事をするベラ。嫌いなものを平気で吐き出す。彼女は、肉体は大人でも頭脳は赤ん坊のままなのだ。

序盤はほぼモノクロ映像で描かれる。改造人間のベラが、創造主のバクスターによって屋敷の中に閉じ込められて過ごす。バクスター「ゴッド」と呼び、その庇護のもとにいたベラだが、その精神は急速に発達する。

ちなみに、フランケンシュタインは容貌も奇異な改造人間だったが、ベラは脳を移植されただけなので美しい。その代わりバクスターがあちこち改造されたらしく、フランケンシュタイン的な容貌だというのが面白い。

純粋無垢なベラが最初に目覚めたのは性的快楽。ナニが気持ちいいと知り、最初は1人で、やがてプレイボーイの弁護士ダンカンとエッチをする。そのダンカンとともに欧州を巡る旅に出たベラが、今度はカラー映像で描かれる。

旅の最初はリスボン。最初はダンカンとエッチしまくりだったベラだが、様々な体験をするうちに次第に彼と旅をすることに疑問を持つ。

続いてダンカンに強制的に連れてこられた船の上。そこでベラはさらに様々な体験をする。乗船客と出会い読書を覚え、さらに貧困にあえぐスラムの人々を見て衝撃を受ける。

そして今度はパリ。一文無しになったダンカンを尻目に、娼館で肉体を駆使して稼ぎ自立する。ここに至ってベラを支配していたダンカンは、彼女についていけずに心身がボロボロになる。

こんなふうにベラが様々な体験を重ねて成長していく様子を描く。赤ん坊の精神だった彼女はやがて自立し、社会構造を知る。その過程では性的な抑圧や男性の支配構造にもNOを突きつける。

映像が美しく鮮烈で、夢にでも出てきそうな映画だ。広角レンズを使うなど細部までこだわって、絵画的な映像を作り出している。スケールも大きく、美術へのこだわりもすごい。これぞランティモス映画といった感じだ。

皮肉で毒のあるユーモアや、グロテスクな描写でエロも全開(当然R18)。知らない人が観れば腰を抜かしそうだが、終盤でフランケンシュタイン的な存在だったバクスターに、人間的な感情を芽生えさせたり、波乱のドラマにふさわしくない穏やかなエンディングを持ってくるあたりも、いかにもランティモス監督らしい。

そんなドラマを通して伝わってくるのは、心や体、快楽は誰かに支配されるものではなく、自分のものなのだ、という強いメッセージ。純粋無垢だったベラが、たくましく成長する姿を通して、それを高らかにうたい上げる。

ベラを演じたエマ・ストーンは、ベラの成長をクッキリ刻み付ける演技が見事。何より、こんなクセモノ映画に出演した気概が素晴らしい。ウィレム・デフォーのいかにもの佇まい、マーク・ラファロのダメなプレイボーイぶりも出色。

破天荒な中にも現代に通じるテーマがあり、映画的妙味も数々ある。刺激は強いが観る価値は十分にある。

それにしても、第80回ベネチア国際映画祭コンペティション部門で最高賞の金獅子賞を受賞したのをはじめ、第96回アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞、脚色賞など11部門にノミネートされるのだからすごい。あまりの刺激の強さに審査員がやられてしまったのか!? 恐るべし、ヨルゴス・ランティモス

◆「哀れなるものたち」(POOR THINGS)
(2023年 イギリス)(上映時間1時間21分)
監督:ヨルゴス・ランティモス
出演:エマ・ストーンマーク・ラファロウィレム・デフォー、ラミー・ユセフ、ジェロッド・カーマイケル、クリストファー・アボットハンナ・シグラ、マーガレット・クアリー、ヴィッキー・ペッパーダイン、スージー・ベンバ、トム・スタートン、イェルスキン・フェンドリックス
*TOHOシネマズ 日比谷ほかにて全国公開中
ホームページ https://www.searchlightpictures.jp/movies/poorthings

 


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