映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「ケイコ 目を澄ませて」

「ケイコ 目を澄ませて」
2022年12月16日(金)シネマ・ロサにて。午後3時より鑑賞(シネマ・ロサ2/D-10)

~ボクシング映画の常識を覆す。聴覚障害の女子プロボクサーの葛藤と希望

ボクシング映画にはハズレが少ない。クライマックスの試合シーンに向かって劇的に盛り上げられたドラマが、人々の心を湧きたたせるのだろう。だが、そんなボクシング映画の常識を裏切るような映画が登場した。

「ケイコ 目を澄ませて」は実在の元プロボクサー・小笠原恵子をモデルにした映画。彼女の自伝「負けないで!」を原案としている。

生まれつきの聴覚障害で両耳とも聞こえないケイコ(岸井ゆきの)は、下町の小さなボクシングジムで黙々とトレーニングに打ち込み、プロボクサーとしてリングに立ち続けていた。しかし、愛想笑いができず、嘘やごまかしも苦手で不器用な彼女は、いつしか言葉にできない思いに押し潰されそうになり、ジムの会長(三浦友和)宛てに“一度、お休みしたいです”と書いた手紙を渡そうとするのだが……。

本作はケイコが障害を乗り越えて夢をつかむ感動物語ではない。差別をものともせずに、栄光に向かって突き進むヒロインを描いた映画でもない。ボクシング映画だから、試合や練習シーンは当然登場する。だが、劇的な要素とは全く無縁だし、仰々しい音楽が流れるようなこともない。あくまでもケイコや周囲の人々の日常を淡々と、そして丹念に追うのである。

早朝のランニング、ジムでの練習、試合、ホテルの従業員としての仕事、弟とのアパート暮らし。ざらついた質感の16ミリフィルムを使用していることもあって、それらの描写は実にリアルだ。まるで自分もケイコが住む下町の住人になって、彼女を見守っているような錯覚に陥る。

ケイコに関する細かな背景説明はない。生まれつき聴覚障害者であることと、それにもかかわらずボクシングのプロになったことがわずかに字幕で流れるだけだ。ボクシングを始めた動機や、家族との関係なども明確には語られない。徹頭徹尾、劇的な展開や過剰な描写を排した映画なのである。

ケイコは読唇術で多少は相手の言っていることがわかるものの、自ら言葉を発することはない。周囲の健常者とは身振り手振りでコンタクトを取り、ホワイトボードを使って会話をする。母や弟、そして同じ聴覚障害者とは手話で話をする。だから、観客はスクリーンに集中してケイコの感情を読み取ろうとする。ちょうどサイレント映画を観るように。

手話の会話については、基本的に字幕でその内容を知らせる。だが、1カ所だけそれをあえてはずしたシーンがある。

それは同じ聴覚障害の友人たちと食事をするシーン。何やら楽しげに手話で語らう彼女たち。ケイコははじけるような笑顔を見せる。ふだんは不愛想でほとんど笑顔を見せることなく、いつも何かに立ち向かっているかのような険しい顔をしているケイコ。それがまったく違う表情を見せるのである。

このシーンを観て私は普段のケイコがいかに周囲に気を遣い、不安や恐怖と戦いながら生きているのかを実感した。彼女の周囲の健常者はみな優しい。ジムの関係者はもちろん、職場の人たちも彼女に温かく接する。だが、それでもそこには乗り越えられない壁が存在するのである。

そもそも聴覚障害でボクシングをするのがいかに難しいことか。会長のインタビューでも語られるが、レフリーの声もセコンドの指示も、ゴングの音さえ聞こえない中で、いわば孤立無援の戦いを強いられる。それだけで凄まじいプレッシャーなのだ。

そうした気苦労ゆえか、ケイコはボクシングを休もうと考える。だが、会長宛てに手紙を渡そうとした時に、彼女はジムが閉鎖されることを知る。

この一件も劇的な展開にはもっていかない。かなり早い段階から会長は病気らしいことがわかるのだが、それを過剰に煽り立てたりはしない。

会長の決断を聞いてケイコの心は乱れる。この会長とケイコの絆こそが、ドラマの大きな肝になる。会長はケイコの心情を理解し、「ケイコは人間としての器量があるんですよ」と語る。そしてさりげなく、彼女に寄り添う。その思いは自然にケイコにも伝わる。

クライマックスはボクシング映画らしい試合のシーンだが、ここでも派手さはない。武骨なまでに闘志むき出しで相手にぶつかっていくケイコ。その姿をリアルに捉える。

そして川べりでのラストシーン。ケイコの表情の変化を見て私は確信した。どんな道を選ぼうと、彼女は前を向いて歩いて行くに違いないと。清々しくも、余韻の残るラストシーンだった。

何よりもセリフなしの演技で、ケイコの揺れる心情を余すところなく表現して見せた岸井ゆきのが素晴らしい。「愛がなんだ」「犬も食わねどチャーリーは笑う」などの過去作とは全く違う役柄。ここまでケイコになり切れるとは。セリフがないだけに、表情や肉体で全てを表現しなければいけないが、それを見事にやり遂げている。彼女にとって大きなステップとなった映画だろう。

会長役の三浦友和のたたずまいも味わいがある。その背中に哀愁を漂わせながら、さりげなくケイコを支える。彼ならではの演技だろう。ちなみに彼の妻役は仙道敦子。久々に観たなぁ。

監督は「きみの鳥はうたえる」の三宅唱。彼の作家性が全開になった映画といえる。従来のボクシング映画とは一線を画した映画だが、岸井ゆきのの演技だけでも観る価値がある。派手さはないが、静かに見るものの心を揺さぶるはずだ。個人的には今年のベストにランクされる映画かも。

◆「ケイコ 目を澄ませて」
(2022年 日本)(上映時間1時間39分)
監督:三宅唱
出演:岸井ゆきの、三浦誠己、松浦慎一郎、佐藤緋美、中原ナナ、足立智充、清水優、丈太郎、安光隆太郎、渡辺真起子中村優子中島ひろ子仙道敦子三浦友和
ユーロスペーステアトル新宿ほかにて公開中
ホームページ https://happinet-phantom.com/keiko-movie/

 


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