映画貧乏日記

映画貧乏からの脱出は可能なのだろうか。おそらく無理であろう。ならばその日々を日記として綴るのみである。

「658km、陽子の旅」

「658km、陽子の旅」
2023年7月28日(金)テアトル新宿にて。午後2時30分より鑑賞(A-10)

~北へ向かう旅で溶けだしていく氷の心。菊地凛子の名演に拍手!

菊地凛子アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「バベル」で女子高生を演じて、アカデミー助演女優賞の候補になったのは2006年。もう17年も前のことなのか~。時間の流れるのは早いなぁ~。

その菊地凛子を主演に迎えて、「海炭市叙景」「私の男」の熊切和嘉監督が撮ったのが「658km、陽子の旅」である。原案は「TSUTAYA CREATORS' PROGRAM 2019」の脚本部門で審査員特別賞を受賞した室井孝介の脚本。

ちなみに、菊地凛子は「バベル」の前、まだ菊地百合子という芸名の時に、熊切監督の劇場映画デビュー作「空の穴」に出演しているから、実に22年ぶりのタッグということになる。

「658km、陽子の旅」というタイトルが示すように、孤独な中年女性が、突然の父の訃報を受けて東京から青森の実家までヒッチハイクする旅を描いたドラマだ。

冒頭は主人公の陽子(菊地凛子)が暗い部屋で、パソコンに向かっている姿が描かれる。彼女は在宅で働き、買い物も通販で済ませ、ほとんど引きこもりのような生活を送っている。

ある日、突然、従兄の茂(竹原ピストル)がアパートにやって来て、父の訃報を伝える。前日にスマホに電話したのだが、陽子のスマホが故障していたために連絡がつかなかったのだ。茂は陽子に、自分の車に同乗して青森の実家に向かうように言う。

茂がやってきた時の陽子の態度が印象的だ。寝起きだということもあり、なかなか行動できない。ようやく玄関のドアを開けたと思ったら、茂とは目も合わせられない。茂の問いにも、小声でぼそぼそと応答するだけだ。要するに、彼女は他人と満足にコミュニケーションが取れなくなっているのだ。

茂の車には彼の妻と子も同乗していた。車中でも陽子はほとんど口をきかず、伏し目がちに過ごす。その後、一行はサービスエリアに立ち寄るが、そこで茂の子供が怪我をしてしまう。運悪く、その時陽子は席を外していた。茂たちは慌てて病院へ行く、陽子は置き去りにされてしまったのだ。

というわけで、所持金2千数百円しか持たず、たった一人で放り出された陽子は、ヒッチハイクで青森の実家を目指すのである。

なんともまあストレートな話だ。ヒネリも何もない。これが本当に賞を取った脚本なのかと驚いたぐらいだ。

だが、それでもこの映画は心に染みる素晴らしい作品になっている。その原因は主演の菊地凛子の名演にある。初めのうち、陽子はほとんど何も話すことができない。他人と話すのが苦痛というより、話し方を知らないといった感じだ。

唯一、陽子が満足に話せるのが、死んだ父親(オダギリジョー)の幻影に対して。それは20数年前に分かれた時の42歳(今の陽子と同じ)の時の父だ。その幻影には、陽子は普通に話しかけることができるのだ。といっても、それはあくまでも幻影だから、独り言を言っているのに過ぎない。

それでも、ヒッチハイクは車に乗せてもらわなければ始まらない。そこで彼女は他人に話しかける。

最初は話好きの同年代の女性(黒沢あすか)。別れ際に思い切って陽子は金を貸してくれと頼むが(その時だけ急に饒舌になるのが面白い)、あっさりと断られる。その場所で同じくヒッチハイクしている若い女性(見上愛)と知り合い、つかの間の交流をする。そうかと思えば悪人にも出会い、ろくでもないクズ男(浜野謙太が怪演!)にひどい目に遭わされたりする。だが、その後は、農業を営む老夫婦(吉澤健、風吹ジュン)の温かな心に触れる。

こうして、色々な人と出会い様々な経験をするうちに、まるで氷が溶けるように心がほぐれていく陽子の姿を描き出す。ほとんどの場面で陽子がスクリーンの中心に映し出される。したがって菊地凛子の独壇場になる。

最初のうちは、    不安や戸惑いに満ちた表情を浮かべるだけの陽子。ほとんど挙動不審の怪しい人である。だが、それでいて彼女の中にわずかに残っている人間らしい部分も表現する。そして、次第にそれが大きくなっていく。終盤には完全に彼女は変化する。それを繊細に演じる菊地凛子の演技に目が釘付けだった。

それが一気に爆発するのが、終盤、岩手の道の駅で、出棺時間に間に合わないと焦って必死に車に乗せてくれる人を探した後、乗せてくれた車の中で陽子が「個人的な話」として、父のことや自分の過去について切々と語るシーン。この長回しのシーンの芝居がこの映画の白眉と言ってもいいだろう。

そして、雪の中のラストシーン。寒々とした情景と裏腹に、陽子の旅の果てにたどり着いた心情を察して思わず胸が熱くなった。

熊切監督の演出もいい。ベッタリと彼女に寄り添うわけではない。逆に突き放すような場面も見られる。近づいたり離れたり、絶妙の距離感なのだ。そして、極力説明を省き観客の想像力に委ねる。

さらにジム・オルークの音楽も見事。「海炭市叙景」でもそうだったが、あの音楽が絶妙のタイミングで流れると、一気に感情を刺激されるんだよなぁ~。

というわけで、菊地凛子の演技だけでも観る価値のある映画だ。熊切監督の過去作の中でも出色の作品といえるだろう。

◆「658km、陽子の旅」
(2022年 日本)(上映時間1時間53分)
監督:熊切和嘉
出演:菊地凛子竹原ピストル黒沢あすか、見上愛、浜野謙太、仁村紗和、篠原篤、吉澤健、風吹ジュンオダギリジョー
ユーロスペーステアトル新宿ほかにて公開中
ホームページ https://culture-pub.jp/yokotabi.movie/

 


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